2017年7月31日月曜日

最終兵器のミサ 『傳記』・『天皇記及國記』・『日本世記』

  『四方志』と『日本舊記』で考えたように、 『四方志』で葛城圓大臣が天氏の資料や物部天皇の名前を大連と書き直して天皇名は自分として、即位していない建内宿祢を大臣と書いた。『古事記』で許勢男人まで天皇としたけれど、男人の子やその皇子が物部大連麁鹿火の軍に滅亡させられて、麁鹿火か金村が『日本舊記』を創って、おそらくその内容は古事記と同じように天皇葛城・平群・許勢氏を大臣と書いた。
さらに、継体天皇元年で天皇の璽が物部麁鹿火に遷り『日本舊記』を創ったけれど推古天皇、2代ずれて用明用明天皇の時物部守屋が穴穗部皇子から皇位を奪って天皇になって『傳記』を創って麁鹿火を大連と書き換えた。629年蘇我氏が物部氏を滅亡させて『天皇記及國記』で守屋も大連として蘇我氏を天皇と書いたため、推古天皇28年の『天皇記及國記』は593年でないもっと後の年を元年とした蘇我氏の年号と考えられる。
継体天皇元年二月甲午 「大伴金村大連、乃跪上天子鏡劔璽符再拜」
宣化天皇元年七月 「物部麁鹿火大連薨」
宣化天皇四年十一月丙寅 「皇后崩年傳記無載 孺子者盖未成人而葬歟」
用明天皇元年五月 
 「穴穗部皇子陰謀王天下之事 而口詐在於殺逆君 遂與物部守屋大連率兵圍繞磐余池邊」
推古天皇即位前紀 「乃從之 因以奉天皇璽印」
舒明天皇元年正月丙午 「天皇之璽印獻於田村皇子」
推古天皇二八年是歳 「嶋大臣共議之録天皇記及國記 臣連伴造國造百八十部并公民等本記」

そして、孝徳天皇が664年に蘇我氏を滅亡させて『日本世記』を創って、蘇我氏を大臣と書いて全てを天氏の天皇として日本書紀の原本が完成した。元明天皇が天皇の璽を得て即位して、『古事記』の系図を自分の系図に書き換えて、さらに『日本書紀』を創って系図を自分の系図に書き換えるとともに、残った天氏の姓の部分に白雉・大化・朱鳥の年号を入れこんで系図を動かした。
孝徳天皇即位前紀皇極天皇四年 「天豐財重日足姫天皇授璽綬禪位」
皇極天皇四年六月己酉 「蘇我臣蝦夷等臨誅 悉燒天皇記 國記」
斉明天皇六年七月乙卯 「高麗沙門道顯日本世記曰 七月云云」
斉明天皇七年四月 「釋道顯日本世記曰 百濟福信獻書祈其君糺解於東朝」
天智天皇八年十月辛酉 「日本世記曰 内大臣春秋五十薨于私第」
持統四年正月戊寅朔 「畢忌部宿禰色夫知奉上神璽劔鏡於皇后 皇后即天皇位」
持統五年八月辛亥 「上進其祖等墓記」

そして、ここで日本書紀の解釈の仕方を提起したけれど、元明天皇は蘇我氏の王朝を推古天皇に見立てていたことが解って、たとえば、璽を得た629年を推古元年とすると推古天皇36年が664年で蘇我氏の滅亡の年になって、これと同じことが葛城・平群・許勢の各氏にも当てはまっていて朝鮮の王の死亡記事など干支で1・2巡の間違いに見られるのも3氏が武内宿禰から分家して宮を造った年を元年とした年号が書かれていると考えるべきで間違いとするべきではない。
目立つのが応神天皇元年を他の王の元年とし、その当てはめられた本当の時間帯は履中天皇になり、葛城氏が政権を奪った時期に当てはまって、時計のない紀伝体の史書を編年体の標準時計に当てはめることを考えた時十分起こると思う。

