2020年6月10日水曜日

最終兵器の目 欽明天皇 12

 

 『日本書紀』慶長版は

冬十月庚寅朔己酉百濟王子餘昌悉發國中兵向髙麗國築百合野塞眠食軍士是夕觀覽鉅野墳腴平原瀰迤人跡罕見犬聲蔑聞俄而儵忽之際聞鼓吹之聲餘昌乃大驚打鼓相應通夜固守凌晨起見曠野之中?()如青山旌旗充滿會明有着頸鎧者一騎插鐃者(鐃字未詳)二騎珥狗(豹)尾者二騎幷五騎連轡到來問曰少兒等言於吾野中客人有在何得不迎禮也今欲早知與吾可以禮問荅者姓名年位餘昌對曰姓是同姓位是杆卒年二十九矣百濟反問亦如前法而對荅焉遂乃立標而合戰於是百濟以鉾刺墮髙麗勇士於馬斬首仍刺舉頭於鉾末還入示衆髙麗軍將憤怒益甚是時百濟歡?()之聲可裂天地復其偏將打鼓疾鬪追却髙麗王於東聖山之上十五年春正月戊子朔甲午立皇子渟中倉太珠敷尊爲皇太子丙申百濟遣中部木?()施德文次前部施德曰佐分屋等於筑紫諮內臣佐伯連等曰德卒次酒杆卒塞敦等以去年閏月四日到來云臣等(臣等者謂內臣也)以今年正月到如此噵而未審來不也又軍數幾何願聞若干預治營壁別諮方聞奉可畏天皇之詔未詣筑紫看送賜軍聞之歡喜無能比者此年之役甚危於前願遣賜軍使逮正月於是內臣奉勅而荅報曰即令遣助軍數一千馬一百疋舩四十隻

【冬十月の朔が庚寅の己酉の日に、百済の王子の餘昌(威徳王)が国中の全ての兵をあげて、高麗国に向って、百合野の要塞を築いて、軍士の中で寝食を共にした。この夕方に、じっと見ていると、椀状に盛り上がった野や平原が拡がり畝っていて、人影がめったに見られず、犬の声も聴くことが無かった。突然ほんの少しの間に、鼓や笛を吹く声が聞こえた。餘昌はそれで大変驚いて、鼓を打って対抗して一晩中固く守った。夜明けに起きて広野の中を見ると、木があおあおと茂った山の木のように、のぼりがいっぱいに広野にみちていた。朝日がさす頃に首や肩を守る鎧を着けた者が一騎とどらを挿した二騎と、犬の尾型の耳飾りをした者が二騎と、併せて五騎が、馬が首をそろえて並ばせてやって来て「小僧らが私に言ったが、『私の野の中に、客人がいる』と言った。どうして礼をもって迎えないではいられない。今願うのは、私と礼儀正しく問答できる者の姓名と年と位を早く教えろ」と問いかけた。餘昌が「姓は扶余王家と同じ姓で、位は杆卒で、年は二十九だ」と答えた。百済は、返答した。前と同じ方法で答えた。それで軍旗を建てて合戦した。ここで、百済は、鉾で高麗の勇士を馬から突き刺して落として首を斬った。それで頭を鉾の先端に刺し挙げて、陣営に帰って兵士に見せつけた。高麗の将軍は、怒り狂って益々勢いづいた。この時に、百済が喜び叫ぶ声が天地を突き抜けた。またその一方面隊の大將が、鼓を打って急襲して、高麗の王に東聖山の上に追われて退却した。十五年の春正月の朔が戊子の甲午の日に、皇子の渟中倉太珠敷尊を皇太子に立てた。丙申の日に、百済は、中部の木刕の施徳の文次と前部の施徳の曰佐分屋達を筑紫に派遣して、内の臣と佐伯の連達に「徳卒の次酒と杆卒の塞敦達が、去年の閏月四日にやって来て、『私達は、今年の正月に到着する』と言った。このように言ったがはっきりしない。来るか来ないか。また軍勢の数はどれだけか。できたら少し聞かせてもらって、あらかじめ陣地の柵を作っておきたい」と諮った。「丁度聞いたが、畏れ多い天皇の詔勅を聞いて、筑紫にやって来て、与えられた軍隊を見送ろうと聞いてこの上なく喜んだ。この年の戦は、以前の戦いよりとても危ない。出来たら頂いた軍隊を派遣して、正月に間に合わせて下さい」と別に諮った。そこで、内の臣は、詔勅を聞いて「それで援軍の数は千人と馬を百匹と船を四十隻を派遣させる」と答を報告した。】とあり、標準陰暦と合致する。

この、554年に立太子したというのは、当然、『舊事本紀』の「物部金連公野間連借馬連等祖目大連之子」と物部金や「孫物部馬古連公目大連之子」と物部馬古なのではなく、物部目の兄弟の「孫物部荒山連公目大連之子・・・物部尾輿連公荒山太連之子・・・物部大市御狩連公尾輿大連之子・・・弟贄子大連・・・弟物部守屋大連公」と物部大市御狩連まで長男の相続があるので、王朝が「池邊雙槻宮物部弓削守屋連公爲大連亦爲大臣」と守屋のとき王朝が変わったことを示しているが、この554年は立太子が倭国・俀国の王朝交代の記述だったことを示しており、葛子の弟が筑紫君になった記述と考えられ、秦王国の朝廷の王朝交代なら宮がかわる。

百済も『三国史記』に「温祚王・・・始祖沸流王・・・生子二人長曰沸流次曰温祚・・・立之爲太子 以至嗣位焉於是沸流謂弟温祚」と長男以外が王になったので立太子して、温祚王二十八年「春二月立元子多婁爲太子」と長男以外からの立太子、当然28年間太子が不在などということは有り得ず、3代目温祚王となるべき人を差し置いて多婁王が太子となって18年後に即位し、3代目温祚王となるべき人の子が太子で、多婁王六年「春正月立元子己婁爲太子」と多婁王の長男が太子となった。

そのため、腆支王の立太子である阿莘王三年「春二月立元子腆支爲太子」まで立太子は無く、三斤王の文周王三年「封長子三斤爲太子」と即位三年目に立太子したのは三斤王が太子になる年齢に達していなかった可能性が有り、武王の立太子も武王三十三年「春正月封元子義慈爲太子」まで立太子はなく、当然、武王の33年間に皇太子がいないはずがない。

新羅は眞興王二十七年「立王子銅輪爲王太子」が最初の立太子で「法興王弟葛文王立宗之子也」と眞興王の長子ではない。

高句麗も琉璃明王十四年「欲以太子都切爲質」と立太子なしで太子が存在し、二十年「太子都切卒」と太子が薨去すると二十三年「立王子解明爲太子」と立太子していて、「閔中王諱解色朱 大武神王之弟也大武神王薨太子幼少不克即政於是國人推戴以立之」と太子が若いと叔父が即位し、5年後には幼少だった太子が即位したが、即位して27年も経った王に幼少な王の子の太子などあまり考えられない。

しかも、『三国遺事』には「第五慕本王 閔中之兄名愛一作憂戊申在位五年」と幼い兄より弟が即位したと記述し、要は初代大武神王の子で2代目大武神王の弟が閔中で2代目大武神王の子が慕本王という意味で、これなら年齢もよく合う。

朝鮮と日本はこのように同じ方法の皇位継承を行っていると感じられ、長男が皇太子の年齢に達していたら立太子無しで太子にし、そうでなかったら、義理も含めて兄弟や甥を太子にするのだろう。

2020年6月8日月曜日

最終兵器の目 欽明天皇 11


 ※前項に引き続き仏教と文字の普及について

倭国は正始元年240年に上表し文字を使用しているのだが、仏教流入無しのため文字の普及が無く、425年の『宋書』「太祖元嘉二年讃又遣司馬曹達奉表獻方物」とこれらの表は中国への上表なのだから中国仕様の紙の可能性が高く、『日本書紀』610年の推古天皇十八年「高麗王貢上僧曇徴法定曇徴知五經且能作彩色及紙墨」以前に倭国では紙漉きが行われた可能性が有る。

ちなみに、百済は『三国史記』に384年枕流王元年「九月胡僧摩羅難陁自晉至王迎之致宮內 禮敬焉佛法始於此」と仏教が流入して紙の製法も入ったと言われ、『宋書』に425年元嘉二年「其後每歲遣使奉表獻方物」、『三国史記』472年蓋鹵王十八年に「遣使朝魏上表曰」と仏教流入から40年後に上表している。

新羅は『梁書』に「無文字刻木爲信」、『梁職貢図』に521年「斯羅國・・・普通二年其王姓募名泰始使隨百濟奉表献方物・・・無文字刻木為範」と文字が無いのに上表文を提出しているように、文字が普及していないことを示し、『三国史記』に528年法興王十五年「肇行佛法」と仏教流入の始まりを記述している。

