2021年3月3日水曜日

最終兵器の目 持統天皇4

  日本書紀 慶長版は

三年春正月甲寅朔天皇朝万國于前殿乙夘大學寮獻杖八十枚丙辰詔曰務大肆陸奧國優𡺸曇郡城養蝦夷脂利古男麻呂與鐵折請剔鬢髮爲沙門詔曰麻呂等少而閑雅寡欲遂至於此蔬食持戒可隨所請出家修道庚申宴公卿賜袍袴辛酉新羅使人田中朝臣法麻呂等還自新羅壬戌詔出雲國司上送遭値風浪蕃人是日賜越蝦夷沙門道信佛像一軀灌頂幡鍾鉢各一口五色綵各五尺綿五屯布一十端鍬一十枚鞍一具筑紫大宰粟田真人朝臣等獻隼人一百七十四人幷布五十常牛皮六枚鹿皮五十挍戊辰文武官人進薪己巳賜百官人等食辛未天皇幸吉野宮甲戌天皇至自吉野宮二月甲申朔丙申詔筑紫防人滿年限者替已酉以淨廣肆竹田王直廣肆土師宿祢根磨大宅朝臣麿藤原朝臣史務大肆當麻真人櫻井穗積朝臣山守中臣臣麿巨勢朝臣多益湏大三輪朝臣安麿爲判事三月癸丑朔丙子大赦天下唯常赦所不免不在赦例夏四月癸未朔庚寅以投化新羅人居于下毛野乙未皇太子草壁皇子尊薨壬寅新羅遣級飡金道那等奉吊瀛真人天皇喪幷上送學問僧明聦觀智等別獻金銅阿弥陀像金銅觀世音菩薩像大勢至菩薩像各一軀綵帛錦綾甲辰春日王薨巳酉詔諸司仕丁一月放假四日五月癸刄(丑)朔甲戌命土師宿祢根麻呂詔新羅吊使級飡金道那等曰太政官卿等奉勅奉?()二年遣田中朝臣法麿等相告大行天皇喪時新羅言新羅奉勅人者元來用蘇判位今將復爾由是法麿等不得奉宣赴告之詔若言前事者在昔難波宮洽天下天皇崩時遣巨勢稻持等告喪之日翳飡金春秋奉勅而言用蘇判奉勅即違前事也又於近江宮洽(治)天下天皇崩時遣一告飡金薩儒等奉吊而今以級飡奉吊亦遣前事又新羅元來奏云我國自日本遠皇祖代並舳不干檝奉仕之國而今一艘亦乖故典也又奏云自日本遠皇祖代以清白心仕奉而不惟竭忠宣揚本職而傷清白詐求幸媚是故調賦與別獻並封以還之然自我國家遠皇祖代廣慈汝等之德不可絶之故弥勤弥謹戰々兢々修其職任奉遵法度者天朝復益廣慈耳汝道那等奉斯所勅奉宣汝王

【三年の春正月の甲寅が朔のの日に、天皇は、大極殿で全国の朝拝を受けた。乙卯の日に、大学寮は杖を八十枚献上した。丙辰の日に、務大肆の陸奧国の優曇の郡の城養の蝦夷の脂利古の男子の麻呂と鐵折を、髭と髪を剃って僧になるよう願い出た。「麻呂達は、幼少でも上品で欲がない。それでここに至って、採食で戒律を守っている。願いのままに、出家し仏門に入りなさい」と詔勅した。庚申の日に、公卿と宴会してきぬ袴を与えた。辛酉の日に、新羅への使者の田中の朝臣の法麻呂達が、新羅から帰った。壬戌の日に、出雲の国司に詔勅して、暴風に遭遇した国の人を帰国させた。この日に、越の蝦夷の僧の道信に、佛像を一躯、潅頂幡・鍾・鉢各々一口、五色の織物各々五尺、綿五屯、布一十端、鍬十枚、鞍一具を与えた。筑紫の大宰の粟田の眞人の朝臣達は、隼人百七十四人とあわせて布五十常、牛皮六枚、鹿皮五十枚を献上した。戊辰の日に、文官・武官達に、薪を進上した。己巳の日に、官僚達に食事を与えた。辛未の日に、天皇は吉野の宮に行幸した。甲戌の日に、天皇は吉野の宮から帰った。二月の甲申が朔の丙申の日に、「筑紫の防人は年期の期限になったら交代させなさい」と詔勅した。己酉の日に、淨廣肆の竹田王・直廣肆の土師の宿禰の根麻呂・大宅の朝臣の麻呂・藤原の朝臣の史・務大肆の當麻の眞人の櫻井と、穗積の朝臣の山守・中臣の朝臣の臣麻呂・巨勢の朝臣の多益須・大三輪の朝臣の安麻呂を、判事とした。三月の癸丑が朔の丙子の日に、大赦を発令した。ただし重罪の 常赦不免の罪は、大赦に含めない。夏四月の癸未が朔の庚寅の日に、帰化した新羅人を、下毛野に居住させた。乙未の日に、皇太子の草壁皇子尊が薨じた。壬寅の日に、新羅、級飡の金道那達を派遣して、瀛眞人天皇の喪を弔った。あわせて学問僧の明聰・觀智達を送った。別に金銅の阿彌陀像・金銅の觀世音菩薩像・大勢至菩薩像、各々一躯、あやぎぬ・錦・綾を献上した。甲辰の日に、春日王が薨じた。己酉の日に、詔勅して、役所の雑役夫に、一月に四日の休暇を許可した。五月の癸丑が朔の甲戌の日に、土師の宿禰の根麻呂に命じて新羅の弔使の級飡の金道那達に「太政官の公卿達が、詔勅を聞いて言うことに、二年に、田中の朝臣の法麻呂達を派遣して、大行天皇の喪をそれぞれ告げさせた。その時に新羅が『新羅では、詔勅を承ける人は、元来、蘇判の位の者を用いる。いままた、そのようにしたい』と言った。これで、法麻呂達は、赴いて告げる詔勅を宣下出来なかった。もし前の事を言うなら、昔、難波の宮の治天下天皇が崩じた時に、巨勢の稻持達を派遣して、喪を告げる日に、翳飡の金春秋が詔勅を承けた。しかしながら蘇判を用て詔勅を承けると言うのは、すなわち前の事と異なる。また近江の宮の治天下天皇が崩じた時に、一吉飡の金薩需達を派遣して弔いを受けさせた。それなのに今、級飡に弔い承けるのは、また前の事例と違う。また新羅は元来奏上して、『我が国は、日本の天皇の遠祖の代から、舳を何艘も並べてかいを乾かさず奉仕してきた国だ』と言う。それなのに今たった一艘のみなのは、また古い決まりと違う。又、『日本の天皇の遠祖の代から、汚れがない心で仕えてきた』と奏上した。忠心なく本当の職務を言おうともしない。しかも汚れがない心をやめて、媚びてだまして利益を求めた。それで、年貢と別に献上物を、一緒に括って返そう。しかしながら我が国家の天皇の遠祖の代から、広くお前たちをいつくしむ徳を絶やしてはならない。それで、ますます勤めますます謹み、恐れつつしんで、その職務任務を修めて法に遵い、奉公する者に対して、朝廷は、心を広くして慈しむ。お前道那達は、この詔勅の内容を承けて、お前の王に伝えなさい」と詔勅した。】とあり、三月癸丑朔は2月30日、五月癸丑朔は5月2日でそれ以外は標準陰暦に合致する。

