2020年12月16日水曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第二十八  天武天皇1

  『日本書紀』慶長版は

天渟中原瀛真人天皇天命開別天皇同母弟也幼曰大海人皇子生而有岐㠜之姿及壯雄拔神武能天文遁甲納天命開別天皇女菟野皇女爲正妃天命開別天皇元年立爲東宮四年冬十月庚辰天皇臥病以痛之甚矣於是遣蘇賀臣安麻侶召東宮引入大殿時安摩侶素東宮所好密領東宮曰有意而言矣東宮於茲疑有隱謀而愼之天皇勅東宮授鴻業乃辭讓之曰臣之不幸元多病何能保社稷願陛下舉天下陛皇后仍立大友皇子冝爲儲君臣今日出家爲陛下欲修功德天皇聽之即日出家法服因以收私兵器悉納於司壬午入吉野宮時左大臣蘇賀赤兄臣右大臣中臣金連及大納言蘇賀果安臣等送之自菟道返或曰虎著翼放之是夕御嶋宮癸未至吉野而居之是時聚諸舍人謂之曰我今入道修行故隨欲修道者留之若仕欲成名者還仕於司然無退者更聚舍人而詔如前是以舍人等半留半退十二月天命開別天皇崩元年春三月壬辰朔己酉遣內小七位阿曇連稻敷於筑紫告天皇喪於郭務悰等於是郭務悰等咸著喪服三遍舉哀向東稽首壬子郭務悰等再拜進書函與信物夏五月辛卯朔壬寅以甲冑弓矢賜郭務悰等是日賜郭務悰等物捴合絁一千六百七十三匹布二千八百五十二端綿六百六十六斤戊午髙麗遣前部富加抃等進調庚申郭務悰等罷歸

【天渟中原瀛眞人天皇は、天命開別天皇の同母弟だ。幼い時に大海人の皇子という。生まれた時から背が高く堂々として、大人になって男らしさが群を抜きこの上なく優れた武徳を持っていた。天文や吉凶の判断に優れていた。天命開別の天皇の娘の菟野皇女を召し入れて、正妃とした。天命開別の天皇の元年に、立って東宮となった。四年の冬十月の庚辰の日に、天皇は、病に臥せって、とても痛ましかった。そこで、蘇賀の臣の安麻侶を派遣して、東宮を呼んで、寝所に引き入れた。その時に安摩侶は、元から東宮とゆかりが有り、密に東宮を手に入れようと、「よく考えて答えてください」と言った。東宮は、ここに、隱された陰謀があることを疑って慎んだ。天皇は、東宮に詔勅して大業を授けた。それで「私は具合が悪く、元から多くの病が有る。どうして国家を保つことが出来ましょう。お願いですから、陛下、天下を皇后に与えてください。そして、大友の皇子を立てて、皇太子にしてください。私は、今日、出家して、陛下の為に、世のため、人のためになるよい行いの修行をしたい」といって断った。天皇は、聞き入れた。その日に、出家して法服を着た。そのため、個人の武器を集めて、全て司直に収めた。壬午の日に、吉野の宮に入った。その時に左大臣の蘇賀の赤兄の臣・右大臣の中臣の金の連、および大納言の蘇賀の果安の臣達が送ってくれて、菟道に着いて引き返した。或るひとが、「虎に翼を着けて放った」と言った。この夕に、嶋の宮に居た。癸未の日に、吉野に到着していた。この時に、諸々の近習達を集めて、「私は今、出家して修行しようと思う。それで、一緒に修行しようと思う者は留りなさい。もし雇われて名を成そうと思う者は、帰って役所で仕えなさい」と言った。しかし、退席する者はいなかった。さらに近習を集めて、詔勅したが前の通りだった。ここで、近習達は、半ばは留り半ばは退席した。十二月に、天命開別の天皇が崩じた。元年の春三月の朔が壬辰の己酉の日に、内小の七位の阿曇の連の稻敷を筑紫に派遣して、天皇の喪を郭務悰達に告げた。そこで、郭務悰達は、みな喪服を着て、三回哀悼の意を表した。東に向って頭を地に着くまで下げた。壬子の日に、郭務悰達が、書函と印の物とを進上した。夏五月の朔が辛卯の壬寅の日に、甲冑と弓矢を、郭務悰達に与えた。この日に、郭務悰達に与えた物は、全てで太絹一千六百七十三匹・布二千八百五十二端・綿六百六十六斤だった。戊午の日に、高麗が、前部の富加抃達を派遣して年貢を進上した。庚申の日に、郭務悰達が帰った。】とあり、三月壬辰朔は2月30日で、天武天皇からは元明天皇の王朝が記述していて、『続日本紀』はほとんど朔の日干支が正しく、以前に述べた朝鮮半島などの暦ではなく九州の暦だと考えられる。

そして、その筑紫に派遣した三月壬辰朔には内小七位阿曇連稻敷は「建元爲大寶元年始依新令改制官名位号・・・外位始直冠正五位上階」と大宝令から使われる冠位で701年以降の説話で中国使節が701年以降まで滞在し、大宝二年十二月の「太上天皇崩」が元の記事と考えられ、『那須国造碑』に「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造追大壹那須直韋提評督被賜歳次庚子年正月」と少なくとも689年から700年まで評督が存在し、筑紫都督府が頂点に立った制度と考えられ、白村江で負けて唐の影響下となったために導入された制度と思われ、その最高権力者が郭務悰およびその後任達で702年まで郭務悰の後任達が残っていた。

そして、それ以降の記述なのだから、全て評ではなく郡と記述し、天智紀では大后だったものが皇后と記述され、文武天皇のクーデターで退位して太上天皇となっていた天武天皇とその妻が大后とつじつまが合う。

704年に改元されて大長になっているので、大后が引継ぎ、704年に20歳になった總持が天皇に即位し、大長に改元し、總持が藤原京を捨て、『続日本紀』に慶雲元年十一月「壬寅始定藤原宮地」と代わりに文武が入京したのだろうか。


