2019年2月27日水曜日

最終兵器の目 序

 日本古代史を記述した史書は私たちが理解できる文字として漢字で書かれた『日本書紀』・『古事記』・『先代旧事本紀』(古書には『舊事本紀』とあるので以降先代を略す)があるが、その他に、私たちが理解できない、所謂神代文字で書かれた文献がある。
しかし、これら史書は神代文字文献を含めて、漢字の知識抜きに記述したとは思われない。
なぜなら、どちらも、天上世界から降り立った神を始祖とする神話を記述するということは、中国語の天と地を輸入しないと意味が通らないことから理解できる。
中国文献『三海經』で、「天」は中原が天下、西の山の湯・水が涌くところが天、「大荒西經」に「有天民之國・・・有北狄之國」とその北部に天民の国が存在しその北が北狄で天民は夷蛮人ではない。
そして、「南山經」に「天虞之山」、「西山經」に「天帝之山」・「曰槐江之山・・・有天神焉」・「赤水出焉而東南流注于氾天之水」と中原を取り囲むように天が有り、「天山多金玉有青雄黃英水出焉而西南流注于湯谷」と天山は水が湧き出るところで、「北山經 」に「天池之山其上無草木多文石」と池があり、「中山經」「尸水合天也」と天地が合わさる河の流れがある。
これらを合わせた中国人の領域の「五臧山經」に「天下名山 經五千三百七十山 六萬四千五十六里 居地也・・・天地之東西二萬八千里 南北二萬六千里 出水之山者八千里 受水者八千里・・・此天地之所分壤樹穀也」と人が住む土地が合計6.4万里の広さで、そのうち、「中經之山大凡百九十七山二萬一千三百七十一里」2.1万里、そして、東西2.8万里、南北2.6万里が天地で水が出る山とそれを受ける場所が天地を分ける場所だと述べている。
そして、「大荒西經」に「吴姖天門日月所入」と西2.8万里に 吴姖天門があって日月が沈むところだとして、『周碑算經』の里単位1里70mなら、千九百Kmが中国人の世界となり、「中經之山」が天下となる。
すなわち、天は上空ではなく山岳地帯、水が湧き出るところであり、漢代になり里単位が1里400mになって変質して天が天空となったと考えられる。
水源地帯が天と呼ばれたが「海内經」「西南黑水之閒有都廣之野・・・蓋天地之中」と渤海も天地の中と沿岸から離れた潮の流れの上流も天と呼ばれ、これが、日本列島の漢字を理解し、漢より前に日本人の常識となり、漁場も人が住む天地、黄海や東シナ海が天、陸地が地で天下と呼ぶことが常識となった。
しかし、漢字が流入して以降、天を天上・天空と理解することが常識となり、史書もそれに倣い、現実離れをしたものになったのであり、神代文字の文書だからと言って、「あま」を天空と理解している文書は漢字が流入した後の漢字を理解している人々の文書で、だいたいが、「くに」などの組織が記述され、「きみ」などの地位が記述されたとき、既に神代とは言えず、漢字を理解し『日本書紀』の雄略紀前までの歴史を理解して、文書が発見された地域の歴史を漢字の読めない人々に流布したものと思う。
漢字が流入した時、応神天皇は『論語』や『千字文』を一緒に取り入れたように、筑紫や出雲など、硯が流入していた時に、手本として『易経』などの文書が入り、中国人も中国の常識も流入していたのであり、漢字の音を利用するだけでなく、字義も考えた文字選びをしていると考えなければならず、その前提で、史書を検証していきたい。
但し、一書や小文字で記述された『日本書紀』執筆時に付加されたと思われる部分は、後代の視点が入った記述なので重視するのを控え、解説文で重要と思われるところは説明する。
また、『古事記』・『舊事本紀』も同様だが、両書は私史でより主観が入るので、『日本書紀』と異なる部分を重点的に、考古学資料も含めて検証した。
但し、考古学は骨などの組織の炭素代謝物から縄文時代の食生活を特定しているが、『山海經』では各地域によって、「君子國・・・食獸」・「青丘國・・・食五穀」・「黑齒國・・・食稻」・「蒍國黍食」・「中容人食獸木實」・「大人之國・・・黍食・・・大青蛇・・・食麈」と食生活が異なり、一つの考古資料で画一的に決めつけることは避けようと考えている。
私は、史書を検証に使う研究者は史書を間違いと決めつけてはいけない、間違いと決めつけるなら、一切証明に使用してはいけない、そして、史書が間違いでないとする場合は検証で史書に矛盾があった場合、論証する責任があると考えてきた。
このシリーズはそれを実証しようと思っている。
なお、神や天皇などに敬称・尊敬語を使うと意味が脚色され、歴史を捻じ曲げる可能性があり使いませんので無礼とは存じますがご容赦ください。

