2021年11月29日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』 類書 『舊事本紀』天孫本紀1

  舊事本紀前川茂右衛門寛永版『天孫本紀』は「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊亦名天火明命亦名天照國照彦天火明尊亦云饒速日尊亦名瞻杵磯丹杵穗命天照貴靈太子正哉吾勝勝速日天押穂耳尊高皇産靈尊女豐秋蟠豐秋津(?)姬拷幡千々姫命爲妃誕生天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊矣天照太神高皇産靈尊相共(?)生故謂天孫亦稱皇孫矣天祖以天璽瑞寶十種授饒速日尊則此命稟天神御祖詔乘天磐舩而天降坐於河内國河上哮峯則遷坐於大倭國鳥見白庭山天降之儀明天神紀(?)謂乗天磐舩而翔行於大虚空睨是郷而天降謂虚空見日本國是欤饒速日尊便娶長髓彦妹御炊屋姬爲妃誕生宇摩志麻治尊矣先經妊身而未産之時饒速日尊命婦女云汝有妊胎若有男子者号間味見命若有女子者号色麻弥命既而所産男子矣因号味間見命矣饒速日尊既神(?損口→ム)去坐天而覆上天之時髙皇産靈尊詔速飄神我御子饒速日尊所使於葦原中國而有疑恠思之耶故汝能降可覆日矣二時速飄命降來當見神(?損口→ム)去坐矣即反上覆命云神御子者既神(?損口→ム)去巳坐矣髙皇産靈尊以爲哀泣即使速飄命以命將上於天上(?處)其神屍骸日七夜七以爲樂哀泣哭於天上(?)竟矣饒速日尊以夢教於妻御炊屋姬云汝子如吾形見物即天璽瑞寶矣天羽羽弓天羽羽矢覆神衣帯手貫三物葬(?)於登美白庭邑以此爲墓者也天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊天道日女命爲妃天上誕生天香語山命御炊屋姬為妃天降誕生宇摩志摩治命・・・」、【天照国照彦天火明櫛玉饒速日、または天火明、または天照国照彦天火明、または饒速日、または胆杵磯丹杵穂といい、天照孁貴の太子・正哉吾勝々速日天押穂耳は、高皇産霊の娘の万幡豊秋津師姫栲幡千々姫を妃として、天照国照彦天火明櫛玉饒速日を生んだ。天照太神と高皇産霊、両方の子として生まれたため、天孫といい、また皇孫という。天祖は、天璽瑞宝十種を饒速日に授けた。そうして、天と神の祖の命令で、天の磐船に乗って、河内国の川上の哮の峰に天から降った。さらに、大倭国の鳥見の白庭山へ遷った。天から降ったときの儀式は、天神本紀に示した。天の磐船に乗り、大あまをかけめぐり、この地を見て天から降り、『あまが日本国を見る』というのは、このことだ。饒速日は長髓彦の妹の御炊屋姫を妃として、宇摩志麻治を生んだ。これより前、妊娠して生まれる前に、饒速日は妻に「お前がはらんでいる子が、男なら味間見と名づけろ。女なら色麻弥と名づけろ」と言い、産まれたのは男だったので、味間見と名づけた。饒速日が亡くなり、まだ遺体が天に帰らないとき、高皇産霊が速飄に命令して仰せられた。「我が子の饒速日を、葦原の中国に派遣した。しかし、疑わしいところがある。お前は天から降って調べ、報告しなさい」と命令した。それで速飄は天から降って、「神子が死んでいた。」と復命した。高皇産霊尊はあわれと思い、速飄を派遣し、饒速日の遺体を天にのぼらせ、七日七夜葬儀の楽を演奏して悲しみ、天上で葬った。饒速日は、妻の御炊屋姫に夢の中で 教えて仰せになった。「お前の子は、私の形見のように大事にしなさい」と教えて、天璽瑞宝を授けた。また、天の羽羽弓・羽羽矢、また神衣・帯・手貫の三つ揃いを登美の白庭邑に埋葬して、これを墓とした。天照国照彦天火明櫛玉饒速日は、天道日女命を妃として、天の上で天香語山を生んだ。御炊屋姫を天から降って妃とし、宇摩志麻治を生んだ。】と訳した。

前項で、饒速日の天降りが孝霊期と記述したが、それは『日本書紀』に「時人仍號鵄邑今云鳥見是訛也」と記述し、この日干支は天文学と1日ズレて、他王朝の資料と神話が合わさったもので、九州の支配地から大和に遣ってきた物部氏の神話と解り、鵄邑と呼ばれていた場所が鳥見と名を変え、鳥見の長髓彦がいて、その後で饒速日が天降ったのであり、紀元前663年より後の話と証明される。

そして、天も中国の天山などのように、川の上流の水源地帯を天と理解した時代で、琵琶湖などが天と理解した記述である。

これまで述べたように、天照孁貴が「天」と呼ぶ神祖、高皇産霊が「日」と呼ぶ神祖の配下の「高神」で、天押穂耳が「天」と「日・神・皇」の子の天子であり日子・神子・皇子で、その子の饒速日が天孫・皇孫・神孫・日孫になり、饒速日・火明・丹杵穂と複数人が割り当てられる。