2020年12月14日月曜日

最終兵器の目 天智天皇9

  『日本書紀』慶長版は

夏四月丁卯朔辛卯置漏剋於新臺始打候時動鍾鼓始用漏剋此漏剋者天皇爲皇太子時始親所製造也云云是月筑紫言八足之鹿生而即死五月丁酉朔辛丒天皇御西小殿皇太子群臣侍宴於是再奏田儛六月丙寅朔巳巳宣百濟三部使人所請軍事庚辰百濟遣羿真子等進調是月以栗隈王爲筑紫師新羅遣使進調別獻水牛一頭山鶏一隻秋七月丙申朔丙午唐人李守真等百濟使人等並罷歸八月乙丒朔丁卯髙麗上部大相可婁等罷歸壬午饗賜蝦夷九月天皇寢疾不豫冬十月甲子朔庚午新羅遣沙飡金万物等進調辛未於裏開百佛眼是月天皇遣使奉袈裟金鉢象牙沈水香旃檀香及諸珍財於法興寺佛庚辰天皇疾病弥留勅喚東宮引入臥內詔曰朕疾甚以後事属汝云云於是再拜稱疾固辭不受曰請奉洪業付属大后令大友王奉宣諸政臣請願奉爲天皇出家修道天皇許焉東宮起而再拜便向於內裏佛殿之南踞坐胡床剃除鬢髮爲沙門於是天皇遣次田生磐送袈裟壬午東宮見天皇請之吉野修行佛道天皇許焉東宮即入於吉野大臣等侍送至菟道而還十一月甲午朔癸卯對馬國司遣使於筑紫大宰府言月生二日沙門道久筑紫君薩野馬韓嶋勝娑々布師首磐四人從唐來曰唐國使人郭務悰等六百人送沙宅孫登等一千四百人揔合二千人乗舩四十七隻倶泊於比智嶋相謂之曰今吾輩人舩數衆忽然到彼恐彼防人驚駭射戰乃遣道文等預稍披陳來朝之意丙辰大友皇子在內裏西殿織佛像前左大臣蘇我赤兄臣右大臣中臣金連蘇我果安臣巨勢人臣紀大人臣侍焉大友皇子手執香鑪先起誓盟曰六人同心奉天皇詔若有違者必被天罰云云於是左大臣蘇我赤兄臣等手執香鑪隨次而起泣血誓盟曰臣等五人隨於殿下奉天皇詔若有違者四天王打天神地祇亦復誅罰三十三天證知此事子孫當絶家門必亡云々丁巳灾近江宮從大藏省第三倉出壬戌五臣奉大友皇子盟天皇前是日賜新羅王絹五十匹絁五十匹綿一千斤韋一百挍十二月癸亥朔乙丑天皇崩于近江宮癸酉殯于新宮于時童謠曰美曳之弩能曳之弩能阿喩阿喩舉曾播施麻倍母曳岐愛倶流之衞奈疑能母騰制利能母騰阿例播倶流之衞於?(方尓:弥)能古能野陛能比母騰倶比騰陛多爾伊麻拖藤柯祢波美古能比母騰矩阿箇悟馬能以喩企波々箇屢麻矩儒播羅奈爾能都底舉騰多拖尼之曳鶏武己卯新羅進調使沙飡金万物等罷歸是歳讚岐國山田郡人家有雞子四足者又大炊省有八鼎鳴或一鼎鳴或二或三倶鳴或八倶鳴

夏四月の朔が丁卯の辛卯の日に、水時計を新しい高殿に置いた。はじめて時を打った。鐘や鼓が響いた。はじめて水時計を使った。この水時計は、天皇が、皇太子になった時に、はじめて親ら造ったものだ云云。この月に、筑紫が、「八つの足がある鹿が、生れてすぐに死んだ」と言った。五月の朔が丁酉の辛丑の日に、天皇は、西の小殿にいた。皇太子と家臣が、宴席にいた。そこで、田儛を何度も歌い踊った。六月の朔が丙寅の己巳の日に、百済の三部の使者のが援軍を願い出た。庚辰の日に、百済、羿眞子達を派遣して、年貢を進上した。この月に、栗隈の王を、筑紫の率とした。新羅が、使者を派遣して年貢を進上した。別に水牛一頭・山鷄一隻を献上した。秋七月の朔が丙申の丙午の日に、唐人の李守眞達と、百済の使者達が、一緒に帰った。八月の朔が乙丑の丁卯の日に、高麗の上部大相の可婁達が帰った。壬午の日に、蝦夷を饗応した。九月に、天皇が病気で寝込んで治らなかった。冬十月の朔が甲子の庚午の日に、新羅が、沙飡の金萬物達を派遣して年貢を進上した。辛未の日に、内裏で、百佛の開眼をした。この月に、天皇は、使者を派遣して袈裟・金鉢・象牙・沈水香・旃檀香、および諸々の珍しい宝を法興寺の佛に奉上させた。庚辰の日に、天皇は、病気で最期の時を迎えた。詔勅で東宮を呼び出して、寝所のなかに引入れて、「私は、病気がひどい。後の事をお前にまかせる」と詔勅した云云。ここで、再拜して、病気だからと固辞して、「お願いですから、大業をささげて、大后に任せてください。大友の王に、諸々の政務を任せてください。私は、天皇の御為に、出家して修行することを許してください」と行って受けなかった。天皇は許した。東宮は立ち上がって再拜した。それで内裏の佛殿の南に向かって、床几にうずくまって、鬢と髮を剃って、僧になった。そこで、天皇は、次田の生磐を派遣して、袈裟を送らせた。壬午の日に、東宮は、天皇に会って、吉野に行って、佛道の修行をしたいと願った。天皇は許した。東宮はすぐに吉野に入った。大臣達は途中まで送った。菟道に着いて帰った。十一月の朔が甲午の癸卯の日に、對馬の司が、使者を筑紫の大宰府に派遣して「月が始まって二日の日に、僧の道久・筑紫の君の薩野馬・韓嶋の勝の裟婆・布師の首の磐の四人、が唐から来て、『唐国の使者の郭務悰達六百人と、送使の沙宅孫登達千四百人、総勢二千人が、船四十七隻に乗って、一緒に比知の嶋に停泊して、『今、私たちの人と船の数が多い。急に彼の地に着いたら、きっと彼の国の防備兵が、驚き乱れて弓を撃ってくるだろう。それで道久達を派遣して、少し早く朝廷に来日の真意をかくさず述べよう』と話し合った」と言った。丙辰の日に、大友の皇子が、内裏の西殿の織物の佛像の前に居た。左大臣の蘇我の赤兄の臣・右大臣の中臣の金の連・蘇我の果安の臣・巨勢の人の臣・紀の大人の臣が従った。大友の皇子は、手に香炉をもって、まず立ち上がって「六人の心を一つにして、天皇の詔勅をうけたまわった。もしたがうことが有ったら、必ず天罰を被るだろ」と、誓った云云。そこで、左大臣の蘇我の赤兄の臣達が、手に香炉を持って、次々と立ち上がった。ひどく泣き悲しんで「私たち五人は、殿下に従って、天皇の詔勅を受けたまわった。もし違うことが有ったなら、四天王に打たれるだろう。天神地祇も処罰するだろう。忉利天がこの事を証明して、子孫が絶え、家門はきっと亡ぶだろう」誓って云云。丁巳の日に、近江の宮で火災があった。大藏の省の第三の倉から出火した。壬戌の日に、五人の臣が、大友の皇子を奉じて、天皇の前で盟った。この日に、新羅の王に、絹を五十匹・太絹を五十匹・綿を一千斤・なめしがわを一百枚与えた。十二月の朔が癸亥の乙丑の日に、天皇が、近江の宮で崩じた。癸酉の日に、新宮で葬儀儀礼をした。その時に、風刺歌で言うことに三歌()、己卯の日に、新羅が年貢の進上の使者の沙飡の金萬物達が帰った。この歳に、讃岐の国の山田の郡の人の家に、雞子に四つの足がある者が有った。また大炊に八つの鼎が有って鳴った。あるいは一つの鼎が鳴った。あるいは二つ或いは三つ一緒に鳴った。あるいは八つ共にに鳴った。】とあり、五月丁酉朔と七月丙申朔は共に2日で前月が小の月で、畿内以外、九州や朝鮮半島の暦で、他は標準陰暦と合致する。