2019年2月25日月曜日

最終兵器の聖典 日本藤原王朝3

 『興福寺縁起草』(『興福寺流記』)に「弘仁記云近江大津宮馭寓天武天皇二年歳在大俗同中呂大織冠藤原内大臣諱鎌子」と天武天皇2年に俗界の鎌足で存命と記述され、藤原姓を賜るのだから藤原の地に領地が有り、その領地に首都を持統四年690年に「觀藤原宮地。公卿百寮從焉」と誘致し、鎌足の姻戚の 中臣氏も天武天皇十二年683年に「小錦下中臣連大嶋」が天武天皇十四年685年に「藤原朝臣大嶋」と藤原氏の姓を贈られた。
そして、持統四年「神祗伯中臣大嶋」となっているが、大化4年、文武二年698年の「藤原朝臣所賜之姓宜令其子不比等承之但意美麻呂等者縁供神事宜復舊姓焉」記事が反映されたもので、701年のクーデタで大嶋と鎌足の孫が天武天皇を追放して皇位に就き、大嶋は 持統七年693年「直大貳葛原朝臣大嶋賻物」と不明な姓を記述される。
これは、『続日本紀』大宝元年「山背國葛野郡月讀神樺井神木嶋神波都賀志神等神稻」が原因なら大嶋は死亡記事が無いが700年も存命で、不比等が持統三年689年「直廣肆土師宿禰根麿大宅朝臣麿藤原朝臣史」と16位で初出している。
それに対し、馬養が霊亀二年716年「正六位下藤原朝臣馬養爲副使」と16位での初出と差があるものの藤原姓を名乗って、霊亀年は正式に王朝を立ちあげた年号であることから、馬養は追い出した總持天皇と行動を共にした可能性があり、養老五年721年「正五位上藤原朝臣馬養並正四位上」の7位を最後に登場せず、馬養の子石木(石根?)からは中臣を名乗っている。
そして、712年には總持天皇の太子が年号を続けられず、霊亀元年、『日本書紀』では持統四年正月に「畢忌部宿禰色夫知奉上神璽劔鏡於皇后。皇后即天皇位」と元明天皇が正式に天皇になったことを宣言した。
持統十一年八月「天皇定策禁中禪天皇位於皇太子」すなわち、霊亀元年九月「天皇禪位于氷高内親王」と天皇位を禅譲して皇太后となることで、伝統的皇室、皇太后が存在し、宿殿に天皇が、20歳ではないためまだ天皇になれない実質天皇の15歳の皇太子が存在するワンセットの天皇が完成した。
そして、この王朝も長くは続かず、天智天皇の孫の光仁天皇が皇位に就き、天照大神の家系で、周代から中国に臣従した黄海の島々六合に住んだ倭が日本の国王天皇となり現代まで続いている。
藤原・中臣王朝は天武・文武・元明・元正・聖武天皇は『延喜式』巻二十一治部省國忌に入れてもらえず「天智天皇十二月三日忌崇福寺天宗高紹天皇(光仁天皇)十二月廿三日 忌東寺 桓武天皇三月十七日忌西寺」と天智・光仁・桓武天皇を入れて、天智天皇の末裔を認め、天皇に即位する時、聖武天皇から「淡海大津宮御宇倭根子天皇乃万世尓不改常典」と述べている。
以上史書と金石文、史書どおし、史書内での矛盾を究明することで、矛盾の原因究明と合理的な解消法を述べてきた。
歴史は権力者の目を通した書物だが、事実を歪めることなどはせず、主語を書かなかったり、主語を亦の名で誤解させたり、違う人物を同じ人物にしたりして、昔の有名な類似の事柄を入れ込むことで、史書を記述した王朝を正当化している。
複数の王を一人の王にすることで、王だった人物が違う王にとっては臣下となり、子になったり、親になったりして矛盾をきたすのであるが、だからと言って、書いてもないことを想像して歴史を作り出すことは、科学・歴史学とはとても思えないが、現代ではそれが横行していることが残念で仕方が無い。
次回からは史書の矛盾点を示しながら、『日本書紀』を検討していきたい。