2017年7月28日金曜日

最終兵器のミサ 『日本舊記』

  『四方志』に続いて、日本舊記』を考えてみると、日本舊記』は雄略天皇の時代のことが書かれていて、『古事記』の事かとも考えられるけれど、『古事記』には一度も日本とゆう言葉が出てきていないことから、日本を名乗る元明天皇が「古事記」から日本を削除することは考えられず、『古事記』の王朝(許勢大臣)を滅ぼした王朝が書いたと思われて、その王朝は自分の国を以前から日本と呼んだとゆうことがわかる。しかし、滅ぼした王朝は日本と一言も書いていないということは、古事記を書いた王朝の前の王朝が国名を日本と復活して呼んだことが解る。
『日本書紀』
雄略天皇二一年三月 「汶洲王蓋鹵王母弟也 日本舊記云 以久麻那利賜末多王 蓋是誤也」

そして、古事記では登場しなかった大連が、日本書紀で大臣が支配した以前から継続して書いてあるとゆうことは、日本舊記』を書いた王朝はおそらく物部氏で大連が最初に書かれた物部十千根大連より後を天皇と書いていて自王朝の始まりとし、袁本杼が王の璽を得て日本舊記』を書いた。
『日本書紀』
継体天皇元年二月甲午 「大伴金村大連乃跪上天子鏡劔璽符再拜・・・寡人敢不乖 乃受璽符」

この時一緒に戦った中臣氏は物部荒甲之大連と古事記に追加していて、この時は物部荒甲が天皇になったことが解り、日本書紀では大伴金村大連と書いているように物部荒甲から政権を奪ったことが解り、その後で物部大連尾輿・物部弓削守屋大連と政権は移っていく。けれど、『隋書』で国名が日本のはずが「秦王国」と呼ばれているので、守屋大連が日本と呼んでいなかったとゆうことは、日本舊記』を書いたのは大伴金村以前の可能性が高い。
『古事記』
袁本杼 「故 遣物部荒甲之大連・大伴之金村連二人而 殺石井也」
『隋書』
「又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也」

そして、以前に書いたように日本とゆう国名は神武天皇の建国時で紀元前28年より前に日本と呼んでいて、物部氏が大連になるまえから日本と呼んでいたことになって、大連の王朝の初代天皇の神武天皇は物部氏と同系の天香語山の家系で尾張氏だが、大伴氏(祖は日臣・道臣)の可能性もある。物部氏の先祖の宇摩志麻治が神武天皇に璽を渡していて宇摩志麻治から政権を奪いそれが大彦の埴安彦の戦いで、尾張氏は狹穗彦から完全に政権を奪った。一方、『先代旧事本紀』でも垂仁天皇の時から政権を奪われた物部氏は兄大新河とともに十千根が大連になって物部の姓をもらったと書いて尾張氏の配下となったと書いている
『日本書紀』
神武天皇三一年四月乙酉朔 「故因目之曰虚空見日本國矣」
崇神天皇十年九月壬子 「後彦國射埴安彦 中胸而殺焉」
垂仁天皇二年是歳 「于斯岐阿利叱智于岐 傳聞日本國有聖皇 以歸化之」
垂仁天皇五年十月己卯朔 「令撃狹穗彦 時狹穗彦與師距之 忽積稻作城 其堅不可破 此謂稻城也」
垂仁天皇二六年八月庚辰 「天皇勅物部十千根大連曰 屡遣使者於出雲國」
『先代旧事本紀』
天孫本紀
 七世孫  纏向珠城宮御宇天皇御世賜物部連公姓元為五太夫一次為大連奉齋神宮勑物部十市根大連」
天皇本紀 「宇摩志麻治命奉齋殿內於天璽瑞寶奉為帝后崇鎮御魂祈禱壽所謂御魂祭自此而始矣」

さらに、懿徳天皇の時に『先代旧事本紀』には出雲醜大臣と出雲の国に大臣とゆう人物を書いて、大臣も同族としている。けれど、物部姓をもらう前で兄弟や親子は兄や親が子や弟を後から支配した可能性があってどの程度血縁関係が有るかわからないけれど懿徳天皇時代に大臣の家系が始まったとゆうことだ。
『先代旧事本紀』
天孫本紀
 三世孫  「出雲色命此命軽地曲峡宮御宇天皇御世元爲申食国政大夫以爲大臣奉齋大神其大臣之號始起」