ここでの大后は天智天皇の皇后ではなく、高祖母の中宮前天皇のことで、太皇弟の叔母で、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』に「鬼前太后崩・・・上宮法皇枕病弗悆干食王后仍以労疾」と俀国では母が太后で妻が王后と呼ばれている。

そして、 筑紫君薩野馬達の帰国は天智天皇四年「九月庚午朔壬辰・・・郭務悰凡二百五十四人七月廿八日至于對馬」と既に大挙して来日しており、その前の天智天皇三年「夏五月戊申朔甲子。百濟鎭將劉仁願遣朝散大夫郭務悰等進表函與獻物」と先触れできたはず、すなわち、天智天皇三年5月以前の話でなくては意味が通らない。

持統四年に「天命開別天皇三年・・・筑紫君薩夜麻弓削連元寶兒四人思欲奏聞唐人所計」と664年に帰国したと読め、『日本書紀』どおりなら、即位後なら天智4年が天智10年で意味が通らない。

すなわち、筑紫君薩夜麻が俀国王の天萬豊日で、664年までの天智皇太子は俀国の皇太子で摂政、舒明天皇の妻で前天皇の天豐財重日足姫が661年に俀国王を天萬豊日に譲って天萬豊日が朝鮮半島に出兵し、天智天皇が俀国の摂政となったと考えられる。

2020年12月11日金曜日

最終兵器の目 天智天皇8

  『日本書紀』慶長版は

九年春正月乙亥朔辛巳詔士大夫等大射宮門內戊子宣朝庭之禮儀與行路之相避復禁斷誣妄妖偽二月造戸籍斷盜賊與浮浪于時天皇幸蒲生郡匱邇野而觀宮地又修髙安城積穀與塩又築長門城一筑紫二三月甲戌朔壬午於山御井傍敷諸神座而班幣帛中臣金連宣祝詞夏四月癸卯朔壬申夜半之後灾法隆寺一屋無餘火雨雷震五月童謠曰于知波志能都梅能阿素弭爾伊提麻栖古多麻提能伊鞞能野鞞古能度珥伊提麻志能倶伊播阿羅珥茹伊提麻西古多麻提能鞞能野鞞古能度珥六月邑中獲龜背書申字上黃下玄長六寸許秋九月辛未朔遣阿曇連頰垂於新羅是歳造水碓而冶鐵十年春正月己亥朔庚子大錦上蘇我赤兄臣與大錦下巨勢人臣進於殿前奏賀正事癸卯大錦上中臣金連命宣神事是日以大友皇子拜太政大臣以蘇我赤兄臣爲左大臣以中臣金連爲右大臣以蘇我果安臣巨勢人臣紀大人臣爲御史大夫甲辰東宮太皇弟奉宣施行冠位法度之事大赦天下丁未髙麗遣上部大相可婁等進調辛亥百濟鎮將劉仁願遣李守真等上表是月以大錦下授佐平余自信沙宅紹明以小錦下授鬼室集斯以大山下授達率谷那晉首木素貴子憶禮福留荅㶱春初㶱日比子贊波羅金羅金湏鬼室集信以上小山上授達率德頂上吉大尚許率母角福牟以小山下授餘達率等五十餘人童謠云多致播那播於能我曳多曳多那例々騰母陀麻爾農矩騰岐於野兒弘伱農倶二月戊辰朔庚寅百濟遣臺久用善等進調三月戊戌朔庚子黃書造本實獻水臬甲寅常陸國貢中臣部若子長尺六寸其生年丙辰至此歳十六年也

