2021年2月15日月曜日

最終兵器の目 天武天皇26

  『日本書紀』慶長版は

九月甲辰朔壬子天皇宴于舊宮安殿之庭是日皇太子以下至于忍壁皇子賜布各有差甲寅遣宮處王廣瀬王難波王竹田王弥努王於京及畿內各令挍人夫之兵戊午直廣肆都努朝臣牛飼爲東海使者直廣肆石川朝臣?(ノ虫:蟲)名爲東山使者直廣肆佐味朝臣少麻呂爲山陽使者直廣肆巨勢朝臣粟持爲山陰使者直廣參路真人迹見爲南海使者直廣肆佐伯宿祢廣足爲筑紫使者各判官一人史一人巡察國司郡司及百姓之消息是日詔曰凢諸歌男歌女笛吹者即傳已子孫令習歌笛辛酉天皇御大安殿 『喚王卿等於殿前以令博戲是日宮處王難波王竹田王三國真人友足縣犬養宿祢大侶大伴宿祢御行境部宿祢石積多朝臣品治采女朝臣竹羅藤原朝臣大嶋凢十人賜御衣袴壬戌皇太子以下及諸王卿幷四十八人賜羆皮山羊皮各有差癸亥遣髙麗國使人等還之丁夘爲天皇體不豫之三日誦經於大官大寺川原寺飛鳥寺因以稻納三寺各有差庚午化來髙麗人等賜祿各有差冬十月癸酉朔丙子百濟僧常輝封三十戸是僧壽百歲庚辰遣百濟僧法藏優婆塞益田金鍾於美濃令並白朮因以賜絁綿布壬午遣輕部朝臣足瀬髙田首新家荒田尾連麻呂於信濃令造行宮蓋擬幸束間温湯歟甲申以淨大肆泊瀬王直廣肆巨勢朝臣馬飼判官以下幷二十人任於畿內之役已丑伊勢王等亦向于東國因以賜衣袴是月說金剛般若經於宮中十一月癸夘朔甲辰儲用鐵一万斤送於周芳倊令所(是日)筑紫大掌(宰)請儲用物絁一百疋絲一百斤布三百端庸布四百常鐵一万斤箭竹二千連送下於筑紫丙午詔四方國曰大角小角鼓吹幡旗及弩?(扌尢:抜:抛)之類不應存私家咸收于郡家戊申幸白錦後菀丙寅法藏法師金鍾獻白朮煎是日爲天皇招魂之已巳新羅遣波弥(珍)飡金智祥大阿飡金健勳請政仍進調十二月壬申朔乙亥遣筑紫防人等飄蕩海??』中皆失衣裳則爲防人衣服以布四百五十端給下於筑紫辛巳自西發之地震丁亥絁綿布以施大官大寺僧等庚寅皇后命以王卿等五十五人賜朝服各一具