2017年7月26日水曜日

最終兵器のミサ 古事記原本 『四方志』

 前回は古事記・日本書紀を書いた王朝の中臣氏の歴史を考えたけれど、今回は諸国の歴史・地理誌集(風土記のような歴史?)の『四方志』はどうゆうものかとゆう事を考えて見る。まず1番に考えられるのは古事記の基礎になった資料と考えるべきで、古事記が日本書紀の神話や天氏の資料を得ているとゆうことは天氏とまだ対立しない友好関係の時でないと資料は得られない。古事記を書いた王朝が以前の王朝から政権を奪取してすぐで天氏と共通の敵を倒そうとしたすぐと考えられる。
以前にも書いたように履中天皇の弟が王の璽を取得しているけれど、即位元年は2代ずれている可能性が大きく、允恭天皇の即位前は2代前の履中天皇のことで、史書を創るのは元明天皇が古事記を書かせたように王朝を建てたときだ。
『日本書紀』
履中天皇四年八月戊戌 「始之於諸國置國史 記言事達四方志」
允恭天皇即位前紀 「即選吉日 跪上天皇之璽」

だから、四方志は天氏の仁徳天皇が書いた応神天皇までの資料と高千穂宮の資料と豊富な神話を持つ出雲の資料を手に入れたけれど、履中天皇の王朝は応神天皇の時に文字を覚えたばかりで、古い資料を持ち合わせていないと考えられる。現在の千字文は6世紀に完成したものだが、それ以前の文字練習に現在の千字文の参考となる千字文が無かったとは言い切れないが、古事記完成時に千字文に書き換えたか?
『古事記』
神代 「日子穂ゝ手見命者 坐高千穂宮 伍佰捌拾歳」
品陀和気命 「受命以貢上人 名和迩吉師 即論語十巻・千字文一巻 并十一巻 付是人即貢進」
『日本書紀』
応神天皇十六年二月 「王仁來之 則太子菟道稚郎子師之 習諸典籍於王仁 莫不通達」

そして、古事記には大連が末尾の袁本杼の章に物部荒甲之大連が書かれているだけで、物部十千根大連・物部伊莒弗大連・物部目大連・大伴室屋大連が書かれていない。すなわち、古事記の王朝は大連を書かない大連と敵対する王朝だとわかり、履中天皇は大連の国から王の璽を奪ったことが解る。
ところが、大連に対抗する「大臣」は建内宿祢大臣・大前小前宿禰大臣以降「意富美」と書き換えているけれど日本書紀と同じ大臣が書かれている。天皇の名前が男浅津間若子宿祢と大前小前宿禰大臣と同じ役職名で建内宿祢の家系が大前小前宿禰(物部氏)と張り合って男浅津間若子宿祢が王の璽を得たと考えられる。日本書紀では圓大臣が書かれているけれど古事記には書かれていなくて、圓が男浅津間若子宿祢と考えられ、目弱王が穴穂を殺して殺された父親の宮殿ににげて、逃げた場所が古事記の書き方で「都夫良意富美之家」だった
『日本書紀』
履中天皇二年十月 
「平羣木莵宿禰 蘇賀滿智宿禰 物部伊莒弗大連 圓大使主共執國事」
雄略天皇即位前紀 「逃入圓大臣宅・・・方今坂合黒彦皇子與眉輪王」
『古事記』 穴穂御子 
「殿下目弱王、聞取此言、便窃伺天皇之御寝、取其傍大刀乃、打斯其天皇之頚、逃入都夫良意富美之家也」

とゆうことはやはり、古事記で大臣が消えた時大臣が天皇になったとゆうことで、履中記の墨江中王の乱による葛城()大臣、安康眉輪王暗殺で平群(眞鳥)大臣、武烈紀殺害で許勢(男人)大臣がそれぞれ男浅津間若子宿祢(2代ずれて履中天皇の璽移動)大長谷王(同じく允恭天皇の璽移動)白髪大倭根子(同じく安康天皇字の璽移動無)小泊瀬稚鷦鷯(同じく顕宗天皇の璽移動)にあたる。