九年の春正月の朔日が乙亥の辛巳の日に、貴族達に詔勅して、朝廷内で大射をした。戊子の日に、朝庭での禮儀と、行き交うときに互いに譲り合うことを宣下した。また、誹謗やあやしい言説を厳重に禁止した。二月に、戸籍を造った。盗賊と浮浪者を禁じた。その時に、天皇は、蒲生の郡の匱邇の野に行幸して、宮地を見た。また、高安の城を修繕し、殻物と鹽とを積んだ。又、長門の城一つ・筑紫の城二つを築く。三月の朔が甲戌の壬午の日に、山の御井の辺に、諸神の座を敷いて、供物を分けた。中臣の金の連が、祝詞を宣べた。夏四月の朔が癸卯の壬申の日に、あかつきに、法隆寺に火災があった。一屋も余すことが無かった。大雨がふり雷が鳴り響いた。五月、童謠に言うことに、()六月に、邑の中で亀を獲った。背に申の字が書かれていた。上が黄色で下は赤黒かった。長さ六寸くらい。秋九月の辛未の朔の日に、阿曇の連の頬垂を新羅に派遣した。この歳に、水碓を造って鉄鉱石を溶かした。十年の春正月の朔が己亥の庚子の日に、大錦上の蘇我の赤兄の臣と大錦下の巨勢の人の臣とが、殿の前に進み出て、賀正の事を奏上した。癸卯の日に、大錦上の中臣の金の連が、命じられて神事を宣べた。この日に、大友の皇子を、太政大臣官位を授けた。蘇我の赤兄の臣を、左大臣にした。中臣の金の連を、右大臣にした。蘇我の果安の臣・巨勢の人の臣・紀の大人の臣を、御史大夫にした。甲辰の日に、東宮の太皇弟が天皇の命により宣下して、冠位・法度の事を施行した。天下に大赦をした。丁未の日に、高麗が、上部の大相の可婁達を派遣して、年貢を進上した。辛亥の日に、百済の鎭將の劉仁願は、李守眞達を派遣して、上表文を送った。この月に、大錦下を、佐平の余自信・沙宅紹明に授けた。小錦下を、鬼室集斯に授けた。大山下を達率の谷那晉首・木素貴子・憶禮福留・答㶱春初・㶱日比子贊波羅金羅金須・鬼室集信に授けた。小山上を、達率の徳頂上・吉大尚・許率母・角福牟に授けた。小山下を、余の達率達五十余人に授けた。風刺歌に()。二月の朔が戊辰の庚寅の日に、百済が臺久用善達を派遣して、年貢を進上した。三月の朔が戊戌の庚子の日に、黄書の造の本實が水測り()を献上した。甲寅の日に、常陸の国が、中臣部の若子貢上した。背丈が尺六寸だった。その生れた年は丙辰よりこの歳まで、十六年だ。】とあり、九月辛未朔は644年の8月30日若しくは701年の可能性があり、二月戊辰朔は1月30日で1月が小の月なら標準陰暦と合致し、他は標準陰暦と合致する。

前項で述べた通り、鎌足の死亡が持統6年の692年頃と考えられ、ここで記述される宣下した大皇弟は大海皇子ではなく、孝徳天皇の皇弟で、天智天皇はまだ23歳程度で大友皇子はまだ幼少で13歳に達しておらず、694年の出来事と考えられる。

しかも、大海人皇子なら大皇弟ではなく皇弟で、695年の大友皇子即位の時の大皇弟と考えられ、『藤氏家伝』に「太皇弟以長槍刺貫敷板帝驚大怒以將執害大臣固諌帝即止之太皇弟初忌大臣所遇之高」と続いて「自茲以後 殊親重之」さらに「後値壬申之亂從芳野向東土歎曰若使大臣生存吾豈至於此困哉人之所思略此類也」と意味が通らない文面で、太皇弟が恨んだはずなのに、仲良くなったが、結局謀反を起こしたような書きまわしだ。

天皇が即位した時の乱暴で、鎌足の出世を妬んだ太皇弟と前紀に「生而有岐嶷之姿及壯雄拔神武。能天文遁甲」と記述される優秀な天武天皇と別人で、『藤氏家伝』も二人の太皇弟を記述していて、『新唐書』も「天智死子天武立」と天武天皇が天智天皇の子と記述され、大友皇子の兄弟が即位した。

すなわち、やはり乱暴な大皇弟は即位できず、文武天皇の祖父とは別人で、『粟原寺鑪盤銘』の「爾故比賣朝臣額田以甲午年始至和銅八年」と額田姫が「奉為大倭国浄御原宮天下天皇時」と694年に浄御原宮天皇の時に大倭国の為に寺を造り、「日並御宇東宮」と日並が太皇弟で、妻が額田姫すなわち額田部の姫で大倭国王舒明天皇の系列の王家である。

2020年12月9日水曜日

最終兵器の目 天智天皇7

  『日本書紀』慶長版は

八年春正月庚辰朔戊子以蘇我赤兄臣拜筑紫率三己卯朔巳丒耽羅遣王子久麻伎等貢獻丙申賜耽羅王五穀種是日王子久麻伎等罷歸夏五月戊寅朔壬午天皇縱獦於山科野大皇弟藤原內大臣及群臣皆悉從焉秋八月丁未朔巳酉天皇登髙安嶺議欲修城仍恤民疲止而不作時人感而歎曰寔乃仁愛之德不亦寛乎云云是秋霹礰於藤原內大臣家九月丁丑朔丁亥新羅遣沙飡督儒等進調冬十月丙午朔乙卯天皇幸藤原內大臣家親問所患而憂悴極甚乃詔曰天道輔仁何乃虛説積善餘慶猶是無徵若有所湏便可以聞對曰臣既不敏當復何言但其葬事宣用輕易生則無務於軍國死則何敢重難云云時賢聞而歎曰此之一言竊比於往哲之善言矣大樹將軍之辭賞詎可同年而語哉庚申天皇遣東宮大皇弟於藤原內大臣家授大織冠與大臣位仍賜姓爲藤原氏自此以後通曰藤原大臣辛酉藤原內大臣薨甲子天皇幸藤原內大臣家命大錦上蘇我赤兄臣奉宣恩詔仍賜金香鑪十二月災大藏是冬修髙安城收畿內之田税于時災斑鳩寺是歳遣小錦中河內直鯨等使於大唐又以佐平餘自信佐平鬼室集斯等男女七百餘人遷居近江國蒲生郡又大唐遣郭務悰等二千餘人

