2025年8月15日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 崇神天皇1

崇神天皇は師木の水垣宮を首都にする天皇で、『日本書紀』には前95年崇神「三年秋九月遷都於磯城是謂瑞籬宮」と記述される。しかし、日干支を記述しない、すなわち、日干支の記録が無かったのだろう。今まで、記録を持っていた朝廷が滅び、記録を持っていなかった場所に朝廷が遷った。

すなわち、この遷都は記録を持っていた春日宮王朝が滅亡した記録と考えられる。そして、大縣主の大毘古の子が前97年、崇神元年春正月壬午朔甲午に「皇太子即天皇位」と即位した。天皇比古由牟須美、大臣伊香色雄日子坐、最高実力者は木国造の建宇那比である。

崇神元年二月辛亥朔丙寅の「立御間城姫爲皇后」の記事は九州・吉備の暦で1月30日晦が辛亥である。実際の皇后は木國造荒河刀辨の娘の遠津年魚目目微比賣で息長水依比賣と考えた。子は丹波比古多多須道主、旦波大縣主由碁理の娘の竹野比賣の子なのだから、丹波道主は相応しい。

前94年崇神四年冬十月庚申朔壬午の「惟我皇祖諸天皇等光臨宸極者豈爲一身乎」記事は十一月で、ひと月のズレがある。吉備の暦の十月庚申晦(30日目で実際は11月1日)すなわち、十一月庚申朔なのだろうか。

前91年崇神七年春二月丁丑朔辛卯の「昔我皇祖大啓鴻基其後聖業逾高王風轉盛」にも即位の宣言らしき記事が存在する。この時、大物主が現れて、大田田根子に祀らせるように言った。すなわち、吉備や出雲神社の勢力が河内や奈良に進出して、勢力を築き始めたと考えられる。

2025年8月13日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 開化天皇2

前153年開化五年春二月丁未朔壬子に「葬大日本根子彦國牽天皇于劒池嶋上陵」と6年も後に前天皇を埋葬している。そして、翌年の前152年開化六年春正月辛丑朔甲寅の「立伊香色謎命爲皇后」と政権交代が起こっている。

しかし、やはり『舊事本紀』は「七年春正月伊香色謎命立為皇后」と一年のズレがある。これは、孝元天皇を「継承した」王家と、「継承しなかった」王家が有ることを示している。しかも、「六年春正月辛丑朔甲寅立伊香色謎命爲皇后」の日干支は九州(吉備)の暦、辛丑朔は12月30日で、伊香色謎が皇后である。すなわち、伊香色雄が最高実力者、吉備小国の少彦男心が倭迹迹姫に婿入りして比古布都押之信と呼ばれた。

ズレがあるのだから首都は春日と違う場所の朝廷、「しこぶちさん」の安曇川近辺なのだろう。根子の名を引き継ぐ兄磯城・十市縣主→纏向朝廷(十千根大連)と、もう一つ、磯城彦葉江の名を引き継ぐ弟磯城の、磯城朝廷である。

舊事本紀』は「八年春正月以大祢大綜杵命為大臣武建命大峯命並爲大祢」、「二月伊香色雄命爲大臣並物部連公」とある。前151年1月に大綜杵が大臣になったが、2月に伊香色男が別の朝廷の師木の大臣になったのだろう。大綜杵は春日率川宮大臣、伊香色雄は磯城瑞籬宮大臣と『天孫本紀』で記述され、伊香色雄は師木の大臣だった。すなわち、大臣を持たない王朝を含めて3王朝分立状態。

前98年六十年夏四月丙辰朔甲子の「天皇崩」も九州の暦で丙辰朔は3月30日である。すなわち、前158年に皇位継承したのは大毘古で、大毘古は前98年冬十月癸丑朔乙卯に大毘毘を「葬于春日率川坂本陵」と葬って、朝廷を統一したようだ。大毘古は旦波の大縣主を意味し、旦波(丹波)は道主が跡継ぎ、その婿が垂仁天皇である。

2025年8月11日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 開化天皇1

  孝元天皇は磯城彦葉江の分家の大目の子の兄磯城と葛木彦の朝廷で、弟磯城黒速が絚某姉の夫なのだろう。その子が欝色雄大臣、『日本書記』が記述しないもう一つの朝廷のよう。『日本書紀』は開化天皇まで、大臣や大連・政大夫を記述しなかった。すなわち、大臣を賜姓する『舊事本紀』の朝廷と、賜姓しない『古事記』の朝廷、もう一つ、大臣を賜姓しないし、『古事記』とはやや異なる『日本書紀』の朝廷が存在した。