2017年7月24日月曜日

最終兵器のミサ 元明天皇の系図

 元明天皇の系図は「ミサ 元明天皇」で書いたように中臣氏と分析したけれど、記紀ではどう扱ったかを見ると、神話では記紀共にある程度の地位を得ている。けれど、神武東征で古事記は資料としては日本書紀の方が先なので古事記は中臣氏を削除してしまっていて、古事記を書いた王朝は中臣氏を敵対勢力と考えたとゆうことだ。
当然で、古事記は大臣の勢力が書いた史書のため、連の中臣は敵対勢力で、神武東征にかかわっているはずがないし、一度も貢献しないでずっと敵だったことが解る。けれど、なぜか継体天皇のところに石井のことを追加しているとゆうことは、石井征伐が中臣氏の中央での活躍のあかしだったのだろう。
『古事記』 継体天皇
此之御世 竺紫君石井 不従天皇之命而 多无礼 故 遣物部荒甲之大連 大伴之金村連二人而 殺石井也
 
そして、古事記と日本書紀の共通の天皇の系図は中臣家の系図が含まれるのは元明天皇の承認を得ていて当然で、石井の記事を継体天皇にはめ込んだとゆうことは日本書紀の継体天皇の記事には中臣家のことが書かれている。袁本杼は近江国高嶋郡から越前高向そして三国坂中井に遷り、即位時に樟葉さらに石井と緊迫したのに乗じて磐余に遷ったと書いている。
『日本書紀』
継体天皇即位前紀 
「自近江國高嶋郡三尾之別業、遣使聘于三國坂中井納以爲妃 遂産天皇・・・父王薨・・・余歸寧高向 高向者、越前國邑名」
継体天皇元年正月甲申 「天皇行至樟葉宮」
継体天皇二十年九月己酉 「遷都磐余玉穗 一本云 七年也」
『古事記』 継体天皇 「天皇御年、肆拾参歳 丁未年四月九日崩也 御陵者、三島之藍御陵也」

そして、上に書いたのと同じ足跡で、初代の神倭伊波礼毘古は三輪の伊波礼で毘古(長官)になり、2代目の神沼河耳は神国の沼河の耳(長官)、3代目は師木津日子玉手見と師木津の日子(長官)の部下で、師木津は伊賀・名張・美濃を治めた祖と近江近辺を支配した王の部下と考えられる。大倭日子鋤友・御真津日子訶恵志泥・大倭帯日子国押人・大倭根子日子賦斗迩・大倭根子日子国玖琉・若倭根子日子大毘ゝ・御真木入日子印恵・伊久米伊理毘古伊佐知と主に「大倭」の地域これは「オオワ」と呼ぶのが正しいとおもうけれど、 大倭と呼ばれる地域の周辺で 大倭の王に仕える日子(長官)の部下だった。
大毘ゝ・旦波大県主と姻戚に持ち三国や越前と近隣で印恵の時は大彦が北陸を遠征し大毘ゝと接点があって、印恵は大彦と姻戚になり、御真木が越前に遷り、伊久米が樟葉に遷ったのではと考えられる。
『古事記』 
安寧天皇 「師木津日子命・・・一子、孫者、伊賀須知之稲置・那婆理之稲置・三野之稲置之祖」
開化天皇 「娶旦波之大県主、名由碁理之女、竹野比売、生御子、比古由牟須美命」
『日本書紀』
崇神天皇十年九月甲午 「以大彦命遣北陸」
崇神天皇十年九月壬子 
「武埴安彦先射・・・故時人號其脱甲處曰伽和羅 褌屎處曰屎褌 今謂樟葉訛也 又號叩頭之處曰我君」

伊佐知(中臣連祖探湯主)は垂仁天皇と直接対応する立場になって、探湯主と烏賦津使主が仕えた王朝は古事記を書いた王朝ではなくてその前の王朝で、允恭天皇までは古事記の王朝以前の王朝のことが書かれている。
『日本書紀』
垂仁天皇二五年三月丁亥 「時天皇聞是言 則仰中臣連祖探湯主而卜之 誰人以令祭大倭大神」
允恭天皇七年十二月壬戌朔 「而復勅一舎人中臣烏賦津使主曰 皇后所進之娘子弟姫 喚而不來」

