2022年10月19日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』允恭天皇類書4

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「輕太子畏而逃入大前小前宿祢大臣之家而備作兵器(尓時所作矢者銅其箭之内故号其矢謂輕箭也如本)穴穂王子亦作兵器(此王子所作之矢者即今時之夫()也此()謂穴穂箭也)於是穴穂御子興軍圍大前小前宿祢之家尓到其明()時零大氷雨故歌曰意富麻弊袁麻弊須久泥賀加那斗加宜加久余理許泥阿米多知夜米牟尓其大前小前宿祢舉手打膝儛訶那傳歌参來其歌曰美夜比登能阿由比能古須受淤知尓岐登美夜比登ゝ余牟佐斗毘登母由米此歌者宮人振也如此歌参歸白之我天皇之御子於伊呂兄王無()及兵若及兵者必人咲僕捕以貢進尓解兵退坐故大前小前宿祢捕其輕太子率参出以貢進其太子被捕歌曰阿麻陀手(布・牟)加流乃袁登賣伊多那加婆比登斯理奴倍志波佐能夜麻能波計()能斯多那岐尓那久又歌曰阿麻陀手()加流表()登賣志多多尓母尓()理泥弖登富礼加流表()登賣杼母故其輕太子者流於伊尓()湯也亦將流之時歌曰阿麻登夫登理母都加比曽多豆賀泥能岐許延牟登岐波和賀那斗波佐泥此三歌者天田振也又歌曰意富岐美表()斯麻尓波夫良波()布那阿麻理伊賀弊理許牟殿()和賀多々弥由米許登表()許曽多々美登伊波米和賀都麻波由米此歌者夷振之片()下也其衣通王獻歌其歌曰那都久佐能阿比泥能波麻能加岐賀()比尓阿斯布麻須那阿加斯弖杼富礼故後亦不堪戀慕而追往時歌曰岐美賀由岐氣那賀久那理奴夜麻多豆能()牟加閇表()由加牟麻都尓波麻多士(此云山多豆者是今造木者也)故追到之時待懐而歌曰許母理久能波都世能夜麻能意富袁尓波波多波理陀弖佐表()々尓波多波理陀弖意富表()()斯那加佐陀賣流淤母比豆麻阿波礼都久由美能許夜流許夜理母阿豆佐由美多弖理多弖理母能知母登理美流意母比豆麻阿波礼又歌曰許母理久能波都勢能賀波能賀()美都勢尓伊久比表()宇知斯毛都勢尓麻久比表()宇知伊久比尓波加賀美表()加氣麻久比尓波麻多麻表()加氣麻多麻那須阿賀母布伊毛加賀美那須阿賀母布都麻阿理登伊波婆許曽尓伊弊尓母由加米久尓表()母斯怒波米如此歌即共自死故此二歌者讀歌也」、【そこで輕太子はおそれて、大前小前宿禰の大臣の家に逃げて、軍備を整えた。その時に作った矢は、箭の中を銅にした。それで、その矢を輕箭と言った。穴穗も亦、軍備を整えた。この王子が作った矢は、即ち今風の矢だ。これを穴穗箭という。それで穴穗は、挙兵して大前小前宿禰の家を圍んだ。それでその門についた時、たくさん氷雨が降った。それで、歌()った。そこで大前小前宿禰は、手を挙げ膝を打って、舞って歌いながらやって来た。その歌()は宮人振だ。この様に歌いながらやって来て「天皇の子、兄王が挙兵したようだ。もし挙兵したのならきっとみなが笑う。私が捕えて差し上げよう。」と言った。それで兵を解いて退いた。そのため、大前小前宿禰は、輕太子を捕えて、遣って来て差し出した。太子は、捕えられて歌()った。又、歌()った。それで、輕太子は、伊余の湯に流した。又、流されようとした時歌()った。この三歌は天田振だ。又、歌()った。この歌は夷振の片下ろしだ。衣通王が、歌()を献上した。それで、後に亦、恋しく忍び難く、追っていった時、歌()った。それで、追いついた時、待ちこがれて歌()った。又、歌()った。このように歌って、共に自殺した。それで、この二歌は讀歌だ。】と訳した。

木梨之輕は大前小前大臣の家に逃げ込んだのだから、大前宿禰が忍坂大中姫の実家、大前宿禰の父麦入が遠飛鳥にいる天皇と考えられ、大前小前宿禰は本来、皇太子になる人物だったが、皇位継承者(実際は天皇)の首を差し出しているということは、もはや、皇位のバックボーンとしての力が無くなっていたことを示す。