【八年の春正月の朔が庚辰の戊子の日に、蘇我の赤兄の臣を、筑紫の率にした。三月の朔が己卯の己丑の日に、耽羅が、王子の久麻伎達を派遣して貢献した。丙申の日に、耽羅の王に五穀の種を与えた。この日に、王子の久麻伎達が帰った。夏五月の朔が戊寅の壬午の日に、天皇は、山科の野に臣下を引き連れた狩りを行った。大皇弟と藤原の内大臣及び下臣、皆残らず従った。秋八月の朔が丁未の己酉の日に、天皇は、高安の嶺に登って、相談して城を造ろうとしたが人々が疲弊することを心配して止めた。当時の人は「これはめぐみいつくしむ品性を持ち合わせていると言わずにいられない」と感心してほめたたえた云云。この秋に、藤原の内大臣の家に落雷した。九月の朔が丁丑の丁亥の日に、新羅が、沙飡の督儒達を派遣して、年貢を進上した。冬十月の朔が丙午の乙卯の日に、天皇は、藤原の内大臣の家に行幸して、親ら容体を聞いた。それなのに苦しみやつれつくしてひどい状態だった。それで「天神が思いやりを助けるという道理などというのはうそだ。善行を積み重ねて余りあるめでたいことがあるのに何の助けの兆候が無い。もしできることが有るのなら教えてほしい」と詔勅した。「私は才能も無いのに今更何を言えましょう。ただし私の葬事は、簡単なものにしてください。生きているときは軍事に関与しなかった。死んでまでどうしていくつもの難儀を残せましょう」と答えた、云云。当時の賢者がこれを聞いて「この一言を言えば、昔の哲人の名言としていつの日か後漢の馮異將軍と比べて同じだと賞賛されるだろう」と褒め称えた。庚申の日に、天皇は、東宮の大皇弟を藤原の内大臣の家に派遣して、大織冠と大臣の位とを授けた。それで、姓を与えて、藤原の氏とした。これより以後、ずっと藤原の内大臣といった。辛酉の日に、藤原の内大臣が薨じた。甲子の日に、天皇は、藤原の内大臣の家に行幸した。大錦上の蘇我の赤兄の臣に命じて、恩詔を宣べあげた。それで、金の香鑪を与えた。十二月に、大藏が火災にあった。この冬に、高安の城を築城して、畿内の田の税を徴収した。その時に、斑鳩の寺が火災にあった。この歳に、小錦中の河内の直の鯨達を派遣して、大唐への使者とした。また佐平の餘自信と佐平の鬼室集斯達が、男女七百人余を、近江の国の蒲生の郡に遷して住まわせた。また大唐が、郭務悰達二千人余を派遣した。】とあり、十月丙午朔は9月30日で9月が小の月なら標準陰暦と合致し、それ以外は標準陰暦と合致する。

藤原姓を授与されたとするが、天武天皇十三年の「更改諸氏之族姓作八色之姓以混天下萬姓一曰眞人二曰朝臣」と朝臣姓を制定して、授与した氏族の中に中臣は存在するが、藤原が無く、『続日本紀』で文武二年八月「丙午詔曰藤原朝臣所賜之姓」と698年に朝臣を得て、朝臣付与時684年には藤原姓が無かった。

すなわち、藤原賜姓は天武13年より後に鎌足のみに与えられ、698年に不比等・大嶋達に藤原朝臣を与えられ、大嶋は持統五年「神祗伯中臣朝臣大嶋」、持統七年「賜直大貳葛原朝臣大嶋賻物」とあり、その間の持統六年「天皇觀藤原宮地」と藤原の宮の建設中の十月に鎌足が危篤となって、新しい都に因んで藤原姓を与えられたと考えたほうが理に適う。

藤原朝臣大嶋は朝臣賜姓時に藤原が含まれていないので、698年以降のことと考えられ、『藤氏家伝』も「即位二年 冬十月・・・ 仍授織冠 以任内大臣 改姓爲藤原朝臣」と、鎌足一人の藤原姓だったのに対し、朝臣の賜姓は文武2年の朝臣賜姓を述べ、死後の付与とも考えられる。

2020年12月7日月曜日

最終兵器の目 天智天皇6

  今回は家族構成が長く、解説を前にする。

まず私は、「納四嬪」に違和感を感じたが、それは、これまで女官を正妃とともに記述してこなかったからで、この四嬪に入っていない姫の子が弘文天皇や田原天皇と追号される人々で、天智紀を記述した人物にとっての敵対勢力、四嬪に入っている人々が乙巳の変以降天智天皇まで記述したという結論を出すことで違和感が解消された。

すなわち、複数の王を天智天皇にあてはめ天智紀を記述した人物、元明天皇達が記述した前の4嬪と4女の差別で4嬪の父は天智天皇に滅ぼされた側の子たちで、注釈を書いたのが持統天皇でも元明天皇でも自分の母親がわからないはずがなく、天智天皇の娘でない可能性がある。

天命は天から人間に与えられた、一生をかけてやり遂げなければならない命令だが、この場合は、新しい王朝を打ち立てたという意味で、『日本書紀』には景行天皇四〇年「臣受命天朝達征東夷・・・冀曷曰曷時復命天朝然天命忽至」、仁徳天皇即位前紀「先帝何謂我乎乃太子啓兄王曰天命也誰能留焉若有向天皇之御所」、允恭天皇即位前紀「夫帝位不可以久曠天命不可以謙距」、顕宗天皇即位前紀「天皇不可以久曠天命不可以謙拒」、顕宗天皇元年「天命有屬皇太子推讓・・・宜奉兄命承統大業・・・即天皇位」と新しい王朝誕生時に記述している。

天智天皇は自ら「天命開別」と天命で別の新しい王朝を開いたと呼んで、『三国史記』文武王十年「十二月土星入月京都地震中侍智鏡退倭國更號日本」、『新唐書』咸亨元年「遣使賀平高麗 後稍習夏音惡倭名更號日本」と670年に国号を変え、『舊唐書』に「日本舊小國併倭國之地」と小国だった新しい王朝の日本は大きい国の倭を併合したと記述している。

すなわち日本は『舊唐書』に「日本國者倭國之別種也」と倭国の分国で中国史書で倭種ではなく倭国と呼ばれたことが有るのは『隋書』の「安帝時又遣使朝貢謂之俀奴国桓霊之間其國大亂遞相攻伐歴年無主有女子名卑彌呼・・・大業三年其王多利思北孤遣使朝貢・・・明年・・・復令使者随淸來貢方物 此後遂絶」の俀国で、別に「大業六年己丑倭國遣使貢方物」と絶縁後の610年に倭国が朝貢し、、琉球国の「寬取其布甲而還時倭國使來朝見之曰此夷邪久國人所用也」と倭国が琉球国を連れて朝貢している。

