2020年11月9日月曜日

最終兵器の目 斉明天皇3

 『日本書紀』慶長版は

四年春正月甲申朔丙申左大臣巨勢德太臣薨夏四月阿陪臣率舩師一百八十艘伐蝦夷齶田渟代二郡蝦夷望怖乞降於是勒軍陳舩於齶田浦齶田蝦夷恩荷進而誓曰不爲官軍故持弓矢伹奴等性食肉故持若爲官軍以儲弓失齶田浦神知矣將清白心仕官朝矣仍授恩荷以小乙上定渟代津輕二郡々領遂於有間濱召聚渡嶋蝦夷等大饗而歸五月皇孫建王八歳薨今城谷上起殯而收天皇本以皇孫有順而器重之故不忍哀傷慟極甚詔群臣曰萬歳千秋之後要合葬於朕陵輙作歌曰伊磨紀那屢乎武例我禹杯爾倶謨娜尼母旨屢倶之多多婆那爾柯那皚柯武 伊喩之々乎都那遇舸播杯能倭柯矩娑能倭柯倶阿利岐騰阿我謨婆儺倶爾 阿湏箇我播瀰儺蟻羅毗都都喩矩瀰都能阿比娜謨儺倶母於母保喩屢柯母 天皇時々唱而悲哭秋七月辛巳朔甲申蝦夷二百餘詣闕朝獻饗賜贍給有加於常仍授柵養蝦夷二人位一階渟代郡大領沙尼具那小乙下少領宇婆左建武勇健者二人位一階別賜沙尼具那等鮹旗二十頭鼓二面弓矢二具鎧二領授津輕郡大領馬武大乙上少領青蒜小乙下勇健者二人位一階別賜馬武等鮹旗二十頭鼓二面弓矢二具鎧二領授都岐沙羅柵造位二階判官位一階授渟足柵造大伴君稻積小乙下又詔渟代郡大領沙奈具那撿覈蝦夷戸口與虜戸口是月沙門智通智達奉勅乗新羅舩往大唐國受無性衆生義於玄弉法師所冬十月庚戌朔甲子幸紀温湯天皇憶皇孫建王愴爾悲泣乃口号曰耶麻古曳底于瀰倭拖留騰母於母之樓枳伊麻紀能禹知播倭湏羅庾麻旨珥 瀰儺度能于之裒能矩娜利于那倶娜梨于之廬母倶例尼飫岐底舸庾舸武 于都倶之枳阿餓倭柯枳古弘飫岐底舸庾舸武詔秦大藏造萬里曰傅斯歌勿令忘於世

【四年の春正月の朔が甲申の丙申の日に、左の大臣の巨勢の徳太の臣が薨じた。夏四月に、阿陪の臣が軍船百八十艘を率いて、蝦夷を伐った。齶田と渟代の二郡の蝦夷が、船団を見て恐れて降伏を願い出た。そこで、軍船を整列させて、齶田の浦で軍容を見せつけた。齶田の蝦夷の恩荷は、前に出て「官軍に対しての弓矢を持っていません。ただし私達は、肉食で肉を獲るために持っている。もし官軍に対して弓矢をたくわえたなら、齶田の浦の神にばれてしまう。きよらかで汚れのない気持ちで、朝廷に仕えます」と誓った。それで恩荷に小乙上を授け、渟代と津軽の二郡の郡領に決めた。それで有間の濱に、渡の嶋の蝦夷達を呼び集めて、盛大な饗応を開いて帰した。五月に、皇孫の建王が、年齢が八歳で薨じた。今城の谷の上に、遺体を一時安置所に置いた。天皇は、もともと皇孫が素直で、とても可愛がったので悲しさを隠しきれず、大声を立てて泣き悲しんで、役人に「ずっと後でもいいから絶対に私の陵墓に合葬しなさい」と詔勅した。それで歌を作った()天皇は、1つの歌を唱えるたびに泣き叫んだ。秋七月の朔が辛巳の甲申の日に、蝦夷二百人余が、朝廷にやって来て朝貢した。饗応して恵を与えた。いつもより多かった。それで、柵養の蝦夷二人に位を一階授けた。渟代の郡の長官の沙尼具那には小乙下、補佐の宇婆佐には建武の位、勇敢な二人には位一階。別に沙尼具那達に、吹流しを二十頭と鼓を二面と弓矢を二具と鎧を二領与えた。津輕の郡の長官の馬武に大乙上、補佐の青蒜に小乙下、勇敢な二人には位一階を授けた。別に馬武達に、鮹旗二十頭・鼓二面・弓矢二具・鎧二領を与えた。都岐沙羅の柵の造には位二階を授けた。判官には位一階、渟足の柵の造の大伴の君の稻積には小乙下を授けた。また、渟代の郡の長官の沙尼具那に、蝦夷の戸数と、捕虜の戸数をきびしく調べるよう詔勅した。この月に、修行僧の智通と智達が詔勅を受けて、新羅の船に乗って、大唐国に行って、実態が無いものや人間の条理を、玄奘法師(664年薨)の所で授けられた。冬十月の朔が庚戌の甲子の日に、紀の温泉に行幸した。天皇は、皇孫の建の王を思いやって、悼み悲しんで歌()を口ずさんだ。秦の大藏の造の萬里が「この歌を世間に知らせて忘れないようにしように」と詔勅した。】とあり、七月辛巳朔は6月30日で小の月なら標準陰暦と合致し、他は標準陰暦と合致する。

建武の冠位は大化三年に「六曰黒冠有大小二階・・・七曰建武」と647年に制定されたが、大乙上冠や小乙下冠は無く、大化五年「十五曰大乙上十六曰大乙下十七曰小乙上十八曰小乙下十九曰立身」と649年に制定されるが今度は建武冠が無く立身冠で、天智天皇三年に「大乙上大乙中大乙下小乙上小乙中小乙下大建小建」と大乙上冠や小乙下冠が有り、建武冠はあるが大小がある。

