2023年9月15日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 雄略天皇3

464年八年春二月の「新羅國背誕苞苴不入」の記事がある。道臣や小子部連、吉備上道臣は倭国との繋がりがあったようだ。『三国史記』慈悲麻立干五年462年「倭人襲破活開城虜人一千而去」、翌年「倭人侵歃良城」とある。倭国が新羅を侵略した。倭国侵略時、雄略九年465年の新羅戦の大敗北は463年の『三国史記』「擊大敗之」記事の可能性がある。この戦いは、3年間の大戦だった可能性がある。今まで、新羅・百濟と同盟関係だった、物部日本の秦に対して、葛木扶桑国は倭と共に親百濟で、新羅と戦ったようだ。

さらに、464年八年春二月の「桧隈民使博徳使於呉國」の記事がある。また、『梁書』に457年宋大明二年の「流通佛法經像敎令出家」という記事がある。すなわち、この時の南朝呉に使者博徳が遣ってきて、仏教の流布を伝えたと思われる。427年薨の大別の邸宅に577年に「安置於難波大別王寺」と像を安置する寺があった。寺を造り始めたのが577年で、この年に大別王の寺では早すぎて奇異である。しかも、「大別王未詳所出也」と、この大別王が詳しく解らないとある。そして、大別王は「自稱爲宰言宰於韓盖古之典乎」と今では使わない「宰」の役職名を使っている。すなわち、古い資料だったことを白状し、427年薨の大別の事と解る。百濟には384年、「胡僧摩羅難陁自晉至王迎之致宮禮敬焉佛法始於此」と百濟仏教が始まった。457年に既に仏典が流布しているのだから、大別が寺を造っても不思議でない。

身狹村主青が雄略二年、雄略八年「使於呉國」、雄略十二年「出使于呉」が博徳とセットで記述される。また、雄略十年、雄略十四年も呉からの帰国記事で記述される。博徳は斉明・天智朝でも外交を務める壱岐の倭国の襲名した人物のようだ。身狹は蘇我大臣稻目宿禰が「於倭國高市郡置韓人大身狹屯倉高麗人小身狹屯倉」と屯倉を置いた。すなわち、この説話は隋朝以降の倭王蘇我氏の説話と解る。曾都毘古の娘婿の子、朝鮮の多沙城で生まれたと思われる韓子宿禰の姻戚が身狹なのだろう。吉備上道臣田狹もやはり多沙城で生まれた可能性が高い。

蘇我氏は蘇我石河宿祢が大倭国高市県蘇我里で、蘇我氏の子として生まれた。子の満智宿祢が曾都毘古の婿となり、多沙城で、韓子宿祢が生まれたと思われる。蘇我石河宿祢が曾都毘古の義兄弟の立場となって、建内宿禰の子に数えられたのだろう。蘇我石河宿祢は「蘇我臣川辺臣之祖也」で、満智が『日本書紀』履中二年に平群木莵宿禰と共に蘇賀滿智宿禰が出現する。川辺臣の川辺は巨勢川辺宿祢が生まれた「軽里星河辺」の氏族である。その河辺に石河宿祢の子が婿入りして、巨勢川辺宿祢と呼ばれたのではないだろうか。川辺宿祢の義父が建彦借祢で軽の建彦、許勢臣雀部臣輕部臣の祖の小柄宿禰なのではないだろうか。小柄宿禰の子が輕部臣伊刀、兄弟が巨勢の乎利である。

2023年9月13日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 雄略天皇2

  雄略五年の「四月呉國遣使貢獻」は『宋書』孝武帝の「三月壬寅・・・興爲安東將軍」記事の倭の資料だろうか。三月晦()の日干支を変換するとき、四月朔の日干支にしたのだろう。盖鹵王の治世は治世18年472年まで平穏で、日本との関係がよかったのだろう。『百濟新撰』も日本の史書と同様に、盖鹵王の子、文周王の弟の昆攴君なのに、文周王を二代目盖鹵王と見做して、「盖鹵王遣王遣弟昆攴君」と記述している。これを理解すれば、百年以上生きる人物の意味が解る。日本も朝鮮も同じ文化圏なのだから、当然である。

