2025年1月13日月曜日

新しい古代の神話 物部氏の神話17 物部武諸遇

  丸迩臣の祖である日子國意祁都は、氏族の中で唯一無二の「日子」の姓を持ち、その称号は他の大臣、大連、天皇、縣主といった位に匹敵する。同様に、大綜杵大臣の子である比古布都押之信も、唯一無二の名をもち、伊迦賀色許男大臣のことである。伊迦賀色許男大臣は開化朝と崇神朝における大臣として襲名されていることがわかる。これにより、2世代にわたって伊迦賀色許男が存在していたと考えられる。

比古布都押之信は日子國意祁都と義兄弟関係にあり、その丸迩臣の祖の妹の袁祁都比賣の子に唯一無二の「日子」の名を持つ日子坐王が存在する。この日子坐が崇神朝で伊迦賀色許男大臣と考えると理に適う。この日子坐王は山代の荏名津比賣を妃にしたが、彼女は世代としては山代王(山代の宿禰)の味師内宿禰の姉妹にあたり、これによって内臣の家系につながる。伊迦賀色許男は山代縣主の祖、すなわち山代王の長溝の娘を三代に渡って妃にしているので、味師内宿禰が長溝である。『古事記』が山代荏名津比賣、弟袁祁都、伊理泥の娘の丹波能阿治佐波毘賣、『舊事本紀』は真木姫、荒姫、玉手姫である。

したがって、崇神朝には襲名した日子國意祁都が存在した。また、木国造の娘である日子國意祁都の妹に婿入りしたのは、比古布都押之信の義兄の竟富那毘であり、日子坐王がその娘、従妹を妃に迎えたのは王朝継承の理にかなっている。すなわち、日子國意祁都は建諸隅として孝昭朝に仕えた大臣であり、世代を考えると、崇神朝にも襲名されたが、これは木国造建諸隅という孝昭朝から継続する姓の継承者だったからだと思われる。

『舊事本紀』では、物部武諸遇が垂仁朝大連の大新河の子であり、また垂仁朝の十市大連の妃の父として記述されているが、武諸遇はさらに成務朝においても大臣の娘を妃に迎え、その名を継承した一族と考えられる。本来、景行朝の人物が崇神朝に出雲の神宝見分を行うというのは矛盾していて、垂仁朝以前の物部武諸遇は尾張氏の建諸隅と考えるのが理に適う。すなわち、尾張氏の建諸隅と物部武諸遇は襲名した同一氏族と考えられる。木国建諸隅は纏向に移住して物部武諸遇、平群の紀里に移住して木菟宿禰と呼ばれたのだろう。師木朝廷の時は、木国が首都なので、木國造の祖の宇豆比古、紀伊國荒河戸畔、山代の大國の淵などと呼ばれている。

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