磐余への遷ったあとの名前が広国押建金日・建小広国押楯・天国押波流岐広庭と広国がどこかわからないけれど「国押」と王様になったような名前で天国の王様になったような名前の時、天皇に直接が対応できるようになって、沼名倉太玉敷の時から古事記では在位年数が書かれるようになり、首都に宮をもてる地位となったようだ。
『日本書紀』
欽明天皇十三年十月
「中臣連鎌子同奏曰 我國家之王天下者。恒以天地社稷百八十神 春夏秋冬祭拜爲事 方今改拜蕃神 恐致國神之怒・・・中臣連鎌子同奏曰 昔日不須臣計致斯病死 今不遠而復 必當有慶 宜早投弃 懃求後福」

2017年7月21日金曜日

最終兵器のミサ 立太子から分かった天氏の系図

 前回の続きで倭の5王のことだけれど、元嘉2年425年は「賛」・元嘉7年430年と元嘉15年438年は不明・元嘉20年443年は「」でその間に「賛」の弟の「珍」が即位して「珍」と「」の関係は書いていないので通常親子だ。けれど、「珍」は430年と438年のどちらで交代したかというと、通常書かないときは前回と変わらないと考えるのが常識で、438年が妥当と思われて、「ミサ 太子5」の允恭天皇の409年から450年に当てはまる。
「興」の親の「」は「興」や「武」が即位と同時に訪中しているように443年に「」、438年に「珍」が考えられ、親子相続なので同じ宮で雄略天皇と思われる。その前の「賛」は409年即位・「珍」の兄で宮が異なり、古事記の安康天皇に対応し、安康天皇は殺害されていて大王「珍」は同じ宮で大王になり、安康天皇自身も政権を奪っている。
『宋書 卷九十七 夷蛮伝 倭國』
「太祖元嘉二年讃又遣司馬曹達奉表獻方物」
「讃死弟珍立遣使貢獻自稱使持節都督倭百濟新羅 任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王表求除正」
「詔除安東將軍倭國王」 
「珍又求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔國將軍號 詔竝聽」
「二十年倭國王濟遣使奉獻 復以爲安東將軍倭國王」
『宋書 卷五 本紀第五 文帝』
「元嘉七年 是月 倭國王遣使獻方物」
「元嘉十五年 是歳 武都王・河南國・高麗國・倭國・扶南國・林邑國並遣使獻方物」
『日本書紀』
安康天皇三年八月壬辰 「天皇爲眉輪王見弑」
安康天皇即位前紀 「太子自死于大前宿禰之家」

そして、允恭天皇・反正天皇・履中天皇は兄弟で履中天皇も立太子で仁徳天皇の次男以降で仁徳天皇も応神天皇の長男ではなく宮の交代を日本書紀は書いている。「賛」の前の允恭天皇にあたる人物から応神天皇にあたる人物まで名前が不明だけれど、台与すなわち神功皇后の系図が解っていて、彦坐王・山代之大筒木真若王・迦邇米雷王・息長宿禰王・神功皇后だ。神功皇后は卑弥呼の宗女すなわち本家の姫とゆうことで垂仁天皇の姫とゆうことが解って、山代之大筒木真若王と彦坐王親子が垂仁天皇の可能性が高い。
『古事記』
若倭根子日子大毘ゝ命 
「日子坐王・・・次、山代之大箇木真若王、娶同母弟伊理泥王之女、丹波能阿治佐波毘売、生子、迦迩米雷王此王、娶丹波之遠津臣之女、名高材比売、生子、息長宿祢王。此王、娶葛城之高額比売、生子、息長帯比売」

そして、景行天皇の名前がオオタラシヒコ、成務天皇がワカタラシヒコ、仲哀天皇がナカタラシヒコと隋書のアマタラシヒコと似通っていて、垂仁天皇こそアマタラシヒコなのかもしれない。孝昭天皇の皇子の名前にアマタラシヒコを名付けていて、孝昭天皇は紀元前95年からの王で日本書紀でいうと崇神天皇にあたっていて、日本書紀の内容のある記述は崇神天皇から始まっているて、王を継いだ話を書いている。このときアマタラシヒコを襲名して、代々アマタラシヒコを王としたと思え、國押人というのは領地を広げた中国の高宗や太宗と比べるような人物のようで、近淡海國造之祖と書いてあって、この近淡海は成務天皇の宮の近淡海
『日本書紀』
孝昭天皇二九元年正月丙午 「后生天足彦國押人命 日本足彦國押人天皇」
崇神天皇四年十月壬午 「今朕奉承大運 愛育黎元 何當聿遵皇祖之跡 永保無窮之祚」
『古事記』
「兄天押帶日子命者、春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壹比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢飯高君、壹師君、近淡海國造之祖也」