雄略六年の「泊瀬小野」の命名説話も奇妙だ。泊瀬朝倉宮で「遂定宮焉」と宮に決めて即位した。しかし、恐らく現代の泊瀬、隠山と人が居ない泊瀬に、首都のはずの泊瀬の小野と命名している。すなわち、推古朝時の泊瀬と違う場所に首都泊瀬はあったことが解る。地名は人と共に動くのである。「賜姓爲少子部連」説話の三月辛巳朔丁亥の日干支は間違いの日干支である。小子部連は神八井耳が祖で、大臣や火君、科野國造、道奧石城國造、常道仲國造など、全国の王の祖が始まりだ。すなわち、道臣と共に畿内にやってきた人物、九州の暦と解る。養蚕説話なので、扶桑国の始まりと考えられる。『日本書紀』の安康天皇以前に記述されず、『古事記』に記述される小子部連は雄略以降の資料だ。

『梁書』の扶桑国に「有文字以扶桑皮爲紙」と扶桑の木の皮を紙替わりにして、文書が豊富に有ると記述している。扶桑の木を幻の植物としているが、『山海經』では海外東經の「湯谷」記述される。海外東經は三国以北の北陸に相当する地域である。そして、「湯谷」の傍に青丘國が存在し、「衣絲帛」と絹織物を着用していると記述する。「絲」を記述するのは海外北經の東北地方にある「歐絲之野」だけで、中国には存在しない。中国に桑は記述するので、野生の蚕で絹糸を作ったと思われる。日本では「三桑無枝」と枝を切り取って、「女子跪據樹歐絲」と女子が跪いて吐き出した糸を樹に巻いていたようだ。養蚕を、小子部連が人を集めて、多人数を取り仕切ったのだから、扶桑の皮が多く採取できた。それを、『梁書』が記述するように紙替わりにしたのだろう。そして、その紙に『日本書紀』の安康紀まで書き留めた。

その小子部連が七年秋七月甲戌朔丙子に大物代主神の璽を大伴大連天皇に献上した。代主神、大物の事代主神である。そして、曾都毘古の東征の中心人物の道臣や小子部連は神武東征説話とおり、仲国や吉備小国が協力したようだ。吉備でも、仲国も勢力下の上道臣が中心だったようだ。それで、翌月、正式に即位した大伴氏は、吉備小国の宗家の難波王の兄彦の分家の、「國造吉備下道臣山」を排除した。『古事記』では大長谷若建の妃に稚媛は含まれず、大伴大連天皇の妃であることが解る。下道國造は兄彦、吉備臣の祖の御友別の子、応神朝の難波の兄媛の甥である。兄媛は高城入姫と思われる。雄略九年春二月甲子朔の「遣凡河内直香賜與采女」は兄媛の末裔の河内王の説話だ。同族と思われる同地域の難波吉士日香香は日臣香香の意味かもしれない。

2023年9月11日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 雄略天皇1

  元年春三月庚戌朔壬子の「草香幡梭姫皇女爲皇后更名橘姫」とあるように、若日下部は大長谷若建の妃だ。そして、女国王も皇后と同名の橘大郎女で、恐らく同一人物である。嫁や婿も実子に入れたのが『古事記』・『日本書紀』の系図だ。稚足姫(𣑥幡娘姫)が「侍伊勢大神祠」と橘大郎女の後継者となったと思われる。大連天皇は室屋、女王国の皇太子と同等の大長谷若建大臣眞鳥だ。室屋が天皇位を奪取、日向諸縣君を後継し、波多毘能大郎子の子の可能性が高い。大伴氏の祖の道臣と思われる、日向諸縣君は「作大室於忍坂邑」と大室を作り、「道臣命宅地居于築坂邑」と領地となった。この坂は息長氏の領地も坂田で、神の朝廷伊勢、屋主の住む近辺である。

雄略二年「百濟池津媛」の「婬於石河楯」説話は蘇賀石河宿祢の説話と考えられる。石河宿祢の孫が韓子、曾孫が高麗と池津媛の子や孫のような名だ。石河宿祢は履中から雄略まで仕え、朝鮮半島で過ごした曾都毘古の妃の葛比売の家系の人物と考えられる。百濟葢鹵王はこの年、宋から「冠軍將軍」に任命され、新羅や宗主国の日本とも友好関係にと考えていたと思われる。しかし、倭と友好関係の蘇賀氏が邪魔をしたのではないだろうか。百濟と日本との友好を失敗させて、翌年、『三国史記』「倭人以兵船百餘艘襲東邊」と倭が新羅を侵略した。「百濟新撰云己巳年葢鹵王立」記事は、葢鹵王即位が安康二年乙未、己巳年は仁賢二年である。葢鹵王即位は455年、大長谷若建の大臣就位年である。己巳年は大長谷若建の薨年である。従って、この説話は大長谷若建の薨去時の記事の流用と考えられる。