平群氏は河内近辺に溜池や用水を多く造り、米の収穫量が大幅増産され、裕福になった財力で巨大な権力を持ち、穴穂はその権力と皇后の中帯姫を妃に迎えることが出来、皇位を継承できる財力と権威を持ったことを示し、すなわち、天皇よりも大きな権力を持った穴穂に天皇 皇太子を差し出さざる得ない状態に追い込まれた、皇位継承権を持つ大前小前大臣に、皇位継承を諦めさせた、そんな力を見せつけたことを示した。

阿直岐・・・菟道稚郎子師焉」が400年頃だったように、仁徳紀の菟道稚郎子の真実は反正朝から允恭朝の出来事で、菟道稚郎子は去來穗別・磐坂市邊押羽親子を重ねた人物だったと思われ、氏族によって同じ人物を別名に認識したので、この混乱を避けた「定賜天下之八十友緒氏姓」だった可能性があるが、この混乱は「大化」になっても「遂使父子易姓兄弟異宗夫婦更互殊名一家五分六割」と続いたようだ。


2022年10月14日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』允恭天皇類書3

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「()男浅津間若子宿祢命()坐遠飛鳥宮治天下也()天皇娶意富本杼王之妹忍坂之大中津比賣命生御子木梨之輕王次長田大郎女次境之黒日子王次穴穂命次輕大郎女亦名衣通郎女(御名所以負衣通王者其身之光自衣通出也)次八瓜之白日子王次大長谷命次橘大郎女次酒見郎女(九柱)()天皇之御子等九柱男王五女王四此九王之中穴穂命者治天下也次大長谷命治天下也天皇初爲將所知天津日継之時天皇辞而詔之我者有一長病不得所知日継然大后始而諸卿等因堅奏而乃治天下此時新良國王貢進御調八十一艘尓御調之大使名云金波鎮漢紀武此人深知藥方故治差帝皇之御病於是天皇愁天下氏名名人等之氏姓忤過而於味白檮之言八十禍津日前居玖訶瓮()而定賜天下之八十友緒氏姓也又爲木梨之輕太子御名代定輕部爲大后御名代定刑部爲大后之弟田井中比賣御名代定河部也天皇御年漆拾捌歳甲午年正月十五日崩御陵在河内之恵賀長枝也天皇崩之後定木梨之輕太子所知日継未即位之間姧其伊呂妹輕大郎女而歌曰阿志比紀能夜麻陀袁豆久理夜麻陀加美斯多備袁和志勢志多杼比尓和賀登布伊毛袁斯多那岐尓和賀那久都摩()袁許存許曽婆()夜須久波陀布礼此者志良宜歌也又歌曰佐佐婆()尓宇都夜阿良礼能多志陀志尓韋泥弖牟能知波比登波加由登母宇流波斯登佐泥斯佐泥三()婆加理許母能美陀礼婆美陀礼佐泥斯佐泥弖波()此者夷振之上歌也是以百官及天下人等背輕太子而歸穴穂御子尓」、【弟の男淺津間若子宿禰、遠飛鳥宮で天下を治めた。此の天皇は、意富本杼王の妹、忍坂大中津比賣を娶って、<・・・略・・・>天皇は初め天位を継ぐとき、「私は持病を持っている。皇位を継ぐことはできない。」と天皇を辞退した。それでも大后を始め、諸臣が、みなで言うので、天下を治めた。この時、新羅の国主が、税として八十一艘を貢進した。納税の大使の金波鎭漢紀武は薬草に詳しかった。それで、天皇は病を治した。天皇は、臣下の氏姓が間違い乱れているのを憂いて、味白梼がよく言う穢れの神の前に、探湯の用意をして天下の同族の氏姓を定めた。又、木梨之輕の御名代として、輕部を定め、大后の御名代として、刑部を定め、大后の妹の田井中比賣の御名代として、河部を定めた。天皇は漆拾捌歳で甲午の年の正月十五日に崩じた。陵は河内の惠賀の長枝に在る。天皇が崩じた後、木梨之輕太子が後継者と決まっているのを、未だ即位しないうちに、妹の輕大郎女と間違いを起こして歌った()。これはしらげの歌だ。又、歌った()。これはひなぶりの上歌だ。それで官吏や天下の人達が、輕太子から離反して、穴穗についた。】と訳した。

男浅津間若子の病気は他書が修行によるのと異なり、薬草で治癒したと述べ、他書が百濟の仏教の影響の修行による治療法に対して、『古事記』は新羅の薬学による治癒を述べ、、去來穗別の死亡が毒殺の疑いがあることを述べたが、金波鎭漢紀武の薬草の知識を使ったことを想起させる。

『古事記』は仁賢天皇が書いた史書で、平群氏は父の敵、『日本書紀』の雄略以前は平群氏が書いた史書で、平群氏の男浅津間若子が『日本書紀』は毒草の知識があった事を隠し、『古事記』は隠さなかったことを示すのではないだろうか。