しかし、王名が法興王で十五年は妙で、智證麻立干15年が正確のようで、514年に仏教が流入して、『三国史記』に611年眞平王立三十三年「王遣使隋奉表請師隋煬帝許之」と表を送り、『隋書』は「其文字甲兵同於中國」と文字が中国と同じ述べ、ちなみに、中国側の上表文記事は、『舊唐書』655年永徽六年「百濟與高麗靺鞨率兵侵其北界攻陷三十餘城春秋遣使上表求救」である。

高句麗は『三国史記』に372年小獸林王二年「夏六月秦王苻堅遣使及浮屠順道送佛像經文 王遣使廻謝以貢方物立大學敎育子弟」と仏教が流入し、413年長壽王元年「遣長史高翼入晉奉表」とやはり40年程度後に上表文を送り『宋書』も「高句驪王高璉晉安帝義熙九年遣長史高翼奉表獻赭白馬」と対応させている。

すなわち、『日本書紀』の応神天皇二八年の「高麗王遣使朝貢因以上表」は391年か396年即位の応神天皇で417年か423年の出来事と解り、「以表状無禮則破其表」と広開土王の子で倭を撃退し、応神天皇二十年、391年即位の応神天皇20年409年か415年に「倭漢直祖阿知使主其子都加使主並率己之黨類十七縣而來歸焉」と扶桑国に倭が助けを求め、『三国史記』413年長壽王元年に「遣長史高翼入晉奉表獻赭白馬安帝封王高句麗王楽浪郡公」と晋に認められた余勢をかって日本にも威圧的になったのだろう。

ちなみに碑文の「而倭以辛卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民」すなわち391年が香椎宮の王と穴門豐浦宮の王の連合軍が新羅に侵略し大勝利した朝鮮側の資料と考えられる。

そして、応神天皇三七年すなわち391年即位の応神37年426年若しくは396年即位で432年に「阿知使主等渡高麗國欲逹于呉則至高麗更不知道路乞知道者於高麗」、仁徳天皇五八年これは平群氏の王家の歴史で450年前後に当たる「呉國高麗國並朝貢」と高句麗を頼って南朝に貢献して『梁書』の訪中記事に繋がるのである。

『日本書紀』慶長版は

十四年春正月甲子朔乙亥百濟遣上部德卒科野次酒杆率禮塞敦等乞軍兵戊寅百濟使人中部杆率木?(刕)今敦河內部阿斯比多等罷歸夏五月戊辰朔河內國言泉郡弟(茅)渟海中有梵音震響若雷聲光彩晃曜如日色天皇心異之遣溝邊直入海求訪是月(時)溝邊直入海果見樟木浮海玲瓏遂取而獻天皇命畫工造佛像二軀今吉野寺放光樟像也六月遣內臣(闕名)使於百濟仍賜良馬二疋同舩二隻弓五十張箭五十具勅云所請軍者隨王所湏別勅醫博士易博士曆博士等宜依番上下今上件色人正當相代年月宜付還使相代又卜書曆本種種藥物可付送秋七月辛酉

朔甲子幸樟勾宮蘇我大臣稻目宿祢奉勅遣王辰爾數錄舩賦即以王辰爾爲舩長因賜姓爲舩史今舩連之先也八月辛卯朔丁酉百濟遺上部奈卒科野新羅下部固德汶休帶山等上表曰去年臣等同議遣內臣德卒次酒任那大夫等奏海表諸彌移居之事伏待恩詔如春草之仰甘雨也今年忽聞新羅與狛國通謀云百濟與任那頻詣日本意謂是乞軍兵伐我國歟事若實者國之敗亡可企踵而待庶先日本兵未發之間伐取安羅絁日本路其謀若是臣等聞茲深懷危懼即遣疾使輕舟馳表以聞伏願天慈速遣前軍後軍相續來救逮于秋節以固海表弥移居也若遲晩者噬臍無及矣所遣

軍衆來到臣國衣糧之費臣當充給來到任那亦復如是若不堪給臣必助充令無乏少別的臣敬受天勅來撫臣蕃夙夜乾乾勤修庶務由是海表諸蕃皆稱其善謂當萬歲肅清海表不幸云亡深用追痛今任那之事誰可修治伏願天慈連(速)遣其代以鎮任那又復海表諸國甚乏弓馬自古迄今受之天皇以禦強敵伏願天慈多貺弓馬

十四年の春正月の朔が甲子の乙亥の日に、百済は、上部の徳卒の科野次酒と杆率の禮塞敦達を派遣して、軍兵の派兵を願い出た。戊寅の日に、百済の使者の中部の杆率の木刕今敦と河内部の阿斯比多達が帰った。夏五月の戊辰が朔の日に、河内の国が「泉の郡の茅渟の海の中で、仏の声が聞こえた。震え響いて来るのは雷の音のようで、あざやかに輝く光が太陽の光の様に眩しく光った。」と言った。天皇は、不思議に思って、溝邊の直を派遣して、海に入って探し求めた。この月()に、溝邊の直は、海に入って、思った通り、海に浮んで美しく照り輝く樟木を見つけた。すぐに取って天皇に献上した。飾り彫刻師に命じて、佛像を二躯を造らせた。今、吉野の寺で、光を放っている樟の像だ。六月に、内臣を百済に使者として派遣した。それで良馬を二匹と木を張り合わせた(?お揃いの)船二隻と弓を五十張と箭を五十具を与えた。「願い出た軍は王の好きなように」と詔勅した。それとは別に、「薬の教授と易の教授と歴の教授達は、朝廷に上ったり下りたりは順にするのがいい。今、のぼる者の順の人は区切り良く年や月でそれぞれ交代して当たり、帰る使者と一緒に交代した方がいい。また占いの書や歴の本や種々の薬を送れ」と詔勅した。秋七月の朔が辛酉の甲子の日に、樟の勾の宮に行幸した。蘇我の大臣の稻目の宿禰は、詔勅を聞いて王辰爾を派遣して、船で運ばれた貢物を数えて記録した。それで王辰爾を船の長とした。それで姓を与えて船の史とした。今の船の連の先祖だ。八月の朔が辛卯の丁酉の日に、百済は、上部の奈卒の科野新羅と下部の固徳の汶休帶山達を派遣して、「去年、私達は、考えを同じにして、内臣の徳卒の次酒と任那の大夫達を派遣して、海外の諸々の彌移居の事情を奏上する。土下座して情け深い詔勅を、春草が丁度良く潤す雨を待ち望むように待った。

今年、急に聞いたが、新羅と狛国とが示し合わせてたくらんで、『百済と任那とが、頻繁に日本に行っている。おもうにこれは軍隊をねだって、私の国を伐とうとしているのか。もし本当なら、国が滅亡することを首を長くして待ち焦がれているのだろう。まず、日本の軍が来ない間に安羅を伐ち取って、日本との路を絶とう』と、その企みはこのようだった。私達はこう聞いて、心の底から危ぶんでいます。それで軽やかに進む船で早駆けの使者を派遣して、表を急いで知らせました。土下座して願うのは、天のいつくしみで早く先陣と控えの軍隊を派遣して、続きざまに来て救ってください。秋までに、海外の彌移居の守りを固めます。もし遅くなったら、臍を噛むことになるでしょう。派遣された軍隊が、私の国に着いたら、軍服と兵糧の費用は私が充当します。任那に着いた時もこのようにします。もし、足りなければ、私がきっと補充して足りないようなことが無いようにします。別に的の臣が謹んで天皇の詔勅を受け入れ、やって来て藩を鎮めた。朝から晩まで怠けず努力して、いろいろな雑務をせいを出してまとめている。このため、海外の諸蕃が、皆、よくやったと言っている。ずっと後の世まで海外を厳しく取り締まって、乱れや不正な者を除かなければといっていたけれど、不幸にも死んでしまって、とても心をいためた。今、任那の事を、誰が手を加えてなおせるのか。土下座してお願いしますのは、天皇がなさけぶかくすみやかにその代わりを派遣して、任那を鎮圧してください。何度も言うが海外の諸国は、とても弓や馬が足りない。昔から今になるまで、天皇から受け取って、強敵を防いだ。土下座してお願いするのは、天皇のなさけぶかさで多くの弓や馬を送ってください」と上表文で訴えた。】とあり、五月戊辰朔は553年ではなく552年で、552年5月では552年十月より前になってしまうので翌年に挿入したのであり、それ以外は標準陰暦と合致する。

当然、樟木が流れて来て仏像を彫ったのが10月に初めて仏像を見た以前では話が合わないので、翌年に入れたのだが、それでも、数か月前に見た仏像なのに、流れて来た樟木で仏像を造る職人がいたことからも既に話が妙で、畿内では『梁書』に「宋大明二年賓國嘗有比丘五人游行至其國流通佛法經像」と457年に仏像も仏教も流入していたのだから、仏像を造る職人がいても不思議ではない。

2020年6月5日金曜日

最終兵器の目 欽明天皇 10

 