幸御馬瀬命虞人縱獵」は現在の御馬瀬が伊勢神宮にあるように、神の朝廷、伊勢遺跡にあったと思われる。近江來田綿蛟屋野で市邊押磐を殺害した記事で、雄略二年ではなく安康二年の可能性がある。阿閇臣國見が栲幡皇女を陥れた事件は丸迩佐都紀臣深目の計略なのだろう。深目の娘の袁杼比賣は童女君と呼ばれた女王で、春日に居た。雄略四年八月辛卯朔戊申の「行幸吉野宮」は434年の麥入即位の年だ。この吉野宮は御馬瀬の辺りの獵場近辺に在る吉野宮だ。地名は紀里のように、氏族によって持ち運ばれる。伊勢遺跡の傍、野洲に吉地神社、旧名日吉悪王寺社があり、大津には日吉大社、吉の地名があったようだ。

雄略四年の「一事主神」説話は大長谷若建が王位に就いて四年目の雄略元年457年の説話と考えられる。大長谷若建が大臣に就位して、事代の神、圓大臣の神から引き継いだ宣言なのだろう。葛木氏から平群氏に大臣の姓を取り戻した宣言で、それに続く雄略二年の吉野幸に続く。しかし、挿入場所が違ったため、大前大臣の吉野幸記事を続けたようだ。

2023年9月8日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 雄略天皇前期3

大伴大連を、私は大日下の義父の日向諸縣君の孫と考えた。大伴氏は日臣、日向諸縣君の日向は高千穂宮から日向の名と共に諸縣に持って行った日臣と考えた。そして、もう一人よくわからない人物の物部目が存在する。系図では清寧・継體・欽明の大連である。ところが、史書部分では、欽明時に大臣、雄略時は「大伴連室屋物部連因為大連」と表記が異様だ。普通「麥入宿祢物部大前宿祢並為大連」、「大伴大連爲大連物部麁鹿火大連爲大連」のように共に「為大連」か「並びに」を付加する。

しかも、『日本書紀』も清寧の大連は室屋、継體は金村と麁鹿火、欽明は金村と尾輿である。目大連を全く記述しない。すなわち、物部目は大伴氏の可能性が高く、物部目の妃を記述しない。史書に記述されているから書かなかったのではないだろうか。そして、大臣大長谷若建は489年己巳八月九日に崩じた。大長谷若建は丸迩の佐都紀臣の娘の袁杼比賣を妃にしている。大長谷若建の後継者は袁本杼で、袁杼比賣と同地域の人物と思われる。

 『紀氏家牒』「巨勢川辺宿祢亦曰軽部宿祢」と巨勢氏は軽部の王だ。従って、軽部が木梨輕の為に定められたのだから、木梨輕もしくは輕大郎女の縁者だ。男浅津間若子大前大臣は木梨輕を守って薨じ、麥入の義父として、大連天皇を兼務した。その大前大連天皇が定めた軽部の宿祢が巨勢氏なのだから、大前の子と思われる。軽部宿祢が住む軽里星河辺の上流、川上の春日に袁本杼や袁杼比賣がいたと思われる。袁杼比賣の父の佐都紀臣は圓大臣の姻戚と思われる許碁登臣の子と思われる。

 『紀氏家牒』には紀伊国造莵道彦の娘の山下影媛の子の紀武内宿祢の妃が記述されている。角宿祢の母の紀伊国造宇豆彦道彦男の娘の宇乃媛と襲津彦宿祢の母の葛城国造荒田彦の娘の葛比売だ。すなわち、『紀氏家牒』は比古布都押之信と紀伊国造の家系の角宿祢と尾張氏竟富那毘の家系の味師内・襲津彦宿禰の家系を記述した。その他の平群氏、平群木兎宿祢は角宿祢の義兄弟と考えられる。すなわち、平群木兎宿祢は宇乃媛の姉弟と考えられる。従って、母を記述しない、波多八代、許勢小柄、蘇賀石河、若子の宿禰達はそれらの姻戚の王達と考えられる。たとえば、男浅津間若子宿祢が若子宿禰、妻の忍坂大中比賣が宇乃媛の孫に当たるのだろう。そして、紀伊国造は丸迩臣で宇乃媛の家系、許勢小柄が姉弟と考えられる。もし、本当の武内宿祢の子達なら、活躍年代の矛盾、『紀氏家牒』の記述の矛盾が奇異である。