高麗の母夫人の記述は周王朝を念頭にした言葉で紀元前1046年に紂王を牧野の戦いで破り、周王朝を建て、紀元前249年、秦の呂不韋によって攻め滅ぼされ、周でも千年持たなかったのだからということで、668年に『三国史記』寶臧王二十七年「置安東都護府於平壤」と滅亡し、建国は『三国史記』「而未遑作宮室但結廬於沸流水上居之國號高句麗因以高爲氏時朱蒙年二十二歳是漢孝元帝建昭二年新羅始祖赫居世二十一年甲申歳也」と紀元前37年建国で700年余だ。

『日本書紀』慶長版は

七年春正月丙戌朔戊子皇太子即天皇位壬辰宴群臣於內裏戊申送使博德等服命二月丙辰朔戊寅立古人大兄皇子女倭姫王爲皇后遂納四嬪有蘇我山田石川麻呂大臣女曰遠智娘生一男二女其一曰大田皇女其二曰鸕野女及有天下居于飛鳥淨御原宮後移宮于藤原其三曰建皇子唖不能語次有遠智娘弟曰姪娘生御名部皇女與阿陪皇女阿陪皇女及有天下居于藤原宮後移都于乃樂次有阿倍倉梯磨大臣女曰橘娘生飛鳥皇女與新田部皇女次有蘇我赤兄大臣女曰常陸娘生山邊皇女又有宮人生男女者四人有忍海造小龍女曰色夫古娘生一男二女其一曰大江皇女其二曰川嶋皇子其三曰泉皇女又有栗隈首德萬女曰黒媛娘生水主皇女又有道君伊羅都賣生施基皇子又有伊賀采女宅子生伊賀皇子後字曰大友皇子夏四月乙卯朔庚申百濟遣末都師父等達(?)調庚午末都師父等罷歸五月五日天皇縱獦於蒲生野于時大皇弟諸王內臣及群臣皆悉從焉六月伊勢王與其弟王接日而薨未詳官位秋七月髙麗從越之路遣使進調風浪髙故不得歸以栗前王拜筑紫率于時近江國講武又多置牧而放馬又越國獻燃土與燃水又於濱臺之下諸魚覆水而至又饗夷又命舍人等爲宴於所々時人曰天皇天命將及乎秋九月壬午朔癸巳新羅遣沙㖨飡金東嚴等進調丁未中臣內臣使沙門法弁秦筆賜新羅上臣大角干庾信舩一隻付東嚴等庚戌使布勢臣耳麻呂賜新羅王輸御調舩一隻付東嚴等冬十月大唐大將軍英公打滅髙麗髙麗仲牟王初建國時欲治千歲也母夫人云若善治國可得也但當有七百年之治也今此國亡者當在七百年之末也十一月辛巳朔賜新羅王絹五十疋綿五百斤韋一百挍付金東嚴等賜東嚴等物各有差乙酉遣小山下道守臣麻呂吉士小鮪新羅是日金東嚴等罷歸是歳沙門道行盜草薙剱逃向新羅而中路風雨芒迷歸

【七年の春正月の朔が丙戌の戊子の日に、皇太子が天皇に即位した。壬辰の日に、臣下が内裏で饗宴をもようした。戊申の日に、送使の博徳達が服命した。二月の朔が丙辰の戊寅の日に、古人の大兄の皇子の娘の倭姫の王を皇后に立てた。それで四人を妃にした。蘇我の山田の石川の麻呂の大臣の娘がいて、遠智の娘という。一人の男子と二人の女子を生んだ。第一を大田の皇女という。第二を鸕野の皇女という。天下を取って、飛鳥淨御原宮に居た。後に宮を藤原に移した。第三を建の皇子という。おしで話すことが出来なかった。次に遠智の娘の妹がいて、姪の娘という。御名部の皇女と阿陪の皇女とを生んだ。阿陪の皇女は、天下を取って、藤原宮に居た。後に都を乃樂に移した。次に阿倍の倉梯の麻呂の大臣の娘がいて、橘の娘という。飛鳥の皇女と新田部の皇女とを生んだ。次に蘇我の赤兄の大臣の娘がいて、常陸の娘という。山邊の皇女を生んだ。また女官で、男女を生んだ者が四人いた。忍海の造の小龍の娘がいて、色夫古の娘という。一人の男子と二人の女子を生んだ。第一を大江の皇女という。第二を川嶋の皇子という。第三を泉の皇女という。また栗隈の首の徳萬の娘がいて、黒媛の娘という。水主の皇女を生んだ。また越の道の君の伊羅都賣がいて、施基の皇子を生んだ。また伊賀の采女の宅子の娘がいて、伊賀の皇子を生んだ。のちの名を大友の皇子という。夏四月の朔が乙卯の庚申の日に、百済が、末都師父達を派遣して、年貢を持ってきた。庚午の日に、末都師父達が帰った。五月五日の日に、天皇は、蒲生野に人を従えて狩りをした。そのときに、大皇弟と諸王と内臣と臣下が、皆残らず従った。六月に、伊勢の王とその弟王が続けて薨去した。秋七月に、高麗が越の路から使者を派遣して年貢を進上した。風や浪が高くて帰ることが出来なかった。栗前の王を、筑紫の率にした。その時に、近江国が、武術を習った。また多くの牧場を置いて馬を放し飼いした。また越国が、燃える土と燃る水とを献上した。また浜の高殿の下が、諸々の魚が水面を覆うほどやってきた。また蝦夷を饗応した。また近習達に命じて、宴席を所々で催した。当時の人は、「天皇は、とうとう天命に到達した」と言った。秋九月の朔が壬午の癸巳の日に、新羅、沙㖨飡の金東嚴達を派遣して、年貢を進上した。丁未の日に、中臣の内臣が、沙門の法辨と秦筆を派遣して、新羅の上臣の大角干の庾信に船一隻を東嚴達に持たせて与えた。庚戌の日に、布勢の臣の耳麻呂を使いに、新羅の王に年貢を運ぶ船一隻を東嚴達に持たせて与えた。冬十月に、大唐の大將軍の英公が、高麗を打ち滅した。高麗の仲牟王は、はじめて建国する時に、千年の間治めようとした。母の夫人が「もしうまく国を治めても千年はむつかしい。ただし七百年位は治められるかもしれない」と言った。今、この国が滅んだのは、丁度、七百年の末にあたる。十一月の辛巳が朔の日に、新羅の王に、絹五十匹と綿五百斤となめし革一百枚を与えた。金東嚴達に持たせた。東嚴達にも物を与えて、それぞれ格差あった。乙酉の日に、小山下の道守の臣の麻呂と吉士の小鮪を新羅に派遣した。この日に、金東嚴達が帰った。この歳に、沙門の道行が草薙の剱を盜んで、新羅に逃げた。それで途中で風雨にあって、方角を見失て帰った。】とあり、正月丙戌朔は丙戌ではなく丙辰で丙戌は704年大長元年のことで即位は667年 、九月壬午朔は8月30日、十一月辛巳朔は10月30日で共に前月が大の月で小の月なら標準陰暦と合致し、他は標準陰暦と合致する。

