2022年2月28日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』開化天皇類書2

  前項の続きで、坐王が辰国の天子の辰君の下の辰王と述べたが、辰国のもっとも古い時代を記述したと考えられるのが、『遼史』の「渤海改爲蓋州又改辰州以辰韓得名」で、前57年建国の新羅・辰韓より以前は渤海にある蓋州まで辰の領域で、その辰州と呼ばれた最初は衛満が倒れた前108年からで前195年から前108年までが蓋州で、それ以前は燕の領地の渤海で、衛満によって混乱した時の前109年に「眞番辰國欲上書見天子又雍閼弗通」と漢の皇帝に上書を送ったが漢は無視して、辰州の北部は漢が郡を置いて『漢書』「滿得以兵威・・・眞番臨屯皆來服屬方數千里」と250Km四方程度の現在の北朝鮮の地域を統治し、南部は辰が統治したと思われる。

『後漢書』に「辰韓伝辰韓耆老自言秦之亡人・・・馬韓割東界地與之・・・有似秦語故或名之為秦韓・・・三韓、韓有三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁辰・・・皆古之辰國也馬韓最大共立其種為辰王都目支國尽王三韓之地其諸國王先皆是馬韓種人焉・・・馬韓人・・・諸國邑各以一人主祭天神號為天君」と三韓(馬・辰・弁辰)は元々辰と呼ばれた。

『魏略』「諫右渠不用東之辰國時民隨出居者二千餘戸」、『三国志』「弁辰・・・辰王常用馬韓人作之世世相繼辰王不得自立爲王」と辰国は東国(韓地は南で東と言えない)であり、秦語は中国語ではなく、韓地は元々後代の辰韓では無く「辰(秦)」で天神を祀って天君と呼んだ。

馬韓(百濟)建国は前18年、辰韓(新羅)建国は前57年と馬韓建国前で、まだ存在しない馬韓王が辰韓に土地を与えて辰韓が建国され、弁辰は馬韓人ではない辰王が馬韓人に支配を任せて代々辰王と呼ばれたが、辰君ではなく辰王で、辰の天子に支配される王が辰王と考えられ、辰の天皇(皇=神)・天君の辰岐神(君)が支配することを示し、辰韓に土地を与えたのは天神の配下の辰王となる。

『魏略』にも「辰鑡因將戸來(來)出詣含資縣縣言郡,郡即以鑡爲譯從芩中乘大船入辰韓逆取戸來」と郡を縣と呼び、漢人戸来を従えて「辰韓」に大船で来るのだから、辰鑡は辰韓人ではなく、日本では、郡ではなく縣と呼んでいて、辰鑡は日本人と考えられる。

二十八年春正月癸巳朔」の立太子は天文学的朔の日干支だが、開化と同じく、この太子だけ特別崇神天皇の立太子とは考えにくく、やはり、倭国が西暦42年から28年後の西暦69年に王都を遷したと考えられる。

この倭王朝が57年『後漢書』の「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀光武賜以印綬漢委奴國王」と印を授けられた王で、同年、新羅は「脫解本多婆那國所生也其國在倭國東北一千里初其國王娶女國王女爲妻」と『山海經』の「女子國在巫咸北兩女子居水周之」と壱岐・対馬を思わせる女王の国の姫を娶って、59年、『三国史記』に「三年夏五月與倭國結好交聘」と倭国と講和を行っている。

それは、「特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史」と壱岐・対馬の宗主国が倭奴国王だった事を示し、倭奴国が漢と交流することで、倭奴国を漢の暦に対応させ、それを畿内政権の暦と対応させたので天文学的朔の日干支を記述出来たと考えられ、この時期は、中国は晦日が朔で晋朝から朔が朔日となったため、この時から、倭奴国の晦日が畿内の朔の理解が出来、『日本書紀』に30日を晦日としないで朔とする変換の間違いを発生させたと思われる。