【九月の朔が甲辰の壬子の日に、天皇は、旧宮の御殿の庭で宴会をした。この日に、皇太子以下、忍壁皇子までに、布を与え各々差が有った。甲寅の日に、宮處王・廣瀬王・難波王・竹田王・彌努王を京及び畿内に派遣して、各々の労役の兵士を視察させた。戊午の日に、直廣肆の都努の朝臣の牛飼を東海の使者とした。直廣肆の石川の朝臣の蟲名を東山の使者とした。直廣肆の佐味の朝臣の少麻呂を山陽の使者とした。直廣肆の巨勢の朝臣の粟持を山陰の使者とした。直廣參の路の眞人の迹見を南海の使者とした。直廣肆の佐伯の宿禰の廣足を筑紫の使者とした。各々判官一人・書記一人がついて、国司・郡司及び百姓の消息を視察させた。この日に、「全ての諸々の歌を歌う男女・笛を吹く者は、すなわち自分の子孫に伝承して、歌や笛を習せなさい」と詔勅した。辛酉の日に、天皇は、大安殿にいて、王や公卿達を御殿の前に呼んで、賭けをさせた。この日に、宮處王・難波王・竹田王・三國の眞人の友足・縣犬養の宿禰の大侶・大伴の宿禰の御行・境部の宿禰の石積・多の朝臣の品治・采女の朝臣の竹羅・藤原の朝臣の大嶋、十人に、出仕する衣と袴を与えた。壬戌の日に、皇太子以下及び諸王と公卿達、併せて四十八人に、ヒグマの皮・山羊の皮を与えた。各々差が有った。癸亥の日に、高麗の国に派遣した使者達が帰った。丁卯の日に、天皇は病を患ったため、三日通して経を大官大寺・川原寺・飛鳥で読経させた。それで稲を三寺に奉納させた。各々差が有った。庚午の日に、帰化した高麗人達に、禄を与え各各差が有った。冬十月の朔が癸酉の丙子の日に、百済の僧の常輝に三十戸を封じた。この僧は、目出たいことに百歳だった。庚辰の日に、百済の僧の法藏・優婆塞と益田の直の金鍾を美濃に派遣して、オケラを煎じさせた。それで太絹・綿・布を与えた。壬午の日に、輕部の朝臣の足瀬・高田の首の新家・荒田尾の連の麻呂を信濃に派遣して、行宮を造らせた。おそらく、束間の温泉に行幸したいのだろう。甲申の日に、淨大肆の泊瀬王・直廣肆の巨勢の朝臣の馬飼・判官以下、併せて二十人を、畿内の労役に任せた。己丑の日に、伊勢王達が、また東国に向う。それで、衣と袴を与えた。この月に、金鋼般若経を宮中で説教させた。十一月の朔が癸卯の甲辰の日に、備蓄の鉄一萬斤を、周芳の總令の所に送った。この日に、筑紫の大宰が、備蓄の物、太絹百匹・絲・百斤・布三百端・物納の布四百常・鉄一萬斤・箭の竹二千連を求めた。筑紫に送り下した。丙午の日に、四方の国に「大きい角笛・小さい角笛・鼓・笛・軍旗、及び石弓・投擲の武器のなどは、私邸においてはならない。すべて郡家に收めなさい」と詔勅した。戊申の日に、白錦の裏庭に行幸した。丙寅の日に、法藏法師・金鍾がオケラを煎じて献上した。この日に、天皇の為に招魂祭を行った。己巳の日に、新羅が、波珍飡の金智祥・大阿飡の金健勳を派遣して、政治の援助を求めた。それで年貢を進上した。十二月の朔が壬申の乙亥の日に、筑紫に派遣した防人達が、海に飲み込まれて漂流し、皆、衣服を失った。それで防人の衣服の為に、布四百五十八端を、筑紫に供給した。辛巳の日に、西地震が発生した。丁亥の日に、太絹・綿・布を大官大寺の僧達に施した。庚寅の日に、皇后の命令で、王や公卿達五十五人に、出仕する服を各々一具を与えた。】とあり、標準陰暦と合致する。

ここで記述される、685年初出の壬申の乱の功臣が710年頃までに何人も死亡して、これらの人々の年齢が50代で活躍したと考えられ、壬申の乱が670年なら、700年代に死亡するのは長命で少なくなければ理に適わず、年齢が低い従者などは696年持統十年「以直廣壹授多臣品治并賜物褒美元從之功與堅守關事」、「以直大壹贈若櫻部朝臣五百瀬并賜賻物以顯元從之功」と壬申の功に入れていない。

また、大伴宿祢御行は『続日本紀』701年大宝元年に「大納言正廣參大伴宿祢御行薨・・・御行難破朝右大臣大紫長徳之子也」と父が難波朝の右大臣だが、同時期の阿倍朝臣御主人が703年大宝三年「右大臣從二位阿倍朝臣御主人薨」、732年天平四年「中納言從三位兼催造宮長官知河内和泉等國事阿倍朝臣廣庭薨右大臣從二位御主人之子也」、761年天平宝字五年「參議正四位下安倍朝臣嶋麻呂卒藤原朝右大臣從二位御主人之孫奈良朝中納言從三位廣庭之子也」と一代差29年で、標準的親子関係の年代差の20から30歳差に合致する。

御主人が686年朱鳥元年「直大參布勢朝臣御主人誄太政官事」と既に出世していて、675年天武天皇四年「小錦上大伴連御行爲大輔」が初出で30歳くらいで長徳も670年頃の死亡と考えられ、難波朝は650年代では不合理で、660年代まで続いたと考えられる。