『日本書紀』に記述されない遠飛鳥宮天皇は、『古事記』注記で「丁卯年八月十五日崩也」と427年死亡の大別と、同じく注記の「壬申年正月三日」と432年死亡の麦入の説話で、麦入は磐余若櫻宮の皇子だった人物なので、宮への出入りがあったと思われ、新羅使節との接触も毒殺も容易に出来たと考えられる。

皇太子木梨之輕の「輕大郎女亦名衣通郎」の説話は、『日本書紀』では「衣通郎姫戀天皇」と天皇と呼び、「妾弟名弟姫焉・・・時人號曰衣通郎姫也」と木梨之輕が天皇に即位後に、「姧其伊呂妹輕大郎女」ではなく、義妹を妃にしたので、皇后に怒りをかった説話になっていて、「姧其伊呂妹」は穴穂が義妹を妃にしたと記述して、これは穴穂の事のようだが、実際は姪とおもわれる。

皇后は藤原宮で出産していて、藤原君は物部竹古で、その娘が五十琴彦の妃で、その子が山無媛、五十琴彦の子の目古、目古の娘の全能媛は麦入の妃、麦入の子が田部連の祖の小前宿祢で、隼別の祖父が櫻井田部の祖の島垂根、櫻井田部は田部から派生した姓、すなわち、隼別は木梨之輕で皇后の妹の雌鳥を妃にした、麦入の次の天皇だった可能性が高い。

2022年10月12日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』允恭天皇類書2

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「元年歳次壬子冬十有二月妃忍坂大中姬命告群臣之憂吟而親執洗手水進于皇子前仍啓之曰大王辭而不即位位空之既經年月群臣百僚愁之不知所為願大至從群望強即帝位然皇子不欲聽而背居不言於是大中姬命惶之不知退而侍之經四五剋當于此時季冬之節風亦烈寒大中姬命所捧水溢而腕凝不堪寒以將死皇子顧之驚則扶起謂之曰副位重事不堪輙就是以於今不從然今群臣之請事理灼然何遂謝耶爰大中姬命仰歡則謂群卿曰皇子將聽群臣之請今當上天皇璽符於是群臣共爲天下請寡人寡人何聴遂辭乃即帝位矣二年春二月丙申朔巳酉忍坂大中姬立為皇后生兒木梨輕皇子名形大娘皇女境黒彦皇子穴穗天皇輕大娘皇女八釣白彦皇子大泊瀨稚武天皇但馬橘大姬皇女酒見皇女五年冬十一月甲戌朔甲申葬瑞齒別天皇于耳原陵二十三年三月甲午朔庚子木梨輕子立為太子以物部麥入宿祢物部大前宿祢並為大連四十二年春正月乙亥朔戊子天皇崩年七十八冬十月庚午朔已卯葬天皇於河内長野原陵天皇所生皇子五男四女 兒木梨輕太子尊次名形大娘皇女次境黒彦皇子次穴穗皇子尊次輕大娘皇女次八釣白彦皇子次大泊瀨稚武皇子尊 次但馬橘大娘皇女次酒見皇女」、【元年壬子の冬十二月、妃の忍坂大中姫命が、群臣が憂い嘆くので、浄めの水を手に取り、皇子の前に進み「大王は辞退して即位しません。空位のままだいぶ経った。官僚は憂え、なすすべがない。お願いですから、みなの願いどおり、強いて即位してください」と言った。しかし、皇子は聞き入れず、背を向けて何も言わず、大中姫は何もせず、退こうとみせずに侍つこと四、五刻以上経った。時期は冬で、風も烈しく寒かった。大中姫の差し出した鋺の水が、溢れて腕で凍るほどで、寒さに耐えられず死にそうであった。皇子は驚き、助け起こして「位は重要なこと。簡単に就けないので、今まで同意しなかったが群臣の願いももっともだ。いつまでも断れない」大中姫は上を見て喜び、みなに「皇子は、みなの願いを聞き入れた。いますぐ天皇の璽をささげよう。」と告げた。それで皇子は「みなは、天下のためと私に要請した。私がいつまでも断れない。」と言い、ついに即位した。二年春二月丙申朔巳酉、忍坂大中姫を皇后にした。皇后は、木梨軽、名形大娘、境黒彦、穴穂天皇、軽大娘、八釣白彦、大泊瀬幼武天皇、但馬橘大姫、酒見皇女を生んだ。五年冬十一月甲戌朔甲申、瑞齒別天皇を耳原陵に葬った。二十三年春三月甲午朔庚子、木梨軽皇子を太子にした。物部麦入宿祢と物部大前宿祢を、ともに大連とした。四十二年春一月乙亥朔戊子、天皇は崩じ、七十八歳だった。冬十月庚午朔已卯、天皇を河内の長野原陵に葬った。<以下略>】と訳した。