2020年12月4日金曜日

最終兵器の目 天智天皇5

  『日本書紀』慶長版は

六年春二月壬辰朔戊午合葬天豊財重日足姫天皇與間人皇女於小市岡上陵是日以皇孫大田皇女葬於陵前之墓髙麗百濟新羅皆奉哀於御路皇太子謂群臣曰我奉皇太后天皇之所勅憂恤萬民之故不起石槨之役所冀永代以爲鏡誡焉三月辛酉朔己卯遷都于近江是時天下百姓不願遷都諷諫者多童謠亦衆日々夜々失火處多六月葛野郡獻白䴏秋七月己未朔巳巳耽羅佐平椽磨等貢獻八月皇太子幸倭京冬十月髙麗大兄男生出城巡國於是城內二弟聞側助士大夫之惡言拒而勿入由是男生奔入大唐謀滅其國十一月丁已朔乙丑百濟鎮將劉仁願遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聦等送大山下境部連石積等筑紫都督府巳巳司馬法聡等罷歸以小山下伊吉連博德大乙下笠臣諸石爲送使是月築倭國髙安城讚吉國山田郡屋嶋城對馬國金田城潤十一月丁亥朔丁酉以錦十四匹纈十九匹緋二十四匹紺布二十四端桃染布五十八端斧二十六釤六十四刀子六十一挍賜椽磨等

【六年の春二月の朔が壬辰の戊午の日に天の豊財重日足の姫の天皇と間人の皇女とを小市の岡の上の陵に合葬した。この日に、皇孫の大田の皇女を、陵の前の墓に葬った。高麗と百済と新羅が、皆、葬列の道すがら、哀悼を奏上した。皇太子は役人に「私は、皇太后天皇の詔勅を聞いてから、人民に悪いことが起こらないかと心配で、石室を造らせる使役をさせなかった。願っていることはずっと、石室を造らないことを手本に戒めとしなさい」と言った。三月の朔が辛酉の己卯の日に、都を近江に遷した。この時に、百姓皆が、都を遷すことを願っていなくて、遠回しに諫める人が多く、風刺歌も多かった。夜昼なく火事が多かった。六月に、葛野の郡が、白い燕を献上した。秋七月の朔が己未の己巳の日に、耽羅が、佐平の椽磨達を派遣して、貢献した。八月に、皇太子は、倭京に行幸した。冬十月に高麗の大兄の男生が、城を出て国を巡回した。そこで、城内の二人の弟が、近習の護衛の陰口を聞いて、男生を入城させなかった。それで男生は、大唐に逃げ込んで、その国を滅ぼそうとした。十一月の朔が丁巳の乙丑の日に、百済の鎭將の劉仁願が、熊津の都督府の熊山の縣令の上柱國の司馬の法聰達を派遣して、大山下の境部の連の石積達を筑紫の都督府に送った。己巳の日に、司馬の法聰達が帰った。小山下の伊吉の連の博徳と大乙下の笠の臣の諸石を、送使とした。この月に、倭国の高安城と讚吉の国の山田の郡の屋嶋の城と對馬の国の金田の城を築いた。閏十一月の朔が丁亥の丁酉の日に、錦十四匹と絞り染め十九匹と赤い絹二十四匹と紺の布二十四端とつきぞめの布五十八端と斧二十六と柄の長い鎌六十四と刀子六十二枚を、椽磨達に与えた。】とあり、七月己未朔は6月30日で6月が小の月なら標準陰暦と合致し、潤十一月丁亥朔は私の計算では12月1日で閏月が翌年2月に割り当てているので、概ね合致し、他は標準陰暦と合致する。

皇孫太田皇女の字句も、皇太后天皇も天智天皇の母が天皇でなければ意味不明な字句で、天智天皇の母が天皇だから自分の娘が天皇の孫で、天智天皇の母がその会話の時、天皇でなかったらこのような呼び方はせず、皇太后は間人皇女で2人を併せて記述したとしても天皇は不要で、会話の時生きているから皇太后と呼ばれ、会話の時天皇だから皇太后天皇と呼んでいる。

ここで、皇孫は「皇孫天津彦彦火瓊瓊杵尊以爲葦原中國之主」と瓊瓊杵尊であり、それ以外は「大兄去來穗別天皇孫也」、「渟中倉太珠敷天皇孫」と天皇名の後にその天皇の孫と呼び、「皇孫建王八歳薨」は斉明天皇の項に記述されてまさしく斉明天皇の孫でこの項と同じ用例だ。

そして、『三国史記』の666年寶臧王二十五年に「蓋蘇文死長子男生代爲莫離支初知國政出巡諸城使其弟男建男産留知後事或謂二弟曰男生惡二弟之逼意欲除之不如先爲計二弟初未之信又有告男生者曰二弟恐兄還奪其權欲拒兄不納男生潛遣所親往平壤伺之二弟收掩得之乃以王命召男生男生不敢歸男建自爲莫離支發兵討之男生走據國内城使其子獻誠詣唐求哀」と一年遅れで記述され、1年のずれがあるかもしれない。

『三国史記』667年文武王七年に「十二月中侍文訓卒唐留鎭將軍劉仁願傳宣天子勅命」と劉仁願は鎮将と記述され合致し、前項で述べたように来日と帰国がセットになっている。

2020年12月2日水曜日

最終兵器の目 天智天皇4

 