2019年2月22日金曜日

最終兵器の聖典 日本藤原王朝2

 前回、701年にクーデタで飛鳥清原天皇を打ち破って飛鳥清原で即位したと述べたが、『日本書紀』には持統八年694年に「遷居藤原宮」と遷都しているが、『続日本紀』に慶雲元年704年に「始定藤原宮地」と藤原に都を定めたと記述されている。
『那須国造碑』に「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造追大壹那須直韋提評督被賜歳次庚子年正月二壬子日辰節殄故意斯麻呂等立碑銘」と689年に飛鳥浄御原大宮から評督を賜たが700年に亡くなって碑を建てたが藤原宮を一言も言及していないので藤原宮は700年より後と考えられる。
それに対して、707年死亡の『大村骨臓器銘文』に「後清原聖朝初授務廣肆藤原聖朝小納言闕」と記述され『続日本紀』慶雲三年706年に「從五位上猪名眞人大村」と記述され704年以降は確かに藤原朝でそれ以前に前後の清原聖朝がある。
『粟原寺鑪盤銘』には「奉為大倭国浄御原宮天下天皇時日並御宇東宮故造伽檻之」と浄御原宮天下天皇時に日並御宇東宮が死んだと述べ「至和銅八年」と715年6月以前に銘板を作成し、藤原天皇と書いていない。
さらに、『日本書紀』では持統二年688年に「藤原朝臣大嶋」と記述し、持統四年690年「中臣大嶋朝臣」、持統五年691年「中臣朝臣大嶋」と中臣に戻している。
この、中臣復帰は文武二年698年「藤原朝臣所賜之姓宜令其子不比等承之但意美麻呂等者縁供神事宜復舊姓焉」と神事を司る藤原は中臣姓に戻すという記事で、『続日本紀』養老五年721年大嶋の子馬養が「正五位上藤原朝臣馬養並正四位上」と藤原を名乗っている。
すなわち、『続日本紀』の698年が持統2年か3年に当たり、701年のクーデタで大嶋の家系は藤原に戻り、他の中臣氏は戻っておらず、さらに、『粟原寺鑪盤銘』で日並が薨じたのが694年頃で、この頃なら『粟原寺鑪盤銘』は「此粟原寺者仲臣朝臣大嶋」と中臣で間違いなく、689年4月3日中臣復帰施行とこの銘文は考えたのだろう。
さらに、粟原寺建立を始めた大嶋が死んだので『粟原寺鑪盤銘』は「爾故比賣朝臣額田」と額田姫が後を継いでいて、普通に読めば大嶋の子が太子の時薨じたので、694年に粟原寺を建立したが途中で大嶋が薨じたので、日並の妃額田が後を継いで715年初旬に完成させ銘板を書いたと読める。
すなわち、日並は中臣朝臣日並と呼ばれた人物で、『日本書紀』天武天皇二年の「天皇初娶鏡王女額田姫王。生十市皇女」の天皇は『興福寺流記』「安置前像大臣不許」の像は日並の像の可能性があり、持統天皇・元明天皇が額田姫の可能性が高く、額田姫は『興福寺縁起草』(『興福寺流記』)の「冬十月内大臣二竪入夢七尺不安嫡室鏡王女請曰別造伽藍」と鏡王は鎌足の妻で、鎌足と大嶋の孫が文武天皇ということになるが、私はこの内大臣は入鹿と考えていて、物部氏の推古天皇が額田部で入鹿が物部氏の皇子で鏡王の娘が額田と十分あり得そうだ。
『大村骨臓器銘文』の「後岡本聖朝、紫冠威奈鏡公之第三子也」と威奈公の娘も否定はできないが王と呼ばれているのなら銘文に遠慮することは無く、『日本書紀』にも「胸形君徳善女尼子娘」と同じように威奈王鏡の娘と書かれるはずで、天武天皇十二年「天皇幸鏡姫王之家訊病」と『興福寺縁起草』の「鏡王女」と対応して記述して威奈王鏡の家とはしていないし、天武十二年に白鳳年間が終わり、鏡王女が皇后・皇太后だった期間で、物部王家の終焉だったのではないだろうか。
額田姫の子十市皇女は大友皇子妃で子は葛野王で、『続日本紀』大宝元年「山背國葛野郡月讀神樺井神木嶋神波都賀志神等神稻自今以後給中臣氏」と葛野が中臣氏の領地になり葛野の王は葛野王である。
従って、『日本書紀』の天武天皇が日並なら、持統天皇は額田姫で、天渟中原瀛眞人も高天原廣野姫も臣下の役職名だった可能性がある。