最下位を建武と呼んでいた可能性が高く、664年から天武天皇十四年「并册八階。以前諸臣之位。」の685年までの間で、667年の可能性が高い。

それは、舒明天皇十三年「是時東宮開別皇子年十六而誄之」と、実際は舒明天皇の時には立太子しておらず、「譲位於輕皇子立中大兄爲皇太子」の時太子になっているので、孝徳天皇の崩の時に天智天皇が16歳で、或本云で「方今皇子年始十九未及成人可至成人而待其徳」と有間皇子が19歳で未成人だから徳が無いと一般的な皇位就任条件が記述され、天智天皇が皇位に就けずに母の皇極天皇が即位したということが解る。

そして、天智天皇が即位するのが668年の天智天皇七年「皇太子即天皇位」すなわち『野中寺 銅造弥勒菩薩半跏思惟像 本像台座の框』に「丙寅年四月大旧八日癸卯開記栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時」と666年に病気だった中宮天皇、『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』の「小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉」と667年に小治田大宮天皇が回復のお礼に仏像を奉納した。

そして、その翌年成人したので即位したのだが、この中宮小治田天皇が斉明天皇とすると斉明4年は667年に該当し、建王は661年に1歳で天智天皇12歳、667年7歳だから死亡年齢は「数え」で8歳になる。

2020年11月6日金曜日

最終兵器の目 斉明天皇2

 『日本書紀』慶長版は

二年秋八月癸巳朔庚子髙麗遣達沙等進調九月遣髙麗大使膳臣葉積副使坂合部連磐鍬大判官犬上君白麻呂中判官河內書首小判官大藏衣縫造麻呂是歳於飛鳥岡本更定宮地時髙麗百濟新羅並遣使進調爲張紺幕於此宮地而饗焉遂起宮室天皇乃遷号曰後飛鳥岡本宮於田身嶺冠以周垣復於嶺上兩槻樹邊起觀号爲兩槻宮亦曰天宮時好興事廼使水工穿渠自香山西至石上山以舟二百隻載石上山石順流控引於宮東山累石爲垣時人謗曰狂心渠損費功夫三萬餘矣費損造垣功夫七萬餘矣宮材爛矣山椒埋矣又謗曰作石山丘隨作自破又作吉野宮西海使佐伯連𣑥繩小山下難波吉士國勝等自百濟還獻鸚鵡一隻灾岡本宮三年秋七月丁亥朔巳丑覩貨邏國男二人女四人漂泊于筑紫言臣等初漂泊于海見嶋乃以驛召辛丑作湏弥山像於飛鳥寺西且設盂蘭瓮會暮饗覩貨邏人九月有間皇子性黠陽狂云云往牟婁温湯偽療病來讚國體勢曰纔觀彼地病自蠲消云云天皇聞悅思欲往觀是歳(?使)使於新羅曰欲將沙門智達間人連御廐依網連稚子等付汝國使令送到大唐新羅不肯聽送由是沙門智達等還歸西海使小華下阿曇連頰垂小山下津臣傴僂自百濟還獻駱駝一箇驢二箇石見國言白狐見

【二年の秋八月の朔が癸巳の庚子の日に、高麗が、達沙達を派遣して年貢を進上した。九月に、高麗に大使の膳の臣の葉積と、副使の坂合部の連の磐鍬と、大判官の犬上の君の白麻呂と、中判官の河内の書の首と、小判官の大藏の衣縫の造の麻呂を派遣した。是歳に、飛鳥の岡本に、今の宮に加えて宮地を決めた。その時、高麗と百濟と新羅が、同時に使者を派遣して年貢を進上した。それで紺の幕をこの宮地に張って、饗応した。そして宮殿が建って天皇は遷った。後の飛鳥の岡本の宮と名付けた。田身の嶺は、垣根を巡らして冠木門を造り、また、嶺の上の2本のケヤキの樹の近くに、楼観を建てた。兩槻宮と名付けた。または天の宮と言った。その時にいろんなことを面白がった。それで水を利用するために用水を掘らせた。香山の西から、石上の山までだ。舟を二百隻に、石上の山の石を載んで、流れに沿って石を引き流し、宮の東の山に石を積み上げて石垣にした。当時の人が、「心を狂わせて作った水路だ。人夫を三萬余を犠牲にした。石垣を造るのに人夫を七萬余を犠牲にした。宮殿を造る材木は朽ち果て、山頂が埋もれてしまった」と蔭口を叩いた。また、「石の山を作った。造る最中に前に造ったところが壊れていった」と蔭口を叩いた。また、吉野の宮を造った。西海使の佐伯連の栲繩と小山下の難波の吉士の國勝達が、百済から帰って、鸚鵡を一隻献上した。岡本の宮が火事になった。三年の秋七月の朔が丁亥の己丑の日に、覩貨邏国の男が二人と、女が四人が、筑紫に漂着した。「私達は、はじめ海見の嶋に漂着した」と言った。それで通訳として呼んだ。辛丑の日に、須彌の山の像を飛鳥寺の西に造った。また、お盆の読経の盂蘭盆会を開いた。日が暮れて覩貨邏人を饗応した。九月に有間の皇子が、悪賢こく狂人のふりをした云云。病を治すと理由を作って牟婁の温泉に行って、帰って来て、国の様子や勢いを「ほんの少し其処を見ただけで、病気が自然に治った」云云と賞賛した。天皇は、聞いて喜んで、行ってみたいと思った。この歳に、使者を新羅に派遣して「沙門の智達と間人の連の御廐と依網の連の椎子達を引き連れて、お前の国の使者に付いて、大唐に使者を送りたいと思う」と言った。新羅は、送ることを聞き入れなかった。これで、沙門の智達達は、帰って来た。西海使の小花下の阿曇の連の頬垂と小山下の津の臣の傴僂が百済から帰って、駱駝を一頭、驢馬を2頭献上した。石見の国が、「白い狐を見た」と言った。】とあり、八月癸巳朔は8月2日で7月は小の月で大の月なら標準陰暦と合致し、8月1日が癸巳の日はこの世紀には無く、また、他は標準陰暦と合致する。