 『日本書紀』慶長版は

冬十月百濟聖明王遣西部姫氏達卒怒唎斯致契等獻釋迦佛金銅像一軀幡蓋若干經論若干卷別表讚流通禮拜功德云是法於諸法中最爲殊勝難解難入周公孔子尚不能知此法能生無量無邊福德果報乃至成辨無上菩提譬如人懷隨意寶逐所湏用盡依情此妙法寶亦復然祈願依情無所乏旦夫遠自天竺爰洎三韓依教奉持無不尊敬由是百濟王臣明謹遣陪臣怒唎斯致奉傳帝國流通畿內果佛所記我法東流是日天皇聞巳歡喜踊躍詔使者云朕從昔來未曽得聞如是微妙之法然朕不自決乃歷問群臣曰西蕃獻佛相貌端嚴全未曽有可禮以不蘇我大臣稻目宿祢奏曰西蕃諸國一皆禮之豊秋日本豈獨背也物部大連尾輿中臣連鎌子同奏曰我國家之王天下者恒以天地社稷百八十神春夏秋冬祭拜爲事方今改拜蕃神恐致國神之怒天皇曰宜付情願人稻目宿祢試令禮拜大臣跪受而忻悅安置小墾田家懃修出世業爲因淨捨向原家爲寺於後國行疫氣民致夭殘久而愈多不能治療物部大連尾輿中臣連鎌子同奏曰昔日不湏臣計致斯病死今不遠而復必當有慶宜早投弃懃求後福天皇曰依奏有司乃以佛像流弃難波堀江復縱火於伽藍焼燼更無餘於是天無風雲忽炎大殿是歲百濟棄漢城與平壤新羅因此入居漢城今新羅之牛頭方尼彌方也

冬十月に、百済の聖明王は、西部の姫氏の達卒の怒唎斯致契達を派遣して、釋迦佛の金銅像一躯と幢幡と天蓋をいくらかと経蔵と論蔵をいくらかの卷を献上した。別の上表文で、一か所に滞らず、跪いて拝みよい行いの報いを讃えて「この法は諸々の法の中で、最もすぐれています。解りにくくて入りにくい。周公や孔子でも、理解できません。この法は良く出来て、はかり知れず、果てしなく、善行によって得られる功徳があって、報われ、すなはちこの上もない悟りの境地の人のようだ。思いのままになる宝を懐にすると、どこでも必要不可欠な場合に、思うがまゝになる、このような言葉では言いつくせない宝も同然で、願い事をこめて祈ると思うがまゝ足りないものが無い。しかも、それは遠く天竺から、ここにつき、三韓は教えのまゝいただき奉り、うやまわない者はいない。これで、百済王で天皇の臣の明は、つつしんで陪臣の怒唎斯致契を派遣して、帝の国にお伝えして、畿内で広く行って、佛が『私の法は東に伝わる』と書いたことを果たせた」と言った。この日に、天皇は、聞き終わって、大変喜んで、おどり上がって、使者に「私は、昔からこのかた、いまだかつてこのような簡単には言い表せない法を聞いたことが無い。それだけれども私には、決められない」と詔勅した。それで群臣に夫々順に「西の蕃が献上した佛の容貌が整っていて威厳がある。こんなものは全く見たことが無い。敬うべきかどうか」と問いかけた。蘇我の大臣の稻目の宿禰が「西の蕃の諸国は、一様に敬っているのに、豊の秋の日本が、どうして一国だけそれに逆らえるのか」と奏上した。物部の大連の尾輿と中臣の連の鎌子が、「私の王の国家とは、天下の王がいつも天地・国家・百八十神・春夏秋冬を祀る事だ。今改めて他国の神を拝むと、土地の神が怒って恐ろしいことになるだろう」と同じように奏上した。天皇は「事情を知って願い出ている稻目の宿禰に任せて、試しに礼拝させよう」と言った。大臣は、跪いて受け取って喜んで小墾田の家に安置した。代々受け継いできた仕事を離れ、はげんで学ぶことをよりどころとした。向原の家を淨め施して寺にした。あとで、国に疫病が流行り、人民が長く大勢むごい若死して、治せなかった。物部の大連の尾輿と中臣の連の鎌子は、「以前私の言うことを聞かなかったから、このような病死をだすことになった。今でも遅くない。元に戻せば、きっと喜びが有るだろう。はやく投げ棄てて、後の福を求めるべきだ」と同じように奏上した。天皇は、「いうとおりに」と言った。役人は、それで佛像を、難波の堀江に流し捨てた。また伽藍に火つけて、焼き尽くして何も残らなかった。そして、天には風も雲も無いのに、急に大殿に災いがあった。この歳に、百済が、漢城と平壤とを棄てた。新羅は、これで、漢城に入城した。今の新羅の牛頭方と尼彌方だ。】とある。

この項も朔の日干支が無く、稲目が今いる場所が豊の秋だと言っていて、安芸の可能性が高く、しかも、秦王国でも倭でもなく日本と呼び、『梁書』には「扶桑國者齊永元元年其國有沙門慧深來至荊州・・・宋大明二年賓國嘗有比丘五人游行至其國流通佛法經像敎令出家風俗遂改」と既に457年に仏教がインドから入り499年には僧侶が訪中している。

すなわち、この記事は、仏教が既に流行している畿内ではなく、蘇我氏の倭国王朝での話で、また、稲目が仏門に入った様子が全くなく、稲目大臣と大臣と呼ばれるのは皇太子・大王のことを表し、実際は、ある王朝の皇太子が出家(出世)して仏門に入ったと述べているのである。

私はこの頃に王が仏門に入った記述を良く知っていて、『隋書』に「天未明時出聽政跏趺坐」のように政務につき、「敬佛法於百濟求得佛經始有文字」とこの項と同じく百済から仏法を学んで、文字が庶民に普及したとしている。

そして、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』には「上宮法皇」と皇帝が出家した地位で、『隋書』に「大業三年・・・日出處天子致書日没處天子無恙云云帝覧之不悦」と自分は隋帝と同じ天子すなわち皇帝だと自負して、この皇帝が出家したのだから法皇なのである。

もちろん、この607年の『隋書』や621年の『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』は591年即位で出家した王の孫の世代で、しかも、この頃、『隋書』で「無文字唯刻木結繩 敬佛法於百濟求得佛經始有文字」と文字が入った様に記述されているが、『三国志』「正始元年・・・倭王因使上表答謝恩詔」と蔡倫が105年頃に改良した紙の上表文を中国に提出している。

すなわち、『唐会要』に「俗有文字敬佛法椎髻無冠帶隋煬帝賜之衣冠」、『旧唐書』に「頗有文字俗敬佛法」と仏教が普及することで庶民にまで文字が普及した、すなわち、紙に類するものが普及したことを示していて、『梁書』に「有文字以扶桑皮爲紙」と扶桑の木の皮が紙の役割をして畿内の庶民に普及しているから「有文字」なのである。

長くなるので続きは次項で述べる。

2020年6月3日水曜日

最終兵器の目 欽明天皇 9

  『日本書紀』慶長版は

十年夏六月乙酉朔辛卯將德久貴固德馬次文等請罷歸因詔曰延那斯麻都陰私遣使髙麗者朕當遣問虛實所乞軍者依願停之十一年春二月辛巳朔庚寅遣使詔于百濟曰朕依將(施)德久(文)貴固德馬進文等所上表意一一教示如視掌中思欲具情冀將盡抱大市頭歸後如常無異今但欲審報辭故遣使之又復聞奈卒馬武是王之股肱臣也納上傳下甚協王心而爲王佐若欲國家無事長作官家永奉天皇宜以馬武爲大使遣朝而已重詔曰朕聞北敵強暴故賜矢三十具庶防一處夏四月庚辰朔在百濟日本王人方欲還之百濟王聖明謂王人曰任那之事奉勅堅守延那斯麻都之事問與不問唯從勅之因獻髙麗奴六口別贈王人奴一口乙未百濟遣中部奈卒皮久斤下部也德灼干那等獻?()虜十口十二年春三月以麥種一千斛賜百濟王是歲百濟聖明王親卒衆及二國兵往伐髙麗獲漢城之地又進軍討平壤凡六郡之地復故地十三年夏四月箭田珠勝大兄皇子薨五月戊辰朔乙亥百濟加羅安羅遣中部德卒木?(刕)今敦河內部阿斯比多等奏曰髙麗與新羅通和幷勢謀滅臣國與任那故謹求請救兵先攻不意軍之多少隨天皇勅詔曰今百濟王安羅王加羅王與日本府臣等倶遣使奏狀聞訖亦宜共任那幷心一力猶尚若茲必蒙上天擁護之福亦頼可畏天皇之靈也