五月癸丑朔は704年の5月1日が癸丑のことで、持統三年二月「直廣肆土師宿禰根麿」、文武三年十月直廣參土師宿祢根麻呂・・・於越智山陵」、大宝三年四月「奉爲太上天皇設百曰齋於御在所」、大宝三年二月「是日當太上天皇七七」、大宝三年十月「任太上天皇御葬司」と同じ葬礼を記述していると思われる。

文武天皇は皇位を奪取した人物なのだから、文武天皇にとっての太上天皇とは親子関係がない大化建元した天武天皇を示し、新羅の使者も文武天皇に政権が移行し、親中の『新唐書』のように新羅の敵国唐に認められている總持天皇を新羅より下位の政権と考えた結果なのだろうか。

田中朝臣法麻呂は持統五年「伊豫國司」、文武三年「直大肆田中朝臣法麻呂判官四人」と冠位が職位と矛盾が有り、冠位を記述されない地方官の伊予国司が出世して冠位がある判官、外交官に出世したと考えられ、『続日本紀』の文武四年に「以直廣肆佐伯宿祢麻呂爲遣新羅大使」と、同等の冠位で、唐と対等と考える新羅も従来通りの「遣大唐押使大錦上高向史玄理」と比べて下位の官僚の使者に対して不満を持ったと考えられる。

そして、大伴宿祢安麻呂などの冠位の変遷は不比等にも見られ、689年持統三年の16位「直廣肆土師宿禰根麿大宅朝臣麿藤原朝臣史」、696年持統十年に「直廣貳藤原朝臣不比等」と12位、700年文武四年「直廣壹藤原朝臣不比等」と10位、大宝元年正月まで「直廣壹藤原朝臣不比等」が大宝元年三月に「直廣壹藤原朝臣不比等正正三位」と5位に大出世し、708年和銅元年には「從二位藤原朝臣不比等並正二位」と臣下としては3番目の最高位に出世して720年に死亡した冠位変遷が前項の大伴宿祢安麻呂と類似し、政権交代の立役者最有力とみることが出来る。

すなわち、大宝建元前夜の2月末から3月20日までに不比等らによる政権交代があったことを示している。

2021年3月1日月曜日

最終兵器の目 持統天皇3

  日本書紀 慶長版は

「二年正月庚申朔皇太子率公卿百寮人等適殯宮而慟哭焉辛酉梵衆發哀於殯宮丁夘設無遮大會於藥師寺壬午以天皇崩奉宣新羅金霜林等金霜林等乃三發哭二月庚寅朔辛夘大宰獻新羅調賦金銀絹布皮銅鐵之類十餘物幷別所獻佛像種々彩絹鳥馬之類十餘種及霜林所獻金銀彩色種々珍異之物幷八十餘物已亥饗霜林等於筑紫館賜物各有差乙巳詔曰自今以後毎取國忌日要湏齋也戊午霜林等罷歸三月巳未朔巳夘以華縵進于殯宮藤原朝臣大嶋誄焉五月戊午朔乙丑以百濟敬湏德那利移甲斐國六月戊子朔戊戌詔令天下繋囚極刑减本罪一等輕繋皆赦除之其令天下皆半入今年調賦秋七月丁已朔丁夘大雩旱也丙子命百濟沙門道藏請?(再:雨)崇朝遍雨天下八月丁亥朔丙申嘗于殯宮而慟哭焉於是大伴宿祢安麻呂誄焉丁酉命淨大肆伊勢王奉宣葬儀辛亥耽羅王遣佐平加羅來獻方物九月丙辰朔戊寅饗耽羅佐平加羅等於筑紫館賜物各有差冬十一月乙夘朔戊午皇太子率公卿百寮人等與諸蕃賓客適殯宮而慟哭焉於是奉奠奏楯節儛諸臣各舉巳先祖等所仕狀遞進誄焉巳未蝦夷百九十餘人負荷調賦而誄焉乙丒布勢朝臣御主人大伴宿祢御行遞進誄直廣肆當麻真人智德奉誄皇祖等之騰極次第禮也古云日嗣也畢葬于大內陵十二月乙酉朔丙申饗蝦夷男女二百一十三人於飛鳥寺西槻下仍授冠位賜物有差」

【二年の春正月の庚申が朔の日に、皇太子、公卿・官僚達を率いて、殯宮に赴いて声をあげて激しく嘆き泣いた。辛酉の日に、僧達が、殯宮で哀悼を述べた。丁卯の日に、すべての人に平等に財と法の施しをする大法会を藥師寺で開いた。壬午の日に、天皇の崩じたことを、新羅の金霜林達に宣下した。金霜林達は三度哀悼を述べた。二月の庚寅が朔の辛卯の日に、大宰が、新羅の年貢の、金・銀・絹・布・皮・銅・鐵など十余の物、あはせて別に献上した佛像・種々の彩絹・鳥・馬のなど十余のもの、及び霜林が献上した金・銀・彩色・種々の珍しい物、あわせて八十余の物を献上した。己亥の日に、霜林達を筑紫館で饗応した。其々差をつけて物を与えた。乙巳の日に、「今から以後、国忌にあたる日毎に、必ずものいみしなさい」と詔勅した。戊午の日に、霜林達が帰った。三月の己未が朔の己卯の日に、けまんを殯宮に進上した。藤原の朝臣の大嶋が弔辞を述べた。夏五月の戊午が朔の乙丑の日に、百済の敬須徳那利を、甲斐の国に遷した。六月の戊子が朔の戊戌の日に、「天下に号令して、繋がれた囚人の死刑は、本の罪を一等減らせ。軽い刑でつながれた囚人は皆赦免しなさい。天下の皆の今年の年貢を半分にしなさい」と詔勅した。秋七月の丁巳が朔の丁卯の日に、干ばつの為、大規模に雨乞いした。丙子の日に、百済の僧の道藏に命じて雨乞いした。夜明け前から国中に雨が降った。八月の丁亥が朔の丙申の日に、殯宮にその年に収穫したものを供えて声を上げて激しく嘆き泣いた。そこで、大伴の宿禰の安麻呂が哀悼を述べた。丁酉の日に、淨大肆の伊勢王に命じて、葬儀を宣下させた。辛亥の日に、耽羅の王は佐平の加羅を派遣して、やって来て土産を献上した。九月の丙辰が朔の戊寅の日に、耽羅の佐平の加羅達を筑紫館で饗応した。其々差をつけて物を与えた。冬十一月の乙卯が朔の戊午の日に、皇太子、公卿・官僚達と諸国の賓客を率いて、殯宮に赴いて声をあげて激しく嘆き泣いた。そこで、供え物してたてふしの舞を奉納した。臣下が其々、自分の先祖達が仕える形式で、入れ替わり進み出て弔辞を述べた。己未の日に、蝦夷百九十余人が、年貢を背負って弔辞を述べた。乙丑の日に、布勢の朝臣の御主人・大伴の宿禰の御行が入れ替わり進み出て弔辞を述べた。直廣肆の當摩の眞人の智徳、歴代天皇が即位した順序だって弔辞を奉じた。礼儀にのっとって昔の皇統を述べ終わって大内の陵に葬った。十二月の乙酉が朔の丙申の日に、蝦夷の男女二百一十三人を飛鳥寺の西のけやきの下で饗応した。それで冠位を授けて、其々差をつけて物を与えた。】とあり、六月戊子は6月2日で前月が小の月、十一月乙卯は10月30日でそれ以外は標準陰暦に合致する。

