2018年11月21日水曜日

最終兵器の聖典  漢字輸入

  開化天皇の子供に「次妃和珥臣達祖姥津命之妹姥津媛生彦坐王」と王の地位を与えたということは、開化天皇が王の中の王・宗教の王・天皇になり、勿論この時期は天皇ではなくおそらく『日本書紀』の「天日槍對曰 僕新羅國主之子也 然聞日本國有聖皇」のように聖皇と呼ばれ、和名宿祢と記述されたようだ。
聖王は新羅の王子が日本の王を自発的に聖王と呼んだはずが無く、日本の王が日本で呼ばれていたと考えるのが妥当で、この時、日本では漢字を理解していたと言える。
『二中歴』という所謂九州年号が書かれている書物があり、年代暦の書き出しは「年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政」と「継体年号の前に記述されている。
そして、「継体五年 元丁酉」から「大化六年 乙未」と元号を並べ、その後「已上百八十四年々号丗一代?(不)記年号只有人傳言自大宝始立年号而巳」と記述されてから「大宝年号」に続いている。
継体元年から184年間元号が続いたとしていて記述と相違がないけれど、書き出しの569年間のうち39年間は「結縄刻木」で知らしめしたように書いているが、「明要 ?(十)一年 元辛酉 文書始出来結縄刻木??(止了)」とあり、 明要11年終了でも35年間しかたっていなくて39年と一致しない。
すなわち、書き出しの569年間は継体元年以前のことで、紀元前53年から年号が始まり、最初は漢字を民衆が理解できないから元号はなく、干支を「結縄刻木」で布告したが、紀元前15年から漢字で干支と元号も布告して、「結縄刻木」は西暦551年頃まで続き、元号を木に刻んでいたが、551年以降は交付する「文書」を使ったことを意味する。
紙の代用品は『梁書』「扶桑國者 齊永元元年 其國有沙門慧深來至荊州 説云・・・有文字 以扶桑皮爲紙」と499年には扶桑皮に文字を書いていて、弥生時代には硯が出土していて、硯が輸入されて文字を輸入しないとは思えないし、竹は紀元前3000年ころに、網代編みの籠の圧痕が粘土に残っているので、中国を真似て竹簡を作れる。
すなわち、地方ではこの時も漢字ではなく「結縄刻木」やそれに代わる所謂神代文字が使われていて、神代文字そのままをネットに上げているか解らないが、どう見ても天や日など多数の漢字を知っている内容で、本来、天は海人・漁師の意味、日は火の意味で、『日本書紀』などを読んで、その地方の歴史を漢字で書き、地方の人々が解るように地方の言葉と神代文字に翻訳しただけだと思われる。
話を戻して、元号が紀元前から有った証拠が『日本書紀』に景行天皇元年「元年秋七月己巳朔卯己卯 太子即天皇位 因以改元」と西暦71年に改元していて、これは、西暦71年以前に天皇が元号を布告していたことを意味する。
『先代旧事本紀』に「年記御神 兒大香山戸神・・・次冬記若室葛󠄀根神」と饒速日が大和に侵入する以前から「結縄刻木」に干支を記す行為を行う人物がいて、それが「辛酉年春正月庚辰朔」の建国日の記述(刻木からの書写)となった。
新羅の王子が新羅では王のことを「尼師今」などと呼び、王子は自ら「于斯岐阿利叱智于岐」・于岐と理解しつつ、「聖王・聖皇」と書き、文字が一定しないということは「せいおう」と呼ばれ、日本語なら「聖君」を使うべきで漢字の知識の上の言葉である。
また、『後漢書』「馬韓・・・諸國邑各以一人主祭天神,號為天君」と後漢の時代には朝鮮人も日本人の海人を天と表記して極東の標準語になっており、前漢時代に日本が漢字を移入し、海人を天と書くようになったことを示している。
すなわち、少なくとも紀元前5年には漢字を理解し、元号を漢字で書き、太陽を「日」、宇宙の概念を覚えて『山海經』「朝陽之谷,神曰天吳」から「天」を輸入し、「火を知る」王の聖王・聖皇、太陽の運行を知る天皇という言葉を発明したと思われる。

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