二十三年三月甲午朔は九州の暦で2月30日晦日だが、『続日本紀』に「太上天皇聖體不豫宗社盡祷珪幣相尋頻移晦朔」と治癒祈願で朔を朔日と晦とを替える風習があったと述べているように、新王朝が始まる時なので、同じ理由で「移晦朔」があった可能性がある。

この立太子は倭奴国が434年に王朝交代したことを意味し、『宋書』425年「太祖元嘉二年讃」と讃の王朝で、「讃死弟珍立」と434年に王朝交代があり、允恭紀にこれ以降立太子が無く、443年「二十年倭國王濟遣使」と珍と濟が親子なので王朝交代していないことを示している。

賛は『日本書紀』「倭漢直祖阿知使主其子都加使主」と都加使主の可能性が高く、都加使主は分家だったことが解り、阿知使主は長男と一緒に去來穗別の家庭教師として難波に常駐し、難波に宮殿をもっていた可能性があり、「市鹿文賜於火國造」と都加使主が火国造・火直で九州に分かれて住んでいた可能性がある。

賛は百濟とは『三国史記』403年阿莘王十二年「倭國使者至王迎勞之特厚」、405年腆支王元年「腆支在倭聞訃・・・倭王以兵士百人衛送」、409年五年「倭國遣使送夜明珠王優禮待之」、418年十四年「遣使倭國送白綿十匹」と良好な関係で、新羅には402年実聖尼師今元年「與倭国通好以奈勿王子未斯欣為質」と始めは良好だったが、405年四年夏四月、407年六年春三月、七年春二月(攻撃準備)、415年十四年八月、416年十五年夏四月、431年訥祇麻立干十五年夏四月に新羅を攻撃している。

訥祇麻立干の時に攻撃があいたのは『宋書』421年「永初二年倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授」と中国に認められたからと考えられ、神功摂政2年「載微叱旱岐令逃於新羅」が418年訥祇麻立干2年「王弟未斯欣自倭國逃還」のことと考えられる。


2022年10月10日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』允恭天皇類書1

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「允恭天皇諱雄朝嬬稚子宿祢尊者瑞齒別天皇同母弟也天皇自岐嶷至於総角仁惠儉下及壯篤病容止不便也五年春正月瑞齒別天皇崩時群卿議曰方今大鷦鷯天皇之子雄朝嬬稚子宿祢皇子與大草香皇子矣然雄朝嬬稚子宿祢皇子長之仁孝即選吉日跪上天皇之璽矣雄朝嬬稚子宿祢皇子謝曰我之不大雖久篤疾不能步行且我既欲除病獨非奏言而密破身治病猶勿差由是先皇責之曰汝雖患病縱破身不孝孰甚於茲矣其長生之遂不得継業亦我兄二天皇愚我而輕之群卿共所知矣夫天下者大器也帝位者鴻業也且民之父母斯則賢聖之職也豈下愚之任乎更選賢王冝立矣寡人弗敢當矣群臣再拜言夫帝位不可久曠天命不可以謙距大王留時逆衆不正号位臣等恐百姓望絕也願大王雖勞猶即天皇位雄朝嬬稚子宿祢皇子曰奉宗廟社稷重事也寡人篤疾不足以穪猶辭而不聽群臣皆固請曰伏計之大王奉皇祖宗廟最冝稱天下万民皆以為冝聽之」、【允恭天皇の諱は雄朝嬬稚子宿祢で瑞齒別天皇の同母弟である。天皇は生まれつき、しっかりしていて思いやりがあり、つつましかったが壮年になって重い病で、立ち居振る舞いが哀れだった。五年春一月、瑞齒別天皇が崩じた。官僚が「今、大鷦鷯天皇の子は、雄朝嬬稚子宿祢皇子と大草香皇子がいるが、雄朝嬬稚子宿祢皇子は年上で情け深い」と相談し、ひざまずいて天皇の璽をささげた。雄朝嬬稚子宿祢は「私は長い間重い病に罹ったが、歩けないほどではない。治そうとして、相談もせずに荒療治しても差がなかった。これを先皇がお前は病気なのに荒療治をするのは親不孝甚だしい。それで長生きしても帝業を継げず、兄の二人の天皇が愚かと軽んじたことはみんなっている。天下を取るのは大変なこと、帝位は大事業だ。かつ、人民の親となるのは聖者の仕事だ。どうして愚か者に任せられるか。賢い王を選べ。私は不適だ。」というと、群臣は「帝位は無駄に空けておけない。天命は拒めない。遠慮して、間違ってほっておくと、人民が絶望することを恐れます。お願いだから、面倒でも即位してほしい。」と何度も頭を下げた。雄朝嬬稚子宿祢は、「国家を任されるのは重大なことだ。私は重い病で、耐えられない」と聞かなかった。そこで群臣は「大王が帝位を継ぐのが最適と天下万民皆そう思っていると、頭を抱えて考えました。お願いします」と固く願った。】と訳した。

