2024年8月16日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 九州の神3 大年神の子達

  大年神は、神活須毘神の娘である伊怒比賣を妃に迎えるが、伊怒の地と思われる糟屋の猪野に皇大神宮があり、加須屋の大海祇の出身地である。

つまり、韓神などを生む大年神を祀る加須屋の大海祇が三国や新羅、百済、筑紫、肥等の国を領有していたと主張している。また、大年神は香用比賣を妃に迎え、子が大香山戸臣なのだから、山背の御香宮神社、今の伏見稲荷の近辺を領有したと主張した。さらに、倭の知詞島に降ったと思われる天知迦流美豆比賣を妃として倭を支配した。大年神の子によって、隠岐(奧津日子・奧津比賣)、大国(大山上咋)、山背(香用比賣)、大和(香山戸臣)を統治したとの主張だろう。蓋州南の五島列島の知迦島の姫と()知と()加使主は偶然ではなく、倭国の出身地なのだろう。

大年神の子の庭津日神・庭高津日神は『尾張國丹羽建部君』の国に関係し、津島や津に祀られていた神々と考えられる。阿須波神は飛鳥、香山戸臣神は橿原の天香山神社、羽山戸神は宇治、大土神は大津を指しているのかもしれない。波比岐神については、河内の羽曳野か比良山地の端、宇治近辺の神である可能性がある。

これらの地域は、すべて4世紀後半に曾都毘古の東征によって支配された国々である。曾都毘古たちにとって、4世紀はまだ神話時代であった。これは、神功皇后の神名交換説話や雄略天皇の一言主の説話が記録されていることからも伺える。

大年神と天知迦流美豆比賣との子の羽山戸神は大氣都比賣を妃に若山咋神、若年・若沙那賣神兄妹、彌豆麻岐神、夏高津日神(夏之賣神)、秋毘賣神、久久年神、久久紀若室葛根神を生んでいる。久久年神、久久紀若室葛根神は若年・若沙那賣同様兄妹なのだろう。すなわち、大年は帝の門と連の氏で年、宇迦能山に朝廷を開いた王は知迦島出身の王の力を借りて若狭、三国、夏磯姫の那珂川河口、安芸、そして狗古智卑狗が治める東と南の拘奴國を領有したことを示す。

2024年8月14日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 九州の神2 久延毘古

大年神と同様に、『古事記』は大国主の物語の最後に少名毘古那と久延毘古についても記述している。少名毘古那は常世の国へ去り、久延毘古は御諸山に祀られているとされている。この御諸山に祀られている神は大物主であり、久延毘古の後に大物主が祀られた。

久延毘古は御諸山を「倭の東」と記述しているが、三輪山がある桜井市は大和の中央部にあり、大和郡山が大和の中心ならば南に位置する。しかし、九州の倭()奴国「イ()ナクニ」を基準にすると、建日方別の吉備児島(少国)が東の境界となり、大和が少国(少名毘古の領地)の東でよく符合する。「倭の東」は我東の意味だった。

『日本書紀』の神話時代(縄文時代)の大和(山戸)には「木津」という地名が生まれた。つまり、この時代には大和湖や巨椋池が存在し、木津から船で瀬戸内に向かうことができたという時代背景がある。若帯日子が支配する前の仲国には中臣氏が王だった。香山戸臣は、大和が豊かな土地となり、大和池があった時代の、纏向宮時代より前の神と考えられる。

大物主は大和三山の争いを仲裁しようとし、播磨まで来たが引き返しているので、播磨以東に影響力はあるものの、実際の領地ではなかった。最終的に、大国主の後を継いだ大物主が、加須屋の山田にいる久延毘古や吉備の少名毘古那と共に、肥国建日向日豐久士比泥別、熊襲建日別、土左建依別、吉備建日方別とあるように、九州から吉備に至る王朝を築いたことを示している。

『古事記』には「久延毘古者於今者山田之首富騰者也」と記述されており、猪野皇大神宮の近辺には山田があり、久原(クバラ)という地名も存在し、久延毘古はそこの男人だった。

2024年8月12日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 九州の神1 神産巣日と大年神

  速須佐之男の子である大年神の系図を後回しにして、『古事記』はまず大国主の説話を記述している。これは、『古事記』の編纂者たちの祖先である曾都毘古が、熊襲の力を借はしたが、皇位を奪取したからだと考えられる。曾都毘古という名前は、暗殺された熊襲の戦士である日向曾都毘古から受け継がれたものだったと思われる。曾都毘古は、熊襲の戦力を背景に伊耶本和気を皇位に就けた人物だ。そして、日向曾都毘古の祖神が大年神である可能性がある。

『古事記』は、最初に登場する神々として、天之御中主、高御産巣日、神産巣日を記述している。天之御中主は中臣氏の祖神であり、高御産巣日が葛木氏の祖神と思われる。劔根が高倉山に住み、宝剣を発見したので当然のことだ。高御産巣日という名は「高神産巣日」を意味し、実際は神産巣日が『古事記』における祖神と考えられる。

