「火火出見」の神武天皇は中国の冊封体制に組み入れられていて、漢が元号を始め、既に漢字を覚えていたのでその元号に合わせて資料を作り始めたが、残念ながらその王名はほとんど残っていない。
暦を作った関東にある「羲和之国」を領有した国とは異なるかも知れないがその地域を含む銅鐸を作成する「君子国・大人国」の末裔は周の干支を含んだ太陰暦を当然理解しており、出雲には硯も出土するように文字先進国である。
『先代旧事本紀』の「大歳辛酉正月庚辰朔天孫磐余彦尊都橿原宮」と宮名が「橿原宮」かは不明だが紀元前660年に宮を作り、「元年庚辰春正月壬申朔已卯神渟名川耳尊即天皇位都是葛城謂高丘宮」と紀元前581年に高丘宮に宮を遷した。
『日本書紀』に安寧天皇は「廿五年春正月壬午朔戊子。立皇子磯城津彦玉手看尊爲皇太子。」と綏靖天皇25年に皇太子になり、「卅三年夏五月。天皇不豫。癸酉崩。時年八十四。」と綏靖天皇33年崩、そして、「卅八年冬十二月庚戌朔乙卯。天皇崩。時年五十七。」と安寧天皇が38年統治して57歳で崩じた。
すなわち、安寧天皇は即位年齢19歳、立太子は11歳だが安寧天皇前紀に「天皇以神渟名川耳天皇廿五年、立爲皇太子。年廿一」と10歳違い、安寧天皇「十一年春正月壬戌朔。立大日本彦耜友尊爲皇太子也」と立太子が21歳なら29歳で安寧天皇即位で40歳立太子で67歳崩と当然どちらも矛盾する。
一番矛盾の無い推定が、数え21歳満年齢20歳即位、数え38年満37年(38年目は次王の元年)なら57歳崩で辻褄が合い、立太子イコール天皇即位で独立していない皇太弟がいたが安寧天皇11年皇太弟が薨じ、立太子年齢は応神天皇を除いて全て13歳以上で皇太子適合年齢の皇子もいなかったため大日本彦耜友が皇太子イコール天皇になったという推定だ。
そして、その立太子イコール天皇即位の決まりは倭国の決まりと推定されたが、その決まりは倭国だけではなく大和にある国も同じと考えるのが普通の考え方で、立太子は倭国だが、残りの年数が不明になるが、これは簡単で、立太子は別王朝の話なのだから考えなければよく、天皇の即位から次の天皇即位の前年まで同一の宮が続き、天皇が変わった時は長男や長女ではない人物が皇位に就き宮も変わった、宮が天皇そのものということだ。
天皇の即位の日干支が正確なのだから、生きた天皇ではないが天皇と見做した宮自体が続いた年数が即位期間で、天皇が統治していない期間を含めたものが天皇の年齢となったと考えられる。
したがって、「七十有六年春三月甲午朔甲辰。天皇崩于橿原宮。時年一百廿七歳。」と神武天皇の宮橿原宮は紀元前660年から76年間橿原宮で統治され、『古事記』「日子穂ゝ手見命者、坐高千穂宮、伍佰捌拾歳」と高千穂宮が580年続いたように、更に51年間その宮は残ったということを示している。
同様に、『先代旧事本紀』に記述される、紀元前548年の「浮穴宮」、紀元前510年の「典峽宮」、紀元前475年の「池心宮」、紀元前392年の「秋津嶋宮」、紀元前290年の「廬戸宮」、紀元前214年の「境原宮」、紀元前157年の「率川宮」、紀元前97年の「瑞籬宮」、紀元前29年の「珠城宮」、「日代宮」、「次天忍立命 纏向神主等祖 次萬魂尊 兒天剛風命 高宮神主等祖」と神国が続く。
尾張氏に神国を滅ぼされたのが『日本書紀』の紀元前25年「垂仁天皇五年 冬十月己卯朔。天皇幸來目。居於高宮 時天皇枕皇后膝而晝寢」の狹穗彦の事件で、垂仁天皇が高宮に居た、すなわち高宮を祀る人物だ。
垂仁天皇が寝ていた場所が『日本書紀』に「更都於纒向」と纏向の高宮で、高皇産霊尊の末裔がこの時の宮の纏向神主、高宮神主で、纏向遺跡には各地から弥生土器が集まってきて、卑弥呼の時代まで続き、230年の測定結果をもつ桃の種が出土しているので、西暦230年頃まで続いたことを示している。
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