2018年11月5日月曜日

最終兵器の聖典 筑紫倭国3

 前項で述べたように、三国時代も『三国志』「倭人在帶方東南大海之中」と黄海に、『晋書』「倭人在帶方東南大海中」、『宋書』「倭國在高驪東南大海中」と変わらず黄海にあるが、『梁書』には「大抵在會稽之東」と場所を示すことが出来ず、『三国志』の時代のことを書き綴り、扶桑国の距離も60倍にして、現代の日本の史家と同じ感性だ。
しかし、『隋書』では「俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中」と黄海にあると記述し、「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」と倭国のことと説明し、「夷人不知里數但計以日」と里単位を知らないため、かかった日数でと記述しているが、『梁書』に「沙門慧深來至荊州 説云 扶桑在大漢國東二萬餘里 地在中國之東」と里数を述べていて、『隋書』は北朝の里単位を知らないと言っている。
従って、『梁書』の里数は梁で使われた里単位ではないから、梁は倭国の位置を誤解していると『梁書』と同時代に書かれた『隋書』は認めている。
そして、『旧唐書』「倭国者、古倭奴国也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中」と黄海にあるが、『唐会要』咸享元年670年に「自言其國近日所出。故號日本國。」と日本に国号を変えるが、『新唐書』「日本古倭奴也・・・直新羅東南在海中島而居・・・居筑紫城  彦瀲子神武立 更以天皇爲號徙治大和州』と黄海にあった倭奴が筑紫にあり天皇を号した時大和に遷ったと記述している。
そして、天皇と呼ばれ始めた記述は『日本書紀』神功皇后に「吾聞。東有神國。謂日本。亦有聖王。謂天皇。」と地の文で天皇と呼び、それが神功皇后の時代で、この時天皇は大和に住んでいたので、倭国は天皇ではなく『隋書』「阿輩雞彌」すなわち大王で、新生日本が始まった670年に倭王が天皇となった。
そして、『旧唐書』「倭国自悪其名不雅、改為日本。或云、日本舊小国、併倭国之地。」と今の日本はもと唐初の古倭奴国で、そのもと倭国、『隋書』の「俀国」は小国で大きい現在の日本の地の倭国を併合したと述べ2つの倭国と述べている。
『隋書』俀国伝の最後は大業三年607年「此後遂絶」と記述するが『隋書』帝紀第三大業「六年春正月 己丑,倭國遣使貢方物」と609年に俀国でない倭国が訪隋していて俀国でない倭国が存在し、『旧唐書』を証明している。
このように、倭国は周初『論衡』「成王時・・・倭人貢鬯」から燕『三海經』「倭屬燕」・前漢『漢書』「倭人 ・・・歳時來獻見云」・後漢『建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀」・魏『三国志』「是後倭韓遂屬帶方」「景初二年・・・制詔親魏倭王卑彌呼」正始元年・晋『晋書』「泰始二年・・・倭人來獻方物」・宋『宋書』永初二年「倭讚萬里修貢」元嘉二年・元嘉七年・元嘉十五年・元嘉二十年・大明四年・昇明元年に貢ぎ、梁には貢物無しで将軍の授号を得、隋『隋書』「大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢」大業四年・大業六年、唐『舊唐書』「永徽五年・・・倭國獻琥珀」貞観五年・建中元年・長安元年・長安三年・天寶十二年・開成四年・開元十一年と貢献を欠かさず中国に臣従し、授号され、それを誇りとした。
このように貢献した倭国には中国の元号と対応する記録が残り、倭国が宮を変えた時の記録があったため、その記録をもとに『日本書紀』の記録と対応させたと思われる。
『日本書紀』の宮は神武東征で証明した通り武埴安の先祖、神話で大巳貴に敗れた建御名方を祀った国の建国が紀元前660年とこれ以降無い干支が残っていたが、その記録と極東の標準時間の中国年号と対応させる方法が無かったが、倭国にはあった。
その記録が立太子で、立太子によって宮が交代したので、立太子が倭国の大王即位年と思われ、立太子しない天皇が存在したり、立太子前に太子が存在し宮と全く連動しないが、倭国の王朝が変わって宮を遷した日をその時期の天皇家の宮と合体させたと考えれば理解でき、例えば『日本書紀』欽明天皇十五年554年に「十五年春正月戊子朔甲午 立皇子渟中倉太珠敷尊爲皇太子」と倭国の新しい宮が始まったということだ。

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