ここの覩貨邏人は白雉五年「四月吐火羅國男二人女二人舍衛女一人被風流來于日向」の吐火羅と同一民族かどうかわからず、少なくともここの覩貨邏人は後代済州島の人と解釈しているのでトカラ列島人と思われ、『新唐書』列傳第一百四十六「吐火羅或曰土豁羅」に西域の大夏は漢字では吐火羅が共通語で、少なくとも唐の時代以降の人々は吐火羅の文字を使う。

この項にはいくつもの宮が記述されるが、『古事記』では「沼名倉太玉敷命坐他田宮治天下・・・崗本宮治天下之天皇」、「橘豊日命坐池邊宮治天下」、「長谷部若雀天皇坐倉椅柴垣宮」、「豊御食炊屋比賣命坐小治田宮」と記述され、『船王後墓誌』では「生於乎娑陀宮治天下天皇之世奉仕於等由羅宮治天下天皇之朝至於阿須迦宮治天下天皇・・・阿須迦天皇之末 歳次辛丑」と、勿論、辛丑は641年で581年は『日本書紀』なら敏達10年で等由羅天皇は『日本書紀』では593年だ。

まとめると、他田宮→?→等由羅宮→阿須迦宮→池邊宮→柴垣宮→小治田宮→崗本宮で?は船王が子供で奉仕しなかったので?とし、『古事記』完成は崗本宮天皇の時に小治田宮天皇までを記述したので文中に崗本宮を書いたと判断し、もし次の天皇の時に『古事記』を書いたのなら崗本宮天皇は独立した記述になったはずである。

そして、『船王後墓誌』から641年に阿須迦天皇が崩じたのだからやはりこの天皇は飛鳥の前の岡本宮天皇で、642年から池邊天皇が即位し、『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』「池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳次丙午年・・・然當時崩賜造不堪」と『日本書紀』では586年は用明元年で用明天皇が病気になったのは587年だが、実際は646・7年に崩じ647年は柴垣宮のはずである。

すなわち、『日本書紀』をこの順に並べ替えると、推古天皇前紀「皇后即天皇位於豐浦宮」、舒明天皇二年「天皇遷於飛鳥岡傍是謂岡本宮」、斉明天皇二年「於飛鳥岡本更定宮地・・・號曰後飛鳥岡本宮」「號爲兩槻宮亦曰天宮」「又作吉野宮」「災岡本宮」、皇極天皇元年「蘇我大臣蝦夷立己祖廟於葛城高宮」、大化三年「災皇太子宮時人大驚恠」、舒明天皇八年「災岡本宮天皇遷居田中宮」となる。

ということは、それを、正しいと思われる年の順で並べると、641年に用明天皇前紀「天皇即天皇位宮於磐余名曰池邊雙槻宮」、647年に崇峻天皇前紀「宮於倉梯」、『古事記』「治天下肆歳」で、651年に推古天皇十一年「遷于小墾田宮」は皇極天皇元年「天皇遷移於小墾田宮」、舒明天皇十一年「今年造作大宮及大寺則以百濟川側爲宮處」、白雉二年「大郡遷居新宮號曰難波長柄豐碕宮」、664年に斉明天皇七年「天皇遷居于朝倉宮」「天皇遷居于朝倉橘廣庭宮」、白雉五年「皇太子母奉皇祖母尊。遷居倭河邊行宮」、皇極天皇二年「自權宮移幸飛鳥板盖新宮」、斉明天皇元年「皇祖母尊即天皇位於飛鳥板盖宮」、666年に『野中寺 銅造弥勒菩薩半跏思惟像 本像台座の框』「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇」、667年に天智天皇六年「遷都于近江」、「送大山下境部連石積等於筑紫都督府」、「於小墾田造起宮闕擬將瓦覆」「災飛鳥板盖宮。故遷居飛鳥川原宮」となると考えた。

川原寺が筑紫にあり、朱鳥元年「爲饗新羅客等運川原寺伎樂於筑紫」と筑紫で饗応するのに饗応の場所を記述してないと言うことは、筑紫に首都があったことを示し、天武天皇十二年「凡都城宮室非一處必造兩參故先欲都難波」と683年に都を複数造ると宣言し、小墾田は断念し難波にまずは作ったと考えられ、たとえば、651年はある王の11年と他の王の元年が重なっていることを示す。

2020年11月4日水曜日

最終兵器の目 巻第二十六 斉明天皇1

  『日本書紀』慶長版は

天豊財重日足姫天皇初適於橘豊日天皇之孫髙向王而生漢皇子後適於息長足日廣額天皇而生二男一女二年立爲皇后見息長足日廣額天皇紀十三年冬十月息長足日廣額天皇崩明年正月皇后即天皇位改元四年六月讓位於天萬豊日天皇稱天豊財重日足姫天皇曰皇祖母尊天萬豊日天皇後五年十月崩元年春正月壬申朔甲戌皇祖母尊即天皇位於飛鳥板蓋宮夏五月庚午朔空中有乗龍者貌似唐人著青油笠而自葛城嶺馳隱膽駒山及至午時從於住吉松嶺之上西向馳去秋七月己巳朔己卯於難波朝饗北蝦夷九十九人東蝦夷九十五人幷設百濟調使一百五十人仍授柵養蝦夷九人津(?)蝦夷六人冠各二階八月戊戌朔河邊臣麻呂等自大唐還冬十月丁酉朔巳酉於小墾田造起宮闕擬將瓦覆又於深山廣谷擬造宮殿之材朽爛者多遂止弗作是冬災飛鳥板蓋宮故遷居飛鳥川原宮是歲髙麗百濟新羅並遣使進調蝦夷隼人率衆內属詣闕朝獻新羅別以及飡弥武爲質以十二人爲才伎者弥武遇疾而死是年也太歳乙卯