ここでも、乙巳の変が664年に発生し、天皇が難波京で統治する蝦夷で、複数回の壬申の乱があったことを示している。

2021年2月12日金曜日

最終兵器の目 天武天皇25

  『日本書紀』慶長版は

「十四年春正月丁未朔戊申百寮拜朝庭丁夘更改爵位之号仍増加階級明位二階淨位四階毎階有大麈幷十二階以前諸王巳上之位正位四階直位四階勤位四階務位四階追位四階進位四階毎階有大廣幷四十八階以前諸臣之位是日草壁皇子尊授淨廣壹位大津皇子授淨大貳位髙市皇子授淨廣貳位川嶋皇子忍壁皇子授淨大參位自此以下諸王諸臣等増加爵位各有差二月丁丑朔庚辰大唐人百濟人髙麗人幷百四十七人賜爵位三月丙午朔己未饗金物儒於筑紫即從筑紫歸之仍流著新羅人七口附物儒還之辛酉京職大夫直大參巨勢朝臣辛檀努卒壬申詔諸國毎家作佛舍乃置佛像及經以禮拜供養是月灰零於信濃國草木皆枯焉夏四月丙子朔己夘紀伊國司言牟婁湯泉沒而不出也丁亥祭廣瀬龍田神壬辰新羅人金主山歸之庚寅始請僧尼安居于宮中五月丙午朔庚戌射於南門天皇幸于飛鳥寺以珍寶奉於佛而禮敬甲子直大肆粟田朝臣真人讓位于父然勅不聽矣是日直大參當麻真人廣麻呂卒以壬申年之功贈直大壹位辛未髙向朝臣麻呂都努朝臣牛飼等至自新羅乃學問僧觀常雲觀從至之新羅王獻物馬二疋犬三頭鸚鵡二隻鵲二隻及種々寶物六月乙亥朔甲午大倭連葛城連凡川內連山背連難波連紀酒人連倭漢連河內漢連秦連大隅直書連幷十一氏賜姓曰忌寸秋七月乙巳朔乙丑祭廣瀬龍田神庚午勅定明位巳下進位已上之朝服色淨位已上並著朱華(朱華此云波泥孺)正位深紫直位浅紫勤位深緑務位淺緑追位深蒲萄進位淺蒲萄辛未詔曰東山道美濃以東東海道伊勢以東諸國有位人等並免課役八月甲戌朔乙酉天皇幸于淨土寺丙戌幸于川原寺施稻於衆僧癸巳遣耽羅使人等還之」

【十四年の春正の朔が丁未の戊申の日に、役人が、朝庭で拝礼した。丁卯の日に、さらに爵位の名を改めた。なお、階級を増加した。明位二階、淨位四階、階毎に大廣が有り併せて十二階。これまでは諸王以上の位だ。正位四階、直位四階、勤位四階、務位四階、追位四階、進位四階、階毎に大廣が有り併せて四十八階。これまでが臣下の位だ。この日に、草壁皇子の尊に淨廣壹の位を授けた。大津皇子に淨大貳の位を授けた。高市皇子に淨廣貳の位を授けた。川嶋皇子・忍壁皇子に淨大參の位を授けた。これ以下の諸王・臣下達に爵位を加増し各々差が有った。二月の朔が丁丑の庚辰の日に、大唐人・百済人・高麗人、併せて百四十七人に爵位を与えた。三月の朔が丙午の己未の日に、金物儒を筑紫で饗応して筑紫から帰った。それで、漂着した新羅人七人を、物儒に従わせて返した。辛酉の日に、京職の大夫の直大參の許勢の朝臣の辛檀努か死んだ。壬申の日に、「諸国の家毎に、佛舍を作って、それで佛像及び経典を置いて、礼拝や供養をしなさい」と詔勅した。この月に、灰が、信濃の国に降った。草木が皆枯れた。夏四月の朔が丙子の己卯の日に、紀伊の国司が、「牟婁の温泉が、埋まってしまって湯が出ない」と言った。丁亥の日に、廣瀬・龍田の神のお祭りを行った。壬辰の日に、新羅人の金主山が帰った。庚寅の日に、はじめて(?以前実行)僧尼に頼んで、宮中で長期の修行を行った。五月の朔が丙午の庚戌の日に、南門で矢を射る儀式を行った。天皇は、飛鳥寺に行幸して、珍宝を佛に奉納して礼をもって敬まった。甲子の日に、直大肆の粟田の朝臣の眞人が、位を父に讓った。しかし詔勅で許さなかった。この日に、直大參の當麻の眞人の廣麻呂が死んだ。壬申年の功績で、直大壹の位を贈った。辛未の日に、高向の朝臣の麻呂・都努の朝臣の牛飼達が、新羅から帰った。それで學問僧の觀常・靈觀、が一緒に着いた。新羅王の献上物は、馬二匹・犬三頭・オウム二隻・カササギ二隻及び種々の物が有った。六月の朔が乙亥の甲午の日に、大倭の連・葛城の連・凡川内の連・山背の連・難波の連・紀の酒人の連・倭の漢の連・河内の漢の連・秦の連・大隅の直・書の連、併せて十一氏に、姓を与えて忌寸と言った。秋七月の朔が乙巳の乙丑の日に、廣瀬・龍田の神のお祭りを行った。庚午の日に、詔勅して明位より下、進位より上の出仕するときに着用する服の色を決めた。淨位より上は、みな白みを帯びた紅色を着て正位は濃い紫、直位は薄い紫、勤位は濃い緑、務位は薄い緑、追位は濃い赤紫、進位は薄い赤紫を着る。辛未の日に、「東山道は美濃より東、東海道は伊勢より東の諸国の位が有る人達は、皆、課役を免除しなさい」と詔勅した。八月の朔が甲戌の乙酉の日に天皇は、淨土寺に行幸した。丙戌の日に、川原寺に行幸した。稲を僧達に施した。癸巳の日に、耽羅に派遣した使者達が帰った。】とあり、三月丙午朔は2月30日で、筑紫での饗応記事と筑紫から帰っているので畿内朝廷の説話にも関わらず、筑紫の暦で、それ以外は標準陰暦と合致する。