そして、他王朝の九州の記録の基は、饒速日のもう一人の妃の天道日女で九州・瀬戸内海・日本海の海の女王で天道根が王、日臣・道臣・道主と呼ばれ、三身の綱で国を御お聞きした大人国・大国の王だから、三身国の影響を受けて晦日が朔の暦を使ったと考えられ、おそらく、崇神天皇の時に賜姓された氏族の記録と考えられる。

そのため、崇神天皇が「猶不受正朔是未習王化耳」と正朔を受け入れさせようと、丹波大国を攻撃した。

2021年11月26日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』 類書 『舊事本紀』天神本紀2

  舊事本紀前川茂右衛門寛永版『天神本紀』は続けて「・・・副五部人爲從天降供奉物部造等祖天津麻良笠縫部等祖天勇薭一本天津湯爲奈部等祖天津赤占十市部首等祖富富築紫弦田物部等祖天津赤星吾部造爲件領卛天物部天降供奉二田造大庭造舎人造勇薭造坂戸造天物部等二十五部人同帯兵杖天降供奉二田物部當麻物部芹田物部馬見物部横田物部嶋戸物部浮田物部巷冝物部須尺物部田尻物部赤間物部久米物部狹竹物部大豆物部肩野物部羽東物部布都留物部經迹物部讃岐三野物部相槻物部筑紫聞物部播磨物部筑紫贄田部舩長同共卛領梶取等天降供奉舩長跡部首等祖天津羽原梶取阿刀造等祖大麻良舩子倭鍛師等祖津直浦笠紫曽々笠縫等祖天津赤麻良為奈部等祖天都赤星饒速日尊襄天神御祖詔乗天磐舩而天降坐於河内國河上哮峯則遷坐大倭國鳥見白山所謂乗天磐舩而翔行於大虚空巡睨是郷而天降坐矣即謂虚空見日本國是歟饒速日尊使娶長髓彦妹御炊屋姬爲妃令妊胎矣未及産時饒速日尊既神損去坐而不覆上天之時矣高皇産靈尊詔速飄神曰吾神御子饒速日尊所使於葦原中國而有疑恠思耶故汝能降可覆白矣于時速飄神命奉勑降來當見神損去坐則反上覆命云神御子者既神損去亡坐矣高皇産靈尊以爲哀泣則使速飄命以命將上於天上處其神屍骸日七夜七以爲遊樂哀泣斂於天上」、【また、五部の人が従って天から降り、仕えた。(人名略)我が(?五)部や造が統領として、天の物部を率いて天から降って仕えた。天の物部ら二十五部の人が、同じく武器を帯びて天から降り、仕えた。(人名略)饒速日は、天の神祖の命令で、天の磐船にのり、河内国の河上の哮の峯に天から降った。それで、大倭国の鳥見の白山に遷った。天の磐船に乗り、大虚空をかけめぐり、この地を観察して天から降った。それで、『虚空見つ日本の国』と言うのは、これだ。饒速日は長髓彦の妹の御炊屋姫を妃とし、御炊屋姫は妊娠して子が生まれないうちに、饒速日は崩じ、復命が無いうちに、高皇産霊は速飄に「私の神子の饒速日を、葦原の中国に派遣したが疑わしいから、お前は天から降って報告しろ」と命令した。速飄は勅命で天から降り、饒速日が見るとすでに崩じていた。それで、天にのぼって「神子は、すでに崩じていた」と復命した。高皇産霊はあわれと思われて、速飄に、饒速日の亡骸を天にのぼらせ、七日七夜葬儀の儀礼をして、悲しみ葬った。】と訳し、『日本書記』や『古事記』の天稚彦の説話を流用している。

すなわち、『日本書紀』は天が『山海經』の黄海である海内さらにそれが拡張されて玄界灘や日本海南部や瀬戸内海である海中の六合、そして宋代になると大荒東・南も含まれた大海中となり、神の概念は天が海中の六合まで拡張されて神霊が生まれる所の神の「うみ」から、『山海經』の天と呼ばれる山の水源を基に、日本でも水源にいる神を川上の「かみ」と呼び、鳥見の白山も「あま」と呼び、海の天と切り分けるため漢字の虚空を当て嵌めたと考えられる。

そして、その海の神の乗り物が船で浸水しないように土を塗った船が磐船で、山の虚空(あま)での乗り物も船と呼び、土を塗った磐船をここで述べ、水源地を求めて、海の天の地の速日から移住した。

『日本書紀』にもこの説話が有るが、「十有二月癸巳朔丙申皇師遂撃長髄彦」の朔の日干支が2日の日干支で天文学と合致せず、九州の記録に神話を結合させたと考えられ、物部氏が最初に出現するのが孝元天皇の皇后の欝色謎で、この記事は日干支が天文学と合致し、孝霊天皇末期に天降ったと考えられる。

いつの時代まで、大和盆地がどれだけ湿地帯だったか証明できないが、大和盆地が水源で、天と呼べる地域であった事は事実で、紀元前100年頃の崇神朝に長髓彦が死んだと考えられ、それ以前まで天と呼べる水源であった可能性が有り、淀川の上流の琵琶湖も天と呼ばれ、凡河内直の祖の近淡海にいる神の御陰が天之御影・天御陰と天の住人で饒速日と共に天降ったのだから、饒速日も近淡海から天降ったと考えられる