2022年2月25日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』開化天皇類書1

  『日本書紀』は概略「稚日本根子彦大日日は、大日本根子彦國牽の第二子、母は欝色謎で穗積臣の遠祖の欝色雄の妹で、前天皇二十二年の春正月に皇太子になり十六歳だった。五十七年秋九月に天皇が崩じ冬十一月辛未が朔の壬午に、即位した。元年春正月庚午が朔の癸酉に、皇后を皇太后とし、冬十月丙申が朔の戊申に、春日の率川宮に遷した。五年春二月丁未が朔の壬子に、前天皇を劒池嶋上陵に葬った。六年春正月辛丑が朔の甲寅に、庶母の伊香色謎を皇后とし、御間城入彦五十瓊殖を生み、これより先に、丹波竹野媛を妃にして彦湯産隅亦の名は彦蒋簀を生んだ。次妃の和珥臣の遠祖の姥津の妹の姥津媛は彦坐王を生んだ。二十八年の春正月癸巳が朔の丁酉に、御間城入彦を皇太子にし十九歳だった。六十年の夏四月丙辰が朔の甲子に、天皇が崩じた。冬十月癸丑が朔の乙卯に、春日率川坂本陵に葬った。あるいは、坂上陵。百十五歳だった。」とある。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上 』は「諱稚日本根子彦大日日尊者日本根子彦國牽天皇第二子也母日皇后鬱色謎命物部連公祖出石心命孫也元年癸未春正二月皇太子尊即天皇位二年春正月尊皇后曰皇太后尊皇太后追贈大皇太后冬十月都遷春日地謂率川宮七年春正月伊香色謎命立為皇后並女誕生御間城入彦五十瓊殖命也先天皇納丹波竹野媛為妃生彦湯彦隅命次妃和迩臣遠祖姥津命之妹姥津姬生彦坐王八年春正月以大祢大綜押命為大臣武建命大峯命並爲大祢二月伊香色雄命爲大臣並物部連公遠祖宇摩志麻治命抄二十八年春正月御間城入彦命並為太子年十九六十年夏四月天皇崩十月葬於春日率川坂本陵亦云坂上時年百十五歳誕生四皇子兒御間城入彦五十狹弟尊次彦坐王當麻坂上君等祖次彦小將箐命品治部君等祖彦湯産隅命次武齒頬命道守臣等祖」、【諱は稚日本根子彦大日日で日本根子彦國牽の第二子、母は皇后の欝色謎、物部連の祖の出石心の孫で、治世元年癸未年の春二月に皇太子は天皇に即位した。二年の春正月に前の皇后を皇太后とし、皇太后に、大皇太后を追号した。冬十月に都を春日の率川宮に遷した。七年の春正月、伊香色謎を皇后とし、皇后は、天皇の庶母で、御間城入彦五十瓊殖を生んだ。これより前に、天皇は丹波の竹野媛を妃とし、彦湯産隅を生んだ。次の妃の和迩臣の遠祖の姥津の妹の姥津姫は、彦坐王を生んだ。八年の春正月に大祢の大綜杵を大臣とし、武建と大峯を大祢とした。二月に伊香色雄を大臣とし、これらは皆、物部連の遠祖の宇摩志麻治命の子孫だ。二十八年の春正月に御間城入彦を皇太子にし、年は十九歳だった。六十年の夏四月に天皇は崩じ、十月に春日の率川坂本陵に葬った。または坂上陵といい、年は百十五歳だった。天皇は四人の皇子を生み、御間城入彦五十瓊殖、次に、彦坐王は当麻坂上君の祖、次に、彦小将簀は品治部君の祖、彦湯産隅。次に、武歯頬、道守臣の祖。 】と訳した。

「六年春正月辛丑朔」は前月晦日30日、「六十年夏四月丙辰朔」も前月晦日30日の九州の暦で、畿内の天皇が記録を残せなかったことを示し、「立伊香色謎命爲皇后」と皇后になった物部氏の暦が九州の暦で、『舊事本紀』の同記事が「七年春正月伊香色謎命立為皇后」と1年ズレていて、葛城東鯷天皇が「稚日本根子彦」と若狭・野洲の王に降格したと記述し、若狭は狭霧の物部氏の出自と考えられるので、物部氏が辰神を名乗り、その配下は辰国天子の配下の王、開化朝には彦坐王と天皇以外に初めての王、辰王が現れた。

すなわち、開化天皇の時代は、物部氏が天皇で、葛城氏は物部氏が支配する若・八王、物部氏の子の大彦が大国を統治し、「一云坂上陵」は九州の暦を使った王の葬った場所かもしれない。