持統十年に「五月壬寅朔甲辰詔大錦上秦造綱手賜姓爲忌寸」と696年の記事に大錦上が記述されていて、この朔の日干支が5月2日、4月の晦日が29日と、都督府の暦で記述されて、都督府ではまだ古い冠位を使っていたか、690年代末に大化年間に冠位を変えた可能性がある。

『続日本紀』で始めて史書に記述された臣下が死亡するまでの間隔を検証すると、概ね20年で長くなると散位という無役の冠位を記述していて、50歳を過ぎると引退しているようだ。

例えば不比等の長男武智麻呂は705年に「正六位上・・藤原朝臣武智麻呂」、720年「右大臣正二位藤原朝臣不比等薨」と61歳で死んだ父の死亡15年前に初授して約30年後に57歳で死亡している。

そして724年「正六位下・・・藤原朝臣豊成」、737年「武智麻呂贈太政大臣」、とその長男の豊成は父の死亡の14年前に初授が有って、765年「右大臣從一位藤原朝臣豊成薨」と初授から約40年後に62歳で死亡している。

そして、武智麻呂の次男の押勝は734年「正六位下藤原朝臣仲麻呂並從五位下」、764年59歳「軍士石村村主石楯斬押勝傳首京師」と30歳に初加増、790年に死亡した佐伯宿祢今毛人も死亡時80歳で711年景雲二年に「賀正之宴有詔特侍殿上」と登用されていることから、一人前とみられるのはやはり20歳位で、初授が20代が一般的で、20年くらい務めて50歳前後で死亡して、子は父が40代で朝廷につかえている。

すなわち、これは『日本書紀』の小野妹子達も同じで、607年の訪唐は有り得ず、640年代が正しい時期だと証明される。


2021年2月10日水曜日

最終兵器の目 天武天皇24

  『日本書紀』慶長版は

「十月己夘朔詔曰更改諸氏之族姓作八色之姓以混天下万姓一曰真人二曰朝臣三(曰)宿祢四曰忌寸五曰道師六曰臣七曰連八曰稻置是日守山公路公髙橋公三國公當麻公茨城公丹比公猪名公坂田公羽田公息長公酒人公(山道公)十三氏賜姓曰真人辛己遣伊勢王等定諸國堺是日縣犬養連手繦爲大使川原連加尼爲小使遣耽羅壬辰逮于人定大地震舉國男女叫唱不知東西則山崩河?(涌:マ→尸)諸國郡官舍及百姓倉屋寺塔神社破壞之類不可勝數由是人民及六畜多死傷之時伊豫湯泉沒而不出土左國田菀五十餘万頃沒爲海古老曰若是地動未曽有也是夕有鳴聲如鼓聞于東方有人曰伊豆嶋西北二面自然増益三百餘丈更爲一嶋則如鼓音者神造是嶋響也甲午諸王卿等賜祿十一月戊申朔大三輪君大春日臣阿倍臣巨勢臣膳臣紀臣波多臣物部連平群臣雀部臣中臣連大宅臣栗田臣石川臣櫻井臣采女臣田中臣小墾田臣穗積臣山背臣鴨君小野臣川邊臣櫟井臣柿本臣輕部臣若櫻部臣岸田臣髙向臣完人臣來目臣犬上君上毛野君角臣星川臣多臣胸方君車持君綾君下道臣伊賀臣阿閇臣林臣波祢臣下毛野君佐味君道守臣大野君坂本臣池田君玉手臣笠臣凡五十二氏賜姓曰朝臣庚戌土左國司言大潮髙騰海水飄蕩由是運調舩多舩多投失焉戊辰昏時七星倶流東北則隕之庚午日沒時星隕東方大如瓮逮于戌(時)天文悉亂以星隕如雨是月有星孛于中央與昴星雙而行之及月盡失焉是年詔伊賀伊勢美濃尾張四國自今以後調年免役々年免調倭葛城下郡言有四足鶏亦丹波國氷上郡言有十二角犢十二月戊寅朔巳夘大伴連佐伯連阿曇連忌部連尾張連倉連中臣酒人連土師連掃部連境部連櫻井田部連伊福部連巫部連忍壁連草壁連三宅連兒部連手繦丹比連靫丹比連漆部連大湯人連若湯人連弓削連神服部連額田部連津守連縣犬養連稚犬養連玉祖連新田部連倭文連氷連凢海連山部連矢集連狹井連爪工連阿刀連茨田連田目連少子部連菟道連猪使連海犬養連間人連舂米連美濃連諸會臣布留連五十氏賜姓曰宿祢癸未大唐學生土師宿祢甥白猪史寶然及百濟役時沒大唐者猪使連子首筑紫三宅連得許傳新羅至則新羅遣大奈末金物儒送甥等於筑紫庚寅除死刑以下罪人皆咸赦焉」