【十年の夏六月の朔が乙酉の辛卯の日に、將徳の久貴と固徳の馬次文達が、帰らせて欲しいと願った。それで「延那斯と麻都が、隠れて自分の使者を高麗に派遣したのが、嘘か本当かを問いただすために使者を派遣しようと思う。願い出た軍は願いどうり止めた」と詔勅した。十一年の春二月の朔が辛巳の庚寅の日に、使者を派遣して百済に「私は、將徳の久貴と固徳の馬進文達の上表した意味から、いちいちことこまかに、示して教るのは、てのひらの中を凝視するようだ。情報を詳しくしてほしい。たのむから思っていることを全て明らかにしてほしい。大市頭が帰った後、いつも通り何事も無かった。今はただはっきりと見分けられる報告をしてほしい。だから使者を派遣した。私は何度も聞いたが、奈卒の馬武は、王の一番頼みとする部下だ。王に情報を入れ部下に命令を伝えるのに、王の気持ちを察して、王を助ける。もし国家に何事もなく、長い間、官家を作り、永く天皇に奉公しようと思ったら、馬武を大使として、朝廷に派遣しなさい」と詔勅した。重ねて「私は聞いたのだが、北の敵は強暴だ。それでに矢を三十具を与えた。なんとか一か所でも防いでくれ」と詔勅した。夏四月の庚辰が朔の日に、百済に居る日本の王の使いが、帰ろうとした。百済の王の聖明が、日本の王の人に「任那の事は、詔勅を守って絶対守る。延那斯と麻都の事は、問おうとも問わなくとも、ただ詔勅のとうりにする」と言った。それで高麗の下部六人を献上した。それとは別に王の使いに下部を一人贈った。乙未の日に、百済は、中部の奈卒の皮久斤と下部の施徳の灼干那達を派遣して、狛の捕虜十人を献上した。十二年の春三月に、麦の種千斛を、百済の王に与えた。この歳に、百済の聖明王が、自ら民衆と二国の軍隊を率いて、出かけていって高麗を討伐して、漢城の土地を獲た。また軍を進めて平壤を討った。すべて六郡の土地を、元の地に返した。十三年の夏四月に、箭田の珠勝の大兄の皇子が薨じた。五月の朔が戊辰の乙亥の日に、百済と加羅と安羅が、中部の徳卒の木刕今敦と河内部の阿斯比多達を派遣して「高麗と新羅と同盟して勢力を併せて、私の国と任那とを滅ぼそうとしている。それで、つつしんで救助軍を願い求めて、まず不意に攻めるので、軍の多少は、天皇の詔勅どうりに」と奏上した。「今、百済の王と安羅の王と加羅の王が、日本府の臣下達と、ともに使者を派遣して奏上する様子を聞いた。また任那とともに、心をあわせ、力を一つにしなさい。そうすればきっと、天神がかばって守って幸せにしてくれて、また尊い天皇の先祖を頼るべきだ」と詔勅した。】とあり、四月庚辰朔は3月30日で3月が小の月ならそれ以外は標準陰暦と合致する。

ここに記述される官位の将徳若しくは施徳や固徳はまさにこの時代の内容を636年貞観10年に完成した『周書』に「百濟者・・・官有十六品左平五人一品達率三十人二品恩率三品德率四品扞率五品柰率六品六品已上冠飾銀華將德七品紫帶施德八品皂帶固德九品赤帶季德十品青帶對德十一品文督十二品皆黃帶武督十三品佐軍十四品振武十五品克虞十六品皆白帶自恩率以下」と記述され『日本書紀』と内容と全く同じである。

年貢を治めに来た新羅の使者の地位を良く知らなかった畿内政権に対し、俀国の資料が用いられた部分は『周書』と合致するのであるが、『日本書紀』で百済は殊勝に天皇に臣従しているように見せているが、『三国史記』の525年聖王三年「春二月與新羅交聘」のように新羅と和を結び、聖王二十六年548年にも「春正月高句麗王平成與濊謀攻漢北獨山城王遣使請救於新羅羅王命將軍朱珍領甲卒三千發之朱珍日夜兼程至獨山城下與麗兵一戰大破之」のように新羅に助けてもらっている。

この戦いで得た高句麗の捕虜を下部として扱っているのがこの記事で、『三国史記』の陽原王四年「春正月以兵六千攻百濟獨山城新羅將軍朱珍來援故不克而退」と高句麗側にも記述されている。

そして、551年の十二年記事は『三国史記』の記事では550年に記述され、『三国史記』に陽原王六年「春正月百濟來侵陷道薩城三月攻百濟金城新羅人乘間取二城」、聖王二十八年春正月王遣將軍達已領兵一萬攻取高句麗道薩城三月 高句麗兵圍金峴城、眞興王十一年「春正月百濟拔高句麗道薩城三月高句麗陷百濟金峴城王乘兩國兵疲命伊飡異斯夫出兵擊之取二城增築留甲士一千戍之」と三国の記事が合致し、新羅が百済と示し合わせたように漁夫の利を得ている。

500年炤知麻立干二十二年「春三月倭人攻陷長峰鎭」以降、665年文武王五年「結託高句麗 交通倭國共爲殘暴侵削新羅」まで倭が記述されず、俀国と百済と新羅は裏で繋がっていて畿内政権に対抗していた可能性が有り、百済は蘇我氏の倭と組み俀国は新羅と組んで白村江で戦い新羅と俀国の天智天皇とが勝利した可能性が高い。

その証拠に、『日本書紀』667年天智天皇六年「以皇孫大田皇女葬於陵前之墓高麗百濟新羅皆奉哀於御路」以降友好関係であり、『三国史記』698年孝昭王七年「三月日本國使至王引見於崇禮殿」、『日本書紀』698年大化四年「是歳新羅遣使貢調」と合致する。

大化四年記事が648年に挿入されているが、乙巳の変や大化記事は元正天皇が書かせていて、648年の『三国史記』と合致しないのだから、本来の大化4年に充てるべきだろう。

2020年6月1日月曜日

最終兵器の目 欽明天皇 8

 『日本書紀』慶長版は

七年春正月甲辰朔丙午百濟使人中部奈卒巳連等罷歸仍賜以良馬七十匹舩一十隻夏六月壬申朔癸未百濟遣中部奈卒掠葉禮等獻調秋七月倭國今來郡言於五年春川原民直宮登樓騁望乃見良駒睨影髙鳴輕超母脊就而買取襲養兼年及壯鴻驚龍翥別輩越群服御隨心馳驟合度超渡大內丘之壑十八丈焉川原民直宮檜隈邑人也是歲髙麗大亂凢鬪死者二千餘八年夏四月百濟遣前部德卒真慕宣文奈卒歌麻等乞救軍仍貢下部東城子言代德卒汶休麻那九年春正月癸巳朔乙未百濟使人前部德卒真慕宣文等請罷因詔曰所乞救軍必當遣救宜速報王夏四月壬戌朔甲子百濟遣中部杆率掠葉禮等奏曰德率宣文等奉勅至臣蕃曰所乞救兵應時遣送祗承恩詔喜慶無限然馬津城之役虜謂之曰由安羅國與日本府招來勸罸以事准況寔當相似然三𢌞欲審其言遣召而並不來故深勞念伏願可畏天皇先爲勘當暫停所乞救兵待臣遣報詔曰式聞呈奏爰覿所憂日本府與安羅不救隣難亦朕所疾也又復密使于髙麗者不可信也朕命即自遣之不命何容可得願王開襟緩帶恬然自安勿深疑懼宜共任那依前勅戮力倶防北敵各守所封朕當遣送若干人充實安羅逃亡空地六月辛酉朔壬戌遣使詔于百濟曰德卒宣文取歸以後當復何如消息何如朕聞汝國爲狛賊所害宜共任那策勵同謀如前防距閏七月庚申朔辛未百濟使人掠葉禮等罷歸冬十月遣三百七十人於百濟助築城於得爾辛