以降、第九段11に記述した。

2021年11月24日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』 類書 『舊事本紀』天神本紀1

  『舊事本紀』には、「後述する」と、飛ばして来た部分が有り、それを検証したい。

舊事本紀前川茂右衛門寛永版『天神本紀』は「正哉吾勝勝速日天押穂耳尊天照太神詔日豊葦原之千秋長五百秋長之瑞穂國者吾御子正哉吾勝勝速日天押穂耳尊可知之國言寄詔賜而天降之時高皇産靈尊兒思兼神之妹萬幡豐秋津師姬命栲幡千千姫命爲妃誕生天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊之時正哉吾勝勝速日天押穂耳尊奏日僕欲將降弉束之間(?)生之兒以此可降矣詔而許之天神御祖詔授天璽瑞寶十種謂贏都鏡一邊都鏡一八握劔一生玉一死反玉一足玉一道反玉一蛇此禮一蜂此禮一品物此禮一是也天神御祖教詔曰若有痛處者令玆十寶謂一二三四五六七八九十而有瑠部由良由良止布瑠部如此爲之者死人反生矣是則(?)謂布瑠之言本矣高皇産靈尊勑日若有葦原中國之敵拒神久而待戰者能爲方便欺防拒而令治平人三十二人並爲防衛天降供奉矣天香語山命尾張連等祖天鈿賣命猿女君等祖天太玉命忌部首等祖天兒屋命中臣連等祖天櫛玉命鴨縣主等祖天道根命川瀨造等祖天神玉命三嶋縣主等祖天椹野命中跡直等祖天糠戶命鏡作連等祖天明玉命玉作連等祖天牟良雲命度会神主等祖天背男命山背久我直等祖天御陰命凡河内直等祖天造日女命阿曇連等祖天世平命久我直等祖天斗麻祢命額田部湯坐連等祖天背斗女命尾張中嶋海部部直等祖天玉櫛彦命間人連等祖天湯津彦命安藝國造等祖天神魂命葛󠄀野鴨縣主等祖天三降命豐田菟狹國造等祖天日神命縣主對馬縣主等祖乳速日命廣沸神麻續連等祖八坂彦命伊勢神麻績連等祖伊佐布魂命倭久連等祖伊岐志迩保命山代國造等祖活玉命新田部直等祖少彦根命鳥取連等祖事湯彦命取尾連等祖八意思兼兒表春命信乃阿智祝部等祖次下春命武蔵造又國等祖月神命壹岐縣主等祖・・・」、【正哉吾勝勝速日天押穂耳、天照太神が「豊の葦原の千秋の長五百の秋の長の瑞穂の国は、わが子の正哉吾勝勝速日天押穂耳が治めるべき国だ」と詔勅して任せ、天から降したときに、高皇産霊の子の思兼の妹の万幡の豊の秋津の師姫の栲幡の千千姫を妃として、天照国照彦天火明櫛玉饒速日を生んだ。このとき、正哉吾勝勝速日天押穂耳が、「私が天から降ろうと、髪を大きく束ねている間に、子が生まれた。これを天から降すべきだ」と言った。それで、これを許した天の神祖は、天の璽の瑞宝十種を授けた。瀛の鏡が一つ、辺の鏡が一つ、八様式の握りの剱が一つ、生き玉が一つ、死から反る玉が一つ、統治の玉が一つ、帰り道の玉が一つ、蛇の布が一つ、蜂の布が一つ、好ましい物の布が一つというのがこれだ。天の神祖は、次のように「もし痛むところがあれば、この十の宝を、一二三四五六七八九十といってふるえ。ゆらゆらとふるえ。こうすれば、死人は生き返る」これが「布留の言葉」の起源だ。高皇産霊が「もし、葦原の中国の敵で、神を拒んで防戦するものがいるなら、計略を立てて平定せよ」と教え、人を32人に詔勅して、防衛に天から降らせた。(人名略)】と訳し、これまで見てきた通り、饒速日は速日国の神、すなわち、『古事記』の「肥國謂速日(別)」の速日の神で、『舊事本記』では「肥国謂建日別」と、すでに、速日国は「熊襲國謂建日別」と熊襲の国になっている。

すなわち、熊襲の国になる前の時代の肥国の神で、天神と自称しているのだから、海士の神で天孫なのだから、天子の子達、すなわち、天と呼ばれる海の王の子達で神の子・海の子で天照が支配している場所が六合と言い、それで、六合が「生神」・うみでその王が神子・みこと考えられる。

それに対して、物部氏の神祖は「天譲日天狭霧國禪月國狭霧」と対馬を譲り、日国を海士に譲った狭の神と記述し、天子・天王が天照で神、その神子・神王が饒速日だと言い換えている。

そして、物部氏の神は対馬→肥国そして中国王の命令で若狭と移動し天八下すなわち野洲に天降り、そして、この項にも出現する天三降が三国に入り、野洲を舞台にした説話と解り、さらに、天鏡と鏡おそらく多紐文鏡や三角縁神獣鏡を造り、王朝を建国して天八百日、天八十萬魂と野洲の伊勢皇大神宮で政権を担当したと考えられる。

そして、32人のメンバー、すなわち、八国の領域を示したようで、六合の天を統治したのが対馬の神日神で対馬から追い出されて壱岐を支配し、日神の子が日女で筑紫を支配したと記述し、天御陰は若倭根子日子大毘ゝと同世代で『舊事本紀』にとっては、前200年頃、畿内に天降りしたとわかる。

2021年11月22日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第十一段

  日本書紀慶長版は「彦波瀲武草葺不合は叔母の玉依姫を妃とし、彦五瀬・稻飯・三毛入野・神日本磐余彦の四男を生み、彦波瀲武草葺不合が西の洲の宮で崩じ、日向の吾平山の上に葬った。」とある。 