2023年9月6日水曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 雄略天皇前期2

大長谷若建は489年己巳八月九日に崩じている。そして、480年、清寧元年庚申春正月戊戌朔壬子に、「室屋大連平群真鳥大連」とある。さらに、485年顯宗元年己丑春正月己巳朔、「物部小前宿祢為大連」とある。すなわち、480年から真鳥と室屋が天皇だった。『古事記』の白髪の役職名は大倭根子、天皇の役職名で、それ以外不要である。そして、白髪に崩御年が『古事記』に記述されていない。大長谷若建の薨が489年で白髪大倭根子の時代を内包している。女国の王は女王で、大臣はNo.2だ。しかし、真鳥の妃の草香幡梭姫橘大郎女女王の後継の春日大郎女が成人していなかったようだ。それで、真鳥が480年から、女王国、神の朝廷の大連天皇(大倭根子)に即位した。

『日本書紀』は清寧天皇を白髮武廣國押稚日本根子と記述している。『日本書紀』を記述した人物は、巨勢氏か蘇我氏の王の名を白髪(天皇)に武廣國押稚日本根子と記述したと考えられる。もしかしたら、稚日本根子が巨勢氏、武廣國押が蘇我氏かもしれない。許勢小柄宿禰は、許勢臣、雀部臣、輕部臣の祖である。巨勢氏の母系は玉勝山代根古が「雀部連軽部造蘇冝部首等祖」とあるように、山代王の系統だ。そして、武内大臣の兄、実際は祖先の味師内宿禰は山代内臣の祖で、山代根古の祖と考えられる。雀部臣の祖が神八井耳、意富臣の祖でもある。武内大臣が山背國紀郡の宇豆彦の娘を妃にした。その子の中に、蘇賀氏や、雀部臣や軽部臣の祖の巨勢小柄が存在してよくあう。

すなわち、大長谷若建は457年丁酉春三月庚戌朔壬子に「平群真鳥臣為大臣」と大臣に就位した。そして、480年、庚申春正月戊戌朔壬子に、「室屋大連平群真鳥大連」と、扶桑国と女国に大連天皇が並立した。458年から扶桑国天皇だった大伴連室屋に対し、実質大臣がNo1の女国の大臣が天皇を名乗った。大長谷若建が大臣、さらに、大連天皇を継承したのは、麥入・大日下の妹の若日下部を妃にできたからである。そして、女国の王位継承者の丸迩臣佐都紀の娘を妃に女国の皇位を継承したようだ。

2023年9月4日月曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 雄略天皇前期1

長谷朝倉宮雄略天皇に物部氏の大連は存在しない。『舊事本紀』に478年、雄略二十二年正月己酉朔に「物部布都久留連公為大連」と大連になった。しかし、480年には室屋大連と真鳥大連に交代している。その事件と思われるのは、雄略天皇が病に伏せると、「星川得志共治家國」と吉備上道臣と星川王が皇位を奪取した。すなわち「大藏之官」を取ることが皇位に就くことだったと思われる。「大藏之官」を取ったのが478年だ。

『古事記』に記述されない、吉備上道臣の娘の稚姫は大長谷若建の妃ではない。清寧天皇は白髪大倭根子とあるように、平群氏が天皇である。大倭根子は葛木氏の天皇の呼称なのだから。従って、布都久留の妃の太姫は吉備上道臣の娘の可能性が高い。小前大連は大連から大宿祢と大国王になっていて、太姫は大姫と考えられる。それでは、長谷朝倉宮大連天皇は誰かというと、『舊事本紀』は雄略二年丁酉春三月庚戌朔壬子の記事がある。この日干支は雄略元年の年干支と日干支で実質安康3年が元年だったのだろう。