まさに、神産巣日は『古事記』に「神産巣日御祖」と記されており、神産巣日が祖神である。さらに、神産巣日は保食神である大氣都比賣から種子を得て、農耕を始めた。『日本書紀』の一書では、天熊人が神産巣日であり、その子が天御食持とされている。この「天」は淡海の天、大氣都比賣のことを指すのだろう。つまり、「食」や「気」は農耕技術の継承者、すなわち王を意味し、須佐之男も悪神ではなく、動物を使って耕し、糞尿を肥料として農業を改良した善神であったと考えられる。

神産巣日の後裔として、火之迦具土の後に生まれた神として和久産巣日が存在する。火之迦具土は九州で火を意味する「迦」と呼ばれる神であり、それに続く和久産巣日も和久の言葉から九州に分祀された神だと考えられる。その子は豐宇氣毘賣と名付けられ、豊国の宇佐の保食神を受け継ぐ農耕の神であったと見られる。

また、建速須佐之男の娘は胸形で祀られており、建速須佐之男の子が大年神である。この大年神の系図は、竺紫日向の高千穂に天降るという説話の前にわざわざ記されている。つまり、対馬の昼ヶ浦、津のある州から胸形、そして畿内へ渡った加須屋の大神祇の末裔が日向曾都毘古であると述べている。

2024年8月9日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 宮の記録

  『山海經』の「大荒東經」において、紀伊半島から瀬戸内辺りに「羲和之國」があり、一年が366日の暦を創った。すなわち、366以上の数値を記録したことを示す。日本は縄を結んで元号の年月日を記録した。一十廿卅卌は福建省南部の方言で中国では一般的でなく、廿をniàn、中国語の二十はèrshiと読み、「ni」は元々日本語なのではないだろうか。ちなみに、「卅卌」は「sà xì」で、「サン・シ」と読め、「三十、四十」は「sānshí sìshí」でどちらとも取れる。また、字形は如何にも縄に縄を結び付けた形状に似ており、縄文土器文化の記録に符合する。中国は年数などを数えるのに壹弐参・・・を一二三・・・と記述するが、羲和が日にちを数える数値を持ち込んだと考えられる。一二三も結縄の形に見える。

事代主の母の神倭王朝の創始者の神屋楯比賣の宮では、この結縄で十六夜(イザヨイ)、十七夜(カナギ)等を記録したのだろう。そして、前667年頃から、干支を記録して歴史時代に突入する。暦を創った紀伊半島の住民と思われる羲和は、日にちを数え、朔日も縄に記録した。

十二支のね・うし・とら・・・、十干の「キノエ・キノト」等は中国語でなく、「甲子」(カッシ)など漢字が輸入される前から「きのえのね」が有り、縄を結えれば、糸も結えるので、絹糸に符合を付けるか色でも塗れば区別でき、かさ張らない。入れ墨が刻めれば、記号も刻め、船を削れば木片が有り、それを糸に結んで記号を刻めばよい。日本語に無かった立春や立秋など二十四節季は中国語を使っている。この微妙な季節観から考えれば、羲和の和制中国語なのだろうか。

漢は劉邦が龍の化身、黄帝の化身と見做したが、『山海經』の「海經」では、龍に「乘兩龍」と記述され、龍は乗り物の舟の事と考えられる。日本では龍を「タツ」と読み、但馬の津の舟と理解した可能性が高い。また、中国語の龍は「lóng」、日本語で櫓を漕ぐことを意味する事だろうか。すなわち、朝鮮半島にあった辰国は龍国、但馬の王と同族の国の可能性が高い。『日本書紀』の一書には素戔嗚の子の五十猛が新羅に天降っている。婆神「バケ」と同じ但馬「タ」の神「ケ」の出身で伊根の神なのだろう。

2024年8月7日水曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 大国主の子達

  『古事記』では大国主の子は八上比賣の子の木俣(御井)神、多紀理毘賣の子の阿遅鋤高日子根と高比賣兄妹、神屋楯比賣の子の事代主、鳥耳の子の鳥鳴海とされる。ところが、『舊事本紀』では、大国主の子は百八十一神で、それは、大己貴、大國主、大物主、國造大穴牟遅、大國玉、顯見國玉、葦原醜雄、八千矛の八柱、八島士奴美(=大穴牟遅)以下、遠津山岬帶の17世代の子達なのだろう。さらに、『舊事本紀』は事代主に髙照光姫という妹があり、沼河姫に建御名方が生まれたと記述されている。

髙照光姫は阿遅鋤高日子根の妹の高比賣と亦の名下光比賣(下照比賣)を併せたような名で、下照比賣は天若日子の妃である。下照比賣は天若日子の死後、阿遲志貴高日子根を天若日子と見間違えているので、阿遅鋤高日子根と阿遲志貴高日子根は別人と解る。阿蘇道の鋤出身と淡道の師木出身の高島の人物なのだろう。