【冬十月の己卯が朔の日に、「更に諸氏一族の姓を改めて、八種の姓を作って、天下の多くの姓を一緒にした。第一に、眞人。第二に、朝臣。第三に、宿禰。第四に、忌寸。第五に、道師。第六に、臣。第七に、連。第八に、稻置」と詔勅した。この日に、守山の公・路の公・高橋の公・三國の公・當麻の公・茨城の公・丹比の公・猪名の公・坂田の公・羽田の公・息長の公・酒人の公・山道の公、十三氏に、姓を与えて眞人と言った。辛巳の日に、伊勢王達を派遣して、諸国の境界を決めた。この日に、縣犬養の連の手繦を大使とし、川原の連の加尼を小使として、耽羅に派遣した。壬辰の日に、人が寝静まる十時ころになって、大地震が有った。国中で男女が悲鳴を上げて叫び、右往左往した。それで山が崩れ液状化が起こった。諸国の郡の官舍、及び百姓の納屋や家屋、寺塔や神社など、倒壊したものは数え切れなかった。これによって、人民及び家畜が、多数死傷した。その時に伊豫の温泉が沈み込んで湯が出なかった。土左の国の田畑五十萬余くらい、津波に沈んだ。古老が「このように地面が動いたことは、未だかってなかった」と言った。この夕に、太鼓のような音が鳴って、東方で聞こえた。ある人が 、「伊豆の嶋の西北に、二方面に、自然に地面が、三百丈余増えた。一つの嶋となった。すなわち太鼓の音の様だったのは、神がこの嶋を造った響だ。」と言った。甲午の日に、諸王や公卿達に禄を与えた。十一月の戊甲が朔の日に、大三輪の君・大春日の臣・阿倍の臣・巨勢の臣・膳の臣・紀の臣・波多の臣・物部の連・平群の臣・雀部の臣・中臣の連・大宅の臣・粟田の臣・石川の臣・櫻井の臣・采女の臣・田中の臣・小墾田の臣・穗積の臣・山背の臣・鴨の君・小野の臣・川邊の臣・櫟井の臣・柿本の臣・輕部の臣・若櫻部の臣・岸田の臣・高向の臣・宍人の臣・來目の臣・犬上の君・上毛野の君・角の臣・星川の臣・多の臣・胸方の君・車持の君・綾の君・下道の臣・伊賀の臣・阿閉の臣・林の臣・波彌の臣・下毛野の君・佐味の君・道守の臣・大野の君・坂本の臣・池田の君・玉手の臣・笠の臣・全て五十二氏に、姓を与えて朝臣という。庚戌の日に、土左の国司が「津波で海が高く持ち上がって、海水で船が流されて損壊した。このため、年貢を運ぶ船が、多数流されて失った」と言った。戊辰の日の日暮れ時に、七つの星が、一緒に東北へ流れて隕ちた。庚午の日の日沒の時に、星が、東の方角に隕ちた。大きさは甕の様だった。戌の時8時頃になって、天体が残らず乱れて、星が雨のように隕ちた。この月に、星が有って、中央が光り輝いていた。スバルが並んで行った。晦日(新月なので本来は1日)になって消えた。この年に、「伊賀・伊勢・美濃・尾張の、四国は、今以後、年貢の年に課役を免除し、課役の年に年貢を免除しなさい」と詔勅した。倭の葛城の下の郡が、「四足の鷄がいた」と言った。また丹波の国の氷上の郡が、「十二の角がある子牛がいた」と言った。十二月の朔が戊寅の己卯の日に、大伴の連・佐伯の連・阿曇の連・忌部の連・尾張の連・倉の連・中臣の酒人の連・土師の連・掃部の連・境部の連・櫻井の田部の連・伊福部の連・巫部の連・忍壁の連・草壁の連・三宅の連・兒部の連・手繦の丹比の連・靫の丹比の連・漆部の連・大湯人の連・若湯人の連・弓削の連・神服部の連・額田部の連・津守の連・縣犬養の連・稚犬養の連・玉祖の連・新田部の連・倭文の連・氷の連・凡海の連・山部の連・矢集の連・狹井の連・爪工の連・阿刀の連・茨田の連・田目の連・少子部の連・菟道の連・小治田の連・猪使の連・海犬養の連・間人の連・舂米の連・美濃矢集の連・諸會の臣・布留の連五十氏に、姓を与えて宿禰という。癸未の日に、大唐の學生の土師の宿禰の甥・白猪の史の寶然、及び百済の役の時に大唐で死んだ者の猪使の連の子首・筑紫の三宅の連の得許が、新羅の伝手で着いた。それで新羅は、大奈末の金物儒を派遣して、甥達を筑紫に送った。庚寅の日に、死刑を除いてそれ以外の罪人を、皆、残らず赦免した。】とあり、標準陰暦と合致すし、十月己卯朔は前月が大の月、十一月戊申朔は前月が小の月、十二月戊寅朔が前月が大の月と畿内での記述の可能性が高、四国から伊豆に至るまでの東南海地震の様子が記述されている。