すなわち、葬った場所は西に洲が有り、北に韓国への海がが有るので、日向国は東が海で伊都の日向の可能性が高い。

そして、『日本書紀』慶長版一書は一書()一書曰先生彥五瀬命次稻飯命次三毛入野命次狹野尊亦號神日本磐余彥尊所稱狹野者是年少時之號也後撥平天下奄有八洲故復加號曰神日本磐余彥尊」、【一書に、まず、彦五瀬を生む。次に稻飯。次に三毛入野。次に狹野。または神日本磐余彦と言う。狹野と言うのは、幼少の時の名だ。のちに天の下を平定して、八洲を統治した。それで、名を加えて、神日本磐余と言う。】と訳した。

さらに、『日本書紀』慶長版一書は一書()一書曰先生五瀬命次三毛野命次稻飯命次磐余彥尊亦號神日本磐余彥火火出見尊」、【一書に、まず五瀬を生み、次に三毛野、次に稻飯、次に磐余彦。または神日本磐余彦火火出見と言う。】と訳した。

そして、『日本書紀』慶長版一書は一書()一書曰先生彥五瀬命次稻飯命次神日本磐余彥火火出見尊次稚三毛野命」、【一書に、まず彦五瀬生み、次に稻飯。次に神日本磐余彦火火出見。次に稚三毛野。】と訳した。

そして、『日本書紀』慶長版一書は一書()一書曰先生彥五瀬命次磐余彥火火出見尊次彥稻飯命次三毛入野命」、【一書に、まず彦五瀬、次に磐余彦火火出見、次に彦稻飯、次に三毛入野。」と訳した。

続いて、『古事記』前川茂右衛門寛永版は「是天津日高日子波限建鵜葺草不葺合命娶其姨玉依毘賣命生御子名五瀬命次稲冰命次御毛沼命次若御毛沼命亦名豊御毛沼命亦名神倭伊波禮毘古命(四柱)故御毛沼命者跳波穂渡坐于常世國稲冰命者爲妣國而入坐海原也」、【この天津日高日子波限建鵜葺草葺不合はその叔母の玉依毘賣を妻として、生んだ子の名は、五瀬、次に稻氷、次に御毛沼、次に若御毛沼、亦の名は豐御毛沼、亦の名は神倭伊波禮毘古の四柱で、御毛沼は、波の穗を跳んで常世國に渡り、稻氷は、母の國の海原に入いった。】と訳した。

続いて、『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は「彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊天孫彦火々出見尊弟三子兒也亦云火芹尊也母曰豐玉姬命海童之大女也豐玉姬命弟玉依姬命立爲皇妃即海童之少女姬也誕生四御子矣兒彦五瀨命中賊矢薨也次稻飯命没海爲鋤持神三毛野命往常世郷次磐余彦命神武天皇」、【彦波瀲武鸕鷀草葺不合は天孫・彦火々出見の第三子で火折ともいう。母を豊玉姫という。海童の上の娘である。豊玉姫の妹の玉依姫を立てて皇妃として、すなわち、海童の下の

娘だ。四人の子を生んだ。子の彦五瀬は賊の矢にあたって死んだ。次に、稲飯で海に没して鋤持神となった。次に、三毛野で常世の郷に行った。次に、磐余彦で神武天皇だ。】と訳した。

それぞれ、神武天皇の名前が異なり、『古事記』は『日本書紀』一書()の 三毛入野の家系の人物を神武天皇とし、その御毛沼おそらく神国の毛野→若神国の毛野→豊神国の毛野と名前が推移し、三国→若狭→豊国(日向)と国を移動して日向から天皇に即位したと主張していると考えられる。

『日本書紀』は神話部分に 彦五瀬・稻飯・三毛入野の後の姿を記述せず、記録である神武紀に記述し、『古事記』・『舊事本記』は『日本書紀』を基にしているても、神話に入れて、『日本書紀』の神武天皇が物部氏の畿内侵入より以前の事であると示している。

そして、『古事記』から推理すると、神武天皇の建国が、三国王から始まり、葛城氏が若狭にいる時、崇神天皇が第二の神武天皇、そして、390年頃に第三の神武天皇の応神天皇建国したと解り、神が付く天皇は皇祖(神祖)の意味で、すでに、『舊事本記』に神武天皇と記述され、私は、以前、継体元号が始まったことから、継体天皇の時代から始まったと記述した。

『舊事本記』も『日本書紀』の雄略天皇から推古天皇までも、共に馬子達が記述して、同じ史観で記述され、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』の法興元丗一年は法興帝と自称していたことを示す