2019年2月20日水曜日

最終兵器の聖典 日本藤原王朝1

 天武天皇紀以降は大化6年以降の記事を中心に書かれている巻で、舎人親王達が記述し、壬申の乱は701年の文武天皇のクーデタを孝徳天皇の弟と蘇我氏の残党のクーデタや天智天皇の相続争いを使って記述したもので、『日本書紀』の複数の神武東征を一まとめにした記述と同じ一貫した記述方法である。
『古事記』序文では「飛鳥清原大宮御大八州天皇御世潜竜体元洊雷応期」と「飛鳥清原大宮御大八州天皇」が統治する時に、天武天皇が統治している時に、元明天皇の先代は龍が潜んで善徳を身に着け、世の混乱に応じて立ち上がったと序文の対象天皇を述べている。
そして、673年2月に飛鳥清原に宮を遷すときの辛苦と同じように、飛鳥清原天皇の時代に先代は飛鳥清原で新王朝を打ち立て、その治世は「道軼軒后、徳跨周王」と中国の王朝の創始者黄帝の道や周朝の創始者周王の徳を比較して、元明天皇の先代はまさしく王朝の創始者だと述べてまだ天子にはなっていないとしている。
そして、序文を贈る『古事記』「伏惟皇帝陛下」と元明天皇に対して「可謂名高文命徳冠天乙矣」と伝説の王朝創始者夏の禹王や殷の湯王より優れているとご機嫌を取り、元明天皇が王朝の創始者だと言っているのである。
そして、壬申の乱の論功が、『日本書紀』に記述しないで、『続日本紀』の701年7月に詳細に記述していて、特に大伴連御行など何度も昇進しているが壬申年功に触れず、死亡時にも触れず、701年の『続日本紀』大宝元年二月庚午「車駕至自吉野宮」と吉野から帰った飛鳥清原天皇を2月29日壬申の日に起こしたクーデタを壬申の乱と呼び701年の論功と考えた方が理に適う。
『日本書紀』での壬申の論功者を701年に記述しているが、 榎井連小君・ 大伴連御行・阿倍普勢臣御主人・神麻加牟陀君兒首は『日本書紀』に記述されず、716年に45年もったってから再度恩賞を与えているが、それほどの論功者文直成覺・尾張宿祢大隅は『日本書紀』に記述されず、大伴連御行 は701年に死んでいるが論功していない。
藤原不比等は文武天皇の義父だが『続日本紀』文武四年六月「直廣壹藤原朝臣不比等」と官位が10番目だが、大宝元年三月「直廣壹藤原朝臣不比等正正三位」と5番目に特進していて、大伴宿祢御行は文武四年「大伴宿祢御行並授正廣參」と6番目から「正廣參阿倍朝臣御主人正從二位」と4番目で不比等の特進ぶりが目立つ。
不比等は鎌足の子とは言え、『日本書紀』持統十年「直廣貳藤原朝臣不比等」と12番目が初出で皇太子の義父の地位としては低く、701年に文武天皇が新王朝を打ち立てて即位したと考えれば納得できるし、他の冠位の順当さも良く理解できる。
そして、慶雲元年704年「大納言從二位藤原朝臣不比等」で4番目、和銅元年708年「藤原朝臣不比等並正二位」で3番目、養老四年720年「就右大臣第宣詔贈太政大臣正一位」と死後1番目の冠位となり、子の「武智麻呂」は天平六年「 以從二位藤原朝臣武智麻呂爲右大臣」で、10番目和銅四年「 從五位下藤原朝臣武智麻呂」から神亀元年「 藤原朝臣武智麻呂。藤原朝臣房前並正三位」と5番目に昇進するのに13年かかっている。
この、壬申の論功の不可解さは3つの壬申の乱があり、3つの壬申の乱に新王朝が関わり、新王朝に貢献した人物を701年に新王朝を打ち立てた時に3つまとめて論功し、特に不比等が中心的役割を果たしたため特進し、615年正式に新王朝が璽を手に入れ、唐にも承認されて、霊亀と改元して正式な王朝を打ち立てて、再度壬申の乱から15年経って代替わりしているので子供たちに論功を与えたということである。