太子と立太子の分析によって天氏の宮の変遷が日本の時計だったことが証明出来て、日本書紀の内容が天氏の時計に対応させているため、かなり正確な内容だと考えてもよいとゆうことが解った。

2017年7月19日水曜日

最終兵器のミサ 立太子の分析4

 立太子の分析を続けると、聖徳太子の前の立太子は敏達天皇の欽明天皇時の立太子すなわち2代ずれて宣化天皇の安閑天皇時の立太子の事になる。安閑天皇は前代の継体天皇が本来28年在位のはずが25年の在位になってしまい、敏達天皇の立太子年が安閑天皇の時のはずが年が合わなくなってしまった。そのための欽明天皇29年とゆうことは2代ずれて継体29年の意味になったかもしれない。すなわち安閑天皇5年、宣化天皇が即位時に宣化天皇の子が小さいかいなかったため欽明天皇を太子に立てた。
前回書いた筑紫火君が宣化天皇で継体天皇15年518年に葛子が立太子して528年に磐井が殺害されたため同じ宮で即位して、葛子の子火中君(中皇子・宣化天皇)が536年に即位して同時に弟の火君(兔皇子・欽明天皇)が立太子して、540年に即位してから以降の聖徳太子以外は天智天皇まで長男が即位して宮だけ変更したようだ。
『日本書紀』
敏達天皇即位前紀 「廿九年立爲皇太子」
欽明天皇十五年正月甲午 「立皇子渟中倉太珠敷尊爲皇太子」
継体天皇二二年十二月 「筑紫君葛子恐坐父誅 獻糟屋屯倉 求贖死罪」

「ミサ 太子5」で書いたように磐井は504年に即位しているけれど、その前は「武」で、大明六年461年は「興」で昇明元年477年は不明で昇明二年478年は「武」で「興死弟武立」は477年の内容と考えられる。大王交代時期は「清寧天皇477年」と合致して、清寧天皇・顕宗天皇・仁賢天皇・武烈天皇は同じ大王「武」だとゆうことが解り、1大王の宮の交代した。弟が27年間即位するとゆうことは、長男も高齢になり、磐井も22年間大王だったとゆうことは「武」の次男が482年に太子となって、さらに仁賢天皇7年491年の立太子は孫または甥の可能性がある。
宋書 卷六 本紀第六 孝武帝 』 大明六年
「壬寅 以倭國王世子興爲安東將軍」
『宋書 本紀第十 順帝』 昇明元年
「冬十一月己酉  倭國遣使獻方物」
『宋書 卷九十七 夷蛮伝 倭國』
「詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王」
「丗祖大明六年詔曰倭王丗子興奕丗載忠作藩外海稟化寧境恭修貢職新嗣邊業宜授爵號可安東將軍倭國王
興死弟武立 自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王」
「順帝昇明二年・・・詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王」
『日本書紀』
清寧天皇三年四月辛卯 「以億計王爲皇太子 以弘計王爲皇子」
武烈天皇即位前紀 「億計天皇七年。立爲皇太子」

同じように古事記の雄略天皇()22年472年、弟の「武」が立太子して「興」は451年元嘉28年に大王を継いで、「興」と「武」が兄弟で、日本書紀に書かれていて古事記に書かれていない、磐城皇子が「興」で星川稚宮皇子が「武」の可能性があり、古事記では仁賢天皇が継体天皇なので「武」は顕宗天皇、「興」は清寧天皇に対応する。
『宋書 卷五 本紀第五 文帝』 元嘉二十八年
 「秋七月甲辰 安東將軍倭王倭濟進號安東大將軍」
『宋書 卷九十七 夷蛮伝 倭國』
「二十八年加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍如故并除所上二十三人軍郡」
「濟死丗子興遣使貢獻」 
「丗祖大明六年詔曰倭王丗子興奕丗載忠作藩外海稟化寧境恭修貢職新嗣邊業宜授爵號可安東將軍倭國王」
『日本書紀』
雄略天皇二二年正月己酉朔 「以白髮皇子爲皇太子」

