2018年11月16日金曜日

最終兵器の聖典 筑紫倭国8

 すなわち、664年から新しい宮に皇極・孝徳天皇が遷ったが、共に岡本宮天皇と呼ばれるのだから舒明天皇と同じ難波京で即位したようだ。
『藤氏家伝』「十四年 皇太子攝政」と552年に即位し白雉を建元した天皇14年が665年で、『舊唐書』665年「麟德二年 封泰山仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四國酋長赴會 高宗甚悅」と天皇が中国へ、『野中寺 銅造弥勒菩薩半跏思惟像 本像台座の框』「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時」と667年には天皇が病気で665年から667年まで天皇が成務を行えず、天智天皇が摂政として代行し、『日本書紀』天智天皇七年「皇太子即天皇位 或本云六年歳次丁卯三月即位」と668年に即位した。
『日本書紀』皇極天皇四年「譲位於輕皇子。立中大兄爲皇太子」は664年のことが証明され、『日本書紀』推古天皇元年593年「立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子」から664年まで「太子為利歌彌多弗利」の宮が筑紫君の宮で「太子為利歌彌多弗利」の長男押坂彦人大兄その長男茅渟王その長男、押坂彦人の義父息長眞手王は息長足日廣額天皇の氏族すなわち皇極天皇と蝦夷は親類関係で、押坂彦人の父の敏達天皇は蘇我馬子の父稲目の可能性がある。
すなわち、氣長足姫(神功皇后) の子誉田別(応神) ・稚野毛二派(子)・意富富杼(二世孫)・乎非(三世孫)・彦主人(四世孫)・意富富杼(五世孫)が蘇我氏の継体で、阿豆が天國排開廣庭(稲目)、真手が橘豐日(馬子)、息長足日廣額と息長氏の家系で、泊瀬部・渟中倉太珠敷は馬子の義兄弟で物部氏、武小廣國押盾・勾大兄廣國押武金日は稲目の義兄弟の可能性が高い。
馬子の娘婿が磐井の子の東漢直駒なのだから、馬子の宮が糟屋郡や豊に有った可能性があり豐日の名前は十分あり得るし、蘇我氏の応神六世の孫の広国の王継体阿豆が継体・筑紫連合軍に勝利して、豊と天国糟屋郡を得て息子稲目が天國排開廣庭の官名を得たと考えれば辻褄が合う。
更に、『古事記』・『日本書紀』の継体天皇は馬子たちが記述しているので、応神天皇は葛城氏の応神天皇4世紀後半の武内大臣の可能性が高く、 『古事記』応神記「息長真若中比売、生御子、若沼毛二俣王」と真若中比売が氣長足姫の正統の後継者でその血統が息長足日廣額に引き継がれた。
もちろん、これらの人物は宮の名前で、一人で複数遷ったり、一代に複数人の長男相続が有ったのは当然で、息長足日廣額は651年から664年までの蝦夷と661年から664年までの入鹿が一代で、馬子も皇太子の馬子と大臣馬子が存在し、「厩戸豐聰耳」豊の地の王で厩で生まれたから馬子とよく合い、嶋大臣の子で別名馬子太子(いわゆる聖徳太子)で、太子死亡で『先代旧事本紀』の執筆を中止した。
『新唐書』では日本のことを「更以天皇爲號徙治大和州」と大和で天皇を号した日本が始まり、「次用明亦曰目多利思比孤 直隋開皇末始與中國通」と多利思比孤の時に初めて中国と通じたのであり、それ以前の中国との交流は日本との交流ではなかったと述べている。
「日本古倭奴也」と古い時代の倭国の交流を認めながらも、それは、現在の日本ではなく、文化交流は有ったが正式に貢献していない扶桑国・秦王国を滅ぼして大和に建国した倭国でもない、俀国の末裔の国が現在の日本だと述べているのであり、それ以前の倭奴は現在の日本と別国の国だったということだ。
『日本書紀』・『古事記』・『先代旧事本紀』と『三海經』から『新唐書』までの中国史書などの海外史書と齟齬が無く、現代叫ばれている偽書・造作・間違い扱いは当該外れの論理だということがよく解り、現天皇家の王朝は紀元前200年頃からで六合に住む倭の歴史は7千年以上前のアカホヤ噴火から始まり、倭人は南九州に1万年以上前から轟土器につながる土器を作成していた人々から始まった。

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