2019年2月18日月曜日

最終兵器の聖典 俀国日本王朝5

 天智天皇を分けた理由は、天智天皇が宮を難波・飛鳥浄御原・近江と宮を遷ったからと書いたが、その裏付けは天武天皇十二年「凡都城宮室非一處必造兩參故先欲都難波」で宮を2・3造ると言って難波にまず造ろうと言い、実際、外交使節の饗応を推古天皇十六年「饗客(唐客)等於難波大郡」と推古天皇が難波大郡、斉明天皇元年に「於難波朝饗北」と蝦夷と百済を朝廷で、斉明天皇二年「於飛鳥岡本更定宮地。爲張紺幕於此宮地而饗焉」と高麗百濟新羅を饗応した以外は場所を記述しない。
これは、外交で饗応する場所は首都の宮殿に決まっているので、それ以外で饗応するときに記述するのであって、推古天皇は難波大郡ではなく推古天皇十一年「遷于小墾田宮」、斉明天皇も難波朝や岡本宮ではなく斉明天皇元年「天皇位於飛鳥板盖宮」と違う場所が首都である。
そして、663年から5回、672年以降27回外交的饗応を行っているが、671年までは場所が記述されず、首都での饗応で、692年までは2回首都でほとんどが筑紫、飛鳥寺が4回筑紫館が2回、難波館が2回である。
そして、『続日本紀』でも慶雲元年に「始定藤原宮地」と藤原遷都前のみ難波館で以降は首都で饗応しており、これは、首都が筑紫や難波以外すなわち近江に有り、672年以降は首都は近江に残しながら首都機能が筑紫に遷り、その他に難波にも首都機能が有ったことを意味し、大宰府市の条坊跡は井上信正氏によると丁度670代頃に当たると述べられている。
さらに、首都飛鳥浄御原が飛鳥板葺宮に有ったのなら、飛鳥寺で饗応する意味が無く、飛鳥浄御原は首都でなく、688年までは少なくとも首都が近江に有ったと考えられ、690年に筑紫での饗応に天皇が出席せず報告を受けたのみで、それ以降筑紫での饗応を記述しない。
天智天皇一〇年671年に「以大友皇子拜太政大臣」、持統四年690年に「以皇子高市爲太政大臣」と太政大臣を決めた時、首都機能が筑紫へそして新たな首都へと変化しているということは、大友皇子が太政大臣になって671年に首都機能を筑紫に置き、太政大臣を高市皇子に受け継いだことを意味している。
そして、天武天皇十年に「立草壁皇子尊爲皇太子」と2代目天智天皇(大友皇子?)が実質皇位を継承して皇弟草壁皇子が実質皇太子となったが、690年におそらく2代目天智天皇の長男高市皇子が太政大臣となって実務を行い実権を手中にし、天智天皇崩の前に皇太子を廃されて、大皇弟となった。
天智天皇一〇年に「天皇御西小殿皇太子群臣侍宴」と皇太子が記述され、その後大友皇子は皇太子と呼ばれず、壬申の乱では皇太子は出現せず大皇弟が出現し、皇太子が天皇に即位したことが解る。
すなわち、第二の壬申の乱が発生し、大友皇子の皇太子高市皇子と廃嫡された大皇弟の戦いで、『新唐書』に「天智死子天武立死子總持立」と弟天武では無く、その子総持と更に直系の皇子が皇位を継承して、血縁関係のない文武が新たな王朝を立ちあげるのである。
そして、文武以降は中国とつながりが希薄になり、阿閇と阿用、霊亀が白亀と正確性を欠き、宋史も「次阿閉天皇次皈依天皇」と、続日本紀とどちらが正しいか、それとも他王朝の天皇名か解らず、すなわち、実質の初代天皇は「子阿用立」もしくは「皈依」と元明天皇の子の元正天皇で、霊亀元年715年が実質の王朝交代で2王朝が併存していたと『新唐書』は述べているのである。