霜林はもし本当に新羅の王子なら、681年即位の神文王の子の長男の孝昭王が692年の若いときに即位して子もいないため、聖徳王が702年に即位した後の王子の可能性が高く、大長2年705年の記事の可能性がある。

天武天皇元年の壬申の乱の時、不破宮に派遣した冠位を記述しない大伴連安麻呂を記述し、 天武天皇十三年二月「小錦中大伴連安麻呂」、天武天皇十三年十二月「大伴連・・・五十氏賜姓曰宿禰」と宿禰を賜姓され、2年後の朱鳥元年「直廣參大伴宿禰安麻呂・・・次直廣參大伴宿禰安麻呂誄大藏事」と前回述べた天武天皇四年「小錦上大伴連御行爲大輔」と『続日本紀』の「御行難破朝右大臣大紫長徳之子也」と大臣の子の出世前が小錦上と差が1ランクで差が無い。

その後、持統二年に冠位を記述しない「大伴宿禰安麻呂誄焉」が記述されただけで、『続日本紀』の大宝元年三月の建元時に9位の「直大壹大伴宿祢安麻呂」、翌年の大宝二年には大出世して、6位の「從三位大伴宿祢安麻呂爲兵部卿・・・從三位大伴宿祢安麻呂爲式部卿」になり、やはり701年の政権交代で大出世した。

そして、704年慶雲二年に4位の「從三位大伴宿祢安麻呂爲大納言・・・大納言從三位大伴宿祢安麻呂爲兼大宰帥」に、708年和銅元年には5位の「正三位大伴宿祢安麻呂爲大納言」、死亡時の714年和銅七年には「大納言兼大將軍正三位大伴宿祢安麻呂薨」と大將軍で死んでいる。

やはり、八月丁亥朔が標準陰暦どおりの朔で、大化年号を建元した天智天皇の子の天武天皇の史書の資料で、大伴宿祢安麻呂も、大宝建元した文武天皇の政権樹立に貢献した高官の一人であったことが解る。


2021年2月26日金曜日

最終兵器の目 持統天皇2 

  日本書紀 慶長版は

元年春正月丙寅朔皇太子率公卿百寮人等適殯宮而慟哭焉納言布勢朝臣御主人誄之禮也誄畢衆庶發哀次梵衆發哀於是奉膳乳朝臣真人等奉奠々畢膳部采女等發哀樂官奏樂庚午皇太子率公卿百寮人等適殯宮而慟哭焉梵衆隨而發哀庚辰賜京師年自八十以上及篤癃貧不能自存者絁緜各有差甲申使直廣肆田中朝臣法摩呂與追大貳守君苅田等使於新羅赴天皇喪三月乙丒朔已夘以投化髙麗五十六人居于常陸國賦田受稟使安生業甲申以華縵進于殯宮此曰御蔭是日丹比真人麻呂誄之禮也丙戌以投化新羅人十四人居于下毛野國賦田受稟使安生業夏四月甲午朔癸夘筑紫大宰獻投化新羅僧尼及百姓男女二十二人居于武藏國賦田受稟使安生業五月甲子朔乙酉皇太子率公卿百寮人等適殯宮而慟哭焉於是隼人大隈阿多魁帥各領己衆互進誄焉六月癸巳朔庚申赦罪人秋七月癸亥朔甲子詔曰几負債者自乙酉年以前物莫收利也若既役身者不得役利辛未賞賜隼人大隅阿多魁帥等三百三十七人各各有差八月壬辰朔丙申嘗于殯宮此曰御青飯也丁酉京城耆老男女皆臨慟哭於橋西已未天皇使直大肆藤原朝臣大嶋直大肆黃書連大伴請集三百龍象大德等於飛鳥寺奉施袈裟人別一領曰此以天渟中原瀛真人天皇御服所縫作也詔詞酸割不可具陳九月壬戌朔庚午設國忌齋於京師諸寺辛未設齋於殯宮甲申新羅遣王子金霜林級飡金薩慕及級飡金仁述大舍蘇陽信等奏請國政且獻調賦學問僧智隆附而至焉筑紫大宰便告天皇崩於霜林等即日霜林等皆著喪服東向三拜三發哭焉冬十月辛夘朔壬子皇太子率公卿百寮人等幷諸國司國造及百姓男女洽築大內陵十二月辛夘朔庚子以直廣參路真人迹見爲饗新羅勅使是年也大歳丁亥

【元年の春正月の丙寅が朔の日に、皇太子、公卿・官僚達を率いて、殯宮に赴いて声をあげて激しく嘆き泣いた。納言の布勢の朝臣の御主人が礼に適った弔辞を述べた。弔辞を終えて皆も哀悼し、次に僧達が哀悼した。そこで、内膳司の長官の紀の朝臣の眞人達が、お供えした。供えた後に、調理人や下女達が哀悼を述べた。楽師が楽曲を奉じた。庚午の日に、皇太子は公卿や官僚達を率いて、殯宮に赴いて声をあげて激しく嘆き泣いた。僧達が一緒に哀悼した。庚辰の日に、京師の、八十歳以上、及び重病人、貧しく自力で生活できない者に太平絹を其々差をつけて与えた。甲申の日に、直廣肆の田中の朝臣の法麻呂と追大貳の守君の苅田達を、新羅の使者にして、天皇の喪を告げに赴いた。三月の乙丑が朔の己卯の日に、帰化した高麗の五十六人を、常陸の国に居住させた。田を授け与えて、家業を安定させた。甲申の日に、けまん(仏堂の梁にかける団扇の形の装飾板)を、殯宮に進上した。これを仏の助けという。この日、丹比の眞人の麻呂が礼に従って弔辞を述べた。丙戌の日に、帰化した新羅の十四人を、下毛野の国に居住させた。田を授け与えて、家業を安定させた。夏四月の甲午が朔の癸卯の日に、筑紫の大宰が帰化した新羅の僧尼及び百姓の男女二十二人を献上した。武藏の国に居住させた。田を授け与えて、家業を安定させた。五月の甲子が朔の乙酉の日に、皇太子と公卿・官僚達を率いて、殯宮に赴いて声をあげて激しく嘆き泣いた。そこに、隼人の大隅・阿多の首領が自分の配下を率いて、各々進み出て哀悼した。六月の癸巳が朔の庚申の日に、罪人に恩赦を与えた。秋七月の癸亥が朔の甲子の日に、「全ての借り手は乙酉の年より以前の者は、利息を取ってはならない。もし既に利払いのために労役に身を置いていたら、利払いの労役に入れてはならない」と詔勅した。辛未の日に、隼人の大隅・阿多の首領達、三百三十七人に其々差をつけて恩賞を与えた。八月の壬辰が朔の丙申の日に、殯宮に新作の穀物を供えた。これを御青飯という。丁酉の日に、京の六・七十代の男女が、皆、橋の西から殯宮を臨んで声をあげて激しく嘆き泣いた。己未の日に、天皇は、直大肆の藤原の朝臣の大嶋・直大肆の黄書の連の大伴に、三百の高徳の僧達を飛鳥寺に招き集めて、袈裟を其々に一領捧げ与えた。「これは天渟中原瀛眞人天皇の御着物で、縫って作ったものだ」と言った。詔勅は哀しくて痛々しいもので詳しく述べることが出来ない。九月の壬戌が朔の庚午の日に、国の行事として追善供養の仏事を京師の諸寺で開いて供え物をした。辛未の日に、殯宮にお供えした。甲申の日に、新羅は王子の金霜林・級飡の金薩慕及び級飡の金仁述・大舍の蘇陽信達を派遣して、国政の許しを求めて、また年貢を献上した。学問僧の智隆が付き従ってきた。筑紫の大宰は天皇が崩じたことを霜林達に告げた。その日に、霜林達は、皆喪服を着て、東に向って三度拝礼して、三度声をあげて激しく嘆き泣いた。冬十月の辛卯が朔の壬子の日に、皇太子と公卿・官僚達あはせて諸々の国司・国造及び百姓の男女を率いて、はじめて大内の陵を築いた。十二月の辛卯が朔の庚子の日に、直廣參の路の眞人の迹見を、新羅人を饗応する地方長官とした。この年は大歳が丁亥だった。】とあり、正月丙寅は2月1日、八月壬辰は7月30日で、他は標準陰暦と合致する。