なお、前回の屋主忍男武雄心の分析の続きになるが、屋主忍男武雄心は名前から八国王で、天忍男を襲名していると考えられる。

そうすると、屋主の時に和珥氏宇那比姫に婿入りし、甥の建諸隅に屋主が受け継がれ、その甥が坐王、その子の淡海の天之御影神の子の水之穂眞若が安直の祖、そして、彦坐王の三世の孫の大陀牟夜別が淡海國造志賀髙穴穗朝と淡海に首都がある時に淡海國造なのだから大陀牟夜別が天皇と言うことになり、母が八坂入媛、その父が八坂入彦、その父母が水之穂眞若・大海媛、その父母が坐王・息長水依比賣ということになり、大海媛は建諸隅の妹で、八(安)坂の坂上君の祖が坐王となる。

2022年2月23日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』孝元天皇類書4

  前項の続きである。

『古事記』・『日本書紀』・『舊事本紀』で皇子の人数が異なり、『古事記』は大毗古・少名日子建猪心・若倭根子日子大毗々・比古布都押之信・建波迩夜須毗古、『日本書紀』は大彦命・稚日本根子彦大日日・倭迹迹姫・彦太忍信・武埴安彦、『舊事本紀』は大彦・稚日本根子彦太日日・彦太忍信・武埴安彦・倭迹々姫で、『古事記』のみ異なる。

彦太忍信と思われる、『日本書紀』・『舊事本紀』と異なる『古事記』の少名日子建猪心は『日本書紀』に倭迹迹姫命の一云に「天皇母弟少彦男心命也」と皇太后細媛の妹が倭迹迹姫でかつ少彦男心と記述して、男女を混同しているが、細媛は『古事記』に十市縣主の祖の大目すなわち十市縣主建斗禾の親の天戸目の子と考えられ、細媛の兄弟は建斗禾、または、建斗禾の妃の紀伊國造智名曽妹中名草姫の義姉妹と考えられる。

紀伊国造は紀伊国が『古事記』では紀国と記述され、神武朝以外で紀伊国が出現せず、『日本書紀』の神武朝の紀伊国は紀国で崇神朝に初めて『日本書紀』で「紀伊國荒河戸畔」が出現し、以降頻出しするが、『古事記』の「木國造名荒河刀弁」、「自木國到針間國」、「木國之酒部阿比古宇陀酒部之祖」で、紀伊は本来「木」の可能性が高く、木角宿禰は木臣の祖なので木國が正しいと考えられ、木國造宇豆比古本人若しくは親が智名曽である。

ちなみに、『舊事本紀』は倭迹迹を倭迹と記述して、大海姫を大倭姫と記述しているので、倭迹は海迹(あまと)で、そうすると、『日本書紀』の倭迹迹も「あまと」と読むべきで、『古事記』は『日本書紀』の読みで、倭迹を「夜麻登」と読み倭迹迹を「夜麻登登」と読んだのだろう。

また、少彦建猪心と類似する屋主忍男武雄心も不明な人物で、『古事記』には倭迹迹姫と同様出現せず、建内宿禰の親が不明になったが、少彦建猪心が細姫の妹の倭迹迹姫を妃にして一心同体の人物と記述し、その娘が比古布都押之信の妃となって忍男武雄心を産んだのではないか。

味師内宿祢の母の尾張連等之祖意富那毗之妹葛城之高千那毗賣は(建)宇那比(節名草姫おそらく智名曽の娘を妃)・宇那比姫と細姫・建斗禾の兄弟である。

比古布都押之信は竟富那毘の妹の高千那毘賣も妃にして味師内宿禰を産み、高千那の千那は智名曽の智名と同音で、竟富那毘が宇那比の義父と考えると智名曽が義父で、智名曽の子が宇豆比古と考えられ、その妹の影姫と武雄心が建内宿禰を産んだと考えられる。

景行天皇3年に「屋主忍男武雄心命詣之居于阿備柏原・・・住九年則娶紀直遠祖菟道彦之女影媛生武内宿禰」と記述され、(少名日子)建猪心は小国→屋国と領地が変わりながら襲名し、『舊事本紀』には欝色雄大臣の子が武建大尼、その子が建膽心大祢と同名の人物が欝色謎の系図に現れ、伊香色謎の兄伊香色雄は山代縣主祖の娘を娶り、伊香色謎の子の比古布都押之信の子味師内宿禰は山代内臣の祖で、まさに、欝色雄・伊香色雄が自分の姻戚に領地を与える天皇である。