2019年2月15日金曜日

最終兵器の聖典 俀国日本王朝4

  『日本書紀』の皇極から天智までは天武天皇が大化五年699年まで書いたと述べたが、天智天皇七年「阿陪皇女及有天下居于藤原宮後移都于乃樂(或本云名姪娘曰櫻井娘)」と699年以降の記事があって、指摘を受けそうだが、『日本書紀』は原則原文を修正せず、後代に間違いと思われるところや説明は小文字で追記しているが、舎人親王達は「倭」を「日本」に、「命」を「尊」に説明抜きで書き換えている。
すなわち、この、元明天皇の説明は舎人親王達が付加したもので、元明天皇の父が天智天皇か不明で、持統天皇とも母が実際は姪で、もし義理の姪となるとかなりの氏族が血縁となり、父は血縁関係が有るか不明、母も遠縁でほぼ赤の他人で、自分の兄弟が良くわかっていないなどと言うことは有り得ない。
720年頃、兄弟がかなり高齢になったとは言え、父母が良くわからないなどと言うことは有り得ず、また、元明天皇の父を天智天皇とすると40歳の年齢差は異様で、世代としてもやはり天智天皇は690年代まで生きていないと常識的とは言えず、前項の鎌足692年死亡の推定に合致する。
壬申の乱で出現する人物は「大皇弟」「天皇」「大友皇子」「大津皇子」「高市皇子」で「草壁皇子」は戦っておらず、天皇の弟は本来「皇弟」で、用明天皇に「皇弟皇子者穴穗部皇子」、孝徳天皇には「皇太子乃奉皇祖母尊間人皇后并率皇弟等」と出現し、天智天皇の弟ならやはり「皇弟」で、皇嗣ならやはり立太子した皇太子で「大皇弟」とは呼ばず、孝徳天皇の皇弟が天智天皇の代になって「大皇弟」と呼ばれたと考えた方が順当だ。
しかも、壬申の乱には死んだはずの天皇が出現し、天智天皇は皇極天皇即位時は「是時東宮開別皇子年十六而誄之」と16歳で壬申の乱の時「天皇謂高市皇子曰其近江朝左右大臣及智謀群臣共定議今朕無與計事者唯有幼小少孺子耳」と天皇が近江の大臣が謀反を起こして、自分に従うのは幼い子供たちだけと嘆き、672年時点では高市皇子を含めて幼い子たちだけで、かろうじて、大友皇子と大津皇子が13歳以上なのだろう。
天武天皇八年「天皇詔皇后及草壁皇子尊・大津皇子・高市皇子・河嶋皇子・忍壁皇子・芝基皇子曰、朕今日與汝等倶盟于庭・・・則草壁皇子尊、先進盟曰・・・吾兄弟長幼、幷十餘王、各出于異腹」と芝基皇子が兄弟ではないはずなのに兄弟と述べ、矛盾をきたしている。
天智天皇一〇年「天皇御西小殿皇太子群臣侍宴於是再奏田儛」と立太子無しで皇太子に就任しており、天智天皇の長男が皇太子になり、大皇弟が大臣らと反乱を起こしたのが壬申の乱で、天智天皇が勝利して、天武天皇十年681年に草壁皇子が皇太子になっているのだから、草壁皇子が皇弟で2代目天智天皇が就任したとも考えられ、第2の壬申の乱が695年に退位させられた草壁皇子(大海皇子)が政権を奪った可能性も否定できない。
664年の孝徳天皇死後、天智天皇が20歳以上なら、摂政などではなく天皇に即位すればよく斉明天皇四年「方今皇子年始十九未及成人可至成人而待其徳」と有間皇子を成人でないと諫めていて、20歳以上が天皇になるための最低条件のようである。
孝徳天皇死後、天智天皇即位前紀「皇祖母尊即天皇位」と天豐財重日足姫皇祖母が天皇に即位して、『旧唐書』665年「麟德二年封泰山仁軌領新羅及百濟耽羅倭四國酋長赴會」中国に赴き、『新唐書』「其子天豐財立死子天智立」と皇帝が対面した天豐財の名が残り、『野中寺 銅造弥勒菩薩半跏思惟像 本像台座の框』に「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時」と666年中宮天皇が大病を患ったと記述されている。
そして、『薬師寺東塔の擦管』に「庚辰之歳建子之月以中宮不悆創此伽藍而鋪金未遂龍駕騰仙大上天皇奉遵前緒遂成斯業照先皇」と680年に伽藍を建てたと中宮天皇を先皇の大上天皇と呼んでいる。