正月丙寅の2月1日と八月壬辰の7月30日近辺に合致する年が無く1月の29日が雨水で一ケ月のズレも考えられず、異なる暦を使う政権の記事と考えることが妥当で、天武天皇六年まで「十二月己丑朔雪不告朔」と朔の日に告げる予定が告げなかったと記述され、『続日本紀』の大宝元年「天皇御大安殿受祥瑞如告朔儀」の告朔儀なら雪が降っても御殿でできるし、告朔儀なら無告朔儀と記述すべきで、雪で空模様が解らないから告げなかったのである。

納言布勢朝臣御主人は天武天皇十三年の賜姓時に布勢氏は無く、『続日本紀』の大宝元年七月の「壬申年功臣」の中に「阿倍普勢臣御主人」が記述され阿倍朝臣御主人と同一人物の様で、初出が朱鳥元年「直大參布勢朝臣御主人誄太政官事」と13位だ。

不比等でも初出が「直廣貳藤原朝臣不比等」と12位、天武天皇四年「小錦上大伴連御行爲大輔」と同じような背景を持つ大伴連御行の初出が10位で、大宝元年正月に「大納言正廣參大伴宿祢御行薨・・・贈正廣貳右大臣」と6位で死後4位を与え、御主人は大宝三年「右大臣從二位阿倍朝臣御主人薨」と右大臣の子の大伴連御行より初出は厚遇されていないが最終的に厚遇されている。

文武四年に「阿倍朝臣御主人大伴宿祢御行並授正廣參」と共に6位だったが、大宝元年三月「大納言正從二位阿倍朝臣御主人爲右大臣」と一年もたたずに4位に出世し、大宝元年七月に「壬申年功臣・・・大伴連御行阿倍普勢臣御主人神麻加牟陀君兒首一十人各一百戸」と初出の時が壬申の後では位階に矛盾が有り、701年に政権交代があって、その功労者が御主人や御行で御行はその戦乱の犠牲者と考えればよく理解でき、『新唐書』の「長安元年其王文武立改元曰太寶」と親子関係がない政権交代を裏付けている。

2021年2月24日水曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第二十九・三十  持統天皇1 

  日本書紀 慶長版は

髙天原廣野姫天皇少名鸕野讚良皇女天命開別天皇第二女也母曰遠智娘天皇深沈有大度天豊財重日足姫天皇三年適天渟中原瀛真人天皇爲妃雖帝王女而好禮節儉有母儀德天命開別天皇元年生草壁皇子尊於大津宮十年十月從沙門天渟中原瀛真人天皇入於吉野避朝猜忌語在天命開別天皇紀天渟中原瀛真人天皇元年夏六月從天渟中原瀛真人天皇避難東國鞠旅會衆遂與定謀廼分命敢死者數万置諸要害之地秋七月美濃軍將等與大倭桀豪共誅大友皇子傳首詣不破宮二年立爲皇后皇后從始迄今佐天皇定天下毎於侍執之際輙言及政事多所毗補朱鳥元年九月戊戌朔丙午天渟中原瀛真人天皇崩皇后臨朝稱制冬十月戊辰朔巳巳皇子大津謀反發覺逮捕皇子大津幷捕爲皇子大津所詿?(言吴:誤)直廣肆八口朝臣音橿小山下壹伎連博德與大舍人中臣朝臣臣麻呂巨勢朝臣多益湏新羅沙門行心及帳內礪杵道作等三十餘人庚午賜死皇子大津於譯語田舍時年二十四妃皇女山邊被髮徒跣奔赴殉焉見者皆歔欷皇子大津天渟中原瀛真人天皇弟三子也容止墻岸音辭俊朗爲天命開別天皇所愛及長辨有才學尤愛文筆詩賦之興自大津洽也丙申詔曰皇子大津謀反詿?(言吴:誤)吏民帳內不得已今皇子大津已滅從者當坐皇子大津者皆赦之伹礪杵道作流伊豆又詔曰新羅沙門行心與皇子大津謀反朕不忍加法徙飛騨國伽藍十一月丁酉朔壬子奉伊勢神祠皇女大來還至京師癸丑地震十二月丁夘朔乙酉奉爲天渟中原瀛真人天皇設無遮大會於五寺大官飛鳥川原小墾田豊浦坂田壬辰賜京師孤獨髙年布帛各有差潤十二月筑紫大宰獻三國髙麗百濟新羅百姓男女幷僧尼六十二人是歳蛇犬相交俄而倶死