欝色雄と欝色謎、その子大彦や伊香色雄が朝廷春日王朝の時代の前109年には『漢書』「辰國欲上書見天子又雍閼弗通元封二年」のように、辰国が漢に上書を送り、大彦は『日本書紀』に「大彦命是・・・阿倍臣膳臣阿閇臣狹狹城山君筑紫國造・・・伊賀臣凡七族之始祖」と記述され、『舊事本紀』の「筑志國造志賀髙穴穗朝御世阿倍臣同祖大彦命五世孫日道命」と実際に筑紫国造になった。

尾張王朝に対する志賀髙穴穗朝の大彦の末裔日道・物部王朝が筑紫の王と記述され、『後漢書』の「其大倭王居邪馬台國」・「有似秦語故或名之為秦韓」、物部・大彦王朝が秦国と『三国志』の韓に「有似秦人非但燕・・・今有名之爲秦韓者」と中国語(燕語)でない秦語、朝鮮語は秦語すなわち日本語に近いと中国人でも燕人でもない秦人・大倭人が馬韓・辰韓・弁辰・倭奴国を配下に置いていたようだ。

2022年2月21日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』孝元天皇類書3(朝鮮半島)

  前項の続きである。

『漢書』に、「會稽海外有東鯷人分為二十餘國以歳時來獻見云」と漢建国時には東鯷人の国が有り、次代の開化天皇の時、物部氏に皇位を奪取され、これ以降記述された国は『漢書』「眞番辰國欲上書見天子又雍閼弗通元封二年」と前109年、開化朝時に記述され、ところが、前90年頃完成した『史記』には「真番旁眾國欲上書見天子」と崇神朝開始直ぐで、日本国の名を認識できておらず、同時代資料として、開化天皇・崇神天皇と王朝交代があった事を示している。

『史記』に記述される「箕子朝鮮」は『山海經』が記述する朝鮮と同じで『海内東經』の蓋州の南にあった国で、おそらく、燕の滅亡により、朝鮮北部が混乱し、それで韓が影響され混乱が発生したので、日本が朝鮮半島南部の韓地を支え、倭や衛氏が蓋州南の西朝鮮を攻撃して衛氏が朝鮮を建国した。

朝鮮は『海内經』「東海之内北海之隅有國名曰朝鮮」と遼東半島基部で、『海内東經』に「蓋國在鉅燕南倭北」と遼東半島とその北部が蓋国・蓋州でその南の島々や半島は倭、「朝鮮在列陽東海北山南列陽屬燕」と平壌付近が列陽でその東の黄海南道あたりが箕子朝鮮、苔灘郡は別国だったようで、遼東半島基部の朝鮮以南は韓であった。

『遼史』には「渤海改爲蓋州又改辰州以辰韓得名」と辰韓建国以前には蓋州を辰州と呼び、蓋州が辰の領域だった事を示し、朝鮮半島東部は釜山近辺が「軒轅之國在之際其不壽者八百歳」と軒轅之国と「白民之國・・・肅慎之國在白民」のように粛慎の南に白民之国が存在し、それ以外は人が住んでいる程度の国と呼ばれない地域の様だ。

但し白民之國は『大荒東經』・『大荒西經』にも存在し、「有白民之國帝俊生帝鴻帝鴻生白民」と帝俊の氏族が建国し、「帝俊生三身」と「白民之國」、「三身國」ともに帝俊が生み、「肅慎之國在白民北有樹名曰雒棠聖人代立」と「肅慎之國」は聖人が支配し、「六合」は「聖人能通其道」と記述され、帝俊は聖人・肥後の人物と考えられる。

『山海經』・『海外西經』に「女子國在巫咸北兩女子居水周之」と島で2女王国と記述され、2島の対馬と思われる女子国の北の「軒轅之國在之際其不壽者八百歳」と八百年の伝統がある軒轅之国、「白民之國・・・乘之壽二千歳」と建国2千年、『山海經』が前3千年頃の内容と考えられるので、前5千年の白民之国、すなわち、アカホヤの頃の建国の国、「肅慎之國在白民北有樹名曰雒棠聖人代立」と聖人が統治する 白民之国の北に接する肅慎之国が有りその北に長股之国がある。

『大荒東經』には「有白民之國帝俊生帝鴻帝鴻生白民」と帝俊の子の帝鴻がアカホヤによって建国した日本列島の太平洋岸に白民之国が有り、その分国が、朝鮮半島北東部に有って、「帝俊妻娥皇生此三身之國」と記述するように、白民之国は三身之国と同族の国である。

