そして、593年火中君の子の兄弟が新しい宮で即位し、『隋書』「多利思北孤」が兄、弟の太子『隋書』「太子為利歌彌多弗利」で、兄は『隋書』「國書曰 日出處天子致書日没處天子無恙云云」と隋の天子に対抗して自ら帝号をつけて「法興」帝とし、弟の太子も実質天子なので「聖徳」帝と呼んだかもしれない(聖徳帝は馬子の可能性もある)。
法興を九州年号の1つと主張する人々がいるが、九州年号と言っても痕跡は九州だけでなく全国に広がり、『日本書紀』に白雉・朱鳥・大化が『続日本紀』神亀元年「白鳳以來。朱雀以前」と複数の年号が王朝が変わっても記述された。
すなわち、九州王朝のものだから隠されたなどと言うのは当たらなく、白雉や朱鳥は書いた王朝が制定したから華々しく書いただけで、隠したわけでもなく、王朝が違うだけで日本国天皇が制定した年号で、その年号が同年代に重複することは無い。
また、利歌彌多弗利は出家して『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』「上宮法皇」これは天皇の皇ではなくおそらく皇帝の皇で、母は「鬼前太后」で妃が「干食王后」で大王の妻を『隋書』「王妻號雞彌」と大王后も王だとわかり、天皇も同じで天皇の母は太皇、政治に携われば皇祖母、天皇の妃は天皇后、皇太子も大王、姫も皇子も王で大王の母や大王の祖母である太王が一番偉いことがここでもわかる。
そして、最後の筑紫君は薩夜麻で、『日本書紀』持統四年「天命開別天皇三年。土師連富杼。氷連老。筑紫君薩夜麻。弓削連元寶兒四人。」、天智天皇一〇年「對馬國司遣使於筑紫大宰府言。月生二日。沙門道文。筑紫君薩野馬。韓嶋勝娑婆。布師首磐。四人從唐來曰。唐國使人郭務悰等六百人。送使沙宅孫登等一千四百人。合二千人。乘船册七隻倶泊於比智嶋。相謂之曰。今吾輩人船數衆。忽然到彼恐彼防人驚駭射戰。乃遣道文等豫稍披陳來朝之意。」と天智3年と10年と年数が異なる。
同行3人の違いは「博麻謂土師富杼等曰」と天智三年に日本に帰国する富杼等の船に博麻が身を売って4人を同乗させてもらったことを記述しているからで、天智紀を書いた天武天皇が理解している天智10年は実際は異なる王の10年すなわち、孝徳天皇の白雉・大化を加えた年数で、地の文で書かれた天智三年664年のことを記述している。
664年は『日本書紀』天智天皇三年「百濟鎭將劉仁願遣朝散大夫郭務悰等進表函與獻物。」と初めて来日し、この時なら、初めて戦争相手の国を訪問するのだから、敵に対する防備に六百人と諍いが起こらないように水先案内人が必要で良く合致する。
さらに、『藤氏家伝』に「十四年 皇太子攝政」と斉明天皇は7年間しかないのに十四年とし、「後崗本天皇四年歳次乙巳」と乙巳の変が起こり、直後に「白鳳五年 秋八月 詔曰 尚道任賢 先王彜則 褒功報德 聖人格言 其大綿冠内臣中臣連 功侔建内宿禰 位未允民之望 超拝紫冠 増封八千戸」と665年の記事で白鳳年号は後崗本天皇が制定した年号と解る。
そして、『日本書紀』天智天皇三年「大紫蘇我連大臣薨」と蘇我大臣が薨ずるが、『先代旧事本紀』「宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣名日入鹿連公」豊浦大臣は入鹿連すなわち「蘇我入鹿連豊浦大臣」ということで、蝦夷は664年に死亡で、乙巳の変は664年に起こった。
670年日本国に改名した王は天智天皇で俀国王筑紫君の皇太子で、王朝を奪ったのは664年で、その時の筑紫君は薩夜麻で、帯刀して後から入ってきたのは入鹿で薩夜麻は「恐近天皇。不覺流汗」と怖気づくだけで、『藤氏家伝』白鳳5年に続けて「俄而天萬豐日天皇 已厭萬機 登遐白雲 皇祖母尊 俯從物願 再應寶暦 悉以庶務 委皇太子 皇太子毎事諮決」と高徳天皇が急死したので、皇祖母が天智天皇に摂政を命じたと記述している。
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