【七年の春正月の朔が甲辰の丙午の日に、百済の使者の中部の奈卒の己連達が帰った。それで良馬を七十匹と船を十隻を与えた。夏六月の朔が壬申の癸未の日に、百済が、中部の奈卒の掠葉禮達を派遣して年貢を献上した。秋七月に、倭国の今来の郡が「五年の春に、川原の民の直の宮が櫓に駆け上って臨み見て、良馬を見つけた。馬は影を見て声高に啼き、軽やかに母馬の背中を飛び越えた。出かけて行って買い取った。何年か飼い続けて、古馬になったら龍が羽ばたくオオハクチョウのように驚かした。他の馬たちと比べると群を抜き、乗ると服はみだれず、一緒に走り回ると歩調を合わせ、大内の丘の十八丈の谷を超えて渡る。川原の民の直の宮は、桧隈の邑の人だ」と言った。この歳に、高麗に大乱があった。闘って死者が全部で二千人余りだった。八年の夏四月に、百済が、前部の徳卒の眞慕宣文と奈卒の奇麻達を派遣して救援軍を願い出た。それで下部の東城子言を推挙して、徳卒の汶休麻那に代えた。九年の春正月の朔が癸巳の乙未の日に、百済の使者の前部の徳卒の眞慕宣文達が、帰りたいと願い出た。それで「願い出た救援軍は、救いに派遣しなければならない。すぐに王へ報告しなさい」と詔勅した。夏四月の朔が壬戌の甲子の日に、百済の中部の杆率の掠葉禮達を派遣して「徳率の宣文達が、詔勅を聞いて私の蕃に来て『願い出た救援の兵を時期に合わせて派遣すると言った』と言った。つつしんで情け深い詔勅を聞いて、とても喜ばしいことこのうえない。しかしながら馬津の城の闘いの時、捕虜に『安羅国と日本府とが招いたからやって来て、言われるまま懲罰した』と言った。それを見たらとてもよく似ている。しかも三回もこまかくしらべようとして、呼び出したがどちらもやってこなかった。それで心から心配しています。土下座してお願いしますのは、畏れ多い天皇は、先に調査の為、少しの間願い出た救援軍をとどめておいて私が報告の使者を派遣するのを待ってほしい」と奏上した。「作法通りの奏上の言葉を聞いて、憂いていることを見てみると、日本府と安羅とが、隣国の困難を救わないことは、私も苦しみ悩んでいる。また高麗に密かに使者を派遣することは、信頼できることでは無い。私が命じればすすんで派遣するだろうが、命じずにどうしてたやすく出来るだろうか。出来たら、王が、胸襟を開いて安心して、平然として、自分から気を緩めてあまり疑って不安がるな。任那が以前の詔勅通り力を合わせて一緒に北の敵から守るべきだ。私はある程度の者を派遣して、安羅が逃げて滅んで誰もいなくなった土地を豊かにしなければならない」と詔勅した。六月の朔が辛酉の壬戌の日に、使者を派遣して百済に「徳卒の宣文と交代してまた本国に帰った後、どうなった。状況はどうだ。私は聞いたが、お前の国は、狛の賊の為に被害に遭ったと。任那と共に、策をねって励み一緒に考えて以前の様に拒んで守れ」と詔勅した。閏七月の朔が庚申の辛未の日に、百済の使者の掠葉禮達が帰った。冬十月に、三百七十人を百済に派遣して、得爾辛を助けて城を築いた。】とあり、七年正月甲辰朔は6年12月30日、九年正月癸巳朔は8年12月30日と前月が小の月なら標準陰暦に合致し、九年六月辛酉朔は閏5月1日で、他は標準陰暦と合致する。

この項は朔の日干支を記述していて、『梁書』に「扶桑國者・・・貴人第一者爲大對盧第二者爲小對盧」と扶桑国の冠位に『三国志』「高句麗・・・其官有相加對盧沛者」、『周書』「高麗者・・・大官有大對盧次有太大兄大兄小兄」と高句麗の冠位が導入されていることから、高句麗との交流があって情報が入ってきていて、朝廷の資料と考えられるが、『舊事本紀』に記述されていないので、巨勢氏の資料で巨勢王朝崩壊後も巨勢氏が高句麗との交流を持っていたことが考えられる。

馳驟合度超渡大內丘之壑十八丈焉」は丈が180cmなら20mで人間の走り幅跳びの記録は9mで、丈が135cmなら十八丈は15mでこちらの方が有り得そうだ。

九年は548年の陽原王四年で『三国史記』に「春正月以兵六千攻百濟獨山城新羅將軍朱珍來援故不克而退」のように新羅が援軍を出していて合致せず、529年の安臧王十一年「冬十月王與百濟戰於五谷克之殺獲二千餘級」、聖王七年「冬十月高句麗王興安躬帥兵馬來侵拔北鄙穴城命佐平燕謨領步騎三萬拒戰於五谷之原不克死者二千餘人」が考えられる。

文咨明王の時代のほうが506年の十五年「冬十一月遣將伐百濟」、507年の十六年「冬十月欲攻百濟漢城進屯於橫岳下百濟出師逆戰乃退」、512年の二十一年「秋九月侵百濟陷加弗圓山二城虜獲男女一千餘口」のように百済と多く戦っているが、聖明王と異なり、継体元年が517年で、秦王国以前の巨勢王朝の事件でピントがずれているように思う。

2020年5月29日金曜日

最終兵器の目 欽明天皇 7

 『日本書紀』慶長版は
十二月越國言於佐渡嶋北御名部之𥔎岸有肅愼人乗一舩舶而淹留春夏捕魚充食彼嶋之人言非人也亦言鬼魅不敢近之嶋東禹武邑人採拾椎子爲欲熟喫著灰裏炮其皮甲化成二人飛騰火上一尺餘許經時相鬪邑人深以爲異取置於庭亦如前飛相鬪不巳有人占云是邑人必爲魃鬼所迷惑不久如言被其抄掠於是肅愼人移就瀬河浦浦神嚴忌人不敢近渇飲其水死者且半骨積於巖岫俗呼肅愼隈也六年春三月遣膳臣巴提便使于百濟夏五月百濟遣奈卒其㥄奈卒用歌多施德次酒等上表秋九月百濟遣中部護德菩提等使于任那贈吳財於日本府臣及諸旱岐各有差是月百濟造丈六佛像製願文曰蓋聞造丈六佛功德甚大今敬造以此功德願天皇獲勝善之德天皇所用弥移居國倶蒙福祐又願普天之下一切衆生皆蒙解脱故造之矣冬十一月膳臣巴提便還自百濟言臣被遣使妻子相逐去行至百濟濱日晩停宿小兒忽亡不知所之其夜大雪天曉始求有虎連跡臣乃帶刀擐甲尋至巖岫拔刀曰敬受絲綸劬勞陸海櫛風沐雨藉草班荊者爲愛其子令紹父業也惟汝威神愛子一也今夜兒亡追蹤覔至不畏亡命欲報故來既而其虎進前開口欲噬巴提便忽申左手執其虎舌右手刺殺剥取皮還是歲髙麗大亂被誅殺者衆
十二月に、越の国が、「佐渡の嶋の北の御名部の碕の岸に、肅愼人が漂着して、一艘の船が停泊した。春から夏に魚を取って食事に充てた。その嶋の人は、人と思えないと言った。また鬼や化け物のようだと言って、敢えて近づこうとしなかった。嶋の東の禹武の邑の人が、椎の実を採取して煮て食べようと思った。灰の中に置いて焙った。その皮が、二人の人間になって、火の上に30cm以上飛上った。少し経って二人は戦った。邑の人はとても奇妙に思い、庭に放置した。また前の様に飛んで、二人とも戦いを止めなかった。或る人が占て『この邑の人は、きっと鬼や化け物に迷わされた』と言った。まもなく、言った通り掠め取られた。それで、肅愼人は、瀬波河の浦に移って行った。浦の神は厳しく出入りを禁じるので、敢て近づかなかった。のどが渇いてそこの水を飲んだら半分が死んだそうだ。屍を巖の岫に積み上げた。俗に肅愼の隈と呼んだ」と言った。六年の春三月に、膳の臣の巴提便を派遣して、百済への使者とした。夏五月に、百済は、奈卒の其㥄と奈卒の用奇多と施徳の次酒達を派遣して表を奏上した。秋九月に、百済は、中部の護徳の菩提達を派遣して、任那への使者とした。呉の財物を日本府の臣および諸々の旱岐に夫々差をつけて贈った。この月に、百済は、丈六の佛像を造った。願文を作って、「概略を聞いたが、丈六の佛像を造ると功徳がとてもある。今、敬って造った。この功徳で、できたら、天皇が、勝れた徳を得て、天皇が使う、弥移居の国、が共に天のめぐみを被るように、また出来ましたら、大地をあまねくおおい、この世に生きているすべてのものが皆、解脱出来るようにと造った」と願った。冬十一月に、膳の臣の巴提便が、百済から帰って、「私が使者で派遣されたとき、妻子が、相次いで死んだ。百済の浜に行き着いて、日が暮れたので停泊した。小児が急死したと知らせが有った。その夜は大雪だった。空が明るくなって初めに辺りを見ると、虎が歩いた跡が有った。私は、それで刀を帯びて甲を身に着けて、巖の岫に探し至った。刀を拔いて、『つつしんで詔勅を受けて、陸に海に雨や風にさらされて苦労して働き、草を敷いて、茨の中を分け入ることは、我が子を愛するので父の地位を受け継がせるためだ。よく考えれば、お前は人を恐れさせる神だから、愛する子など一噛みだ。今夜、子が死んだ。跡を追って探し求めてやってきた。命を落とすことを恐れず、復讐するためにやってきた』と言った。すでにその虎は、前に進んで、口を開けて噛みつこうとした。巴提便は、すぐに左手を伸ばして、その虎の舌を掴んで、右の手で刺し殺して、皮を剥ぎ取って帰った」と言った。この年に、高麗で大乱があり、誅殺された者が多かった。】とある。
前項でも記述したように、この百済の仏像記事は朔の日干支も記述されず、俀国の記事の可能性が高く、丈六は1.8m位と考えられるが、飛鳥佛四天王立像持国天が133cm、増長天が135cm、広目天が133cm、多聞天が134cm、救世観音像は高さ180cmで丈六は135cmの可能性が高い。
百済は『三国史記』に枕流王元年384年に「九月胡僧摩羅難陁自晉至王迎之致宮內禮敬焉 佛法始於此」と384年から仏教が導入されていて、日本は『梁書』に「宋大明二年賓國嘗有比丘五人游行至其國流通佛法經像敎令出家風俗遂改」と457年に仏教が入り、記事は合致せず、それに対して、俀国はその友好国の新羅が『三国史記』で法興王十五年528年に「肇行佛法」と仏教流入が遅く、545年、実際はもう少し以前に天皇への贈り物を奪い、驚きをもって目の当たりにしただろう。
『三国史記』では545年は陽原王元年で大乱の様子が無く、十三年557年に「夏四月立王子陽成爲太子遂宴群臣於内殿冬十月丸都城干朱理叛伏誅」と反乱があり、高句麗も立太子は普通記述されず、王が即位した時長男が幼少の時は弟が太子になり、長男が大きくなった時に太子を交代した可能性が有り、557年は皇太子の交代があり、前皇太子が反乱を起こし誅殺された可能性が有り、『日本書紀』の記事はこの事件が対応していそうで、ある王の6年が557年に当たり、俀国王葛子の子の可能性が有る。