2021年11月19日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第十段8

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「・・・是海神之女豊玉毗賣命自参出白之妾已妊身今臨産時此念天神之御子不可生海原故参出到也尓即於其海邊波限以鵜羽爲葺草造産殿於是其産殿未葺合不忍御腹之急故入坐産殿之時白其日子言凡侘國人者臨産時以本國之形産生故妾今以本身爲産願勿見妾於是思奇其言竊伺其方産時者化八尋和迩而匍匐委蛇即見驚畏而遁退尓豊玉毘賣命知其伺見之事以爲心恥乃生置其御子而白妾恒通海道欲往來然伺見吾形是甚怍之即塞海坂而返入是以名其所産之御子謂天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(訓波限云那藝佐訓葺草云加夜)然後者雖恨其伺情不忍戀心因治養其御子之縁附其弟玉依毘賣而獻歌之其歌曰阿加陀麻波袁佐閇比迦禮杼斯良多麻能岐美何余曽比斯多布斗久阿理祁理尓其比古遅荅歌曰意岐都登理加毛度久斯麻迩和賀韋泥斯伊毛波和須禮士余能許登碁登迩故日子穂々手見命者坐高千穂宮伍佰捌拾歳御陵者即在其高千穂山之西也」、【そこで、海神の娘の豐玉毘賣は、「私は妊身していて、もう臨月になった。天神の子は、海原で生んではならないと思って遣って来た」と言ってきた。それで、その海辺の波限に、鵜の羽を葺草代わりにして、産屋を造った。それで、その産屋が、まだ葺きあがっていないのに、産気づいて我慢できずに、産屋に入った。それで産もうとする時に、日子に「すべて異国の者は、産むに臨めば、本国の形式で産む。だから、私は今、本の装いで産みます。お願いだから私を見ないで。」と言った。そこで、その言葉を奇異に思って、産むところを覗くと、八風の1尋の和迩になって、腹ばい匍匐でくねくね動いた。それを見て驚き恐れて、逃げ去った。それで、豐玉毘賣は、覗き見した事を知って、恥じらって、子を生んだまま、「私はいつも、海の道を通って往来しようとした。しかし私の様子を覗き見したので、とても恥をかいた。」と言って、海の坂を塞いで返った。それで生んだ子を天津日高日子波限建鵜葺草葺不合と名付けた。しかし、後には覗かれて恨んだが、愛しい気持ちが我慢できず、育てたいので、妹の玉依毘賣にたのんで、歌を献上した。その歌(略)で言った。そこで比古遅は答えて歌った(略)。それで、日子穗穗手見は、高千穗の宮に伍佰捌拾年居た。陵は高千穗の山の西に在る。】と訳した。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は続けて「・・・先是且別時豐玉姬縦容語曰妾已有娠矣天孫之胤當産不久豈産於海中乎故當産時必就君處如爲當以風濤速日出致海邊爲我造産屋於海邊以相待者是(?)望也是後弟尊還鄉即以鵜鶿之羽(?)作爲産屋(?)未及(?)合之時豐玉姬自馭大龜亦云爲龍將女弟玉依姬光海來到孕月巳滿産期方急由此不得(?)合侄入居焉縱容謂天孫曰妾今夜當産請勿臨之天孫心恠其言不聽(?)請竊視私屏則化爲八尋大鰐(?)匐逶虵遂以見辱深懷慙恨既兒生之後天孫就問曰兒名何称者當可乎對曰宜号彦波瀲武鸕鶿草(?)不合(?)以然謂者以彼海濱産屋全用鸕鶿羽爲草(?)(?)未合時兒即生焉因以名焉天孫不從豐玉姬言豐玉姬大恨之曰不用吾言令我屈辱自今已後妾奴婢至君處者勿覆放還君奴婢至妾處者亦勿放還此海陸不相遍之緣也遂以真床覆衾及草(?)其兒置于波(?)即豐玉姬命自抱而入海郷去矣亦云留其女弟玉依姬持養侄焉去久之日天孫之(?)不冝置其海中乃使玉依姬命持之遂出矣天孫取夫人爲乳母及飯嚼湯坐矣凡諸神部備行以奉養焉于時權用他婦以乳養皇子焉此世取乳母養兒之(?)也是豐玉姬命聞其兒端正心甚憐重欲歸養於義不可故遣女弟玉依姬命以來養者矣即爲御生一兒則武位起命矣初豐玉姬命別去之時恨言既切天孫知其不可覆會乃方贈歌一首豐玉姬命寄玉依姬命即奉報歌一首凡此贈荅号日舉歌誕生彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊次武位起命大和國造等祖」とあり、似ているが、『古事記』は、豊玉毗賣が海原の海神で夫が日子でその日子は比古遲、すなわち、塩椎神か宇摩志阿斯訶備比古遅神しか登場しないので、塩椎の老翁イコール阿斯訶備比古遅の可能性が有る。

それに対して、『舊事本紀』は豐玉姫が海中の姫と黄海近辺を示唆し、天孫すなわち饒速日の家系の王と記述して、天孫の子の「武位起」が大和國造の祖としているが『舊事本紀』の後部には「椎根津彥命爲大倭國造即大和直祖」すなわち「武位起」が『日本書紀』に「國神名曰珍彦釣魚於曲浦・・・特賜名爲椎根津彦」とあるように、ここで、この説話の出所を記述してる。

また、『古事記』は穗穗手神を高千穂宮で伍佰捌拾年間祀ったと記述されているようだが、199年仲哀天皇に「自穴門至向津野大濟爲東門以名篭屋大濟爲西門」を領有していた「伊覩縣主祖五十迹手」が「迎于穴門引嶋而獻」と穴門まで迎えたと、「伊蘇志」に書いてある、すなわち伊都国史に書いてあるとして、この年に山口の向津具半島から佐賀の松浦半島までの領地を引っさげて帰順し、これが『後漢書』の拘奴國を含めた倭國である。