『日本書紀』慶長版は

四年春二月癸酉朔丁酉間人大后薨是月勘挍百濟國官位階級仍以佐平福信之功授鬼室集斯小錦下復以百濟百姓男女四百餘人居于近江國神前郡三月癸卯朔爲間人大后度三百三十人是月給神前郡百濟人田秋八月遣達率荅㶱春築城於長門國遣達率憶禮福留達率四比福夫筑紫國築大野及椽二城耽羅遣使來朝九月庚午朔壬辰唐國遣朝散大夫沂州司馬上柱國劉德髙等冬十月己亥朔己酉大閲于菟道十一月已巳朔辛巳饗賜劉德髙等十二月戊戌朔辛亥賜物於劉德髙等是月劉德髙等罷歸是遣小錦守君大石等於大唐云云五年春正月戊辰朔戊寅髙麗遣前部能婁等進調是日耽羅遣王子姶如等貢獻三月皇太子親往於佐伯子麻呂連家問其所患慨歎元從之功夏六月乙未朔戊戌髙麗前部能婁等罷歸秋七月大水是秋復租調冬十月甲午朔己未髙麗遣臣乙相奄𨛃等進調是冬京都之鼠向近江移以百濟男女二千餘人居于東國凡不擇緇素起癸亥年至于三歳並賜官食倭漢沙門智由獻指南車

【四年の春二月の朔が癸酉の丁酉の日に、間人大后が薨じた。この月に、百済国の官位の階級を日本と比較した。それで、佐平の福信の功績で、鬼室集斯に小錦下を授けた。また、百済の百姓の男女四百人余を、近江の国の神前の郡に居住させた。三月の癸卯が朔の日に、間人の大后の為に、三百三十人を出家させた。この月に、神前の郡の百済の人に田を与えた。秋八月に、達率の答㶱春を派遣して、長門の国に築城した。達率の憶禮福留と達率の四比福夫を筑紫の国に派遣して、大野と椽の二城を築城した。耽羅が使者を派遣して来朝した。九月の朔が庚午の壬辰の日に、唐国が、朝散大夫の沂州司馬の上柱国の劉徳高達を派遣した。冬十月の朔が己亥の己酉の日、菟道に大規模な調査に入った。十一月の朔が己巳の辛巳の日に、劉徳高達を饗応した。十二月の朔が戊戌の辛亥の日に、劉徳高達へ物を与えた。この月に、劉徳高達が帰った。この歳に、小錦の守の君の大石達を大唐に派遣した云云。五年の春正月の朔が戊辰の戊寅の日に、高麗が、前部の能婁達を派遣して、年貢を進上した。この日に、耽羅が、王子の姑如達を派遣して、貢献した。三月に、皇太子が、親ら佐伯の子麻呂の連の家に訪問して、その病状を聞いた。昔から従った功績を感慨深く嘆いた。夏六月の朔が乙未の戊戌の日に、高麗の前部の能婁達が帰った。秋七月に、洪水が有った。この秋に、税を返還した。冬十月の朔が甲午の己未の日に、高麗が、下臣の乙相の奄𨛃達を派遣して、税を進上した。この冬に、京都の鼠が、近江に向って移った。百済の男女二千人余を、東国に居住させた。法服の者も素の服の者もどちらもすべて、癸亥の年から、三年間、皆に役人が食料を与えた。倭の漢の沙門の智由は、南方を向くカラクリの車を献上した。】とあり、四年春二月癸酉朔は1月30日、五年六月乙未朔は5月30日で前月が大の月で小の月なら標準陰暦と合致し、四年九月庚午朔は9月2日、十一月己巳朔は11月2日、五年冬十月甲午朔己未は10月2日で全て唐に対する記事となっていて、俀国記事の可能性が高く、他は標準陰暦と合致する。

『舊唐書』の劉仁軌傳に「麟德二年封泰山仁軌領新羅及百濟耽羅倭四國酋長赴會高宗甚悅擢拜大司憲」、高宗に麟德「二年春正月壬午幸東都丁酉幸合璧宮戊子慮雍洛二州及諸司囚甲子以發向泰山」と1月25日に高宗が泰山に出発して、倭王と面会して大喜びしてるように、天智三年後半から翌年前半には天皇が不在のため、『日本書紀』は摂政としていないが、『藤氏家伝』は「十四年皇太子攝政契闊早年・・・攝政六年春三月遷都于近江國」と667年まで摂政に就任している。

前項で664年5月の「是月大紫蘇我連大臣薨」は入鹿と述べたが、そうであるから、『藤氏家伝』は乙巳の変より前に「及崗本天皇御宇之初以良家子簡授錦冠」と647年若しくは648年に加増され、その後に「以中大兄爲皇太子改元爲大化詔曰社稷獲安寔頼公力車書同軌抑又此擧仍拝大錦冠授内臣封二千戸」と『日本書紀』どおりだが大活躍にしては一段階上と微妙で、しかも、649年から663年までは大錦冠は存在しないので『日本書紀』の孝徳天皇即位前紀皇極天皇四年「以大錦冠授中臣鎌子連爲内臣増封若于戸」も矛盾しているので、664年に内臣に就任し、「白鳳五年秋八月・・・超拝紫冠増封八千戸」と665年に紫冠を授与されて、きれいに当てはまる。

すると、662年から664年までの天智天皇の摂政が矛盾するが、俀国での皇太子と摂政と考えられ、持統四年「天命開別天皇三年土師連富杼氷連老筑紫君薩夜麻弓削連元寶兒四人」と664年に筑紫君すなわち俀国王が帰国していて、斉明天皇六年「思幸筑紫將遣救軍」、斉明天皇七年「御船西征始就于海路」と出兵して俀国王が不在だったので俀国の摂政となったと考えられる。

天智天皇一〇年の「筑紫君薩野馬・・・唐國使人郭務悰等六百人送使沙宅孫登等一千四百人合二千人」は天智天皇八年「大唐遣郭務悰等二千餘人」と669年に既に郭務悰が来日しており、帰国は天武天皇元年「郭務悰等罷歸」と矛盾し、天智天皇三年「夏五月戊申朔甲子百濟鎭將劉仁願遣朝散大夫郭務悰等進表函與獻物」の時の帰国が符合する。