『海外南經』に「神靈所生其物異形或夭或壽唯聖人能通其道」と聖人が行き交い、肅慎之国を統治し、聖人は日本海ではなく、黄海・玄界灘に住み、アカホヤで逃げ出して太平洋や朝鮮に行った人達で、白民之国に行き交いしたのは聖人の一人と考えられる。

『出雲風土記』に「三身之綱打挂而」と三身国の援助で大国を建国し、国引き神話に「北門佐伎之國」、「北門良波乃國」は帝俊が生んだ三身国の同盟国の「白民之國」、聖人が統治する「肅慎之國」の可能性が高く、「志羅紀乃三埼」が「軒轅之國」と考えられる。

そして、「高志之都都乃三埼」は「朝陽之谷神曰天呉是為水伯在グ(エ+虫)グ(エ+虫)北兩水間其為獸也八首人面八足八尾背青黃」と八岐大蛇を想像させる半島の国で君子国(三国)の北方に有り、朝陽之谷が良く合致し、三首国・隠岐の三小島の東の周饒国・隠岐島後の説話と考えられ、最初は島後が三小島を統合した時の説話が国引き神話の始まりで、国引き神話は前4千頃の説話の可能性が有るのではないだろうか。

なお、「軒轅之國」・「白民之國」は『大荒西經』にも記述されて不審に思えるが、「有軒轅之國江山之南棲為吉不壽者乃八百歳」と建国が全く同じで、「女子之國」・「丈夫之國」も記述され、『海外西經』は「西有王母之山壑山海山有沃民之國」と西王母のいる『大荒西經』の地でもあることが理解でき、東方父・西王母伝説の地は『海外西經』が舞台ではないのか。

2022年2月18日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』孝元天皇類書2

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は「大倭根子日子國玖琉命坐軽之堺原宮治天下也此天皇娶穂積臣等之祖内色許男命妹内色許賣命生御子大毗古命次少名日子建猪心命次若倭根子日子大毗々命二(三)柱又娶内色許男命之女伊迦賀色許賣命生御子比古布都押之信命又娶河内靑玉之女名波迩夜須毗賣生御子建波迩夜須毗古命一柱此天皇之御子等并五柱故若倭根子日子大毗々命者治天下也其兄大毗古命之子建沼河別命者阿倍臣等之祖次比古伊那許志(支)別命此者膳臣之祖也比古布都押之信命娶尾張連等之祖意富那毗之妹葛城之高千那毗賣生子味師内宿祢此者山代内臣之祖也又娶木國造之祖宇豆比古之妹山下影日賣生子建内宿祢此建内宿祢之子并九男七女二波多八代宿祢者波多臣林臣波美臣星川臣淡海臣長谷部之君之祖也次許勢小鞆(柄)宿祢者許勢臣雀部臣軽部臣之祖也次蘇賀石河宿祢者蘇我臣川邊臣田中臣高向臣(小)治田臣桜井臣岸田臣等之祖也次平群都久宿祢者平群臣佐和良臣馬御樴連等祖也次木角宿祢者木臣都奴臣坂本臣之祖次久米能摩伊刀比賣次怒能伊呂比賣次葛城長江曽都毗古者玉手臣的臣生江臣阿藝那臣等之祖也又若子宿祢江野財臣之祖此天皇御年伍拾漆歳御陵在釼池之中岡上也」、【大倭根子日子國玖琉は、輕の堺原宮で天下を治めた。この天皇は、穗積臣の祖の内色許男の妹の内色許賣を娶って、生んだ子は大毘古。次に少名日子建猪心。次に若倭根子日子大毘毘の三柱。内色許男の娘の伊迦賀色許賣を娶って生んだ子は比古布都押之信。又、河内の青玉の娘の波迩夜須毘賣を娶って、生んだ子は建波迩夜須毘古の一柱。この天皇の子は併せて五柱だ。それで、若倭根子日子大毘毘は、天下を治めた。その兄の大毘古の子建沼河別は、阿部臣の祖。次に比古伊那許士別は膳臣の祖だ。比古布都押之信は尾張連の祖の竟富那毘の妹、葛城之高千那毘賣を娶って生んだ子は、味師内宿禰。これは山代の内臣の祖だ。又、木國造の祖の宇豆比古の妹、山下影日賣を娶って、生んだ子は建内宿禰。この建内宿禰の子は併せて九人。男七、女二。波多八代宿禰は波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君の祖だ。次に許勢小柄宿禰は、許勢臣、雀部臣、輕部臣の祖だ。次に蘇賀石河宿禰は、蘇我臣、川邊臣、田中臣、高向臣、小治田臣、櫻井臣、岸田臣等の祖だ。次に平群都久宿禰は、平群臣、佐和良臣、馬御樴連の祖だ。次に木角宿禰は、木臣、都奴臣、坂本臣の祖。次に久米能摩伊刀比賣。次に怒能伊呂比賣。次に葛城の長江曾都毘古は、玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣の祖だ。又、若子宿禰は、江野財臣の祖。この天皇の年は伍拾漆歳だった。陵は劒池の中の岡の上に在る。】と訳した。