2020年5月27日水曜日

最終兵器の目 欽明天皇 6

  今回も原文が長文なので解説を先に記述する。
百済の史書の初見は『晉書』の372年咸安二年「二年春正月辛丑百濟林邑王各遣使貢方物 」、『三国史記』の近肖古王二十七年に「春正月遣使入晉朝貢」と対応して記述され、中国に百済と認知されたが、『晉書』は『後漢書』・『三国志』と同様「韓種有三一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓」と韓地は認めているが、中国に臣従する国とは認めていないが、馬韓が「韓割東界以居之」と辰韓を分け与えたと馬韓の主導権を認めている。
そして、『宋書』からは百済が、『梁書』から新羅が記述され、『梁書』の新羅の項に521年「普通二年王募名秦始使使隨百濟奉獻方物」と百済に従って梁に奉献したと記述し、『三国史記』にも法興王八年に「遣使於梁貢方物」と記述され、521年に倭国と百済が対新羅に対しては逆転してしまったようだ。
的臣等往來新羅方得耕種朕所曽聞」と的臣が新羅を抑えたのは聖明王の「曽」と「文周王・三斤王」の475~480年頃の話で、この説話は倭王武や磐井の頃の491年仁賢天皇四年の「的臣蚊嶋穗瓮君有罪皆下獄死」や、527年継体天皇二一年の「欲往任那爲復興建新羅所破南加羅喙己呑而合任那於是筑紫國造磐井陰謨叛逆・・・於是磐井掩據火豐二國勿使修職外逢海路誘致高麗百濟新羅任那等國年貢職船内遮遣任那毛野臣軍」の状況と合致している。
神功皇后摂政四七年から雄略天皇まで『百濟記』、継体天皇から欽明天皇十七年の556年まで『百濟本記』を引用して解説しているということは、解説文以外は百済の資料ではなく、他の資料で、もちろん、蘇我氏や物部氏の資料なら姓・名を記述でき、使わない文字をあえて書く必要が無い。
すなわち、この元資料は倭国や毛野臣の資料だと言うことが解り、蘇我氏の倭国ではなく後の俀国の韓地の説話を蘇我氏が日本の朝廷から見た視点で記述したもので、後の俀国が新羅と結託して日本と百済に対抗していることが解り、そのため、朔の日干支が全く記述されていない。
そのため、『日本書紀』本文に「安羅人者以日本府爲天」と『三国志』の「馬韓國邑各立一人主祭天神名之天君」と天国が韓地の支配者で、本来天皇が天なのに現在日本府を牛耳って天皇に逆らっている国が天国王と安羅人はみなしているとしている。
もし、これらが百済の史書からのものなら、それに加えて『百濟本記』云うなどと書かないか、最初に『百濟本記』にあると書いて、全文使えばよく、現にそのように記述した部分もあり、『梁書』に「新羅・・・無文字刻木爲信」と新羅の資料では有り得ない。
なお、神功皇后摂政四七年からの『百濟記』は近肖古王三十年「冬十一月王薨古記云百濟開國已來未有以文字記事至是得博士高興始有書記然高興未嘗顯於他書」と375年から文字として高興が記述したとあり、応神天皇十六年の「習諸典籍於王仁」は390年即位の応神天皇が405年に典籍を学び、『百濟記』は375年以降記述され初めて随時日本にも提出されていたことが解る。
『日本書紀』慶長版は
五年春正月百濟國遣使召任那執事與日本府執事倶荅言祭神時到祭了而往是月百濟復遣使召任那執事與日本府執事日本府任那倶不遣執事而遣微者由是百濟不得倶謀建任那國二月百濟遣施德馬武施德髙分屋施德斯那奴次酒等使于任那謂日本府與任那旱岐等曰我遣紀臣奈率彌麻沙奈卒巳連物部連奈率用歌多朝謁天皇弥麻沙等還自日本以詔書宣曰汝等冝共在彼日本府早建良圖副朕所望爾其戒之勿被他誑又津守連從日本來宣詔勅而問任那之政故將欲共日本府任那執事議定任那之政奉奏天皇遺召三𢌞尚不來到由是不得共論?(圖)計任那之政奉奏天皇矣今欲請留津守連別以疾使具申情狀遣奏天皇當以三月十日發遣使於日本此使便到天皇必湏問汝汝日本府卿任那旱岐等各宜發使共我使人往聽天皇所宣之詔別謂河內直自昔迄今唯聞汝惡汝先祖等倶懷姧偽誘說爲歌可君專信其言不憂國難乖背吾心縱肆暴虐由是見逐軄汝之由汝等來住任那恒行不善任那日損軄汝之由汝是雖微譬猶小火焼焚山野連延村邑由汝行惡當敗任那遂使海西諸國官家不得長奉天皇之闕今遣奏天皇乞移汝等還其本處汝亦往聞又謂日本府卿任那旱岐等曰夫建任那之國不假天皇之威誰能建也故我思欲就天皇請將士而助任那之國將士之粮我當湏運將士之數未限若干運粮之處亦難自決願居一處倶論可不擇從其善將奏天皇故頻遣召汝猶不來不得議也日本府荅曰任那執事不赴召者是由吾不遣不得往之吾遣奏天皇還使宣曰朕當以?()歌臣遣於新羅以津守連遺於百濟汝待聞勅際莫自勞往新羅百濟也宣勅如是會聞?()歌臣使於新羅乃追遣問天皇所宣詔曰日本臣與任那執事應就新羅聽天皇勅而不宣就百濟聽命也後津守連遂來過此謂之曰今余被遣於百濟者將出在下韓之百濟郡令城主唯聞此說不聞任那與日本府會於百濟聽天皇勅故不往焉非任那意於是任那旱岐等曰由使來召便欲往參日本府卿不肯發遣故不往焉大王爲建任那觸情曉示覩茲忻喜難可具申三月百濟遺奈率阿亡得文許勢奈率歌麻物部奈卒歌非等上表曰奈卒彌麻沙奈卒已連等至臣蕃奉詔書曰爾等宜共在彼日本府同謀善計早建任那爾其戒之勿被他誑
又津守連等至臣蕃奉勅書問建任那恭承來勅不敢停時爲欲共謀乃遣使召日本府與任那倶對言新年既至願過而往久而不就復遣使召倶對言奈時既至願過而往久而不就復遣使召而由遣微者不得同計夫任那之不赴召者非其意焉是阿賢移那斯佐魯麻都姧佞之所作也夫任那者以安羅爲兄唯從其意安羅人者以日本府爲天唯從其意今的臣吉備臣河內直等咸從移那斯麻都指撝而已移那斯麻都雖是小家微者專擅日本府之政又制任那障而勿遣由是不得同計奏荅天皇故留己麻奴跪別遣使迅如飛烏奉奏天皇假使二人在於安羅多行姧佞任那難建海西諸國必不獲事伏請移此二人還其本處勅喩日本府與任那而圖建任那故臣遣奈率彌麻沙奈率巳連等副已麻奴跪上表以聞於是詔曰的臣等往來新羅非朕心也曩者?()支弥與阿鹵旱岐在時爲新羅所逼而不得耕種百濟路迥不能救急由的臣等往來新羅方得耕種朕所曽聞若已建任那移那斯麻都自然却退豈足云乎伏承此詔喜懼兼懷而新羅誑朝知匪天勅新羅春取㖨淳仍擯出我久禮山戎而遂有之近安羅處安羅耕種近久禮山處斯羅耕種各自耕之不相侵奪而移那斯麻都過耕他界六月逃去於?()支弥後來許勢臣時新羅無復侵逼他境安羅不言爲新羅逼不得耕種臣嘗聞新羅毎春秋多聚兵甲欲襲安羅與荷山或聞當襲加羅頃得書信便遣將士擁守任那無懈息也頻發鋭兵應時往救是以任那隨序耕種新羅不敢侵逼而奏百濟路迥不能救急由的臣等往來新羅方得耕種是上欺天朝轉成姧佞也曉然若是尚欺天朝自餘虛妄必多有之的臣等猶住安羅任那之國恐難建立宜早退却臣深懼之佐魯麻都雖是韓腹位居大連廁日本執事之間入榮班貴盛之例而今反著新羅奈麻禮冠即身心歸附於他易照熟觀所作都無怖畏故前奏惡行具錄聞訖今猶著他服日赴新羅城公私往還都無所憚夫㖨國之滅匪由他也㖨國之函跛旱岐貳心加羅國而內應新羅加羅自外合戰由是滅焉若使函跛旱岐不爲內應㖨國雖少未必亡也至於卓淳亦復然之假使卓淳國主不爲內應新羅招冦豈至滅乎歷觀諸國敗亡之禍皆由內應貳心人者今麻都等腹心新羅遂着其服往還且夕陰搆姧心乃恐任那由茲永滅任那若滅臣國孤危思欲朝之豈復得耶伏願天皇玄鑒遠察速移本處以安任那冬十月百濟使人奈卒得文奈卒歌麻等罷歸十一月百濟遣使召日本府臣任那執事曰遺朝天皇奈率得文許勢奈率奇麻物部奈率奇非等還自日本今日本府臣及任那國執事宜來聽勅同議任那日本吉備臣新(安)羅下旱岐大不孫久取柔利加羅上首位古殿奚卒麻君斯二岐君散半奚君兒多羅二首位訖乾智子他岐旱久嵯旱岐仍赴百濟於是百濟王聖明略以詔書示曰吾遣奈卒彌麻佐奈卒巳連奈卒用竒多等朝於日本詔曰早建任那又津守連奉勅問成任那故遣召之當復何如能建任那請各陳謀吉備臣任那旱岐等曰夫建任那國唯在大王欲冀遵王倶奏聽勅聖明王謂之曰任那之國與吾百濟自古以來約爲子弟今日本府印岐祢既討新羅更將代(伐)我又樂聽新羅虛誕謾語也夫遣印支祢於任那者本非侵害其國往古來今新羅無導食言違信而滅卓淳股肱之國欲快返悔故遣召到倶承恩詔欲冀興繼任那之國猶如舊日永爲兄弟竊聞新羅安羅兩國之境有大江水要害之地也吾欲據此修繕六城謹請天皇三千兵士毎城充以五百幷我兵士勿使作田而逼惱者久禮山之五城庶自投兵降首卓淳之國亦復當興所請兵士吾給衣粮欲奏天皇其策一也猶於南韓置郡令城主者豈欲違背天皇遮斷貢調之路唯庶剋濟多難殲撲強敵凡厥凶黨誰不謀附北敵強大我國微弱若不置南韓郡領城主修理防護不可以禦此強敵亦不可以制新羅故猶置之攻逼新羅撫存任那若不爾者恐見滅亡不得朝?