【高天原の廣野姫天皇は、幼名は鸕野の讚良の皇女といった。天命開別の天皇の第二女子だ。母の名を遠智の娘という。天皇は、落ち着いていて、物事に動ぜず度量が大きかった。天豐財重日足姫天皇の三年に、天渟中原瀛眞人天皇に嫁いで妃となった。帝王の女子であっても、礼儀を重んじ質素で、母としての徳を持っていた。天命開別天皇の元年に、草壁皇子尊を大津宮で生んだ。十年の十月に、仏門に入った天渟中原瀛眞人天皇と一緒に、吉野に入って、朝廷のねたみきらわれる思いを避けた。この事は天命開別天皇の紀に記述されている。天渟中原瀛眞人天皇の元年の夏六月に、天渟中原瀛眞人天皇に従って、東国に難を逃れた。兵士に集まるよう告げて計略を討議した。それで数万の決死隊を分けさせて、諸々の要所に配置した。秋七月に、美濃の将軍達と大倭の豪傑と共に大友皇子を誅殺して、首が不破の宮に届いた。二年に、皇后になった。皇后は最初から今になるまで、天皇を補佐して天下を安定させた。いつも側に仕えている時に、些細なことから政治に関する事柄まで多くそばで助けた。朱鳥元年の九月の戊戌が朔の丙午の日に、天渟中原瀛眞人天皇が崩じた。皇后は即位せずに政務を執った。冬十月の戊辰が朔の己巳の日に、大津皇子が謀反を起こそうとした。大津皇子を捕らえて、大津皇子の為に過ちを犯した直廣肆の八口の朝臣の音橿、小山下の壹伎の連の博徳と、大舍人の中臣の朝臣の臣麻呂、巨勢の朝臣の多益須、新羅の沙門の行心及び帳内の砺杵の道作達庚午の日に、大津皇子を譯語田の屋敷での死を命じた。その時二十四歳だった。妃の皇女の山邊は髪も結わないではだしで駆け寄って殉死した。見る者皆むせび泣いた。大津皇子は、天渟中原瀛眞人天皇の第三子だ。立ち居振る舞いは孤高で弁舌さわやかだったので天命開別天皇の愛された。長じてわきまえもあり才能が有って文筆をもっとも愛し、漢詩は大津皇子に始まった。丙申の日に、「大津皇子が、謀反しようとした。過ちを犯した役人や人民近習は已むを得ないが今や大津皇子は滅んだ。従者は大津皇子に連座したのなら、皆赦しなさい。但し砺杵の道作は伊豆に流せ」と詔勅した。また、「新羅の沙門の行心は、大津皇子の謀反に従ったが、私は罰を与えるに忍びない。飛騨の国の寺に遷しなさい」と詔勅した。十一月の丁酉が朔の壬子の日に、伊勢のほこらで奉仕する大來皇女が京師に帰って来た。癸丑の日に、地震があった。十二月の丁卯が朔の乙酉の日に、天渟中原瀛眞人天皇のために、すべての人に平等に財と法の施しをする大法会を大官・飛鳥・川原・小墾田の豐浦・坂田の五寺で開いた。壬辰の日に、京師の独り身の高齢者に其々差をつけて絹布を与えた。閠十二月に、筑紫の大宰と高麗・百済・新羅三国の百姓男女と併せて僧尼六十二人を献上した。この歳に蛇と犬が共にすごしたが急に死んだ。】とあり、標準陰暦と合致する。

元明天皇は『古事記』を記述させた時に系図が解っていれば『日本書紀』と同じ系図を記述させたはずで、『日本書紀』を記述させる直前に資料を手に入れたと考えられ、『新唐書』に「天智死子天武立死子總持立・・・長安元年 其王文武立」と記述されて、持統(總持)天皇は天武天皇の子で文武天皇と親子関係がなく、文武天皇は697年ではなく701年即位である。

『粟原寺鑪盤銘』に「奉為大倭国浄御原宮天下天皇時日並御宇東宮・・・比賣朝臣額田以甲午年始至和銅八年」と『古事記』推古天皇の名「額田部皇女」の女系が推定され、比賣朝臣額田は678年死亡の十市皇女の母では694年竣工712年に完成なのだから年齢が合わず、この浄御原宮天下天皇は天智天皇の子の天武天皇で、天智天皇の子や孫でない文武天皇の父が後嗣だった天智天皇の異母兄弟若しくは従弟が日並と想定でき、元明天皇の夫である。

日並は皇極天皇の兄弟では高齢すぎるので、皇極天皇と舒明天皇蘇我蝦夷の子の可能性が有り、元明(阿閇)天皇もその娘元正天皇(日高)も推古天皇→十市皇女の母額田姫とともに女系額田を襲名したと想定される。

全く血縁関係のない『古事記』の系図を元明天皇が採用するとは考えられず、推古天皇は640年代に60歳代と考えられ、元明天皇の崩が720年代で間に3世代の額田皇女達が存在すると思われる。

『古事記』の「忍坂日子人太子亦名麻呂古王」、「日子人太子娶庶妹田村王亦名糠代比売命生御子坐崗本宮治天下之天皇」は日子人ではない推古天皇の兄弟の麻呂古王と庶妹田村王ではない糠代比売の孫が元明天皇で、岐多志毘売の宮が額田部にあり、蘇我倭国王朝の血統を『古事記』で元明天皇が主張した。

持統天皇の名も「廣野姫」で、廣國押武金日・武小廣國押盾・天國排開廣庭・息長足日廣額と続く稲目の広国の系譜を引き継ぐ名前、元明天皇も日本根子天津御代豊國成姫と橘豐日・豊御食炊屋姫・天豐財重日足姫・天萬豊日と馬子の倭国・豊国を引き継ぐ名前である。

『続日本紀』には「奉誄太上天皇謚曰大倭根子天之廣野日女尊」と名前が異なり、「唐人謂我使曰亟聞海東有大倭國謂之君子國」と日本とは別国の大倭国と記述され、元明天皇から「日本根子」の名前を使用して、總持日本天皇から日本の国号を奪い、元明天皇は俀国に敗れた倭国の後裔である。

粟原寺竣工の694年は大化年号が始まる前年で、これまで検証したとおり天智天皇崩の年、天智天皇は49歳崩で天智天皇の子の天武天皇は30歳前後で長男が13歳以下のため天智天皇の次女で蘇我氏の女系の髙天原廣野姫との子の日並が後嗣となったが、日並は廃嫡されて臣下の真人と姓を与えられ、子の文武天皇が第二の壬申の乱で皇位を奪った。

2021年2月22日月曜日

最終兵器の目 天武天皇28

 『日本書紀』慶長版は

八月巳巳朔爲天皇度八十僧庚午度僧尼幷一百因以坐百菩薩於宮中讀觀音經二百卷丁丑爲天皇體不豫祈于神祗辛巳遣秦忌寸石勝奉幣於土左大神是日天皇太子大津皇子髙市皇子各加封四百戸川嶋皇子忍壁皇子各加百戸癸未芝基皇子磯城皇子各加二百戸已丑檜隈寺輕寺大窪寺各封百戸限三十年辛夘巨勢寺封二百戸九月戊戌朔辛丒親王以下逮于諸臣悉集川原寺爲天皇病誓願云々丙午天皇病遂不差崩于正宮戊申始發哭則起殯宮於南庭辛酉殯于南庭即發哀當是時大津皇子謀反於皇太子甲子平旦諸僧尼發哭於殯庭乃退之是日肇進奠即誄之第一大海宿祢蒭蒲誄壬生事次淨大肆伊勢王誄諸王事次直大參縣犬養宿祢大伴揔誄宮內事次淨廣肆河內王誄左右大舍人事次直大參當麻真人國見誄左右兵衞事次直大肆采女朝臣竺羅誄內命婦事次直廣肆紀朝臣真人誄膳職事乙丑諸僧尼亦哭於殯庭是日直大參布勢朝臣御主人誄太政官事次直廣參石上朝臣麻呂誄法官事次直大肆大三輪朝臣髙市麻呂誄理官事次直廣參大伴宿祢安麻呂誄大藏事次直大肆藤原朝臣大嶋誄兵政官事丙寅僧尼亦發哀是日直廣肆阿倍久努朝臣麻呂誄刑官事次直廣肆紀朝臣弓張誄民官事次直廣肆穗積朝臣?(ノ虫:蟲)麻呂誄諸國司事次大隅阿多隼人及倭河內馬飼部造各誄之丁夘僧尼發哀??(之是)日百濟王良虞代百濟王善光而誄之次國々造等隨參赴各誄之仍奏種々歌儛