八色の姓の記事だが、『小野毛人墓誌』に「大錦上小野毛人朝臣之墓営造歳次丁丑年十二月上旬即葬」と677年に死亡した小野毛人に朝臣姓があり、子が持統九年「賜擬遣新羅使直廣肆小野朝臣毛野」、文武四年「直廣參小野朝臣毛野爲大貳」、大宝二年「從四位下・・・小野朝臣毛野令參議朝政」、慶雲二年「以正四位上小野朝臣毛野爲中務卿」、慶雲四年「正四位上小野朝臣毛野・・・供奉殯宮事」、和銅元年「正四位上小野朝臣毛野・・・爲中納言」、和銅二年「正四位上小野朝臣毛野並從三位」、和銅七年「中納言從三位兼中務卿勲三等小野朝臣毛野薨小治田朝大徳冠妹子之孫小錦中毛人之子也」と記述される。

小野氏は遣唐使の時期の証明にも使用したが、毛人と毛野の死亡時期から、妹子は650年頃に死亡、677年死亡の毛人、714年死亡の毛野なら、650年でも早く、三代とも長寿すぎてしまうので、父の毛人死亡後、毛野の初授と思われる16番目の冠位直廣肆に間が有り毛人は早死にと考えられる。

684年に姓を変えたなら「天渟中原瀛眞人」自体に矛盾が生じ、天武天皇は諸王の地位で眞人だった人物が皇位に就いたのだから、もし大海皇子のこととすれば、671年以前に八色の姓を施行したことになる。

同じ事が682年天武天皇十一年の「筑紫大宰丹比眞人嶋等貢大鐘」と記述され、これらから、八色の姓は天智天皇が即位して間もなく669年頃に公布された可能性が高く、天渟中原瀛眞人は息長足日廣額の子なので、息長公で眞人で理に適う。


2021年2月8日月曜日

最終兵器の目 天武天皇23

  『日本書紀』慶長版は

「十三年春正月甲申朔庚子三野縣主內藏衣縫造二氏賜姓曰連丙午天皇御于東庭群卿侍之時召能射人及侏儒左右舍人等射之二月癸丑朔丙子饗金主山於筑紫庚辰遣淨廣肆廣瀬王小錦中大伴連安麻呂及判官錄事陰陽師工匠等於畿內令視占應都之地是日遣三野王小錦下采女臣筑羅等於信濃令看地形將都是地歟三月癸未朔庚寅吉野人宇閇直弓貢白海石榴辛夘天皇巡行於京師而定宮室之地乙巳金主山歸國夏四月壬子朔丙辰徒罪以下皆免之甲子祭廣瀬大忌神龍田風神辛未小錦下髙向臣麻呂爲大使小山下都努臣牛甘爲小使遣新羅閏四月壬午朔丙戌詔曰來年九月必閲之因以教百寮之進止威儀又詔曰几政要者軍事也是以文武官諸人務習用兵及乗馬則馬兵幷當身裝束之物務具儲足其有馬者爲騎士無馬者爲步卒並當試練以勿鄣於聚會若忤詔旨有不便馬兵亦裝束有闕者親王以下逮于諸臣並罰之大山位以下者可罰々之可杖々之其務習以能得業者若雖死罪則咸二等唯恃已才以故犯者不在赦例又詔曰男女並衣服者有襴無襴及結紐長紐任意服之其會集之日着襴衣而著長紐唯男子者有圭冠冠而著括緖褌女年四十以上髮之結不結及乗馬縱横並任意也別巫祝之類不在結髮之例壬辰三野王等進信濃國之啚丁酉設齋于宮中因以赦有罪舍人等乙巳坐飛鳥寺僧福揚以入獄庚戌僧福揚自刺頸而死五月辛亥朔甲子化來百濟僧尼及俗人男女幷二十三人皆安置于武藏國戊寅三輪引田君難波麻呂爲大使桑原連人足爲小使遣髙麗六月辛巳朔甲申雩之秋七月庚戌朔癸丒幸于廣瀬戊午祭廣瀬龍田神壬申彗星出于西北長丈餘冬」