2017年7月17日月曜日

最終兵器のミサ 日本書紀と古事記の系図

 太子や立太子を調べてきたけれど、幾つかのことが解ってきたことがあって、1つは日本書紀は蘇我氏が書いた文に天氏が加えて、天氏の系図を元明天皇が古事記の系図に書き直して、元明天皇の系図の接続に加えて天氏の系図にもまたの名を使って血縁関係を持ったようにした。
とゆうことは、日本書紀のまたの名は天氏の系図か中臣氏の系図の可能性が高いけれど、日本書紀は、蘇我氏も物部氏も同じことをした可能性があると考えなければいけない。
神武天皇の東侵記事をみると本来の出発地安芸より前は、日本書紀が速吸之門→菟狹→筑紫岡水門で古事記が日向高千穗宮→豐國宇沙足一騰宮→竺紫岡田宮と宇佐から筑紫が共通で、神武天皇の母親は豐玉姫の妹の玉依姫で豊国と関係が深く、共通の話の様に見えるけれど、神武天皇の名前のまたの名に古事記は若御毛沼命と豊御毛沼の名前が挿入されていて、古事記を書いた人物は神武天皇が若御毛沼だったのを豊御毛沼に書き換えてその後元明天皇が神倭伊波礼毘古に書き換えたと考えられる。
『古事記』
若御毛沼命 亦名豊御毛沼命 亦名神倭伊波礼毘古命

とゆうことは、古事記は若御毛沼の歴史を書いたものを豊御毛沼に書き換えて追加した史書で完成したのが仁賢天皇の時だったとゆうことが解り、日本書紀と古事記が似ているとゆうことは日本書紀も若御毛沼を書いたところに豊御毛沼を先祖に持つ王朝が若御毛沼を豊御毛沼に書き換えて追加、さらに、物部氏が物部氏の先祖の名前に書き換えて、それを蘇我氏も天氏も書き換え、最後に元明天皇が書き換え、前に書いたとおり、璽の移動や史書の話題と全く同じだ。
聖徳太子関連の古文書には欽明天皇から書かれていることから、天國排開廣庭・渟中倉太珠敷・橘豐日・泊瀬部・豐御食炊屋姫・息長足日廣額の天皇は元明天皇の血筋または蘇我氏の血筋の可能性が高く、『大村骨臓器銘文』の檜前五百野宮御宇天皇が天氏の王家でなかったら上殖葉皇子の血筋の威奈鏡公と後岡本聖朝との関連の意味がなくなってしまうことになるため檜前五百野宮は天氏の宮と考えられ、しかも、古事記では恵波王と書かれていて古事記の内容を日本書紀が書き換えている
もちろん2代ずれた磐井か葛子の宮が檜前五百野宮で皇子の名前に桧隈が付くのは良く当てはまって古事記にない皇子をつなげていくと桧隈高田皇子→上殖葉皇子→天香子皇子(アマタリシヒコ)→押坂彦人→茅渟→天萬豐日とゆうことになり、欽明天皇の筑紫火君の記事で、筑紫君葛子、その子火中君、その弟の火君が前につながる。勾大兄もどこかにはいりそうで葛子の子で火中君の親の筑紫君かも知れない。
『大村骨臓器銘文』
卿諱大村。 檜前五百野宮御宇天皇之四世 後岡本聖朝 紫冠 威奈鏡公之第三子也 卿温良在性。
『日本書紀』
欽明天皇十七年正月 別遣筑紫火君 百濟本記云 筑紫君兒 火中君弟

そして、その他の更名の櫻井皇女・菟道磯津貝皇女・輕守皇女も天氏の重要な人物と想像でき、 菟道磯津貝皇女はリカミタフツリの妃のようで、おそらくそれ以前の古事記にない更名の人物は蘇我氏が付け加えた可能性が高い。