【天豊財重日足姫天皇は、はじめ橘豊日天皇の孫の高向王に嫁いで、漢の皇子を生んだ。後で息長の足日の廣額の天皇に嫁いで、二人の男子と一人の女子を生んだ。二年に、皇后になった。息長の足日の廣額の天皇の紀に見える。十三年の冬十月に、息長の足日の廣額の天皇が、崩じた。明年の正月に、皇后は、天皇に即位した。改元して四年の六月に、皇位を天の萬の豊日の天皇に讓った。天豊財重日足姫天皇を皇祖母の尊と言った。天の萬の豊日の天皇は、後の五年の十月に崩じた。元年の春正月の朔が壬申の甲戌の日に、皇祖母の尊は、飛鳥の板蓋の宮で、天皇に即位した。夏五月の庚午が朔の日に空中を龍に(乗った様に速く走る馬に)乗った者が居た。顔立ちは唐人のようだった。青い油を塗った笠を着けて、葛城の嶺から、膽駒の山駆け抜けていって見えなくなった。日暮れには(?夏至の昼間が14時間位で日の入り頃)、住吉の松嶺から、西に向って走り去った。秋七月の朔が己巳の己卯の日に、難波の朝廷で、北の蝦夷が九十九人、東の蝦夷九十五人に饗応した。一緒に百濟の年貢を納める使者の百五十人も饗応した。それで、峡養の蝦夷の九人と、津刈の蝦夷の六人に、冠を各々二階を授けた。八月の戉戌が朔の日に、河邊の臣麻呂達が、大唐から帰った。冬十月の朔が丁酉の己酉の日に、小墾田に、皇居を造って、瓦葺にしようとした。また奥深い山の大きい谷の木材で、宮殿を造ろうとしたが、朽ち果てた木が多くてやめて造らなかった。この冬に、飛鳥の板蓋の宮に火災が起こった。それで、飛鳥の川原の宮に遷った。この歳に、高麗と百済と新羅が、同時にに使者を派遣して年貢を進上した。蝦夷と隼人が人々を率いて服従した。朝廷の宮殿に参上して献上した。新羅は、別に及飡の弥武を人質にした。十二人を、手芸の担当者とした。弥武は病気で死んだ。この年は、太歳が乙卯だった。】とあり、七月己已朔は7月2日で、6月が小の月で大の月なら標準陰暦と合致し、7月1日で合致する干支は7世紀には存在せず、他は標準陰暦と合致する。

皇極天皇元年「天皇遷移於小墾田宮」と小墾田に遷都を計画し、「欲營宮室可於國國取殿屋材然東限遠江西限安藝」と遠くから材料を取り寄せたが造らず、皇極天皇二年「自權宮移幸飛鳥板盖新宮」と板盖宮を造って全く同じ話が記述されている。

『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』の「池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳次丙午年・・・然當時崩賜造不堪」と646年に池邊天皇が崩じ翌年「小墾田」に遷そうとしたが造らず『日本書紀』舒明天皇二年「天皇遷於飛鳥岡傍是謂岡本宮」、大化三年「十三階之冠・・・四曰錦冠」と647年制定された錦冠を『藤氏家伝』「崗本天皇御宇之初以良家子簡授錦冠」と648年に即位した崗本天皇が鎌足に授与し、「俄而崗本天皇崩皇后即位」と648年若しくは649年に皇極天皇が即位した。

そして『藤氏家伝』「十四年皇太子攝政」と664年が14年の王が即位したのは651年で13年間皇位に有ったのは崗本天皇で651年は皇極天皇2年に対応し、『古事記』の馬子が書いた舒明天皇は「坐崗本宮治天下之天皇」で『日本書紀』の後の舒明天皇が書いた舒明天皇は「息長足日廣額天皇」と記述され、皇后は「詔立豐御食炊屋姫尊爲皇后・・・其六曰田眼皇女是嫁於息長足日廣額天皇」と夫人は田眼皇女で、この舒明天皇の時はまだ皇極天皇は舒明天皇の皇后では無かった。

そして、天智天皇が書いた舒明天皇は「田眼皇女」を記述せず「宝皇女」が皇后の舒明天皇で、『古事記』沼名倉太玉敷「娶伊勢大鹿首之女小熊子郎女生・・・寶王亦名糠代比賣」、「日子人太子娶庶妹田村王亦名糠代比賣命生御子坐崗本宮治天下之天皇」で、『日本書紀』には「田村王」は追記であるだけで記述されず「糠手姫皇女」となっていて、舒明天皇の母が「母曰糠手姫皇女」と糠手姫で『古事記』では「糠代姫」でもあり、「宝皇女」は『日本書紀』では舒明天皇の母で皇后である。

このように、複数の舒明天皇が存在し、すると、天智天皇が『日本書紀』「茅渟王女也母曰吉備姫王」と「天豊財重日足姫」を書いているが、『日本書紀』の舒明天皇に合わせるため「茅渟王」を父としているが、妻である可能性が高く、「吉備嶋皇祖母」は「皇祖天智天皇」の母でなければ意味が通らなかった。