2019年2月13日水曜日

最終兵器の聖典 俀国日本王朝3

 孝徳天皇即位前紀皇極天皇四年に「奉號於豐財天皇曰皇祖母尊立中大兄爲皇太子」とあるように、皇祖母は俀国王が王位を引き継いだ時に女性の大王が襲名する地位で、天皇に対する皇后ではなく皇太后と同じ感覚のようで、天皇が前皇后を尊んで襲名したことを意味する。
すなわち、この皇祖母は孝徳天皇の前代の皇后で、天智天皇が皇太子になったのは孝徳天皇が前代の大王の弟なので、天皇の甥は立皇太子で、それ以前は高祖母の夫が大王で太子は古人大兄が皇太子と考えられる。
そして、高祖母の夫は俀国王すなわち筑紫大君「筑紫君薩野馬」で、皇極天皇元年「葬息長足日廣額天皇于滑谷崗」・皇極天皇二年「葬息長足日廣額天皇于押坂陵或本云呼廣額天皇爲高市天皇也」と舒明天皇を2回葬しているのは、一方は蘇我天皇で一方は薩野馬と思われ、後代高市天皇と呼んだのだから、高市皇子は嫡流の皇子で、薩野馬の宮殿の姫の皇子の可能性が高い。
薩野馬は天智天皇一〇年帰国と記述されるが、天智天皇八年に到着した郭務悰は帰国しておらず、唐の大軍の先触れなら天智天皇三年のほうがふさわしく、この時の郭務悰来日の陣容は記述されず、持統四年記事も「天命開別天皇三年」と記述される。
すなわち、664年5月郭務悰が来日して筑紫君も一緒だったのだが、病気のためか死んでいたか解らないが十一月に「對馬國司遣使於筑紫大宰府言」と対馬国司から報告があって帰国を知り見つけ出したが崩じていて皇極天皇二年に埋葬され、皇太子の古人皇子は権力闘争に負け皇太子を廃位させられた。
この権力闘争の経緯は、大君が唐との戦いで661年に捕虜となり、祖母の吉備嶋皇祖母が薨去したため、古人皇子が天皇代行で天智天皇が摂政となって権力を集中して実権を持ってしまった。
そして、鎌足と郭務悰とで664年5月に天皇と皇太子を殺害するクーデターで対唐戦の責任を負わせるため、責任者の天皇・皇太子を殺害し、当然、俀国王も俀国皇太子も戦犯で天皇即位など考えられず、薩野馬は日本に帰っても唐に幽閉させられ、古人太子はクーデターに協力することを条件に仏門に入ることで許されたと考えられる。
天智天皇三年(664)五月「大紫蘇我連大臣薨或本大臣薨注五月」と五月に書かれながらわざわざ五月と書いていることから、おそらく六月二十九日乙巳の日にクーデターが起こり、天皇の前で帯刀が許される大臣で皇太子の入鹿が誰よりも後に入室し、天智達に騙されて刀を外され殺された。
そして、蝦夷も俀国の最高権力者の天智天皇の祖母も「六月嶋皇祖母命薨」と殺害され、 孝徳天皇が即位したが、『藤氏家伝』に「俄而天萬豐日天皇已厭萬機登遐白雲皇祖母尊俯從物願再應寶暦悉以庶務委皇太子」と孝徳天皇は即位して俄に白雉五年十月壬子「天皇崩于正寢」と4ヶ月で崩じた。
そして、全権を握った天智天皇が天智天皇三年「十月饗賜郭務悰等」と唐に天智の母で皇祖母の復帰の承認を得て。「十二月甲戌朔乙酉郭務悰等罷歸」と664年12月に皇祖母から復帰した皇極天皇が『舊唐書』に665年「麟德二年封泰山仁軌領新羅及百濟耽羅倭四國酋長赴會」と唐の天子と会見し天智天皇四年「唐國遣朝散大夫沂州司馬馬上柱國劉徳高等・・・廿二日進表函焉」と唐天子の表とともに帰国した。
すなわち、唐と戦った責任者の嫡流は全て責任を取らされ、天智天皇四年「二月癸酉朔丁酉間人大后薨」、斉明天皇四年十一月「遣丹比小澤連國襲絞有間皇子於藤白坂」、大化元年おそらく664・5年「古人大兄斬古人大兄與子其妃妾自經死」と孝徳天皇の皇后皇子・俀国王と全て一度に死亡して皇太子天智と皇極天皇・孝徳天皇の弟のみが生き残った。