『古事記』によれば、比古布都押之信の妹である伊迦賀色許賣が、御眞津比賣と御真木入日子を生んでいる。しかし、『日本書紀』では御眞津比賣が記録されていないため、分家の姫も記述されず、御真木入日子が婿だったのではないかと考えられる。
孝元天皇、開化天皇、崇神天皇の時代はそれぞれ約60年で、3世代くらいの人物が子供を生んでいるはずだが、記録に残っている子供が少ないのは、単に分家の記録がなく、長女が婿を取ったためだと考えられる。記述されるのは分家、違う氏族に婿入りした人物を記述したと考えられる。崇神朝は御眞津比賣の子が6人に対して、孝元、開化朝の皇后の子は2~3人、子・孫だけでも、もう2名程度いてもおかしくない。
開化天皇の時代に、大綜杵の娘である伊迦賀色許賣の夫は大毘毘と記述される。『日本書紀』には「御間城姫大彦命之女也」と書かれているが、これは婿が大毘古の子供とすれば義娘の御眞津比賣と説明できる。実際、崇神天皇の記録には、御真木入日子の妃が御眞津比賣であったことが記され、御眞津比賣は分家で、跡取りは襲名した長女の伊迦賀色許賣と伊迦賀色許男の子から生まれた襲名した伊迦賀色許男と伊迦賀色許賣がいたはずだ。
大毘古は大縣主と同じ意味を持つと考えられ、大縣主は大縣の王、大毘古は大国の彦すなわち大国の王で大縣主に婿入りし、妃は竹野比賣となる。もし、御真木入日子が大毘古の子供であれば、その子が御真木入日子、つまり、御真木入日子は比古由牟須美と同一人物だった可能性がある。
『古事記』によれば、大毘古の子供は建沼河別と比古伊那許士別だ。しかし、国名の付かない唯一無二の「比古」は天皇の称号と考えられ、比古由牟須美と同じ人物である可能性が高いと考えられる。同じ王朝内に2名の天皇は存在せず、由牟須美という名前は、産巣日の神を祀るという意味合いを持っている。また、伊那許士は地名であり、伊邪河宮の近くに位置していた可能性がある。
伊那許士別が御眞津比賣を意味する可能性も考えられる。2名の子がいて、1名のみを記述するということは、一方は別の王家の義子と見做すべきだろう。
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