そして、『日本書紀』には「宝王」が「彦人」と兄弟と記述されず、『古事記』には舒明天皇の母が『日本書紀』で皇后、すると、『古事記』「娶漢王之妹大俣王生御子知奴王次妹桑田王」と「知奴王」の母「大俣王」が『日本書紀』では「知奴王」の妻で、『古事記』「娶春日中若子之女老女子郎女生御子難波王次桑田王次春日王次大俣王」のように「桑田王」と「大俣王」が姉妹で、「難波王」が「漢王」と言うことになり、『日本書紀』では一世代違うので「漢王」は全く記述されない。

そのかわり、『日本書紀』斉明天皇前紀に「初適於橘豐日天皇之孫高向王而生漢皇子」と漢皇子が兄弟ではなく子供として記述され、『日本書紀』の系図をまとめると、「高向王」も一世代前で「橘豊日」は「馬子」で「高向王」は俀国の王家の子で娘婿すなわち「東漢直駒偸隱蘇我娘嬪河上娘爲妻」で「高向王」は「漢王」の「東漢直駒」、その娘が「宝王」で婿が「彦人太子」の子の「茅渟王」で、その子が「天智天皇」と言うことになる。

そして、皇極天皇は「天豐財重日足姫」で名前から言えば天の豊の日国を治めた財重姫、孝徳天皇は「天萬豊日」で天の豊の日の萬で豊は広島県から宮崎県、もしかしたら紀伊までの瀬戸内まで含む地域の事で、豊の日はその豊の中の日国すなわち九州地域の豊の王で『山海經』海外南經「地之所載六合之閒四海之內照之以日月經之以星辰紀之以四時要之以太歲神靈所生其物異形或夭或壽唯聖人能通其道」の神靈が生れる土地出身の王を意味し俀国王だ。

なお、「改元四年」はおそらく白鳳四年の664年、「天萬豊日天皇後五年」も660年に即位し、白鳳に改元した王が即位して5年で同じく664年で、天萬豊日天皇は6月に即位して10月に崩じた、『藤氏家伝』の「俄而天万豊日天皇」と良く合致する。

2020年11月2日月曜日

最終兵器の目 孝徳天皇 白雉4

  『日本書紀』慶長版は

五年春正月戊申朔夜鼠向倭都而遷壬子以紫冠授中臣鎌足連増封若干戸二月遣大唐押使大錦上髙向史玄理大使小錦下河邊臣麻呂副使大山下藥師惠日判官大乙上書直麻呂宮首阿弥陀小乙上崗君冝置始連大伯小乙下中臣間人連老田邊史鳥等分乗二舩留連數月取新羅道泊于萊州遂到于京奉覲天子於是東宮監門郭丈舉悉問日本國之地里及國初之神名皆隨問而荅押使髙向玄理卒於大唐夏四月吐火羅國男二人女二人舍衞女一人被風流來于日向秋七月甲戌朔丁酉西海使吉士長丹等共百濟新羅送使泊于筑紫是月褒美西海使等奉對唐國天子多得文書寶物授小山上大使吉士長丹以少華下賜封二百戸賜姓爲吴氏授小乙下副使吉士駒以小山上冬十月癸卯朔皇太子聞天皇病疾乃奉皇祖母尊間人皇后幷率皇弟公卿等赴難波宮壬子天皇崩于正寢仍起殯於南庭以小山上百舌鳥土師連土德主殯宮之事十二月壬寅朔己酉葬于大坂磯長陵是日皇太子母奉皇祖母尊遷居倭河邊行宮老者語之曰鼠向倭都遷都之兆也是歳髙麗百濟新羅並遣使奉吊(?)

【五年の春正月の戊申が朔の夜、鼠が倭の都に向って遷った。壬子の日に、紫冠を、中臣の鎌足の連に授けた。若干戸を加封した。二月、大唐に派遣した押使の大錦上の高向の史の玄理と、大使の小錦下の河邊の臣の麻呂と、副使の大山下の藥師の惠日と、判官の大乙上の書の直の麻呂と宮の首の阿彌陀と小乙上の岡の君の宜と置始の連の大伯と小乙下の中臣の間人の連の老と田邊の史の鳥達が、二船に別れて乗った。遊興にふけって数か月してから新羅の道を使って、莱州に停泊した。そして京について、天子に謁見した。そこで、東宮の護衛官の郭丈擧が、日本国の地理及び国の始祖神の名を聞いた。皆問われるままに答えた。押使の高向の玄理が、大唐で死んだ。夏四月に、吐火羅の国の男が二人と女が二人と、舍衞の国の女の一人が、嵐にあって日向に流れ着いた。秋七月の朔が甲戌の丁酉の日に、西海使の吉士の長丹達が、百済と新羅の送使と一緒に、筑紫に停泊した。この月に、西海使達が、唐国の天子に謁見して、多くの文書や宝物を貰ったことに対して褒賞で、小山上の大使の吉士の長丹に少花下を授けた。そして、増封二百戸と呉氏の姓を与えた。小乙上の副使の吉士の駒に、小山上を授けた。冬十月の癸卯が朔の日に、皇太子は、天皇が病気になったと聞いて、皇祖母の尊と間人の皇后を先頭に、一緒に皇弟と公卿達を率いて、難波宮に赴いた。壬子の日に、天皇が、正殿で崩じた。それで紫宸殿の前庭に喪屋を造った。小山上の百舌鳥の土師の連の土徳を、喪屋の責任者にした。十二月の朔が壬寅の己酉の日に、大坂の磯長の陵に葬った。この日に、皇太子が、皇祖母の尊を先頭にして、倭の河邊の行宮に遷った。老人が「鼠が倭の都に向ったのは、都を遷す兆しだった」と語った。この歳に、高麗と百濟と新羅が一緒に使者を派遣して、弔問した。】とあり、標準陰暦と合致する。

