2025年1月8日水曜日

新しい古代の神話 物部氏の神話15 王朝継承

  波延の王朝は、代々跡取りの男王は波延の某兄、波延の姉の夫と呼ばれ、王が波延を襲名したことから、王位波延は皇后の長女だったことが理解できる。王朝交代は依姫が皇后になった。大綜杵の王家継承も、同様に、長女が母の伊迦賀色許賣の名を継ぐのが王位継承だが、御眞津比賣が新たに王家を開いたため、異なる首都の王家が起こったことがわかる。御眞津比賣の子には春日伊邪河宮にゆかりのある伊邪能眞若や、長浜の伊香具神社の近くにある伊香郡と関連のある地名を持つ伊賀比賣が含まれており、春日宮の継承があったことを示している。

伊香郡には、かつての乎彌神社、大国の臣の神社があり、後に春日神社と名を変えている。つまり、この地域には春日と深い縁のある神社が存在しており、御眞津比賣が春日宮の分家の姫であったことがわかる。開化朝の時代には春日宮を引き継ぐ御眞津と輕宮の安曇川近辺に分かれた二つの王家が存在し、春日・輕両王家が並立していたと考えられる。

すなわち、御眞津や御眞木は現代の「マキノ」と考えられ、琵琶湖の北岸が春日王家、西岸が輕王家だったと比定される。そして、春日王家の比古布都押之信が葛川のある葛木の伊香立に婿入りして、琵琶湖南岸の師木朝廷を開いた。葛木の木は国の岐の意味で、3朝廷鼎立である。

伊迦賀色許男に比定される比古布都押之信は、尾張連の祖である紀伊國造の妹の中名草姫の子の竟富那毘の妹で、実際には大毘古の妃が妹でと思われ、義妹にあたる葛木の輕の高千那毘賣を妃に迎えた。この竟富那毘とは建宇那比であり、義妹の高千那毘賣は内色許賣の娘の倭迹迹姫だった。義兄妹の関係には和迩臣の祖である日子國意祁都の妹である意祁都比賣も含まれる。竟富那毘は大国の那毘、建宇那比は建氏の宇治の那比の意味なのだろう。

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