ただし、199年「九月乙亥朔の日干支」が九州暦なので、実際は289年の「倭漢直祖阿知使主其子都加使主並率己之黨類十七縣而來歸焉」がこの記述と考えられる。

これが、伊襲国の高千穂宮の終わった時で、恐らく、『後漢書』に倭国・倭奴国があるのに、『漢書』には倭や倭人で倭国が無いので、『日本書記』の東征が紀元前670年ころから始まっているので、紀元前200年頃から倭人の建国が始まったと理解でき、仲哀天皇が大倭王で『後漢書』の「大倭王居邪馬臺國」で「到儺縣因以居橿日宮」と邪馬台国が橿日だった事を示し、邪馬台国に卑弥呼を擁立すると、倭国が纏まり、『後漢書』の倭種の拘奴國の宗像以東は豊国、南部は熊襲の狗奴國が支配したと思われる。

もちろん、それ以前、紀元前667年以前から、燕配下の倭人・熊襲の日干支を持つ王朝が有ったため、『日本書紀』の晦日が朔だった、九州の1月ズレた日干支や1日ズレた日干支を記述して、畿内の正しい朔の日干支と対応させることが出来た。

2021年11月17日水曜日

終兵器の目  『日本書紀』一書 第十段7

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「・・・是火袁理命思其初事而大一歎故豊玉毗賣命聞其歎以白其父言三年雖任恒無歎今夜爲大一歎若有何由故其父大神問其聟夫曰今旦聞我女之語云三年雖坐恒無歎今夜爲大歎若有由哉亦到此間之由奈何尓語其大神備如其兄罰失鈎之状是以海神悉召集海之大小魚問曰若有取此鈎魚乎故諸魚白之頃者赤海鯽魚於喉鯁物不得食愁言故必是取於是探赤海鯽魚之喉者有鈎即取出而清洗奉火遠理命之時其綿津見大神誨曰之以此鈎給其兄時言状者此鈎者游煩鈎須々鈎貧鈎宇流鈎云而於後手賜然而其兄作高田者汝命營下田其兄作下田者汝命營高田爲然者吾掌水故三年之間必其兄貧窮若恨怨其爲然之事而攻戰者出塩盈珠而溺若其愁請者出塩乾珠而活如此令惚苦云授塩盈珠塩乾珠并兩箇即悉召集和迩魚問曰今天津日高之御子靈空津日高爲將出幸上國誰者幾日送奉而覆奏故各随己身之尋長限日而白之中一尋和迩白僕者一日送即還來故尓告其一尋和迩然者汝送奉若度海中時無令惶畏即載其和迩之頚送出故如期一日之内送奉也其其和迩將返之時解所佩之劔小刀著其頸而返故其一尋和迩者於今謂佐比持神也是以備如海神之教言與其鈎故自尓今以後稍兪貧更起荒心迫來將攻之時出塩盈珠而今溺其愁請者出塩乾珠而救如此令惚苦之時稽白僕者自今以後爲汝命之昼夜守護人而仕奉故至今其溺時之種種之態不絶仕奉也於・・・」、【そこで火遠理は、事の起こりを思い出して、大きなため息をついた。それで、豐玉毘賣は、そのため息を聞いて、父に「三年住んだが、いつも嘆くことが無かったが、今夜大きなため息をついた。もしかした何か訳があるのだろうか。」と言った。それで、父の大神が、婿に「今朝娘が言うのには、『三年経ったが、今まで嘆くことが無かったが、今夜、なぜか大きなため息をついた。』と聞いた。なにかわけがあるのか。またここにきたわけは何か。」と聞いた。そこで大神に、詳しく兄の失くした鉤のため咎められたとおりに語った。それで海神は、全ての海の大小の魚を召び集めて、「もしかした鉤を取った魚は居るか。」と問いただした。それで、魚達が「この頃、赤鯛が、喉に刺さる小さな魚の骨が有って、物を獲って食えないと悩んでいると言った。それで、きっととったのだろう。」と言った。それで赤鯛の喉を探ったら、鉤が有った。それで取り出して、洗い濯いで、火遠理に渡した時に、綿津見の大神が「この鉤を、兄に渡す時に、『この鉤は、煩わしく思う鉤、待たされる鉤、貧しくなる鉤、はっきりしない鉤。』と言って、ふんぞり返って与えなさい。それで兄が、高い場所に田を作ったら、あなたは下で田をいとなめ。兄が、低い所に田を作ったら、お前は高い場所で田をいとなめ。そうすると、お前が水を司るから、三年もすれば、きっと兄は困窮するだろう。もしそうした事を恨んで攻撃してきたら、潮が満ちる珠を出して溺らせ、もし懇願してきた、潮が引く珠を出して救う、このようにじわじわと苦しめなさい。」と教えて、潮が満ちる珠、潮が引く珠を一緒に二箇を与えて、残らず和迩達を呼び集めて、「今、天津日高の子の虚空津日高が、第2位の国に行こうとしている。誰が幾日で送れるか返事を聞かせろ。」と問いかけた。それで、各自の船の大きさごと、所要日数を言ってくる中で、一尋和迩が「私は一日で送って、帰って来る。」と言った。それでその一尋和迩に、「それならお前が送れ。もし海中を渡る時は、気をつけてな。」と告げて、その和迩の頚の位置に乗せて、送り出した。それで、約束通り、一日で送った。その和迩を返す時、帯びた紐と小刀を解いて、頚につけて返した。それで、その一尋和迩は、今、佐比持の神という。それで海神の教へそのままに、鉤を返した。それで、それ以後、少しずつどんどん貧しくなって、さらに荒んで迫って来た。攻められた時は、潮が満ちる珠を出して溺らせ、救いを求めたら、潮が引く珠を出して救い、このようにじわじわと苦しめられた時に、考えて「私は今から以後は、お前を昼夜の守護になって仕える。」と言った。それで、その溺れた時の種々の状態を今になっても思い、絶えず仕へた。】と訳した。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は続けて「・・・安樂猶有憶鄉之情故時覆大息豐玉姬聞之謂其父神白在貴客意望欲還上國悽然數歎益懷土之憂乎海神乃延天孫縱容謂曰今者天神之孫辱臨吾處中心欣慶何日忘矣若欲還鄉者吾當奉送海神乃奉授此釣教日以潮溢之瓊潮涸之瓊則副其釣而奉進之日皇孫雖隔八重之隈冀時覆相憶而勿棄置也因教曰以此釣還與汝兄時天孫則可謂言貧窮之本飢饉之始困若之根陰呼此釣當称汝生子八十連屬之貧釣滅釣癡駿釣踉䠙釣可以後手投棄與之勿以向授則三下唾矣覆汝兄涉海時吾必起迅風洪濤令其沒溺辛苦矣若兄發怨怒有賊害之心則出潮溢之瓊以漂溺若巳至危苦求愍者則出潮涸瓊救助如此逼惱自當臣伏矣覆兄入海釣時天孫宜在海濱以風招風招嘯也如此則吾起瀛風邊風以奔波溺惚之也覆教曰兄作高田者汝可作洿田兄作洿田者汝可作高田矣海神盡誠奉助如此海神召集鰐魚問之曰天神之孫今當還去你等幾日之内則奉以致時諸鰐魚各隨其長短定其日數中有一尋鰐自言一日之内則當致焉故即遣一尋鰐魚矣以奉送焉天孫歸來依海神教先以其釣與兄兄怒不受故弟出潮溢瓊則潮大溢而漬足時則為足占致膝時則舉足至股時走迴至腰時則捫腰至腋則置手於胸至頸則舉手瓢掌請之曰吾當事汝為奴僕願垂救活矣弟尊出潮涸瓊則潮自涸而兄還平覆矣兄命釣之日弟尊居濱而嘯之時迅風急起兄(重複・・・>)則溺苦無由可生使遥請弟尊曰汝久居海原必有善術願以赦之若活我者吾生兒八十連(?属 暑)不離汝之垣邊當為俳優之民矣弟嘯已停風亦還息故兄知弟德欲自伏辜而弟尊有慍色不與共言爰兄著犢鼻以赭塗諸掌而告其弟尊曰吾污身如此未為汝俳優者乃舉足蹈行學其溺苦之狀兄命曰以襤(?樓:示編)而戻之日吾巳貧矣乃歸伏於弟之時出潮溢瓊則兄命舉手弱之因還出潮涸瓊則然而平覆矣兄命改前日吾是汝兄矣如何為人兄而事弟耶弟尊時出潮溢瓊兄見之走登高山則潮亦沒山兄命緣高樹則潮上沒樹兄命既窮途無(?)逃去乃伏罪曰吾已過矣從今已後吾子孫八十連屬恆當爲汝俳人亦爲狗人請哀之(<・・・重複)弟尊還出潮涸瓊則潮自息於是兄知弟尊有神德遂從伏事其弟尊是以兄命苗裔諸隼人等至今不離天皇宮牆之傍伏吠狗而奉事者矣世人不責失針此其緣也】とあり、概ね同じで、上国に帰ると述べているが、上国は最上位の天の王の天子の国の直近の国でまさに天孫の国はそれに当たり、天孫の国王の天津日高の子が『古事記』は火袁理、『舊事本記』は火々出見で兄の其々火照・火酢芹から王位を奪った事が記述されている。

