『山海經』の「大荒東經」において、紀伊半島から瀬戸内辺りに「羲和之國」があり、一年が366日の暦を創った。すなわち、366以上の数値を記録したことを示す。日本は縄を結んで元号の年月日を記録した。一十廿卅卌は福建省南部の方言で中国では一般的でなく、廿をniàn、中国語の二十はèrshiと読み、「ni」は元々日本語なのではないだろうか。ちなみに、「卅卌」は「sà xì」で、「サン・シ」と読め、「三十、四十」は「sānshí sìshí」でどちらとも取れる。また、字形は如何にも縄に縄を結び付けた形状に似ており、縄文土器文化の記録に符合する。中国は年数などを数えるのに壹弐参・・・を一二三・・・と記述するが、羲和が日にちを数える数値を持ち込んだと考えられる。一二三も結縄の形に見える。
事代主の母の神倭王朝の創始者の神屋楯比賣の宮では、この結縄で十六夜(イザヨイ)、十七夜(カナギ)等を記録したのだろう。そして、前667年頃から、干支を記録して歴史時代に突入する。暦を創った紀伊半島の住民と思われる羲和は、日にちを数え、朔日も縄に記録した。
十二支のね・うし・とら・・・、十干の「キノエ・キノト」等は中国語でなく、「甲子」(カッシ)など漢字が輸入される前から「きのえのね」が有り、縄を結えれば、糸も結えるので、絹糸に符合を付けるか色でも塗れば区別でき、かさ張らない。入れ墨が刻めれば、記号も刻め、船を削れば木片が有り、それを糸に結んで記号を刻めばよい。日本語に無かった立春や立秋など二十四節季は中国語を使っている。この微妙な季節観から考えれば、羲和の和制中国語なのだろうか。
漢は劉邦が龍の化身、黄帝の化身と見做したが、『山海經』の「海經」では、龍に「乘兩龍」と記述され、龍は乗り物の舟の事と考えられる。日本では龍を「タツ」と読み、但馬の津の舟と理解した可能性が高い。また、中国語の龍は「lóng」、日本語で櫓を漕ぐことを意味する事だろうか。すなわち、朝鮮半島にあった辰国は龍国、但馬の王と同族の国の可能性が高い。『日本書紀』の一書には素戔嗚の子の五十猛が新羅に天降っている。婆神「バケ」と同じ但馬「タ」の神「ケ」の出身で伊根の神なのだろう。
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