「狭霧所成」で生まれた多紀理毘賣は但馬の日女であり、但馬の豊岡市には切濱という地名がある。「流宮加須屋大神祇大神」が住んだ流宮はこの豊岡の切濱であり、速国の速須佐之男と若狭の日向(湖)の天照大御神の子生みがあったと伝える。
大国主は多紀理毘賣を妃にして、東の「拘奴國」速日国への足掛かりとした。彼は八十神との伯伎国での戦い、そして速日国との戦いを挑んだ。子の大年神は白日神や聖神、韓神、曾富理神、大國御魂神などを生んでおり、三国と大国を支配し、韓地や三身国などに市を開いたのだろう。
『山海經』には、𨲠丘の西の国とされる昆侖虛の東に隠岐の三小島の三首國が南經の領域にあると記述されている。東經と分けているので、地勢的に繋がりがあったと考えられる。『古事記』にも、吉備兒島が「建日方別」という建国のグループの名で記述されているので、速日国の影響下だ。そして、大国主は、大物主へと継承され、高御産巣日の娘である三穂津姫から鴨部美良姫に大物主の名が継承された。
建甕槌が三国や野洲を含む大国から大国主を追い出したが、大物主は大和三山の仲裁を行ない、大和に影響力があった。大国主を祀った亀岡の出雲神社は、現代の出雲よりも播磨や大和に近い位置にある。崇神天皇の時代には、大物主は三諸山に住み、意富多多泥古も河内美努村に住んでいて、仲裁は理に適う。これにより、大物主の影響下の領域が、三国や大国からは撤退したが、韓地から九州、中国、大和まであったと考えられる。
崇神天皇の時代、大国が大和を支配し、名目上隠岐王の配下であった大国の臣の大臣が天皇となり、大物主を祀ることを許した。このことから、大臣の配下の臣という姓が与えられ、大和の神々も香山戸臣として賜姓されたのだろう。神話時代の縄文時代には、大和・山背は水底であり、神話の舞台にはなり得ない。陸地は橿原や飛鳥、河内などと考えられ、山(野洲)の門とはなり得ない。
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