私は3年前まで、『日本書紀』と『古事記』との比較のみで研究し、すべて、倭国の記録で作成されたと仮定して私の著書を書き上げたが、『先代旧事本紀』の原本を研究すると干支は東鯷国からの記録と知り、倭国の記録の必要性が中国年号との突き合わせに有ったことが理解できた。
そして、立太子と天皇の在位期間を検証すると垂仁天皇だけ立太子の年数と合わず、垂仁天皇の立太子後に景行天皇が収まってしまい、崇神天皇以前と異なることが解り、しかも、景行天皇と政務天皇の在位期間が60年と全く同じで、このことから垂仁・景行・政務天皇が並立していたと仮説を立て、検証したところうまく当てはまった。
『三国志』「其國本亦以男子爲王住七八十年倭國亂相攻伐歴年」と倭国の男王の仮名垂仁が倭国をうまくまとめられず、「乃共立一女子爲王名曰卑彌呼」と女王卑弥呼(仮名成務)を立て、「有男弟佐治國」と補佐に男弟王(仮名景行)を、更に死後男王(仮名仲哀)を補佐に、更に「卑彌呼以死」と卑弥呼死後「更立男王國中不服」と
仮名仲哀を大王としたがまとまらず、「復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王國中遂定」と卑弥呼の宗家仮名垂仁の姫台与(仮名神功)を大王とし仮名垂仁の宮で即位したとすれば、良く当てはまる。
卑弥呼が大王になった時、卑弥呼は独身なのだから皇太子がいないので、同時に立太子が必要で、弟が実質天皇の皇太子で、卑弥呼は祭祀を行うが、普通は神官が別にいて、神のお告げは神官の責任にするのだが、卑弥呼は神官を置かず、自らが神の代弁者となったのが「鬼道」だ。
そして応神天皇から葛城王朝の歴史としているので269年までが倭国の宮の歴史なのだから、神功摂政三年「立譽田別皇子。爲皇太子」で、267年に台与即位でまとめることができなかった男王は269年が垂仁99年になる171年崇神天皇四八年「立活目尊爲皇太子」と新しい宮で即位した。
そして、垂仁天皇三七年「立大足彦尊爲皇太子」と207年に卑弥呼とその男弟王が即位し、成務天皇四八年「立甥足仲彦尊爲皇太子」と255年卑弥呼が崩じ、男弟王の子が大王位を継いだが倭国内がまとまらず、景行天皇五一年「立稚足彦尊爲皇太子」と259年台与が大王位を継ぎ、270年から新たな宮の大王が即位した。
その後、309年応神天皇四十年、343年仁徳天皇三一年、401年去來穗別天皇二年ここに賛、434年允恭天皇二三年ここに『宋書』「讃死弟珍立」と賛の弟珍で宮を変更、更に『梁書』「賛死 立弟彌 彌死 立子濟」と珍の子濟、「濟死丗子興」と濟の子興と長男相続が続き、478年大泊瀬天皇廿二年ここに「興死弟武」と興の弟武で宮が変わり、483年清寧四年、486年顕宗二年、494年仁賢天皇七年ここにも武が訪宋するが途中で宮を変えただけで王が変わっていないと思われ、554年欽明天皇十五年、568年欽明天皇廿九年、593年推古天皇元年これは『隋書』「多利思北孤・・・日出處天子」と天子の宮殿を作り皇帝なのだから「法興帝」と名乗り、太子「太子為利歌彌多弗利」も実質天子で「聖徳帝」と名乗った。
倭国王仮名垂仁の前仮名崇神は開化天皇二八年126年で『室見川銘版』「高暘左王作永宮斎鬲
延光四年五」と126年に宮を作ったと残し『後漢書』「桓・靈閒 倭國大亂」と次の仮名垂仁まで大乱で2代で83年『三国志』「男子爲王住七八十年」で合致し、仮名開化は孝元天皇二二年99年で『後漢書』「倭國王帥升」の宮、仮名孝元は孝霊天皇三六年78年、仮名孝霊は孝安天皇七六年43年で「光武賜以印綬」の宮、仮名孝安は孝昭天皇六八年紀元前33年、仮名孝昭は懿徳天皇二二年紀元前100年、仮名懿徳は安寧天皇十一年紀元前121年、仮名安寧は綏靖天皇二五年紀元前131年、仮名綏靖は神武天皇三二年紀元前155年で倭国の神武天皇は紀元前186年太祖神社がある篠栗で即位したことになる。
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