2025年1月24日金曜日

新しい古代の神話 物部氏の神話22 纏向朝

『舊事本紀』の物部賜姓の日干支は間違っていて、十市根、実際は大根の賜姓は垂仁即位の前年と考えられる。大新河の物部大連賜姓は十市根が大中姫の婿の皇太弟となった時に賜姓されたと考えられる。首都が変わると名が異なるので、師木宮の名は大根を含めて十市根で、纏向では建諸隅大根と呼ばれたと考えられる。

建諸隅(大根)は崇神天皇65年に新たな纏向朝廷を開き天皇と同等の大連に即位し、十市根の兄弟の大新河を垂仁23年、日干支が間違っているので実際は垂仁54年に大連を任じた。一方、同じく、垂仁81年の間違った日干支を正しく求めなおした、師木玉垣宮遷都前年の紀元前30年に師木宮で建諸隅を継いだ十市根は大新河に物部連という姓を与え、大新河も対抗して十市根に同じく物部連姓を与えた。この結果、纏向と師木の二朝廷に分裂した。

十市根の子の膽咋は穴太の足尼の娘である比咩古を妃とし、高穴穂宮朝の大臣となった。唯一無二の日女の比咩古は天皇と同等の地位であり、その夫が足尼を襲名した大臣である。この足尼が代々大臣を襲名してきた可能性が高い。すなわち、膽咋大臣もそれを襲名したと考えられる。同じ時期の成務三年に大臣になった建内宿禰は景行三年の出生から仁徳五十年まで襲名した。仁徳五十年は西暦362年で『古事記』では帯中日子の薨去年なので、帯中日子まで襲名したのだろう。

一方、大新河の子である物部武諸遇大連は、高穴穂大臣の膽咋の娘・清媛を妃としている。また、膽咋の娘には纏向日代宮の妃である五十琴姫がいる。矢田部造の遠祖である物部武諸遇は、纏向珠城宮大連の大新河の子でありながら、崇神朝の師木水垣宮大連に賜姓されていて、矛盾が生じている。つまり、物部武諸遇(大根)は纏向日代宮大連になったのであり、多遅麻も纏向日代宮大連なので、五十琴彦の娘の安媛が五十琴姫を襲名したと考えられる。そして、崇神朝の師木水垣宮大連は建宇那比の子の建諸隅である。そして、伊迦賀色許男の葛木の宮が併行して存在したと考えられる。

0 件のコメント:

コメントを投稿