開化天皇は前158年孝元五七年冬十一月辛未朔壬午、11月12日に「太子即天皇位」と即位した。しかし、『舊事本紀』は「元年癸未春正二月皇太子尊即天皇位」と前157年で即位が一月か二月か一二日か意味不明である。『日本書紀』には、前157年開化元年春正月庚午朔癸酉の「尊皇后曰皇太后」、開化元年冬十月丙申朔戊申の「遷都于春日之地」とある。

しかし、『舊事本紀』「二年春正月尊皇后曰皇太后尊皇太后追贈」「冬十月都遷春日地謂率川宮」と一年のズレがある。すなわち、『日本書紀』の記録は『舊事本紀』の記録者と異なる勢力が記録したことを意味する。書いた勢力が違うのだから当然である。

同じ内容に1年のズレを持つ、2つ以上の暦が存在したことを示している。『漢書』は「東鯷人,分為二十餘國」と20国余が前漢朝に中心国が現れたと記述している。前漢は、前200年頃から紀元後7年まで、孝元天皇から垂仁天皇までの間である。そして、垂仁天皇時に十千根大連を記述する。大連を持たない勢力が権力を弱めたことを示し、崇神朝は両勢力が統合した東鯷人の国だった。

2025年8月8日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 孝元天皇

  前214年孝元元年春正月辛未朔甲申の「太子即天皇位尊皇后曰皇太后」、前211年孝元四年春三月甲申朔甲午の「遷都於輕地是謂境原宮」、前209年孝元六年秋九月戊戌朔癸卯の「葬大日本根子彦太瓊天皇于片丘馬坂陵」は九州の日干支で、孝靈朝の最高実力者の建斗禾の記事と考えられた。この頃の人物に天道根の孫の比古麻夜真止が存在し、大屋首の祖とされ、大屋は大倭の意味で、国名が付加されない比古だが、大屋神社近辺の最高実力者なので、大屋比古の大屋を略した野洲の王である孝元朝の首都は輕境原宮なので、孝安天皇の娘婿が出雲大臣の血を引く大水口で天戸目を継承し、欝色謎の娘婿が孝元天皇である。

前209年孝元六年に前朝廷が滅亡したことを宣言して、大水口の子達が政権を奪取したようだ。前208年孝元七年春二月丙寅朔丁卯の「立欝色謎命爲皇后」によって、欝色雄の政権が樹立された。すなわち、「八年春正月鬱色雄命爲大臣亦大綜杵命為大祢」とあるように、鬱色雄が大臣と政務の最高実力者になった。大綜杵は大祢、大倭根子より格下なのだろう。暦を管理する宮の大祢ならば、『舊事本紀』の孝安朝から開化朝まで、日干支を記述していないのと矛盾する。日干支を管理していれば、「八年春正月鬱色雄命爲大臣亦大綜杵命為大祢」の記事に正しい日干支が記述されなければならない。

孝元廿二年春正月己巳朔壬午の「立稚日本根子彦太日日尊爲皇太子」は正しい日干支だが、立太子は九州の王家の継承である。倭人が百余国を纏めたのが前漢である。なので、卑弥呼に繋がる九州の王家の倭王朝は孝元天皇の時代から始まったと考えられる。前158年孝元五十七年秋九月壬申朔癸酉の「大日本根子彦牽天皇崩」も正しい日干支で、欝色謎が皇后の安曇川沿いの、輕境原宮朝廷は終わった。

『日本書記』を書いた政権は大臣を書いていない。『日本書紀』の孝元天皇は物部氏の王家ではない王家、葛木の大倭根子、皇后は欝色謎ではなく、欝色雄の娘の伊香色謎と考えられる。欝色謎の夫は別人、兄磯城の十市縣主が有力、比古麻夜真止も考えられる。

2025年8月6日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 孝靈天皇2

前215年孝靈七十六年春二月丙午朔癸丑の「天皇崩」は1月30日の日干支、前214年孝元元年春正月辛未朔甲申の即位、前211年孝元四年春三月甲申朔甲午の輕境原宮遷都も日干支は1日のズレがある九州の暦と考えられる。正しい日干支を調べると、孝靈の崩御が孝靈九年や孝元二十六年、埋葬が孝元三十七年と意味不明になってしまう。

ところが。九州の記録とすれば、丸迩君の祖の阿田賀田須は大倭王になる人物と思われ、大倭國民磯姫の子である。大倭國民磯姫は名から大倭根子の娘と考えられる。民磯姫の義母は紀伊名草姫、名草姫の義母は伊勢主の娘、義父は建甕槌なので、御井宮王の和知都美王家の人々の説話と考えた方が合理的だ。紀伊名草姫は木国造になる前の天道根(伊勢主)と九州から来た日臣(木國造智名曽)が姻戚関係になった時の人物とわかる。

