従って、倭国の初出は『後漢書』で、「倭在韓東南大海中,依山島為居」とやはり海中すなわち黄海にあると述べ、漢になって「漢者三十許國 國皆稱王」と三十余の王が訪中し「其大倭王居邪馬台國」と邪馬台国がその王の中の王の大(倭)王と大君(王)だと宣言した。
そして、建武中元二年「光武賜以印綬」と西暦57年に有名な金印『漢委奴國王』の印を授与され、王自ら漢皇帝の臣下の大夫と漢の臣下であることを誇りにしているように記述した。
そして、倭国の東には「自女王國東度海千餘里,至拘奴國,雖皆倭種,而不屬女王」と記述して、拘奴國と敵対し、この拘奴國は景行天皇紀に京都郡に宮を作った王によって、筑後川北部に追いやられ、『三国志』「其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王」と記述され、神功皇后は御笠で熊襲と戦っていて、『後漢書』→『三国志』が証明される。
その、御笠で戦った女王は香椎宮に宮を置いていて、『日本書紀』「魏志云。正始元年」などと当てている。
『三国志』は「一大國官亦曰卑狗副曰卑奴毋離方可三百里」と壱岐の現在の面積138.6㎢を方三百里として、計算すると直径13.28㎞前後でグーグルマップで測ると13から17㎞、港の遺跡が島内にあるのでこれより大きいことは無い。
それを基に末盧国の唐津港から「東南陸行五百里到伊都國・・・千餘戸・・・東南至奴國・・・二萬餘戸・・・東行至不彌國百里・・・千餘家・・・南至邪馬壹國・・・七萬餘戸」と邪馬台国までの距離600里は約30㎞で沿岸を歩くと糸島までしか行けないが、糸島を千戸の不彌国とすると南に奴国と邪馬台国計9万戸は住めそうもない。
ここで、動詞無しの至は到着するの意味で、邪馬台国が目的地なので奴国は行程に含まれない到着の意味で「東行至」のように動詞があるのは東に行ったら着くの意味だ。
もともと、「海千餘里至對海國」・「一海千餘里名曰瀚海至一大國」・「渡一海千餘里至末盧國」と対馬や壱岐の島内は含まれず、記述される距離は国境間の距離で、領内距離は含まれていない。
従って、
千餘戸程度の国の領内は「一大國・・・方可三百里・・・三千許家」・「對海國・・・方可四百餘里・・・千餘戸」と三から四百里だと実際に歩いた距離を示し、総計「郡至女王國萬二千餘里」で「到其北岸狗邪韓國七千餘里」、「千餘里至對海國」、「千餘里名曰瀚海至一大國」、「千餘里至末盧國」、「五百里到伊都國」、「不彌國百里」で計萬六百里余、「對海國」・「一大國」・「伊都國」・「不彌國」領内の計千四百里で1国三から四百里でピッタリ、末盧國の唐津港は海の国境で河の国境松浦川があり東南の国境でもある。
従って、伊都国と不彌国の領内も三・四百里で20㎞付加され末盧国国境の唐津港から50㎞で福岡市東区が不彌国と邪馬台国の国境になるが、不彌国の南に奴国と邪馬台国が無ければならないが、これでは奴国を通り過ぎて不彌国を記述する必要が無い。
同じ距離で志賀島や海の中道を通れば、唐の原や新宮町で、国境間距離無しで南に糟屋郡があり、『日本書紀』が魏の使者を迎えた都とは香椎宮としたが糟屋郡に隣接し、海の中道の南方には那の津があり、伊都から東南5㎞程度の山越えで奴国とまさに重なる。
不彌国と伊都国の国境は海で5㎞程度で、不彌国と邪馬台国の国境は『日本書紀』政務天皇に「則隔山河而分國縣」と山や河で国境にすると記述され、河の国境間は百里未満で国境間距離無しとなり、『三国志』と『日本書紀』はよく合致している。
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