【八月の己巳が朔の日に、天皇の為に、八十人を出家させ僧にした。庚午の日に、僧尼併せて百人に修行させた。それで、百柱の菩薩像を宮中に安置して、観世音経二百卷を読経させた。丁丑の日に、天皇の容態が悪化したので、神祇に祈った。辛巳の日に、秦の忌寸の石勝を派遣して、供え物を土左の大神に奉納した。この日に、皇太子・大津皇子・高市皇子に、各々封戸四百戸を加増した。川嶋皇子・忍壁皇子に、各々百戸を加封した。癸未の日に、芝基皇子・磯城皇子に、各々二百戸を加封した。己丑の日に、桧隈寺・輕寺・大窪寺に、各々百戸を封じたが三十年に限った。辛卯の日に、巨勢寺に二百戸を封じた。九月の朔が戊戌の辛丑の日に、親王以下、諸臣まで、残らず川原寺に集って、天皇の病の為に、誓願した云云。丙午の日に、天皇の病が、とうとう癒えず、正宮で崩じた。戊申の日に、はじめて哀悼して泣いた。それで殯の宮を南の庭に建てた。辛酉の日に、南庭で殯を行って哀悼を発した。この時に、大津皇子は、皇太子に謀反を起こそうとした。甲子の日の夜明けに、諸々僧尼が、殯の宮で哀悼の泣き声を上げて帰った。この日に、はじめてお供えを進上して誄んだ。第一に大海の宿禰の蒭蒲が、壬生の事を弔辞した。次に淨大肆の伊勢王が、諸王の事を弔辞した。次に直大參の縣犬養の宿禰の大伴が、全ての宮中の事を弔辞した。次に淨廣肆の河内王が、近習の宿衛の事を弔辞した。次に直大參の當麻の眞人の國見が、近習の護衛の事を弔辞した。次に直大肆の采女の朝臣の竺羅が、高位の女官の事を弔辞した。次に直廣肆の紀の朝臣の眞人が、食事担当官の事を弔辞した。乙丑の日に、諸々の僧尼もまた殯の宮で泣いた。この日に、直大參の布勢の朝臣の御主人が、大政官の事を弔辞した。次に直廣參の石上の朝臣の麻呂が、法務官の事を弔辞した。次に直大肆の大三輪の朝臣の高市麻呂が、理官の事を弔辞した。次に直廣參の大伴の宿禰の安麻呂が、大藏の事を弔辞した。次に直大肆の藤原の朝臣の大嶋が、武官の事を弔辞した。丙寅の日に、僧尼がまた哀悼の意を発した。この日に、直廣肆の阿倍の久努の朝臣の麻呂が、判事の事を弔辞した。次に直廣肆の紀の朝臣の弓張が、民官の事を弔辞した。次に直廣肆の穗積の朝臣の蟲麻呂が、諸国司の事を弔辞した。次に大隅・阿多の隼人、及び倭・河内の馬飼部の造、各々が弔辞した。丁卯の日に、僧尼が、哀悼の意を発した。この日に、百済王の良虞が、百済王の善光に代って弔辞した。次に国々の造達が、連れ立って赴き、各々が弔辞した。それで種々の歌舞を奏上した。】とあり、標準陰暦と合致する。

天武天皇八年の盟約にいた皇子の芝基皇子は字面から考えると、天武天皇二年「宍人臣大麻呂女擬媛娘生・・・其二曰磯城皇子」の磯城皇子とは別人、すなわち、天智天皇七年「越道君伊羅都賣生施基皇子」の施基皇子ことで、天武天皇八年の盟約は天智天皇の盟約だった可能性が高い。

ここで弔辞を述べる人々は壬申の乱の功績者を含めて、701年大宝元年「賜村國小依百廿戸當麻公國見縣犬養連大侶榎井連小君書直知徳書首尼麻呂黄文造大伴大伴連馬來田大伴連御行阿倍普勢臣御主人神麻加牟陀君兒首一十人各一百戸」と存命中だから贈ではなく賜と記述され、やはり、壬申の乱で名が挙がる年齢、30歳くらいの人物が701年に多く存命しているのは、年齢的に違和感を感じる。

すなわち、縣犬養宿禰大伴は大宝元年「直廣壹縣犬養宿祢大侶卒・・・贈正廣參以壬申年功也」、淨廣肆の河内王は714年和銅七年「无位河内王從四位下」、703年大宝三年「右大臣從二位阿倍朝臣御主人薨」、717年養老元年「左大臣正二位石上朝臣麻呂薨」、706年慶雲三年「左京大夫從四位上大神朝臣高市麻呂卒以壬申年功」、和銅七年「大納言兼大將軍正三位大伴宿祢安麻呂薨」とこれ以降30年間も存命で、しかも壬申の功労者も20年間存命である。

これは、天武天皇の代で壬申の乱の功労者の死亡記事が有るように、695年の壬申の乱が起こる前の天智天皇の葬儀で、ここで弔辞を述べた人々が壬申の乱で活躍し、皇太子と兄弟の大津皇子との戦いなら、どちらが負けても天智天皇の子で、大化年号建元の天武天皇なら、よく理解できる。


2021年2月19日金曜日

最終兵器の目 天武天皇28

  『日本書紀』慶長版は

五月庚子朔戊申多紀皇女等至自伊勢是日侍醫百濟人億仁病之臨死則授勤大壹位仍封一百戸癸丒勅之大官大寺封七百戸乃納税三十万束丙辰宮人等増加爵位癸亥天皇體不安因以於川原寺說藥師經安居于宮中戊辰饗金智祥等筑紫賜祿各有差即從筑紫退之是月勅遣左右大舍人等掃清諸寺堂塔則大赦天下囚獄已空六月巳巳朔槻本村主勝麻呂賜姓曰連仍加勤大壹位封二十戸庚午工匠陰陽師侍醫大唐學生及一二官人幷三十四人授爵位乙亥選諸司人等有功二十八人増加爵位戊寅卜天皇病祟草薙劔即日送置于尾張國熱田社庚辰雩之甲申遣伊勢王及官人等於飛鳥寺勅衆僧曰近者朕身不和願頼三寶之威以以身體欲得安和是以僧正僧都及衆僧應誓願則奉珍寶於三寶是日三綱律師及四寺和上知事幷現有師位僧等施御衣御被各一具丁亥勅遣百官人等於川原寺爲燃燈供養仍大齋之悔過也丙申法忍僧義照僧爲養老各封三十戸庚寅名張厨司災之秋七月乙亥朔庚子勅更男夫著脛裳婦女垂髮于背猶如故是日僧正僧都等參赴宮中而悔過矣辛丑詔諸國大解除壬寅半減天下之調仍悉免徭役癸夘奉幣於居紀伊國々懸神飛鳥四社住吉大神丙午請一百僧讀金光明經於宮中戊申雷光南方而一大鳴則天災於民部省藏庸舍屋或曰忍壁皇子宮失火延焼民部省癸丒勅曰天下之事不問大小悉啓于皇后及皇太子是日大赦之甲寅祭廣瀬龍田神丁巳詔曰天下百姓由貧乏而?(イ貳:貸)稻及貨財者乙酉年十二月三十日以前不問公私皆免原戊午改元曰朱鳥元年仍名宮曰飛鳥淨御原宮丙寅選淨行者七十人以出家乃設齋於宮中御窟院是月諸王臣等爲天皇造觀音像則說觀世音經於大官大寺