皇位継承がスムーズに行かない時は背景に存在する、皇后や妃の氏族の力が拮抗しているときに起こるのであって、後ろ盾が弱ければ、皇位に就くことが出来ず、皇位に就いても、後継者は、多くが皇后の兄弟の子が皇位に就き、クーデタを起こしても直ぐに殺害されてしまい、天皇の地位を譲りあった大雀、実際は額田大中彦と菟道稚郎子は品陀真若を背景にした尾綱根と印葉を背景にした五十琴宿祢の戦いで、互角だったから3年間を費やし、その結果が、2王朝並立で、尾綱根と印葉は大臣を名乗ったのであり、弟の大別は「賜矢田部連公姓」、尾綱根は「賜尾治連姓」で五十琴宿祢は磐余若櫻朝廷を継続し、尾張・矢田部を賜姓し、難波朝は名目上、五十琴天皇に宿祢の姓を与えた。

410年から412年の空白はこの仁徳帝の皇位継承説話で、本来は 磐坂市邊押羽が太子であるが、まだ、20歳に達していなくて、木事の子の難波根子大別の妃の幡梭皇女の兄弟の大草香と難波根子大別と従弟で忍坂大中姫の兄弟の麦入が皇位を争い、麦入が忍坂大中姫の夫の雄朝嬬稚子の力を借りたと思われる。

それは、『古事記』の432年「壬申年正月三日崩」と437年「丁丑年七月崩」、454年「甲午年正月十五日崩」の3人の天皇が、『日本書紀』の453年「四十二年春正月乙亥朔戊子天皇崩」と4人が崩じているように、反正天皇妃の津野媛の兄弟の大別、大別と共に五十琴彦の孫の大麦、子の木梨輕(実際は恐らく隼別で「衣通郎姫奏言・・・皇后則妾之姉也」と矢田皇后の妹衣通・雌鳥を妃にして淡海朝廷の後継者を兼ねる)、そして、雄朝嬬稚子と忍坂大中姫の娘を妃にした大草香が皇位を継承したと思われるからだ。

そのため、首都が『古事記』では遠飛鳥、『日本書紀』では大草香の首都と思われる河内の茅渟や藤原と首都が一致せず、難波・河内朝が磐余朝を兼務し、葛城氏の磐余若櫻朝も継承を主張したと思われる。


2022年10月7日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』反正天皇類書

  『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「反正天皇諱瑞齒別尊者去來穗別天皇同母弟也二年立為儲君時年天皇初生于淡路宮生而齒如一骨容姿美麗於是有井日瑞井則汲之洗太子時多遅花落于井中因為太子名也多遅花者今虎杖花故稱謂多遅比六年春三月去來穗別天皇崩元年歳次丙子夏四月丁丑朔戊寅儲君即天皇位秋八月甲辰朔巳酉大宅臣祖木事之女津野媛立為皇夫人生香火姫皇子次圓皇女復納夫人弟々媛生財皇女次高部皇子冬十月都於河内丹比謂柴垣宮五年春正月甲申朔丙午天皇崩年六十葬毛須野陵天皇所生皇子二男二女兄高部皇子次圓皇女次財皇女次香火姫皇女」、【反正天皇の諱は瑞歯別で去來穗別天皇の同母弟だ。二年に、皇太子になったとき、年は五十一歳だった。天皇は淡路宮で生まれ、生まれながらに歯が一つの骨の様で、うるわしい容姿だった。瑞井という井戸があって、その水を汲んで太子を洗い、そのとき多遅の花が井戸の中に落ちたので太子の名にして、多遅の花とは今のいたどりの花のことで、多遅比と言った。治世六年春三月、去來穗別天皇が崩御し、治世元年の夏四月丁丑朔戊寅に、皇太子は即位した。秋八月甲辰朔巳酉、<・・・略・・・>冬十月、河内の丹比に都を造り、柴垣宮という。五年の春一月甲申朔丙午に、天皇は崩じた。年は六十歳で毛須野陵に葬った。<以下略>】と訳した。