()欲奏天皇其策二也又吉備臣河內直移那斯麻都猶在任那國者天皇雖詔建成任那不可得也請移此四人各遣還其本邑奏於天皇其策三也宜與日本臣任那旱岐等倶奉遣使同奏天皇乞聽恩詔於是吉備臣旱岐等曰大王所述三策亦協愚情而巳今願歸以敬諮日本大臣安羅
王加羅王倶遣使同奏天皇此誠千載一會之期可不深思而熟計歟
【五年の春正月に、百済国が、使者を派遣して、任那の庶務官と日本府の庶務官を呼んだ。二人とも、「神を祭る時期になった。祭りが終わったら行く」と答えた。この月に、百済は、また使者を派遣して、任那の庶務官と日本府の庶務官を呼んだ。日本府と任那はどちらも庶務官を派遣しないで、身分の低い者を派遣した。これで、百済は、一緒に任那国を建てる相談が出来なかった。二月に、百済が、施徳の馬武と施徳の高分屋と施徳の斯那奴次酒達を派遣して、任那に使者として、日本府と任那の旱岐達とが「私は、紀の臣の奈率の弥麻沙と奈率の己の連と物部の連の奈率の用奇多を派遣して、天皇に拝謁した。弥麻沙達は、日本から還って、詔書で『お前たち、そちらにある日本府と一緒に、早くいい案を考えて、私が望むようにしなさい。自ら戒めて騙されてはいけない』と宣下した。また津守の連が、日本からやって来て、詔勅を宣下して、任那の政策を問いただした。それで、日本府と任那の庶務官と共に、任那の政策を相談して決め、天皇に奏上しようとして、召喚の使者を三回も派遣したが、それでも来なかった。これで、一緒に任那の政策を討議して考え、天皇に奏上することが出来なかった。今、津守の連にとどまってもらい、早駆けの特使を使って詳しい状況を天皇に奏上するよう派遣したい。それで、三月十日に、使者を日本に出発させた。この使者が、着いたら、天皇は、きっとお前に問いかけるだろう。お前は日本府卿と任那の旱岐達が、それぞれ使者を送って、私の使者と共に、天皇の元に行って宣下する詔勅を聞きなさい」と言った。特に河内の直が「昔から今までに、お前の悪事ばかり聞く。お前の先祖達は、みなよこしまな心で言いくるめた。それで、爲哥可の君はお前たちの言葉を真に受けて、国難を気にもかけなかった。私の思いに背き、勝手気ままにむごい仕打ちをして苦しめる。これで職が解かれたのはお前が原因だ。お前たちは、任那にやって来て留まり、いつも悪さをした。任那が、毎日仕事が邪魔されるのはお前が原因だ。お前はほんの少しと言っても、たとえばほんの小さな火で山野が焼けて、村邑に延焼するのと同じだ。お前の行いが悪いから、疑いもなく任那が失敗した。海の西の諸国の官家を、長く天皇の朝廷に仕えることがとうとう出来なくなってしまった。今、天皇に奏上しに派遣して、お前たちを本国に移し返そうとお願いした。お前たちも行って聞きなさい」と言った。また日本府卿と任那の旱岐達に「任那の国を建てることは、天皇の力を借りなければ、誰も建てられない。それで、私は、天皇のもとに行って、軍隊の派兵をお願いして、任那の国を助けようとおもう。兵糧は、私が運ぶ。軍人の数は、少しとは限らない。兵糧を運ぶ場所は、決めかねる。出来たら一ヶ所に居て、一緒に可否を相談して、最善策に従って、天皇に奏上しようとした。それで、何度も呼び出す使者を派遣したが、お前たちが来なければ相談できない」と言った。日本府が答えて「任那の庶務官を呼んでも来ないのは、私が派遣しなかったから訪問できなかった。私は、天皇に奏上するため派遣して、帰った使者が『私は印奇の臣を、新羅に派遣し、津守の連を、百済に派遣するべきだ。お前は、詔勅を聞くまで待ちなさい。新羅と百済に、わざわざ行くな』と宣下した。詔勅はこのように宣下された。たまたま、印奇の臣が新羅に行くことを聞いて、それで追いかけて天皇が宣下したことを問いただした。『日本の臣と任那の庶務官とが、新羅に行って、天皇の勅を聞きなさい』と詔勅した。百済に行って命令を聞けと宣下されなかった。後で津守の連が、やっとここを通り過ぎようとして、『私が、百済に派遣されて、今、下韓に居るのは、百済の郡令と城主を出仕させるというからだ』といった。ただこの言葉だけを聞いた。任那と日本府とが、百済に集まって、天皇の詔勅を聞くようには聞いていない。だから、来なかったのは、任那の本意ではない」と言った。そこで、任那の旱岐等は「使者が来て呼び出すので、都合が良いので参上しようとしたが、日本府卿が派遣させなかったので来なかった。大王は、任那を建てる為に、情に訴えはっきりと指示し、この様子を見てとてもよろこんではいますが、詳しく申し述べれません」と言った。三月に、百済が奈率の阿亡得文と許勢の奈率の奇麻と物部の奈率の奇非達を派遣して、上表文で、「奈率の彌麻沙と奈率の己の連達は、私の蕃に来て、詔書で、『お前たち、そこに居る日本府と一緒に、同じ思いで最善の計画を出して、早く任那を建てろ。お前はそれを自分で決めたことと思って、人の言葉に惑わされてはいけない』と奏上した。また津守の連達は、私が蕃に来て勅書を奉上して、任那を建てることを問いかけた。つつしんで勅をきいて、時間をかけようとしないで、詔勅の実現の為に考えようと使者を派遣して日本府と任那とを招集した。どちらも『もう新年になった。少したってから行こうと思う』と答えた。それでだいぶ経ったが来なかった。また使者を派遣して招集した。どちらも、『祭の時期になった。少したってから行こうと思う』と答えた。それでだいぶ経ったが来なかった。また使者を派遣して招集した。それなのに、身分の低い物を派遣した為、一緒に相談できなかった。この任那が、呼んでも来ないのは、本意ではない。これは阿賢移那斯と佐魯麻都が、こびへつらって騙したからだ。この任那は、安羅を兄として、ただその考えだけに従う。安羅人は、日本府を天神と考え、ただその考えだけに従う。唯其の意にのみ從ふ。今、的の臣と吉備の臣・河内の直達は、ことごとく、移那斯と麻都の指図に従うだけだ。移那斯と麻都は、多少身分が低い家系だが、日本府の政治をかって気ままにしている。また任那を抑えて、使者の邪魔をする。このため、同じように、天皇に答えることが出来なかった。それで、己麻奴跪を留めて、別に飛ぶ鳥のような早駆けの使者を派遣して、天皇に奏上した。仮に二人が、安羅にいて、なんどもこびへつらって騙したなら、任那を建てれなく、海の西の諸国は、きっと仕えてくれない。土下座してお願いします。この二人を本国に帰国させてほしい。