【五月の朔が庚子の戊申の日に、多紀皇女達が伊勢から帰った。この日に、侍医の百済人の億仁が、病気で死にかけていた。それで勤大壹の位を授け百戸を封じた。癸丑の日に、詔勅して、大官大寺に、七百戸を封じて、税から三十萬束を奉納した。丙辰の日に、官僚達に爵位を加増した。癸亥の日に、天皇、体調をくずした。それで、川原寺で、藥師経を説教した。宮中で長期の修行をさせた。戊辰の日に、金智祥達を筑紫で饗応した。禄を与え各々差が有った。それで筑紫から去った。この月に、詔勅で近習の宿衛を派遣して、諸寺の堂や塔を掃き清めさせた。それで天下に大赦を行った。監獄には誰もいなくなった。六月の己巳が朔の日に、槻本の村主の勝麻呂に姓を与えて連という。それで勤大壹の位をに加増して、二十戸を封じた。庚午の日に、大工・陰陽師・侍医・大唐の學生、及び一・二人の官僚、併せて三十四人に、爵位を授けた。乙亥の日に、役人達の功績が有った二十八人を選んで、爵位を加増した。戊寅の日に、天皇の病気を占ったら、草薙の剱の祟りとでた。その日に、尾張の国の熱田の社に送って置いた。庚辰の日に、雨乞いした。甲申の日に、伊勢王及び役人達を飛鳥寺に派遣して、僧達に詔勅して、「近頃、私の状態が良くない。三宝の力によって、治してもらいたい。それで、僧正・僧都及び僧達よ、請願しなさい」と詔勅した。それで珍しい宝物を奉納した。この日に、三綱の律師及び四寺の和上・知事、併せて現在、師の位が有る僧達に、法衣・法被各々一具を施した。丁亥の日に、詔勅して、役人達を川原寺に派遣して、灯をともして供養した。それで、大法会を開いて悔い改めた。丙申の日に、僧の法忍・僧の義照に、老後を養うために、各々三十戸を封じた。庚寅の日に、名張の厨の司に火災が有った。秋七月の朔が己亥の庚子の日に、「また男は脛当てを着け、婦女は背中まで髪を垂らして、昔からのようにしなさい」と詔勅した。この日に、僧正・僧都達は、宮中に赴いて、改悔の儀式を行った。辛丑の日に、諸国に詔勅して大規模なお祓いをした。壬寅の日に、天下の年貢を半減した。なお、残らず労役を免除した。癸卯の日に、供え物を紀伊の国に居る國懸の神・飛鳥の四社・住吉の大神に奉納した。丙午の日に、百人の僧に頼んで、金光明経を宮中で読経させた。戊申の日に、雷が、南方で光って、一回大きな雷鳴が起こった。それで民部省の物納の倉庫に火災が起こった。或人が、「忍壁皇子の宮から失火して延焼で、民部省を焼いた」と言った。癸丑の日に、「天下の事の、大小を問わず、残らず皇后及び皇太子に教えなさい」と詔勅した。この日に、大赦を行った。甲寅の日に、廣瀬・龍田の神のお祭りを行った。丁巳の日に、「天下の百姓が貧しく生活に困っているので、稲と農具を貸している者は、乙酉の年の十二月三十日以前の負債は、公私と問わず、皆、免除しなさい」と詔勅した。戊午の日に、元号を改めて朱鳥元年と言った。それで宮を名付けて飛鳥淨御原宮と言った。丙寅の日に、仏の教えに従っている者七十人を選んで、出家させた。それで宮中の仏殿で法会を行った。この月に、諸王と臣下が、天皇の為に、観世音像を造った。それで観世音経を大官大寺で説教した。】とあり、標準陰暦と合致する。

飛鳥淨御原宮命名記事は朱鳥元号と全く関係が見えず、『小野毛人墓誌』に「飛鳥浄御原宮治天下天皇御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上小野毛人朝臣之墓営造歳次丁丑年十二月上旬即葬」と677年の墓誌に飛鳥浄御原宮治天下天皇と、無い宮の天皇が記述され、飛鳥浄御原宮命名説話は677年より前に命名されていることが解る。

すると、飛鳥浄御原宮命名説話の実際の時期は、これまで見てきたように、670年の壬申の乱は大皇弟と大臣達の反乱で天智天皇が勝利して国名を日本にした戦いっだったので、この時の勝利宣言の時、672年天武天皇元年「自嶋宮移岡本宮・・・營宮室於岡本宮南即冬遷以居焉是謂飛鳥淨御原宮」が第一候補であるが、それなら、このときにこの記事を記述すればよいのに、別の場所に置いているのはよくわからない。

改元記事に付随するのなら、朱雀の684年は『小野毛人墓誌』に合致せず、652年白雉改元は651年12月の「天皇從於大郡遷居新宮號曰難波長柄豐碕宮」と宮命名の記事があり、白鳳改元の661年斉明天皇七年の「天皇遷居于朝倉橘廣庭宮是時斮除朝倉社木而作此宮之故神忿壌殿亦見宮中鬼火由是大舎人及諸近侍病死者衆」がある。

朝倉は筑後の明日香と呼ばれる土地にあり、お祓いをして清めた宮で明日香の清()原は良く合致し、暦に九州の暦や都督府の暦が頻出し、饗応が九州で行われている意味がよく理解でき、すでに長く住んで15年たって、今にも死にそうな天皇のために宮の名を付け、既に不明の宮の名を付けた代名詞の宮を変えて飛鳥浄御原宮天皇と呼ぶのは理解できない。