天津日高は火瓊瓊杵の職名で隠岐の焼火山の出身と考えられ、穂の国に天から降っているのだから、火々出見は穂火出見、すなわち、穂の火出身の神のことで、後代に「ほ」を穂と火に当て嵌めたと考えるべきだろう。

和迩は曲浦、豊玉彦は瀬戸内海西部で丈夫国、三身国の1国で、大人国・大国は『出雲風土記』に三身の綱によって国を統一し、それは大人国と越・君子国と朝鮮半島と八国で、その杭はそれら以外の国で、冠帶で武器を使わない、帶劍でない国、隠岐島後と思われる「周饒國」の可能性が高い。

すなわち、火照・火酢芹は穂照・穂酢芹で元々、隠岐の上国の王だった海士で、侵略して穂国の山の中に移住した出張所の役人で天津彦から虚空津彦と職名で呼ばれた火袁理・火芹が豊玉国王の援助で穂国を奪って、元の穂王達を「いぬ」と呼び、後代、史書を記述する時に、『三国志』・『後漢書』を読んで「狗奴國」の王が旧穂王だったので「いぬ」を「狗」と記述したと考えられる。

すなわち、後漢時代に大倭王の稚足彦の配下の豊国穴門の王が協力して「狗奴國」の熊襲を豊後方面に追い出した「岡縣主の祖の熊鰐」の神話や熊襲征伐した倭建・諸縣君牛諸井達の神話が使われ、日向国から進撃した神武天皇の葛城襲津彦すなわち(日向・熊)襲の王の母親達の神話を記述していると考えられる。