鎌足の褒賞が10年も経過して紫冠の授与だが、『藤氏家伝』では「崗本天皇御宇之初以良家子 簡授錦冠」と、この文は「後崗本天皇四年歳次乙巳」より前なのだが、『日本書紀』大化三年「制七色一十三階之冠・・・四曰錦冠有大小二階其大錦冠以大伯仙錦爲之」と錦冠は後崗本天皇の時に制定され、しかも、大化五年「制冠十九階・・・七曰大華上」と錦冠は廃止され、『藤氏家伝』に650年庚戌「仍拝大錦冠授内臣封二千戸」と無い大錦冠を授与され、「白鳳五年秋八月・・・大綿冠内臣中臣連功侔建内宿禰位未允民之望超拝紫冠増封八千戸」と若干戸とは言えない加封があった。

『日本書紀』を知っている、官位が正一位の太師の藤原仲麻呂が『藤氏家伝』を書いたのだから、『日本書紀』を知っているにもかかわらずことなるのは、自家にある資料と『日本書紀』を融合させたため矛盾が発生したと考えられ、実際は、「崗本天皇御宇之初」は647年十三階を作ってすぐに錦冠を授与され、天智天皇三年「冠有廿六階・・・大錦上」と650年では無く664年に大錦冠を授与され、さらに、紫冠を授与されたと考えられる。

唐派遣は664年より前、増封などで少花下を貰っているので、この少花下後に 冠位廿六階が制定され、唐に敵対した倭国への対応のための情報収集と処罰を言い渡したと考えられ、なぜなら、高向玄理は「橘豐日天皇之孫高向王」、「高向漢人玄理」と俀国の人物で恐らく父は小野妹子について行った学生だ。

そして、この推古天皇十六年「遣於唐國學生・・・高向漢人玄理」は舒明天皇十二年「大唐學問僧清安學生高向漢人玄理傳新羅而至之」と対になっていて、この推古天皇十六年は629年即位の推古天皇で16年は644年、舒明12年は634年元年の王の12年で645年に帰国して大化二年「遣小徳高向博士黒麻呂於新羅而使貢質」、大化三年「新羅遣上臣大阿飡金春秋等送博士小德髙向黒麻呂」と武烈王を人質にして送り返し、それが『三国史記』眞德王四年六月「遣使大唐告破百濟之衆王織錦作五言太平頌遣春秋子法敏以獻唐皇」から八年春三月「王薨」と650年から653年の間と考えられ、白雉2・3年のことだ。

すると、白雉5年は白雉末年の白雉9年の660年が一番妥当で、660年にとある岡本天皇が崩じ、661年に後岡本天皇が即位して、白鳳に改元したのだろうか。

2020年10月30日金曜日

最終兵器の目 孝徳天皇 白雉3

  『日本書紀』慶長版は

四年夏五月辛亥朔壬戌發遣大唐大使小山上吉士長丹副使小乙上吉士駒學問僧道嚴道通道光惠施覺勝弁正惠照僧忍知聡道昭定惠安達道觀學生巨勢臣藥氷連老人百二十一人倶乗一舩以室原首御田爲送使又大使大山下髙田首根麻呂副使小乙上掃守連小麻呂學問僧道福義向幷一百二十人倶乗一舩以土師連八手爲送使是月天皇幸旻法師房而問其疾遂口勅恩命六

月百濟新羅遣使貢調獻物修治處處大道天皇聞旻法師命終而遣使吊幷多送贈皇祖母尊及皇太子等皆遺使吊旻法師喪遂爲法師命畫工狛堅部子麻呂鯽魚戸直等多造佛菩薩像安置於川原寺秋七月被遣大唐使人髙田根麻呂等於薩麻之曲竹嶋之門合舩沒死唯有五人繋胸一板流遇竹嶋不知所計五人之中門部金採竹爲筏泊于神嶋凡此五人經六日六夜而全不食飯於是褒美金進位給祿是歲太子奏請曰欲冀遷于倭京天皇不許焉皇太子乃奉皇祖母尊間人皇后幷率皇弟等往居于倭飛鳥河邊行宮于時公卿大夫百官人等皆隨而遷由是天皇恨欲捨於國位令造宮於山𥔎乃送歌於間人皇后曰舸娜紀都該阿我柯賦古磨播比枳涅世儒阿我柯賦古麻乎比騰瀰都羅武箇

【四年の夏五月の朔が辛亥の壬戌の日に、大唐に遣使を送り大使の小山上の吉士の長丹、副使の小乙上の吉士の駒、学問僧の道嚴と道通と道光と惠施と覚勝と辨正と惠照と僧忍と知聴と道昭と定惠と安達と道観と、学生の巨勢の臣の藥と氷の連の老人、百二十一人が、一緒に船に乗った。室原の首の御田を、送使とした。また大使の大山下の高田の首の根麻呂と副使の小乙上の掃守の連の小麻呂、と学問僧の道福と義向、併せて百二十人が、一緒に船に乗った。土師の連の八手を、送使とした。この月に、天皇は、旻法師の房に行幸して、見舞いに行って、ありがたい言葉を直接述べた。六月に、百済と新羅が、使者を派遣して年貢を献上した。あちこちに大きい道を造った。天皇は、旻法師が絶命したと聞いて、使者を派遣して弔問した。併せて多くの贈答品を送った。皇祖母の尊と皇太子達が、皆、使を派遣して、旻法師の喪をいたんだ。それで法師の爲に、絵師の狛の竪部の子麻呂と鯽魚戸の直達に命じて、たくさんの佛や菩薩の像を造って川原寺に安置した。秋七月に、大唐に派遣した使者の高田の根麻呂達が、薩麻湾と竹嶋の間で、船が衝突して沈んで死んだ。ただ五人だけ板の上に胸を載せて、竹嶋に流着いた者がいた。他になすすべが無かった。五人の中に、門部の金が竹を採って筏を作り、神嶋に停泊した。全てこの五人は、六日六夜をずっと、全く食べられなかった。金を褒賞して、位を昇進して俸給した。この歳に、太子が、「できましたら倭の京に遷りたい」と願い出た。天皇は、許さなかった。皇太子は、それで皇祖母の尊と間人の皇后を先頭にして、一緒に皇弟達を率いて、倭の飛鳥の河邊の行宮にいた。その時に、公卿や高官と役人達が、皆一緒に遷った。これで、天皇は、恨んで国や位を捨てようと思って、宮を山碕に造らせた。それで歌を間人皇后に送って()】とあり、標準陰暦と合致する。