勅書で日本府と任那とを説得して、任那の再建を図ってください。それで、私は、奈率の彌麻沙と奈率の己の連達を派遣して、己麻奴跪に従わせて、上表文で聞いた。そこで、『的の臣達が、新羅に行ったのは、私の本意ではない。以前、印支祢と阿鹵旱岐がいる時に、新羅に迫られて、耕して種を播けなかった。百済は、遠くて、急に救えなかった。的の臣達が新羅に行くことで、耕して種を播くことが出来たのは、私の曽祖父が言っていたことだ。もし任那を建てたら、移那斯と麻都は、自ずと退くだろう。言うまでもない』と詔勅した。土下座してこの詔勅をきいて、嬉しいやら畏まるやら、二つの気持ちが湧いてきた。それで新羅が、朝廷を騙したのは、天勅ではなかったことを知った。新羅は、春に㖨淳を奪い取る。それで私の久禮山の郡を退けて、占領した。安羅に近い所で、安羅が耕し種を播いている。久禮山に近き所を、斯羅が耕し種を播く。夫々自分で耕してお互いに侵略して略奪しなかった。しかし、移那斯と麻都は、他国の境界を越えて耕し、六月になると逃げ去った。印支弥が後から来て、許勢の臣の時に、新羅は、やはり他国の境界を侵略しなかった。安羅は、新羅に攻められて耕して種を播くことが出来ないと言わなかった。私は、かつて、新羅が、春と秋いつも、たくさん兵を集めて、安羅と荷山とを襲おうと思っていると聞き、あるいは加羅を襲うべきだと聞いたちょうどこの時期に、それは、兵士を派遣して、任那を助けて守れと言われと手紙を貰って、くつろぐ暇がなく、精鋭の兵を何度も派兵して、時期に合わせて救いに行った。これで、任那は、順を追って耕し種を播いた。新羅は、敢えて侵略しなかった。それで百済が、遠いので、急いで救うことが出来ないので、的の臣達が、新羅と行き来するから、耕して種を播けると奏上するのは、もっぱら天朝にこびへつらって欺いたことということです。このように、よく知っていても、天朝を欺く。それ以外でも、うそいつわりがきっと多く有る。的の臣達が、それでも安羅に住むなら、任那の国は、恐らく再建できない。早く退却させてほしい。私が、一番恐れているのは、佐魯麻都が、韓の生まれと言っても、位は大連である。日本の庶務官の中に混じって、どんどん偉くなって分け前で栄えた一人だ。それで今、反逆して新羅の奈麻禮の冠をつけている。すなわち、身も心も他国に付き従ているのが解りやすい。慣れた行いを見ていると、恐れ怯えることが全くない。それで、以前に、聞いた汚い行いを詳しく記して奏上した。今もなお、他国の服を着て、いつも新羅の城に赴いて、公私関係なく行き来しても、全くためらわない。その㖨の国が滅んだのはそれ以外の理由ではない。㖨の国の函跛旱岐が、加羅の国を裏切って、新羅と打ち合わせて、加羅が、内と外の敵と一緒に戦った。このために滅びた。もし函跛旱岐が、裏切らなかったら、㖨の国が小国とはいえ、必ずしも滅びなかったかもしれない。卓淳もまた同じだ。仮に卓淳の国の主が、敵の新羅と共謀して引き入れなければ、どうして滅びることになろうか。諸国の敗れて滅びるという災難を見てみると、皆、敵と共謀して裏切る者がいたからだ。今、麻都達は、新羅に心底信頼して、とうとうその服を着て、朝出かけて夜に帰って、密かによこしまな計画を立てている。それで、恐れているのは、任那がこれで永遠に滅んでしまうことです。任那がもし滅んだら、私の国が孤立して危ない。朝廷に仕えようと思っても、どうしたらずっと仕えることが出来ましょうか。土下座してお願いするのは、天皇が、先のことを見通して思いやり、裏切り者を速やかに本国に引き戻して、任那を安心させてください」と言った。冬十月に、百済の使者の奈率の得文と奈率の奇麻達が帰った。十一月に、百済は、使者を派遣して、日本府の臣と任那の庶務官を呼び出して、「天皇に派遣した、奈率の得文と許勢の奈率の奇麻と物部の奈率の奇非達が、日本から帰った。今、日本府の臣と任那の国の庶務官が、やって来て詔勅を聞いて、みなで任那をなんとかしろ」と言った。日本の吉備の臣と安羅の下の旱岐の大不孫と久取柔利と加羅の上の首位の古殿奚と卒麻の君と斯二岐の君と散半奚の君の子と、多羅の二首位の訖乾智と、子他の旱岐と、久嗟の旱岐が、一緒に百済へ赴いた。それで、百済の王の聖明は、「私は、奈率の彌麻佐と奈率の己の連と奈率の用奇多達を派遣して、日本に朝貢した。『早く任那を建てよ』と詔勅があった。また、津守の連が、詔勅を受けて、任那を再建したかと問われた。それで、招集のため派遣した。いつどうやって、任那を建てられるか、どうか皆考えを述べなさい」と詔勅の中身の概略を示して言った。吉備の臣と任那の旱岐達が「任那の国を建てられるのは、ただ大王だけだ。おねがいです、王に従って一緒に奏上して詔勅を実行しましょう」と言った。聖明王は「任那の国と私の百済と、昔から、子だ弟だと約束した。今、日本府の印岐祢が、もう新羅を討って、私も征伐しようとしている。また、喜んで新羅のでたらめやごまかしの言葉を聞く。その印岐祢を任那に派遣したのは、本来その国を侵略して危害を与えようとしてのことではない。昔から今に至るまで、新羅は、導かないでうそをつき信頼を損なって、卓淳を滅ぼした。頼みとする国が、気持ちよく助けようとしても、くやしい気持ちが返ってくる。それで、召集の使者を派遣して、一緒に情け深い詔勅を聞いて、出来たら、任那の国を再興して引き継ぎ、一層昔の様に、ずっと兄弟でいたい。ひそかに聞いたところ、新羅と安羅の、両国の国境に、大きな河が有る。地形がけわしく守りに有利な土地だ。私は、これを拠点に、六城を元のように取り返そうと思う。つつしんで天皇の三千の兵士を要請して、城毎に五百人を充て、あわせて私の兵士で、田を作らせないよう、煩わせるようにすれば、久禮の山の五城の人は、自づからに武器を放り出して頭を下げてくるだろう。貞淳の国も、再興できる。願い出る兵士には、私の、軍服と兵糧を与えよう。天皇に奏上しようと思う、これが策の一つだ。やはり南の韓に、郡令と城主を置くことは、決して天皇の約束に背き、調を貢ぐ路を遮ろうとしない。ただ、民衆も、多くの困難が有っても、助けて、強敵をたいらげて皆ごろしにして打ち勝つだけだ。ほとんどのその悪者の仲間が、誰につくか考えさせてはいけない。北の敵は強く大きな国だが、私の国は小国で弱い。もし南の韓に、郡領と城主を置いて、再建して守らなければ、この強敵を防げない。まただから新羅も抑えられない。それでやはり置いて、新羅を攻撃して、任那をそのままにしておこう。もしそうでなければ、おそらく滅亡して、朝貢出来ない。天皇に奏上しようとする、その策の二つ目だ。また吉備の臣と河内の直の移那斯と麻都が、相変わらず任那国に居るのなら、天皇は、任那の再建をしろと詔勅しても、できない。できるなら、この四人を免職して、夫々の本邑に返してほしい。天皇に奏上する、その策の三つ目だ。日本の臣と任那の旱岐達とが、一緒に使者を派遣して、同じく天皇に奏上して、情け深い詔勅を聞かせてほしいと言った。そこで、吉備の臣と旱岐達は、「大王の述べた三つの策は、やはり、私の気持ちにかないます。今、出来たら、帰ってつつしんで日本の大臣と安羅の王と加羅の王に言って、一緒に使者を派遣して同じように天皇に奏上しよう。これは本当に千回運んだ中の一回の機会かどうかの約束で、よく考えて、よく計画を練りましょう」と言った。】とある。