【十三年の春正月の朔が甲申の庚子の日に、三野の縣主・内藏の衣縫の造の二氏に、姓を与えて連という。丙午の日に、天皇は、東の庭にいた。公卿が近くにいた。その時に、上手く弓を射る人及び侏儒と・側近くに使える護衛達を呼んで弓を射させた。二月の朔が癸丑の丙子の日に、金主山を筑紫で饗応した。庚辰の日に、淨廣肆の廣瀬王・小錦中の大伴の連の安麻呂、及び判官・書記・陰陽師・技術者たちを畿内に派遣して、都をつくる適地を視察させ占わせた。この日に、三野王・小錦下の采女の臣の筑羅達を信濃に派遣して、地形を視察させた。この土地に都ろうとしたのだろうか。三月の朔が癸未の庚寅の日に、吉野の人の宇閉の直の弓が、白い椿を貢上した。辛卯の日に、天皇は、京師を巡行して、宮室の土地を定めた。乙巳の日に、金主山が国に帰った。夏四月の朔が壬子の丙辰の日に、労役以下を皆、赦免した。甲子の日に、廣瀬の大忌の神・龍田の風の神を祭った。辛未の日に、小錦下の高向の臣の麻呂を大使として、小山下の都努の臣の牛甘を小使として、新羅に派遣した。閏四月の朔が壬午の丙戌の日に、「来年の九月に、必ず調査する。それで役人の進退・規律を教えなさい」と詔勅した。また「全ての政治の要は軍事だ。それで、文武官の人々も、いつも兵器の持ち歩いて、乗馬を習いなさい。それで馬・武器、併せて身に着ける裝束の物を、いつも良く調べて足りなかったら備えに足しなさい。それで馬が有る者を騎士としなさい。馬が無い者を歩兵としなさい。さらによく訓練して、集まるのに支障が有ってはならない。もし詔勅の趣旨を違えて、馬や武器に不備が有って、また裝束に足りないものが有ったら、親王以下、諸臣にいたるまで、みな罰する。大山位以下は、処罰するべきは処罰し、杖打ちに相当すれば杖打ちに処する。それでいつも訓練して優秀な者は、もし死罪となっても、二等を減刑する。ただし自分の能力を使って犯した者のみは、赦さない」と詔勅した。また 又「男女ともに衣服は、裾付きのあるなし及び結い紐や長紐の使用も、自由に着なさい。それで集まる日は、裾付きの衣を着て長紐をつけなさい。ただし男子のみは、圭冠(はしはこうぶり)が有れば着けて、紐で括った袴を着なさい。女の年齢四十以上は、髮を結っても結わなくとも、及び馬に乗る向き、どれも自由でよい。別に巫女などは、髮を結わなくても良い」と詔勅した。壬辰の日に、三野王達が、信濃の国の地図を進上した。丁酉の日に、宮中で法会を開いた。それで罪人の下男たちを赦免した。乙巳の日に、飛鳥寺の僧の福楊を牢獄に入れた。庚戌の日に、僧の福楊が、自ら頚を刺して死んだ。五月の朔が辛亥の甲子の日に、帰化した百済の僧尼及び俗人の男女併せて二十三人が、皆で武藏の国に移り住んだ。戊寅の日に、三輪の引田君の難波麻呂を大使とし、桑原の連の人足を小使として、高麗に派遣した。六月の朔が辛巳の甲申の日に、雨乞いした。秋七月の朔が庚戌の癸丑の日に、廣瀬に行幸した。戊午の日に、廣瀬・龍田の神を祭った。壬申の日に、彗星が西北に出た。長さ一丈余だった。】とあり、正月甲申朔は1月2日で前月は小の月、四月壬子朔は3月30日、五月辛亥朔は閏4月30日、それ以外は標準陰暦と合致する。

閏四月壬午朔は前月が小の月、六月辛巳朔も前月が小の月、秋七月庚戌朔も前月が小の月で都督府や筑紫の暦で、饗応も筑紫で行い、飛鳥寺も筑紫の明日香にある寺の可能性が有る。