ここでも、唐に行く道光が694年持統八年に「贈律師道光賻物」と死亡して贈り物を与えていて、694年が60代とすると、渡唐が654年の20代の半人前なら最後に記述される可能性が高く、660年の30代の渡唐に現実味があり、鎌足の長男の定惠が665年に「定惠以乙丑年付劉徳高等船歸」、天智天皇四年「唐國遣朝散大夫沂州司馬馬上柱國劉徳高等」と帰国し、定惠が654年の渡唐なら、帰りももっと早く、斉明天皇四年「奉勅乘新羅船往大唐國」や斉明天皇五年「遣小錦下坂合部連石布大仙下津守連吉祥使於唐國」と渡唐した人々と帰えればよい。

また、鎌足は648・9年に『藤氏家伝』に「崗本天皇御宇之初以良家子簡授錦冠」と647年に制定された錦冠を初授され、659年に次男の不比等が生まれているのだから、654年に鎌足は20歳程度で、定惠が13歳を越えているとは思えず、663・4年に渡唐したと考えられる。

旻法師の為の仏像を奉納した川原寺は、天武天皇二年「始冩一切經於川原寺」、天武天皇十四年「幸于川原寺施稻於衆僧・・・誦經於大官大寺川原寺飛鳥寺因以稻納三寺」、朱鳥元年「運川原寺伎樂於筑紫仍似皇后宮之私稻五千束納于川原寺・・・因以於川原寺説藥師經・・・遣百官人等於川原寺・・・悉集川原寺」と飛鳥浄御原関連の寺で、白雉年間では辻褄が合わないため山田寺と解釈しているが、白鳳4年の664年頃の話なら、既に斉明天皇が飛鳥川原宮に遷都して、そこに川原寺を建立した可能性が有る。

その飛鳥だが、顕宗天皇元年「近飛鳥八釣宮」と遠い飛鳥と近い飛鳥が有り、崇峻天皇即位前紀「本願於飛鳥地起法興寺」、崇峻天皇元年「此地名飛鳥眞神原亦名飛鳥苫田」、舒明天皇二年「天皇遷於飛鳥岡傍。是謂岡本宮」、皇極天皇二年「自權宮移幸飛鳥板盖新宮」、斉明天皇元年「災飛鳥板盖宮故遷居飛鳥川原宮」斉明天皇二年「飛鳥岡本更定宮地」と接頭語に倭など一切つけていない。

それにも関わらず、倭を付加したのは、奈良県にある飛鳥は別に記述しなくても大和の飛鳥で、飛鳥寺の近くに八釣があり、近飛鳥と呼ばれているのだから、遠い飛鳥が倭飛鳥で、この倭は倭国の倭、斉明天皇は七年に「天皇遷居于朝倉橘廣庭宮」と倭国の地の朝倉に遷都していて、 皇極天皇二年以降の飛鳥は朝倉の地の飛鳥の可能性が高く、飛鳥浄御原宮の時はほとんどが筑紫で饗応していて、饗応は首都で行うのが普通で、飛鳥浄御原宮は筑紫に有り、遠飛鳥・倭飛鳥は筑紫に有ったと考えられ、川原寺も筑紫に有った可能性が高い。

2020年10月28日水曜日

最終兵器の目 孝徳天皇 白雉2

 『日本書紀』慶長版は

二年春三月甲午朔丁未丈六繡像等成戊申皇祖母尊請十師等設齋六月百濟新羅遣使貢調獻物冬十二月晦於味經宮請二千一百餘僧尼使讀一切經是夕燃二千七百餘燈於朝庭內使讀安宅土側等經於是天皇從於大郡遷居新宮号曰難波長柄豊𥔎宮是歳新羅貢調使知万沙飡等著唐國服泊于筑紫朝庭惡恣移俗訶嘖追還于時巨勢大臣奏請之曰方今不伐新羅於後必當有悔其伐之狀不湏舉力自難波津至于筑紫海裏相接浮盈艫舳召新羅問其罪者可易得焉三年春正月已未朔元日禮訖車駕幸大郡宮自正月至是月班田既訖凡田長三十步爲段十段爲町三月戊午朔丙寅車駕還宮夏四月戊子朔壬寅請沙門惠隱於內裏使講無量壽經以沙門惠資爲論議者以沙門一千爲作聽衆丁未罷講自於此日初連雨水至于九日損壞宅屋傷害田苗人及牛馬溺死者衆是月造戸籍凡五十戸爲里毎里長一人凢戸主皆以家長爲之凡戸皆五家相保一人爲長以相撿察新羅百濟遣使貢調獻物秋九月造宮巳訖其宮殿之狀不可殫論冬十二月皆請天下僧尼於內裏設齋大捨燃燈