『舊事本紀』にとっての火明は饒速日で火照は後から侵略してきた人物だと主張している。

2021年11月15日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第十段6

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「・・・故随教小行備如其言即登其香木以坐尓海神之女豊玉毗賣之從婢持玉器將酌水之時於井有光仰見者有麗壮夫以爲甚異奇尓火遠理命見其婢乞欲得水婢乃酌水入玉器貢進尓不飲水解御頚之璵含口唾入其玉器於是其璵著器婢不得離璵故璵任著以進豊玉毘賣命尓見其璵問婢曰若人有門外哉荅曰有人坐我井上香木之上甚麗壮夫也益我王而甚貴故其人乞水故奉水者不飲水唾入此璵是不得離故任入將來而獻尓豊玉毘賣命思奇出見乃感目合而其父白吾門有麗人尓海神自出見云此人者天津日高之御子虚空津日高矣即於内率入而美智皮之疊敷八重亦絁疊八重敷具上坐具上而具百取机代物爲御饗即令婚其女豊玉毗賣故至三年住其國於・・・」、【それで、教え通りに少し行くと、言われた通りのようで、香木に登っていた。そこに海神の娘の、豐玉毘賣の従者が、玉の器で水を酌もうとした時に、井戸が光った。上を見たら、立派な強者が居たのでとても奇異に思った。そこで火遠がその使用人を見て、水が欲しいと思って求めた。使用人は水を酌んで、玉の器に入れて差し出した。飮まないで、頚の宝玉を外して口に含んで、玉の器に吐き入れた。そこでその宝玉を、器に入れて、使用人が宝玉を放さなかった。それで、宝玉を入れたまま、豐玉毘賣に差し出した。そこでその宝玉を見て、使用人に「もしかしたら、門外に人がいるのか。」と聞くと、答へて「人がいて、井戸の上の香木の上座っていた。とてもりっぱな強者だ。我が王よりもとても気品が有る。それで、その人が水を求めたので、水を差しだすと、水を飲まず、此の宝玉を吐き入れた。それで放さなかった。それで、入れたまま持って来て差し出した。」と答えた。ここで豐玉毘賣、奇異に思って、出で見ると、見染めて見つめ合い父に「門に立派な人がいる。」と言った。それで、海神が、自ら出て見ると、「この人は、天津日高の子の虚空津日高だ。」と言って、中に引き入れて、アシカの皮の畳を八つに重ねて敷き、太絹の畳を八つに重ねて敷き、その上に座らせて、お膳と食べ物を具えて、饗応して、その娘の豐玉毘賣と結婚させた。それで、三年経つ間その国に住んだ。】と訳した。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版は続けて「・・・天孫從鰐(?)言留居相待已八日矣久之方有一尋鰐來因乘而入海之時自然有可伶小汀御坂故毎遵前鰐之教尋路而自進忽至海神宮其宮也城舍宗華樓臺玲瓏門前有一井井一才湯津杜樹枝葉枎跣火芹尊就樹下跳昇其樹而彷徨良久乃有一美人井底笑顏容貌絕世是海神女豐玉姬侍者群從白内而出皆以玉壺汲井水井中見人影在於水底不得酌取因舉目仰見天孫乃驚排闥還入白其父王曰吾謂我王獨能絕麗吾貴希客者有門前井邊樹下其骨法非常遠勝海神若從天降者當有天垢從地來者當有地垢實是妙美之虛空彦者欤爰豐玉彦遣人問曰客是誰者何以至此矣天孫對曰吾天神之孫也乃遂言來之時海神聞之曰試以察之乃設三床鋪設以八重席薦海神迎拜延入之時天孫於邊床則拭其兩足於中床則拭兩手於内床則坐定於真床覆衾之上海神之乃知天神之孫益加崇敬慇懃奉慰兼設備百机以盡主人之礼從容問曰天神之孫何以辱臨乎須吾兒來語察天孫對以情之委曲海神乃起憐心盡國召鱗廣鱗狹而問之皆謂不知但口女有口疾即急召至探其口者所失之釣立得實矣其口女者即鰡魚矣亦云赤女召鯛也海神制云你口女從今以後不得吞餌後不得預天孫之饌則以口女魚(?)以不進供御者此其緣也于時海神以女子豐玉姬妻之遂纏綿篤愛留住海宮已經三年雖覆・・・」と、『古事記』とほゞ変わらない。

ここでは、親子の名前が注目点で、父の豊玉彦で子が豊玉姫、すなわち、共に役職名で豊国の玉という地位か地域の王、我が王に報告しているのだから、玉彦は王で、豊玉姫は豊国の女王、妹の玉依姫は玉の分家の女王と言うことになる。

すなわち、名前は親子で相続されて、玉という地域に居る限り、王や女王で有る限り、名前は変わらない事が示されている。

ところが、天孫は天津日高が父で子が虚空津日高で「日高」がどの程度の地位なのかどうかは解らないが、住んでいた場所が、瓊々杵は天で火々出見は天から降ったので、虚空という所の「日高」という地位の人物だと理解される。

そして、『日本書紀』も、『古事記』や『舊事本記』の記述時代になると天を虚空と記述し海士の意味から天上の意味に変化しており、中国でも、「天」と呼ばれる地域は、黄海などとともに天山山脈などの水源の山を天と呼んでいて、日本では海から山に移った海士を「虚空」(空に近い)と呼んだと考えられる。