もし、代名詞を変えたのなら、どこかにその宮の名が残るはずである。


2021年2月17日水曜日

最終兵器の目 天武天皇27

  『日本書紀』慶長版は

朱鳥元年春正月壬寅朔癸夘御大極殿而賜宴於諸王卿是日詔曰朕問王卿以無端事仍對言得實必有賜於是髙市皇子被問以實對賜蓁揩御衣三具錦袴二具幷絁二十疋絲五十斤緜百斤布一百端伊勢王亦得實即賜皁御衣三具紫袴二具絁七疋絲二十斤緜四十斤布四十端是日攝津國人百新興獻白馬瑙庚戌請三綱律師及大官大寺知事佐官幷九僧以俗供養々之仍施絁緜布各有差辛亥諸王卿各賜袍袴一具甲寅召諸才人博士陰陽師醫師者幷餘人賜食及祿乙夘酉時難波大藏省失火宮室悉焚或曰阿斗連藥家失火之引及宮室唯兵庫軄不焚焉丁已天皇御於大安殿喚諸王卿賜宴因以賜絁緜布各有差是日問群臣以無端事則當時得實重給綿絁戊午宴後宮己未朝庭大酺是日御々窟殿前而倡優等賜祿有差亦歌人等賜袍袴庚申地震是月爲饗新羅金智淨遣廣肆川內王直廣參大伴宿祢安麻呂直大肆藤原朝臣大嶋直廣肆堺部宿祢鯯魚直廣肆穗積朝臣?(ノ虫:蟲)麻呂等于筑紫二月辛未朔甲戌御大安殿侍臣六人授勤位乙亥勅選諸國司有功者九人授勤位三月辛丑朔丙午大辨官直大參羽田真人八國病爲之度僧三人庚戌雪之乙丒羽田真人八國卒以壬申年之功贈直大壹位夏四月庚午朔丁丑侍醫桑村主訶都授直廣肆因以賜姓曰連壬午爲饗新羅客等運川原寺伎樂於筑紫仍以皇后宮之私稻五千束納于川原寺戊子新羅進調從筑紫貢上細馬一疋騾一頭犬二狗鏤金器及金銀霞錦綾羅虎豹皮及藥物之類幷百餘種亦智祥健勳等別獻物金銀錦霞綾羅金器屏風鞍皮絹布藥物之類各六十餘種別獻皇后皇太子及諸親王等之物各有數丙申遣多紀皇女山背姫王石川夫人於伊勢神宮

【朱鳥元年の春正月の朔が壬寅の癸卯の日に、大極殿にいて、宴会を諸王や公卿達の為に開いた。この日に、「私は、王や公卿に聞くと、何事もないという。それで真実を答えたらきっと褒美を与える」と詔勅した。そこで、高市皇子が、問いに真実を答えた。草木染め衣三具・錦の袴二具、併せて太絹二十匹・絲五十斤・綿百斤・布一百端を与えた。伊勢王もまた真実を言った。それで香りがよい衣三具・紫の袴二具・太絹七匹・絲二十斤・綿四十斤・布四十端を与えた。この日に、攝津の国の人の百済の新興が白い水晶を献上した。庚戌の日に、三綱の律師、及び大官大寺の知事、佐官、併せて九人の僧を頼んで、人々に供養で力づけた。なお、太絹・綿・布を施し、各々差が有った。辛亥の日に、諸王と公卿に各々衣と袴一具を与えた。甲寅の日に、諸々の技術者・博士・陰陽師・医師、併せて二十人余を招集して、食物及び禄を与えた。乙卯の日の酉の時に、難波の大藏省が失火して、宮室が残らず焼けた。或人が、「阿斗の連の藥の家の失火が、引火して宮室に及んだ」と言った。ただし兵庫職のみは焼けなかった。丁巳の日に、天皇は、大安殿にいて、諸王と公卿を招集して宴会を開いた。それで、太絹・綿・布を与えた。各々差が有った。この日に、天皇は、臣下に何事も無かったかと問いかけた。それでその時真実を答えたら、太絹・綿を重ねて与えた。戊午の日に、後宮で宴会を開いた。己未の日に、朝庭で大酒宴を開いた。この日に、神を祀る御殿の前にいて、芸人達に禄を与え差が有った。また歌人達に衣と袴を与えた。庚申の日に、地震が有った。この月に、新羅の金智祥を饗応する為に、淨廣肆の川内王・直廣參の大伴の宿禰の安麻呂・直大肆の藤原の朝臣大嶋・直廣肆の境部の宿禰の鯯魚・直廣肆の穗積の朝臣の蟲麻呂達を筑紫に派遣した。二月の朔が辛未の甲戌の日に、大安殿にいた。側に使える臣下六人に勤位を授けた。乙亥の日に、詔勅して、諸々の国司の功績が有った九人を選んで、勤位を授けた。三月の朔が辛丑の丙午の日に、大辨官の直大參の羽田の眞人の八國が病気に罹った。そのため三人を出家させた。庚戌の日に、雪が降った。乙丑の日に、羽田の眞人の八國が死んだ。壬甲年の功績で、直大壹の位を贈った。夏四月の朔が庚午の丁丑の日に、侍医の桑原の村主の訶都に直廣肆を授けた。それで、姓を与えて連とした。壬午の日に、新羅の客達を饗応する為、川原寺の仮面劇の楽器と道具を筑紫に運んだ。それで皇后の宮の私物の稲五千束を、川原寺に奉納した。戊子の日に、新羅の進上した年貢を、筑紫から貢上した。飼いならされた馬一匹・ラバ一頭・犬二狗・金を散らした器、及び金・銀・霞がかかった錦・美しくて上等な布・虎豹の皮、及び藥など、併せて百種余あった。また智祥・健勳達が別に献上した物が、金・銀・霞がかかった錦・美しくて上等な布・金の器・屏風・鞍の皮・絹布・藥のなど、各々六十種余有った。別に皇后・皇太子及び諸々の親王達に献上する物が、各々多数有った。丙申の日に、多紀皇女・山背姫王・石川夫人を伊勢神宮に派遣した。】とあり、標準陰暦と合致する。

大地震や火災が頻発している中で、爵位や下賜品の大盤振る舞いと同じ王朝記事とは考えられず、大盤振る舞い記事には朔の日干支が記述されるのに、天武10年より後の地震は朔の日干支を記述しておらず、朱鳥という目出たい元号に改元することもあわせると、本来は良いことが起こっていることが考えられる。

『日本書紀』に記述される元号の中で、元明天皇や舎人親王は朱雀年号を記述せず朱鳥年号のみを記述しているが、元明天皇達は『古事記』しか書けなかった人々なのだから、總持天皇の王朝の記事をほとんど書き写したと考えられる。

有遠智娘弟曰姪娘生御名部皇女與阿陪皇女阿陪皇女及有天下居于藤原宮後移都于乃樂或本云名姪娘曰櫻井娘」と、書かせた元明本人の母の名前が解らないはずがなく、天智天皇の子共達は元明天皇の兄弟ではなく、『粟原寺鑪盤銘』の「比賣朝臣額田」が元明天皇で『古事記』が元明天皇の系図、すなわち、額田部推古天皇の末裔である。

天武天皇は『日本書紀』の天智天皇までの資料を、大化と白雉の順が違うのだから、皇極・孝徳・中宮・天智・大化・白雉そして浄御原宮などの、日記のような記事、これらが別々の書として残っていて、さらに、天武・總持天皇と大長改元の資料がまとめられずに有ったと考えられる。

そして、恐らく鏡王女の死によって、白鳳の元号が終わり朱雀改元となった意味を元明天皇は解らず、大長改元を想定して、改元説話が有る朱鳥を記述し、平城宮や藤原宮・元明天皇の事績を含めて記述したのではないだろうか。