天若日子は大国主の母の刺国若比賣の夫の天之冬衣と考えられ、阿遲志貴高日子根は淡海の師木に天降った人物なのだろう。そして、阿遲志貴高日子根に対応した、同じ高島の姫の髙照光姫も阿遲志貴高日子根の妃の可能性がある。すなわち、事代主が大国主の父と同世代の王朝の可能性が高い。

尾張連・意乎巳連の祖の天火明は天道日女を妃にして天照大御神を祀った。それに対して、大物主は八島士奴美の後裔の八島牟遲能神と野洲王、そして木国造の娘の紀伊名草姫の子の天之甕主と姻戚関係になった。さらに、襲名した大物主は天狹霧神の娘を妃にて遠津山岬帶と伊勢遺跡のある津、すなわち草津王となったようで、その後裔の豐鋤比賣が伊勢大神を祀った。宇迦の宮柱から近い津の大津に対して、遠い津の草津と考えた。

2024年8月5日月曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 大国主4 拘奴國へ

  狭霧所成」で生まれた多紀理毘賣は但馬の日女であり、但馬の豊岡市には切濱という地名がある。「流宮加須屋大神祇大神」が住んだ流宮はこの豊岡の切濱であり、速国の速須佐之男と若狭の日向(湖)の天照大御神の子生みがあったと伝える。

大国主は多紀理毘賣を妃にして、東の「拘奴國」速日国への足掛かりとした。彼は八十神との伯伎国での戦い、そして速日国との戦いを挑んだ。子の大年神は白日神や聖神、韓神、曾富理神、大國御魂神などを生んでおり、三国と大国を支配し、韓地や三身国などに市を開いたのだろう。

『山海經』には、𨲠丘の西の国とされる昆侖虛の東に隠岐の三小島の三首國が南經の領域にあると記述されている。東經と分けているので、地勢的に繋がりがあったと考えられる。『古事記』にも、吉備兒島が「建日方別」という建国のグループの名で記述されているので、速日国の影響下だ。そして、大国主は、大物主へと継承され、高御産巣日の娘である三穂津姫から鴨部美良姫に大物主の名が継承された。

建甕槌が三国や野洲を含む大国から大国主を追い出したが、大物主は大和三山の仲裁を行ない、大和に影響力があった。大国主を祀った亀岡の出雲神社は、現代の出雲よりも播磨や大和に近い位置にある。崇神天皇の時代には、大物主は三諸山に住み、意富多多泥古も河内美努村に住んでいて、仲裁は理に適う。これにより、大物主の影響下の領域が、三国や大国からは撤退したが、韓地から九州、中国、大和まであったと考えられる。

崇神天皇の時代、大国が大和を支配し、名目上隠岐王の配下であった大国の臣の大臣が天皇となり、大物主を祀ることを許した。このことから、大臣の配下の臣という姓が与えられ、大和の神々も香山戸臣として賜姓されたのだろう。神話時代の縄文時代には、大和・山背は水底であり、神話の舞台にはなり得ない。陸地は橿原や飛鳥、河内などと考えられ、山(野洲)の門とはなり得ない。

2024年8月2日金曜日

最終兵器の目  新しい古代の神話 大国主3 神と地名

  大穴牟遲(宇都須山祇)は八上比賣を妃にすることで、宇都志国王になった。八千矛神は野洲国を継いだ八馳(国神)であり、矛は王の意味だと考えられる。玉や瓊(ヌ)や神器の矛は王の象徴であり、天津国玉のように王の官位として使われたと考えられる。

八千矛神の妃は高志国の沼河比賣で、沼河は瓊河を意味し、翡翠を産出する糸魚川の姫だと私は考える。また、大国主の祖と思われる櫛名田比賣の子である八島士奴美の「奴美」も瓊神を意味するのだろうと考えられる。

 宇都須山祇の子である大人様が周饒国王になり、大人様の兄の襲名した宇都須山祇の宇都志國玉は山末之大主の官位を得たと考えられる。しかし、出雲で戦乱が起こり、出雲氏の力が衰えた。その結果が、若()比賣の子の大国主と多紀理毘賣との婚姻だろう。

大国主は出雲の大山祇を配下にするために、大山祇の宗主国の速日国の姫である多紀理毘賣を妃とした。彼らの子が阿遅鍬高彦根、その子が奈賀命で、奈賀命は隠岐国の王となった。その妃が丹波の須津姫、親は記述しないが、出雲の大山祇か加須屋の大神祇だろうか。

美豆別之主の時代、主栖の沖津久斯山祇が小斯凝呂山祇首として三子島を統治し、主栖は主栖津と呼ばれた。大津松野の地名を主栖に変え、胸形の神である多紀理毘賣を隠岐の主栖津に祀った(奧津宮)と考えられる。

阿遅鍬高彦根の子の奈賀命の妃は「丹波の須津姫」だが、姫の先祖が対馬の佐須川から丹波の須津に遷り住んでいて、大津松野に移住したため、大津松野が須津(栖津)と呼ばれるようになったのだろう。須津姫が多紀理毘賣なのだろうか。木里()が木津そして大倭国平群県の紀里、現代の紀州へと移動したように、地名は人の移動と共に移動する。