『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「(弟)水齒別命坐多治比之柴垣宮治天下也此天皇御身之長九尺二寸半御齒長一寸廣二分上下等齋既如貫珠天皇取丸迩之許碁登臣之女都怒郎女生御子甲斐郎女次都夫良郎女(二柱)又娶同臣之女弟比賣生御子財王次多訶弁郎女并四王也天皇之御年陸拾歳(丁丑年七月崩御陵在毛受野也)」、【弟の水齒別、多治比の柴垣宮で天下を治めた。この天皇は身長九尺二寸半、齒の長さ一寸、廣さ二分、上下等しくととのい、珠を貫けるようだった。天皇は丸迩の許碁登臣の娘の都怒郎女を娶って、生んだ子は、甲斐郎女。次に都夫良郎女二柱。又、同じ臣の娘の弟比賣を娶って、生んだ子は財。次に多訶辨郎女。併せて四柱だ。天皇は陸拾歳で丁丑の年の七月に崩じた。陵は毛受野に在る。】と訳した。

皇位継承の中心人物の黒媛皇妃が薨じ、太子磐坂市邊押羽が20歳になる前に天皇を暗殺し、難波朝廷の木事・大別を背景にした瑞歯別が皇位を奪ったが、『日本書紀』「財皇女與高部皇子」と高部・財が記紀で男女が違い、弟比賣は瑞歯別の妃では無い可能性が高く、瑞歯別の皇太子は難波天皇大別が皇太子になったと思われ、実際は伊耶本和氣の叔父の瑞歯別は高齢なため在位期間5年で平穏な在位期間だったと考えられる。

但し、『古事記』で記述されない幡梭皇女・波多毘能大郎子もしくは波多毘能若郎女は応神の娘と仁徳の娘が存在し、仁徳の子の伊耶本和氣の妃ではなく、応神・木事の子の仁徳大別の妃が幡梭皇女だから『古事記』に幡梭皇女が記述されないと考えている。

反正天皇の皇位継承権をもつ王は大別、大別の妃の幡梭皇女の娘の中磯皇女、幡梭皇女の兄弟大草香皇子、恐らく反正天皇の娘の香火姫の夫の蟻臣、磐坂市邊押羽、反正天皇と木事の娘との継承者、恐らく玉田宿禰の妃の圓皇女で、その子が圓大臣と思われ、40年間内紛を起こしたと考えられる。

その為、若櫻朝廷は葦田宿祢・蟻臣親子と蟻臣の娘婿磐坂市邊押羽と大別の甥の大麦その子若しくは娘婿の木梨輕・大麦の子の大前大臣と大草香と玉田宿禰・圓大臣親子と圓の娘婿の大泊瀬が皇位継承争いをしたと考えられる。

『舊事本紀』は「元年歳次丙子夏四月丁丑朔戊寅」436年と記述し、反正元年406年は『日本書紀』が「元年春正月丁丑朔戊寅・・・是年也太歳丙午」で天文学的に正しく、『舊事本紀』は全くの間違いの干支で、『日本書紀』と異なる資料を上手く当て嵌めることが出来ない、すなわち、対応表がないと全く頓珍漢な配置となることを示し、『日本書紀』も九州の朔で、独自資料であっても、対応表があるためしっかりと当て嵌め、もし、計算で史書を書いているのなら、この様な現象は発生せず、全て一定に間違うはずで、同名の人物も襲名した人物なので、何代目の人物か解らないのだろう。