大国は大峯大尼、武建大尼と宗教上の王が受け継がれ、大彦が大国の王となり、皇位後継者としての大臣は尾張氏の十市縣主の髙屋大分國造の祖の建弥阿久良の娘の髙屋阿波良姫を妃にした大綜杵が受け継ぎ、子の伊香色雄、その子の大新河へと受け継がれた。

葛城氏は稚日本根子彦大日日と呼ぶように若狭と八国王、大彦は大国王、少名日子は小国王、建波迩夜須毘古は河内の青玉の孫なのだから河内王と大和盆地から追い出され、大和盆地は内色許賣・伊迦賀色許賣兄弟に奪われたようで、『舊事本紀』に「乘天磐舩而天降坐於河内國河上哮峯則遷坐於大倭國鳥見白庭山天降」と河内と大倭国の鳥見は隣り合わせで、神武東征で五瀬が負傷したのは茅淳で河内の近辺で、波迩夜須毘古が鳥見である。

そして、磯城彦は崇神天皇が磯城に首都を置いたのだから、崇神天皇が磯城彦で、『古事記』には磯城縣主の祖は記述されるが、磯城縣主は存在せず、崇神天皇の時に第二の神武侵略があって、高倉下が神祖の尾張氏は剱根が神祖の葛城氏、宇迦斯が神祖の宇豆比古、弟磯城の大彦の助けを得て、兄磯城や弟磯城の姻戚の物部氏を磯城朝廷から排除したと考えられる。

それは、伊香色雄が『舊事本紀』に「遷建布都大神社於大倭國山邉郡石上邑・・・天璽瑞寶同共蔵」と、鳥見彦の戦いの時に天皇の璽を葛城氏から奪い、伊香色雄は河内の鳥見彦・長髄彦・埴安彦の義兄弟で、布都大神は事代主→天日方奇日方→建飯勝→建甕槌で高倉下が建甕槌から受け取った釼が韴(ふつ)靈(みたま)、この剱を祀ったのが葛城氏の剱根である。

そして、伊迦賀色許賣の子が布都押之信と伊香色雄の甥にあたり山代王を子に持ち、内臣と考えられる建内宿禰の義父の宇豆比古は木国王になり、建内宿禰の子の木角宿禰も木国王と記述され、建内宿禰は葛城氏・物部氏・和珥氏でもある。

