2025年1月27日月曜日

新しい古代の神話 物部氏の神話23 纏向日代宮の王

 


 

膽咋の娘と物部武諸遇の子である多遅麻は、神功朝202年に大連に就位している。彼は神功元年西暦200年頃に高穴穂に移った纏向日代宮の大連の物部武諸遇の子と考えられ、202年に大連に就位しており、多遅麻は高穴穂宮の皇子であった可能性が高い。彼の妃は、高穴穂宮大臣の膽咋の子である五十琴彦の娘・安媛だった。膽咋は128年に高穴穂宮に入ったとされ、十市根の義子となったのだろう。そして、残った人物が物部武諸遇と考えられる。

また、多遅麻の子の物部山無媛は、輕嶋豊明宮の天皇の妃となり、八田若郎女を生んだとなっている。八田若郎女のために御名代として八田部が制定され、この八田部の首領は矢田部造だった。そして、山無媛の父・多遅麻は『古事記』で「丸迩比布禮意富美(大臣)」と記述されている。

輕嶋豊明宮は安曇川近辺にあって、尾綱根が大臣なので、宮主の権力の背景としての比布禮大臣は別の朝廷と考えられる。すなわち、高穴穂宮は分裂したと考えられる。残った膽咋の娘の清媛の婿が物部武諸遇であった。すなわち、清媛は纏向日代宮皇妃の五十琴姫で、纏向日代宮の大連は多遅麻、多遅麻は物部武諸遇を後継した人物、、安媛は五十琴姫を襲名した人物である。

一方で、『古事記』から考えると、五十琴姫の後継者である五十功彦は、大江王であると考えられる。大江王の母は迦具漏比賣で、師木宮の天皇の娘であり、纏向日代宮天皇の妃(五十琴姫)であった。纏向日代宮の後継者は大中津比賣を妃とし、炭素年代測定によれば、纏向宮は240年頃まで天皇の宮廷であったと考えられる。神功皇后摂政3年に磐余若櫻宮への遷都があったとされるが、この日干支は実際には234年であり、年代測定とも一致する。

纏向宮を滅ぼしたのは、膽咋の子で磐余稚櫻宮大連である五十琴宿祢だ。彼は纏向日代宮の多遅麻の娘である香兒媛を妃とした。香兒媛の名前は香坂に類似しており、纏向日代宮皇子の香坂は忍熊を殺害し、後継者になったと考えられる。史書によると香坂は薨じておらず、五十琴宿祢の別名であった可能性がある。

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