2022年10月5日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』履中天皇類書3

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「故即還下難波欺所近習墨江中王之隼人名曽婆加里云若汝從吾言者吾爲天皇汝作大臣治天下那何曽婆訶理荅曰()随命尓多禄給其隼人曰然者殺汝王也於是曽婆訶理竊伺己王入厠以矛刺而殺也故率曽婆訶理上幸於倭之時到大坂山口以爲曽婆訶理爲吾雖有大功既殺巳()君是不義然不實其功可謂無信既行其信還惶其情故雖報其功滅其正身是以語()曽婆訶理今日留此間而先給大臣位明日上幸留其山口即造仮宮忽爲豊樂乃()於其隼人賜大臣位百官令拝隼人歓喜以爲遂志尓詔其隼人今日與大臣飲同盞酒共飲之時隠面大鋺盛其進酒於是王子先飲隼人後飲故其隼人飲時大鋺覆面尓取出置席下之劔斬其隼人之頭()乃明日上幸故号其地謂近飛鳥也上到于倭詔之今日留此間爲祓禊而明日参出將拝神宮故号其地謂遠飛鳥也故参出石上神宮令奏天皇政既平訖参上侍之尓召入而相語也天皇於是以阿知直始任蔵官亦給粮地亦此御世拾()若櫻部臣等賜若櫻部名又比賣陀君等賜姓謂比賣陀之名也亦定伊波禮部也天皇之御年陸拾肆歳(壬申年正月三日崩御陵在毛受也)」、【それで、難波に下って、墨江中王の近習の隼人の曾婆加里を騙して、「もしお前が私の言うとうりにしたら、私は天皇となって、お前を大臣にして、天下を治めるというのはどうだ。」と言った。曾婆訶理は「命令のとうりに。」と答えた。そこで多くの褒美を隼人に与えて「それならお前が王を殺せ。」と言った。そこで曾婆訶理は密かに主君が厠に入るのをうかがって、矛で刺し殺した。それで、曾婆訶理を連れて倭に上る時、大坂山の入り口についたと思うと、曾婆訶理は私の爲に大功が有ったが、主君を殺したのは道義に外れる。しかしその功績に報いないのは、信義に反する。信義を持って行えば、その気持ちは賢い事だ。それで、功に報いるが、本人は殺さねばと思った。それで曾婆訶理に「今日はここに留まって、先ず大臣の位を与え、明日上ろう。」と言って、その山の入り口に留まって、宿営を造って、すぐに宴会を初めて、隼人に大臣の位を与え、部下に拝礼させると、隼人は喜んで、やったと思った。そこで隼人に「今日は大臣と同じ盞で酒を飲もう。」と言って、飲むときに、顔が隠れるほどの大鋺に、酒を盛り進めた。そこで王子が先に飲み、隼人が後で飲んだ。それで、隼人が飲むとき、大鋺で顔を覆った。それで席の下に置いた劒を取り出して、隼人の頚を斬って、翌日、上った。それで、そこを近飛鳥という。上って倭について、「今日はここに留まってお祓いをして、明日、参上して神宮を拝礼しよう。」と言った。それで、そこを遠飛鳥と言う。それで、石上神宮に参上して、天皇に「政事はもう平らげて参上しました。」と言った。それで招き入れて話し合った。天皇は阿知直を始めて相談役に任命し、領地を与えた。此の世に、若櫻部臣達に若櫻部の名を与え、又比賣陀君達に姓を与えて比賣陀君と言った。亦、伊波禮部を定めた。天皇は年齢陸拾肆歳で壬申の年の正月三日に崩じた。陵は毛受に在る。】と訳した。

この説話でわかるとおり、400年より前、375年近肖古王が文字を取り入れ、384年『三国史記』 枕流王 「九月胡僧摩羅難陁自晉至王迎之致宮内禮敬焉佛法始於此」と375年枕流王から仏法が始まり、それ以降に阿知直が伊耶本和氣の家庭教師になったことを示し、『日本書紀』応神天皇十五年の「阿直岐亦能讀經典即太子菟道稚郎子師焉」は菟道稚郎子ではなかった、若しくは、菟道稚郎子がこの頃の人物であった事を証明している。

386年に百濟が『三国史記』辰斯王二年に「百濟王世子餘暉爲使持節都督鎮東將軍」に任命され、阿知は自分も晋の将軍に任命されたくて、応神天皇二八年「高麗王遣使朝貢・・・日本國也」と高麗や新羅が中心国日本に朝貢して日本が邪魔なため、「怒之責高麗之使」と日本が高句麗を追い返した隙に、「阿知使主等渡高麗國欲逹于呉則」と高句麗に近づいたが、「倭漢直祖阿知使主其子都加使主並率己之黨類十七縣而來歸焉」と日本の配下の倭国なので晋が任命せず、葛城氏と同盟して日本を倒そうとしたと考えられる。

それで、墨江中王を倒し、太子伊耶本和氣の家庭教師になり、「襲津彦久之不還必由新羅人拒而滞之汝等急往之撃新羅・・・新羅之境新羅王愕之服其罪」と襲津彦とともに新羅侵攻を行った。

また、伊耶本和氣の死亡が異臭がしたのに「水土弗調」のように、死因を調べなかったと記述するように異常で、毒殺した可能性があり、磐余若櫻の皇太后が履中天皇五年「葬皇妃」、実際は磐余若櫻宮皇后の薨(神功皇后摂政六九年)で、404年磐余若櫻宮69年にあたり、翌年の「崩干稚櫻宮時年七十」と履中崩で磐余若櫻宮70年となったことを示し、磐余若櫻宮五十琴宿祢から香兒媛の兄弟木事と娘婿の水齒別に皇位が遷ったと理解した。