【二年の春三月の朔が甲午の丁未の日に、丈六の繍像等が完成した。戊申の日に、皇祖母が、十師達に食事を施す法会を開くことを頼んだ。夏六月に、百済と新羅が、使者を派遣して年貢を献上した。冬十二月の晦の日に、味経の宮に、二千一百余の僧尼に、一切経の読経を頼んだ。この夕に、二千七百余の燈明を朝廷の庭の中に灯して、安宅経と土側経等の読経させた。そこで、天皇は、大郡から、新しい宮に遷った。難波の長柄の豊碕の宮と名付けた。この歳に、新羅の年貢を納める使者の知萬沙飡達が、唐の国の服を着て、筑紫に停泊した。朝庭は、勝手気ままに風俗を変えたことを嫌って、責め立てて追い返した。その時に、巨勢の大臣が、「今すぐ新羅を伐たなければ、あとできっと後悔する。その討つ方法は全勢力は使ってはならない。難波の津から、筑紫の海の中まで、 船尾と船首を連ねて隙が無いほど浮かべて、新羅を呼びつけて、罪を問えば、簡単に目的が果たせます」と裁可を求めた。三年の春正月の己未が朔の日に、年の始めの儀式が終わって、駕籠の車に乗って大郡の宮に行幸した。正月からこの月までに、人々へ均等に分け終わった。全ての田は、長さ三十歩で段として、十段を町とした。三月の朔が戊午の丙寅の日に、駕籠の車に乗って宮に帰った。夏四月の朔が戊子の壬寅の日に、修行僧の惠隱を内裏に呼んで、無量寿経を教えてもらった。修行僧の惠資と問答をさせ、それを修行僧の千人の前で行い、丁未の日に、講義が終わった。この日から、雨が九日間降り続いて、家屋を損壊して苗が壊滅した。人や牛馬がたくさんおぼれ死んだ。この月に、戸籍を作った。おしなべて、五十戸で里とし里毎に頭を一人、戸主には、皆、家長がなり、一戸は皆、五家を隣組として一人を代表者とし互いに見張り合った。新羅と百済が使者を派遣して年貢を献上した。秋九月に、宮を造り終わった。その宮殿の威容は、言い尽くせないほど立派だった。冬十二月の晦に、天下の僧や尼を内裏に集めて 愛憎の心を捨てる斎食を施す法会を開かせ燈明を灯た。】とあり、夏四月戊子朔は4月2日で3月が小の月で、大の月なら標準陰暦と合致するが、これまで2日が朔とするより他の年を考えた方が理に適った日付の事が多く、他を探すと621年の推古天皇二九年にあたり、629年元年の推古天皇29年、すなわち657年のことだった可能性が有り、その他は標準陰暦と合致する。

651年に新羅が唐様式の正装で来ることはあまり考えられず、『三国史記』654年眞德王八年三月の「贈開府儀同三司賜綵段三百」、654年武烈王元年五月「唐遣使持節備禮冊命爲開府儀同三司新羅王王遣使入唐表謝 」と唐の官位を得た654年以降で、660年斉明天皇六年「新羅春秋智不得願於内臣盖金故。亦使於唐捨俗衣冠。請媚於天子」と同じことを記述している。

倭国の同盟国百済や高句麗に新羅を攻撃させ、660年武烈王七年三月「唐高宗命左武衛大將軍蘇定方爲神丘道行軍大摠管金仁問爲副大摠管帥左驍衛將軍劉伯英等水陸十三萬??伐百濟勅王爲嵎夷道行軍摠管使將兵爲之聲援」、義慈王二十年「如月新者微也意者國家盛而新羅寖微者乎王喜高宗詔左武衛大將軍蘇定方爲神丘道行軍大摠管 率左驍衛將軍劉伯英·右武衛將軍馮士貴左驍衛將軍龐孝公統兵十三萬以來征兼以新羅王金春秋爲嵎夷道行軍摠管 將其國兵與之合勢蘇定方引軍」と新羅と百済の記述が合致し、『舊唐書』新羅「顯慶五年命左武衛大將軍蘇定方爲熊津道大總管統水陸十萬仍令春秋爲嵎夷道行軍總管與定方討平百濟俘其王扶餘義慈」、百濟「顯慶五年命左衛大將軍蘇定方統兵討之大破其國」と唐の記述も合致している。

推古天皇十六年に「是時遣於唐國學生・・・志賀漢人惠隱」、舒明天皇十一年「大唐學問僧惠隱」、舒明天皇十二年「大設齋因以請惠隱僧令説旡量壽經」と推古16年が644年、舒明11年が662年、舒明12年が663年で、「夏四月戊子朔」を657年に推定した論理が正当化され、俀国記事の遣隋使に644年の遣唐使を「是時」以降に付け加えたことを意味し、もしかしたらもっと後の、次項で述べる653年白雉四年の「發遣大唐大使小山上吉士長丹副使小乙上吉士駒學問僧」の時の可能性もある。

すなわち、「是歳」記事は659年の記事と考えられ、さらに、657年に推定した法会記事に続く大雨も『三国史記』の660年義慈王二十年五月「風雨暴至震天王道讓二寺塔又震白石寺講堂玄雲如龍東西相鬪於空中」、661年武烈王八年五月「至誠告天忽有大星落於賊營又雷雨以震」と自然災害が続いていて、この頃、異常気象が続いて、白鳳2・3年の記事の可能性がある。

そして、大化2年の班田収授法説明記事が重複して記述され、次に記述されるのが持統六年「遣班田大夫等於四畿内」記述されるので、大化2年の班田収授法開始は696年での可能性が有る。

白雉記事を記述したのが俀国の王朝の天武天皇か倭国・秦王国の王朝の元明天皇かによって、この白雉記事の評価が全く異なる。