そして、『舊事本紀』は「平群真鳥臣為大臣以大伴連室屋物部連因為大連」のように、室屋と因という不明な人物を記述する。因を目と解釈している。しかし、目は磐余甕栗宮大連・継体朝大連と記述している。従って、実態は大伴連室屋が天皇である。大伴氏は「竺紫日向之高千穂之久士布流多氣」に天降った天忍日の末裔だ。大伴氏が天皇で、『日本書紀』を記述したのだから、当然である。そして、神武東征の時、すでに、日臣と賜姓され、高千穂宮から宇佐へ侵略した人物だ。神武東征説話は中臣、日臣、和珥君が宇佐や安芸に侵略した説話だった。

大伴氏は日臣・道臣の末裔である。大伴氏の初出は倭建に協力した説話だ。そして、大伴連賜姓後の人物は大伴武以連、この人物は大臣賜姓より前の武内宿禰と共に記述される。倭建は熊襲建から名を貰った。曾都毘古の名も日向髪長太田根の子の日向襲津彦から貰ったと思われる。武内宿禰大臣賜姓が350年、それ以前に、曾都毘古が日向氏に婿入りしたのならよく合致する。そして、その日向氏が日臣の日向君と考えられる。日向諸縣君の娘の髪長比賣は大長谷若建の妃の長日比賣の母だ。大長谷若建は平群真鳥大臣、女国王は、おそらく、妹の橘大郎女と考えられる。女国は『梁書』に滅びた記述がないので、女国は継続したので、大郎女が女国王の呼称のようだ。

2023年9月1日金曜日

最終兵器の目  新『日本書紀』 安康天皇

  『古事記』は意乎巳(大臣)家の史書と解った。穴穂はいつ崩じたか『古事記』は記述しない。それは、大臣家の傍流だからと考えられる。『舊事本紀』に安康天皇元年十二月己巳朔、「木蓮子連公為大連都遷石上謂穴穗宮」とある。木蓮子は「天孫本紀」に「物部木蓮子大連公此連公石上廣髙宮御宇天皇御世為大連」と仁賢天皇大連である。そして、478年、雄略二十二年正月己酉朔、「物部布都久留連公為大連」まで物部氏は大連天皇が空白である。ただし、『舊事本紀』「天孫本紀」は「大前宿祢連公此連公石上穴穂宮御宇天皇御世元為大連」と記述する。すなわち、453年正月に大日下麥入大連が崩じた後、大前が大連天皇に即位し、穴穂に殺害された。それは、木梨之輕と輕大娘の子の皇位継承者の2代目木梨之輕太子が20歳前で即位できなかったからと思われる。それで、男浅津間若子大前大臣が大連になったと思われる。

しかし、454年正月に穴穂が二人を殺害し、大日下の皇后の長田大郎女を奪って、皇位に就いたと記述する。しかし、大連の継承者の目弱王は太子にもなれない年齢、長田大郎女は女国王で、畿内の天皇継承権が無い。大臣は大前の甥の市辺押磐が圓を継承したと思われる。市辺押磐が石上神宮を祀る木蓮子で、石上宮の物部氏の宮主を、物部氏は木蓮子大連と呼んだと思われる。それは、物部氏は「大夫者今大連大臣」と大臣も大連も同等と考えていたからと思われる。それで、後継者がいない時期は飯豐郎女が石上宮主を引き継いだ。

大連は大前なのに、木蓮子と記述され、478年大連は布都久留、785年大連が木蓮子と記述される。おそらく、穴穂宮が石上にあったから木蓮子、布都久留は市辺押磐子の義兄弟と考えられる。穴穂のクーデタは、大長谷若建が天皇の大日下の妹の若日下部王を妃にしようとしたことによると思われる。葛木氏をバックにした長田大郎女と、日向諸縣君をバックにした若日下部王の反目である。

それで、女国王は長田大郎女、No2の大臣は市辺押磐圓大臣である。若日下部王を要求した根使主は坂本臣の祖で、紀伊国造宇豆彦の国の山背國紀郡の出身だ。山背から平群県紀里に遷って平群木兎宿祢が生まれた。紀伊国造、当然、山背木国造は丸迩臣で、丸迩臣の許碁登の娘が水歯別の妃の都怒郎女だ。『紀氏家牒』に「紀伊国造宇豆彦道彦男也女宇乃媛」の子が角宿祢、水歯別が婿の角宿祢だろうか。角宿祢の子と思われる根使主は若日下部王の婚姻を邪魔し、義兄弟、都夫良郎女の夫と思われる圓と同じ側である。ただし、根使主は結果的に、大日下を滅ぼし、若日下部王を得て、平群氏の本家だったので許されたようだ。