2022年2月16日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』孝元天皇類書1

  『日本書紀』は概略「大日本根子彦國牽天皇は大日本根子彦太瓊天皇の太子で母は細媛、磯城縣主大目の娘だ。七十六年春二月に、前天皇が崩じ、元年春正月辛未が朔の甲申に即位した。四年春三月甲申が朔の甲午に、輕の境原宮に遷都した。六年秋九月戊戌が朔の癸卯に、大日本根子彦太瓊天皇を片丘馬坂陵に葬った。七年春二月丙寅が朔の丁卯に、欝色謎を皇后にし、二柱の男と一柱の女を生んだ。第一を大彦、第二を稚日本根子彦大日日天皇、第三を倭迹迹姫という。あるいは、天皇の母弟の少彦男心という。妃の伊香色謎は彦太忍信を生む。次妃の河内青玉繋の娘の埴安媛は武埴安彦を生む。兄の大彦は阿倍臣・膳臣・阿閉臣・狹狹城山君・筑紫國造・越國造・伊賀臣凡て七族の始祖だ。彦太忍信は、武内宿禰の祖父だ。二十二年春正月己巳が朔の壬牛に、稚日本根子彦大日日尊を皇太子にした。年は十六。五十七年秋九月壬申が朔の癸酉に、大日本根子彦國牽天皇が崩じた。」とある。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『天皇本紀上 』は「諱大日本根子彦國牽皇太子尊者大日本根子大瓊天皇太子也母日皇后細媛命磯城縣主大目之女也元年丁亥春正月皇太子尊即天皇位尊皇后為皇太后四年春三月都遷輕地謂境原宮七年春二月欝色謎命立為皇后誕生二男一女兒大彦命次稚日本根子彦大日日尊次迹迹姬命妃伊香色謎命誕生彦大忍信命次妃河内青王繫埴安姬生武埴安彦命八年春正月物部連公祖宇摩志麻治命裔媛鬱色雄命爲大臣亦太縁押命為大孫二月尊皇后日皇太后皇太后追贈大皇太后二十二年正月稚日本根子彦大日日命立爲皇太子年十六五十七年秋九月天皇崩後帝六年葬於劔池嶋上陵誕生四男一女兒大彦命阿倍臣髙橋臣等祖次稚日本根子彦太日日尊次彦太忍信命紀臣等祖次武埴安彦命岡屋臣等祖次倭迹々姬命伊勢齋祠」、【諱は大日本根子彦国牽皇太子は大日本根子大瓊天皇の皇太子で、母は皇后細媛といい、磯城縣主の大目の娘だ。治世元年丁亥年春正月に皇太子は即位して、先の皇后を、皇太后と尊んだ。四年春二月に、都を軽の地の境原宮に遷した。七年の春二月に欝色謎を皇后とし、皇后は、二男一女を生んだ。大彦、次に稚日本根子彦大日日、次に倭迹迹姫だ。妃の伊香色謎は、彦太忍信を生んだ。次の妃の河内の青玉繋の娘の埴安姫は武埴安彦を生んだ。八年の春正月、物部連の祖の宇摩志麻治の子孫の、欝色雄を大臣とし、また、大綜杵を大祢とした。二月に、皇后を皇太后と尊んだ。また、皇太后に大皇太后を追号して贈った。二十二年正月、稚日本根子彦大日日尊を、皇太子とした。年は十六歳だった。五十七年秋九月、天皇は崩じ、次の天皇の六年に、剣池島上陵に葬った。天皇は、四男一女を生んだ。大彦は阿倍臣、高橋臣の祖。次に、稚日本根子彦大日日。次に、彦太忍信は紀臣の祖。次に、武埴安彦は岡屋臣の祖。次に、倭迹迹姫は伊勢の神を斎き祀った。】と訳した。

この項の朔の日干支は九州の暦が多く、孝霊天皇崩、孝元天皇即位、輕境原宮遷都まで、九州の暦だが、欝色謎の皇后即位以降は天文学的に正しい朔となり、これは、前天皇の孝元の死亡から遷都まで混乱があり、資料が残っていなくて、別の王朝の資料を使用したと考えられる。

この別王朝が、もし倭ならば、立太子と整合せず、即位記事や遷都記事、天皇の死亡記事や埋葬記事など、もっと多くの九州暦の記事でなくてはならないが、ほとんどが朝廷の暦で、大国は筑紫すなわち三身国の援助で建国しているのだから、筑紫・宗像に記録が残っていても不思議ではない。

それに対して、立太子は、立太子する前に太子が存在したり、高千穂王朝が滅亡しても記述され、天武天皇まで立太子が続き、日本は古の倭奴国と『舊唐書』は述べて、倭国記事なら整合し、高千穂王朝滅亡後、倭は中国に朝貢しているので、中国の暦と朝廷の暦を対応させた可能性がある。

すなわち、倭の建国時の前253年冬甲寅を高千穂宮のある王の前619年1月甲寅(前620年12月晦日壬子)と対応させ、この日が神武天皇42年1月甲寅だったということである。

廿二年春正月己巳朔の立太子は天文学的朔の日干支だが、この太子だけ特別に開化天皇の立太子とは考えにくく、やはり、倭国の西暦21年から22年後の西暦42年に王都を遷したと考えられる。 