そして、蝿伊呂泥・蝿伊呂杼の子には吉備上道臣・下道臣の祖が存在し、吉備の別名は建日方別、熊曾建日別の分国で九州の系列国である。私は少彦男心が倭迹迹姫に婿入りして大臣比古布都押之信となり、大臣でなくなってから屋主忍男武雄心と野洲王になったと考えている。

すなわち、九州の暦を持って師木や葛木に兵士を連れて遣って来た。孝靈天皇の崩御は実質の天皇の細比賣の父の師木縣主大目(天戸目)王朝の終焉を意味する。師木縣主は師木が首都になると、十市縣主、さらに木国造と呼ばれる。天戸目の子の建斗禾は木國造智名曽の妹に婿入りして、十市縣主になった。そして、子の建宇那比は木國造に婿入りして、木國造になったと考えられる。

2025年8月4日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 孝靈天皇2

  前215年孝靈七十六年春二月丙午朔癸丑の「天皇崩」は1月30日の日干支、前214年孝元元年春正月辛未朔甲申の即位、前211年孝元四年春三月甲申朔甲午の輕境原宮遷都も日干支は九州の暦と考えられる。正しい日干支を調べると、孝靈の崩御が孝靈九年や孝元二十六年、埋葬が孝元三十七年と意味不明になってしまう。

ところが。九州の記録とすれば、丸迩君の祖の阿田賀田須は大倭王になる人物と思われ、大倭國民磯姫の子である。大倭國民磯姫は名から大倭根子の娘と考えられる。民磯姫の義母は紀伊名草姫、名草姫の義母は伊勢主の娘、義父は建甕槌なので、御井宮王の和知都美王家の人々の説話と考えた方が合理的だ。紀伊名草姫は木国造になる前の天道根(伊勢主)と日臣(木國造智名曽)が姻戚関係になった時の人物とわかる。

そして、蝿伊呂泥・蝿伊呂杼の子には吉備上道臣・下道臣の祖が存在し、吉備の別名は建日方別、熊曾建日別の分国で九州の系列国である。私は少彦男心が倭迹迹姫に婿入りして大臣比古布都押之信となり、大臣でなくなってから屋主忍男武雄心と野洲王になったと考えている。

すなわち、九州の暦を持って師木や葛木に兵士を連れて遣って来た。孝靈天皇の崩御は実質の天皇の細比賣の父の師木縣主大目(天戸目)王朝の終焉を意味する。師木縣主は師木が首都になると、十市縣主、さらに木国造と呼ばれる。天戸目の子の建斗禾は木國造智名曽の妹に婿入りし、子の建宇那比は木國造に婿入りしたと考えられる。

 

年候補

丙午2月朔 -282 -189 -158 -96

辛未1月朔 -250 -121 -64

甲申3月朔 -268 -237 -175 -144 -51

2025年8月1日金曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 孝靈天皇1

  孝安天皇、丸迩臣の祖の(天足)彦國押人の子の建斗禾は日臣の末裔の木國造智名曽の妹の中名草姫を妃に十市縣主になった。木國造智名曽は日臣が前446年孝昭三十年に天道根の末裔の名草戸畔を破り、名草戸畔と姻戚関係になって、木国造になったと考えられる。天道根は紀河瀨直の祖でもあり、河瀬は彦根に有り、木国に彦根の河瀬も含まれたようだ。それが、神武天皇即位前紀戊午年六月乙未朔丁巳、「軍至名草邑則誅名草戸畔者」の記事だ。

天足彦の子の建宇那比も木国造の娘と考えられる節名草姫を妃に十市縣主になったと考えられた。建斗禾の姉妹が細媛で、前290年孝霊元年元年春正月壬辰朔癸卯に「太子即天皇位」と孝靈天皇が即位し、前289年孝霊二年春二月丙辰朔丙寅に細媛が皇后になった。日干支は正しく、孝霊卅六年春正月己亥朔の「立彦國牽尊爲皇太子」も倭王朝の交代である。

神武二年二月甲辰朔乙巳に弟磯城が磯城彦になった。論功自体は、659年でよいが、沼河耳の妃が磯城縣主の祖、磯城縣はまだ無かった。磯城は孝安天皇まで、磯城にも、もう一人の天皇が住んでいた。そして、孝霊天皇の時に、兄の磯城彦は十市縣主になった。すなわち、同じ干支の前292年か168年が相応しい。すなわち兄磯城は建宇那比が継ぎ、弟磯城黒速は宇那比姫の婿の比古布都押之信がついだのだろう。崇神朝は磯城が首都なので、比古布都押之信の子が天皇になった。磯城彦の娘婿は伊香色雄である。

 

年候補

乙未6月朔 -570 -513 -446 -420 -389 -322 -296

甲辰2月朔 -659 -602 -535 -509 -478 -411 -354 -292 -168