2022年10月3日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』履中天皇類書2

   『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「子伊耶本和氣命()坐伊波礼之若櫻宮治天下也此天皇娶葛城之曽都毗()古之子葦田宿祢之女名黒比賣命生御子市邊之忍齒王次御馬王次妹青海郎女亦名飯豊郎女?三柱本坐難波宮之時坐大嘗而爲豊明之時於大御酒宇良宜而大御寐也尓其弟黒()江中王欲取天下()以火著大殿於是倭漢直之祖阿知直盗出而乗御馬令幸於倭故到于多遅比野而寤詔此間者何處尓阿知直白黒()江中王火著大殿故率逃於倭尓天皇歌曰多遅比怒迩泥牟登斯理勢婆多都基()母基母知弖許麻志母能泥牟登斯理勢波()到於波迩賦坂望見難波宮其火猶炳尓天皇亦歌曰波迩布耶迦和賀多知美禮婆迦藝漏肥能毛由流伊弊牟良都麻賀伊弊能阿多理故到幸大坂山口之時遇一女人其女人白之持兵人等多塞茲山自當岐麻道廻應越幸尓天皇歌曰淤富佐迦迩阿布夜袁登賣袁美知斗閇婆多陀迩波能良受當藝麻知表()能流故上幸坐石上神宮也於是其伊呂弟水齒別命参赴令謁尓天皇令詔吾疑汝命若與墨江中王同心乎故不相言荅白僕者無穢邪心亦不同墨江中王亦令詔然者今還下而殺墨江中王而上來彼時吾必相言」、【子の伊邪本和氣は伊波禮の若櫻宮で天下を治め、この天皇は葛城曾都毘古の子の葦田宿禰の娘の黒比賣を妃に、生まれた子は市邊之忍齒。次に御馬。次に妹青海郎女、またの名は飯豐郎女の三柱。始め、難波の宮にいた時、大嘗で宴会をした時、大酒を楽しんで大いびきで熟睡した。そこに弟の墨江中王が、天皇に即位しようと、火を御殿につけた。そこで倭漢の直の祖の阿知直が逃がそうとして、馬に乗せて倭に連れ出した。それで、多遲比野に着いて目覚めて、「ここは何処だ。」と聞いた。それで阿知直が「墨江中王が、火を御殿につけたので、連れて倭に逃げようとしている。」と言った。そこで天皇は歌った()。波迩賦坂について、難波の宮を望み見ると、その火はまだ燃え盛っていた。そこで天皇は亦歌った()。それで、大坂山の上り口についた時、一人の女に会った。その女が言うのに「兵器を持った人達が、多人数で山を遮っている。當岐麻道から遠まわりで越えるといいですよ。」と言った。そこで天皇は歌った()。それで、上って、石上神宮に居た。そこに弟の水齒別が、遣って来て話した。そこで天皇が「私はお前がもしや墨江中王と同じ心ではと疑っているから話したくない。」と言うので「私は邪心は無い。墨江中王とは違う。」と答えた。また、「それなら今から帰り下って、墨江中王を殺して上って来い。そうしたら話そう。」と言った。】と訳した。

この説話では長男の伊耶本和氣を次男の墨江中王が取って代わろうとして、水齒別に墨江中王を殺害させたが、本来、皇位継承は決まっていて、この、伊耶本和氣即位前は征服途中で、主導権争いがあった事を示していると思われる。

すなわち、葛木氏内だけなら、主導権争いは無いが、分家には後ろ盾の義父が存在し、水齒別には「丸迩許碁登臣墨江中王にはおそらく『日本書紀』に記述されず、『古事記』に記述される波多毘能大郎子の兄弟で尾張難波朝の大草香が存在し、大別から難波朝の皇位を奪取して、若櫻朝の皇位を墨江中王にしようとし、それに対して、水齒別・葦田宿禰の娘が伊耶本和氣の妃で、水齒別が伊耶本和氣を皇位につけようとしたと考えられる。

なぜなら、『古事記』仁徳記に「定墨江之津」と尾張氏天皇が墨江の津の責任者に任用したのが大雀と思われるので、墨江中王が波多毘能若郎女に婿入りしたと考えられ、墨江中王は仲国王、「去來穗別天皇女曰中蒂姫皇女」と妹が伊耶本和氣の後継者の中帯姫で、「大草香皇子之妻中蒂姫」と尾張氏の子の皇位継承権がある大草香の妃になったと考えられ、墨江も草香も河内近辺にある。

襲津彦の孫の異端が男淺津間若子で、兄達が5・6年間の在位と短い中、男淺津間若子だけ長い在位で、しかも、天皇なのに臣下の宿禰の姓を持ち、実際の允恭天皇は異なる人物で、男淺津間若子は木菟宿禰・大鷦鷯の孫と考えるほうが理に適い、水齒別の妃の木事の兄弟の香兒媛の夫の五十琴宿祢、その娘の忍坂大中姫を男淺津間若子が妃にして、子の大泊瀬稚武が皇位継承したとすると理に適う。

允恭42年間は複数代の襲名した男淺津間若子宿祢がいたため、玉田宿禰が『日本書紀』「葛城襲津彦之孫玉田宿禰主瑞齒別天皇之殯」、「田狹臣婦名毛媛者葛城襲津彦子玉田宿禰之女也」と、襲津彦の子だったり孫だったりした。