王朝が続く期間は長ければ100年程度であり、一代を親子の年齢差で約20年とすると、5代ほどが継承していくはずだ。王家の夫婦が次代を残すためには3人以上の子供が必要で、最低でも5代で100人程度の子供が存在していたと考えられる。このようにして、景行天皇は60年で76柱の子と記述しているが、史書には個人名を記述しない。
『三國志』に「大人皆有四五妻」と記されているように、王家の婿は同じ宮に住む出産適齢の姉妹すべてを妃にしたと考えられる。そして男子たちは宮から出され、跡取りが他の宮で子を作った場合でも、その子供は王朝の分家で、庇護者の少ない氏族となる。つまり、複数の妃がいる宮は、他の王家から出された皇子が婿として迎えられた宮と考えるのが合理的だ。そして、有力な王家の皇子は引く手あまたで、競って迎えられたと考えられ、王朝が形成される。
王家と皇后の氏族の首領とは同じ宮に隣接して暮らしたと考えられる。すなわち、若い青年は、交流域自体が狭かったと考えられ、4・5人の皇后や皇后の姉妹や従姉妹の娘達に、皇后の兄弟の王家の皇子が婿入りして、王朝が継承される。
それ以外の皇子たちは別の氏族の宮に婿入りし、それが、史書に記述された複数の妃と考えられる。本来であれば、王家の皇子たちは数十の宮に婿入りしていたはずだが、朝廷の主要な氏族以外の記録は残らないのだろう。もしその宮に後継の姫が無い、若しくは、皇后の兄弟が権力者で無くなると、王朝は滅ぶ。
王朝の記録が途絶えた場合でも、その宮には後継の姫や迎えた王が引き続き存在していた可能性が高い。ただし、権力は分家の女王が新しい王朝を開くか、強力な王家に婿入りした皇子によって移動する。例えば、綏靖朝の依姫のように分家が新たな王朝を築くか、孝安や孝元朝のように、皇子が強力な王家の婿になることで権力が移る。坐王や伊迦賀色許男のように、同じ氏族の複数の姫を妃と記述する王は、複数世代にわたって子孫が相互に婚姻関係を持ったためと考えられる。
宮の姫たちは意祁都比賣のように同じ名で育てられ、姉(根・ネ)姫・妹(ト)姫・東(コチ)・中(南・ハエ)などと区別したのだろう。そして、異なる名が与えられたのは、分家や異なる世代を示している。普通の王家の妃は「兩或三」なので、大人は同じ宮に姉妹の複数の母親が住んで、権力者の後継者の子である従兄の1人が婿いりし、複数の母親の娘を妃にしたのだろう。後継者一家は宮に残り、他の子は宮を出されたと考えられる。
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