2022年2月14日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』孝霊天皇類書4

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は「大倭根子日子賦斗迩命坐黒田廬戸宮治天下也此天皇娶十市縣主之祖大目之女名細比賣命生御子大倭根子日子國玖琉命又娶春日之千々速真若比賣生御子千々速比賣命一柱又娶意富夜麻登玖迩阿礼比賣命生御子夜麻登々母々曽毗賣命次日子刺肩別命次比古伊佐勢理毗古命亦名大吉備津日子命次倭飛羽矢若屋比賣四柱又娶其阿礼比賣命之弟蝿伊呂杼生御子日子寤間命次若日子建吉備津日子命二柱此天皇之御子等并八柱男王五女王三故大倭根子日子國玖琉命者治天下也大吉備津日子命與若建吉備津日子命二柱相副而於針間氷河之前居忌兊(甕)而針間爲道口以言向和吉備國也故此大吉備津日子命者吉備上道臣之祖也次若日子建吉備津日子命者吉備上下道臣笠臣祖也次日子寤間命者針間牛鹿臣之祖也次日子刺肩別命者高志之利波臣豊國之國前臣五百原君角鹿海直之祖也天皇御年壱佰陸歳御陵在片岡馬坂上也」、【大倭根子日子賦斗迩は、黒田の廬戸宮で、天下を治めた。この天皇は、十市縣主の祖の大目の娘で名は細比賣命を娶って、生んだ子は、大倭根子日子國玖琉一柱。又、春日の千千速眞若比賣を娶って、生んだ子が千千速比賣一柱。又、意富夜麻登玖迩阿禮比賣を娶って、生んだ子は夜麻登登母母曾毘賣、次に日子刺肩別、次に比古伊佐勢理毘古亦の名は大吉備津日子、次に倭飛羽矢若屋比賣の四柱。又、その阿禮比賣の妹、蝿伊呂杼を娶って、生んだ子は日子寤間、次に若日子建吉備津日子の二柱。この天皇の子は併せて八柱だ。男王五、女王三。それで、大倭根子日子國玖琉は、天下を治めた。大吉備津日子と若建吉備津日子の二柱は互いに助け合って、針間の氷河の前に浄めた瓮を置いて、針間を道の口として、吉備國を統治した。それで、この大吉備津日子は、吉備の上の道臣の祖だ。次に若日子建吉備津日子は、吉備の下の道臣・笠臣の祖だ。次に日子寤間は、針間の牛鹿臣の祖だ。次に日子刺肩別は、高志の利波臣、豐國の國前臣、五百原君、角鹿の海直の祖だ。天皇は、壹佰陸歳で崩じ陵は片岡の馬坂の上に在る。】と訳した。

皇后の兄弟若しくはその子の葛城王は天皇天戸目の子の大目の姫を皇后にすることで大倭根子・天皇に即位し、天皇は千々速真若比賣と速日(宗像)から若国(若狭)の海の道を支配する若国の姫を娶って速日国を得、夜麻登々母々曽毗賣・蝿伊呂杼を娶って淡海・八国を支配した。

蝿伊呂杼は「師木津日子命之子・・・和知都美命者坐淡道之御井宮」のように、綏靖天皇(八井耳)が生まれた神倭国の神井宮を受け継いだと思われる磯城縣主・磯城彦の祖の波延の娘の阿久斗比賣の孫の野洲の御井(神倭)彦・和知都美の娘で、阿久斗比賣の夫は磯城津彦の配下の剱根の子で大倭根子の祖だ。

「繩伊呂泥(意富夜麻登久迩阿禮比賣)」・「蝿伊呂杼」の子は播磨・吉備と小国・及び越・角鹿・豊国を領有し、出雲を除く若狭から宗像まで影響下に置いた、まさしく、葛城天皇大倭根子の子達で、後に若狭国王の若足彦・大国王の大足彦・豊国王仲足彦と強大な力を持った源泉のようである。

三国・八国の連合王朝が前660年にでき、葛城氏はその頃、磐余の邑長だったが、三国の渟名川耳が葛城に婿入りして、三国の配下となったが、剱根が天村雲・八井耳に協力して尾張氏が八国王、剱根が磯城の将軍になって、娘婿の子の羸津世襲が磯城王朝のもと、葛城王、さらに、大国・八国王、その子孫の彦太瓊が天皇大倭根子となった。

磯城彦の配下の大国王だった物部氏は、磯城彦大目を失脚させたとき葛城彦の子孫の曽孫くらいの彦太瓊に協力し、葛城氏が皇位を奪った後、前天皇・天戸目は磯城彦の祖と呼ばれ、子の建斗禾は建氏を賜姓され、物部氏は磯城彦恐らく弟磯城を受け継ぎ大臣となり、次期天皇を窺う地位を得た。