神武天皇が高尾張で土蜘蛛と戦ったが「髙尾張邑有土蜘蛛其爲人也身短而手足長與侏儒相類皇」と土蜘蛛は身長が低くて侏儒のようと記述し、神功皇后が「轉至山門縣則誅土蜘蛛田油津媛」と筑後の山門に土蜘蛛の田油津媛すなわち侏儒の田油津媛を誅殺したが、築後には侏儒の土蜘蛛の一族がまだ残り、この天武紀に記述されていて、筑紫での出来事と理解できる。

高向臣麻呂は天武天皇十年に12番目の地位の小錦下位授与が初出で天武天皇十四年新羅から帰国後全く記述されず、『続日本紀』に大宝二年に同じく12番目の地位の「從四位上高向朝臣麻呂」と地位が変化せず、慶雲二年に「正四位下・・・高向朝臣麻呂」、和銅元年「正四位上高向朝臣麻呂從三位・・・從三位高向朝臣麻呂爲攝津大夫」、和銅元年「攝津大夫從三位高向朝臣麻呂薨」と順調に数年おきに出世して、天武10年と大宝2年が同時期と考えられる。

2021年2月5日金曜日

最終兵器の目 天武天皇22

 『日本書紀』慶長版は

十二年春正月已丑朔庚寅百寮拜朝廷筑紫大宰丹比真人嶋等貢三足雀乙未親王以下及群卿喚于大極殿前而宴之仍以三足雀示于群臣丙午詔曰明神御大八洲日本根子天皇勅命者諸國司國造郡司及百姓等諸可聽矣朕初登鴻祚以來天瑞非一二多至之傳聞其天瑞者行政之理協于天道則應之是今當于朕世毎年重至一則以懼一則以嘉是以親王諸王及群卿百寮幷天下黎民共相歡也乃小建以上給祿各有差因以大辟罪以下皆赦之亦百姓課役並免焉是日奏小墾田儛及髙麗百濟新羅三國樂於庭中二月巳未朔大津皇子姶聽朝政三月戊子朔已丒任僧正僧都律師因以勅曰統領僧尼如法云云丙午遣多祢使人等返之夏四月戊午朔壬申詔曰自今以後必用銅錢莫用銀銭乙亥詔曰用銀莫止戊寅祭廣瀬龍田神六月丁巳朔已未大伴連望多薨天皇大驚之則遣泊瀬王而?(弔)之仍舉壬申年勳績及先祖等毎時有功以顯寵賞乃贈大紫位發鼓吹葬之壬戌三位髙坂王薨秋七月丙戌朔己丒天皇幸鏡姫王之家訊病庚寅鏡姫王薨是夏始請僧尼安居于宮中因簡淨行者三十人出家庚子雩之癸夘天皇巡行干京師乙巳祭廣瀬龍田神是月始至八月旱之百濟僧道藏雩之得雨八月丙辰朔庚申大赦天下大伴連男吹負卒以壬申年之功贈大錦中位九月乙酉朔丙戌大風丁未倭直栗隈首水取造矢田部造藤原部造刑部造福草部造凢河內直川內漢直物部首山背直葛城直殿服部造門部直錦織造縵造鳥取造來目舍人造檜隈舍人造大狛造秦造川瀬舍人造倭馬飼造川內馬飼造黃文造蓆集造勾筥作造石上部造財日奉造埿部造穴穗部造白髮部造忍海造羽束造文首小泊造百濟造語造凢三十八氏賜姓曰連冬十月乙夘朔巳未三宅吉士草壁吉士泊耆造舩史壹伎史娑羅々馬飼造菟野馬飼造吉野首紀酒人直采女造阿直史髙市縣主磯城縣主鏡作造幷十四氏賜姓曰連丁夘天皇狩于倉梯十一月甲申朔丁亥洽諸國習陣法丙申新羅遣沙飡金主山大那末金長志進調十二月甲寅朔丙寅遣諸王五位伊勢王大錦下羽田公八國小錦下多臣品洽小錦下中臣連大嶋幷判官錄史工匠者等巡行天下限分諸國之境堺然是年不堪限分庚午詔曰諸文武官人及畿內有位人等四孟月必朝參若有死病不得集者當司具記申送法官又詔曰凡都城宮室非一處必造兩參故先欲都難波是以百寮者各往之請家地十

【十二年の春正月の朔が己丑の庚寅の日に、役人が、朝庭で拝礼した。筑紫の大宰の丹比の眞人の嶋達が、三本足の雀を貢上した。乙未の日に、親王以下公卿までに、大極殿の前に呼び集めて、宴会を開いた。それで三本足の雀を、群臣に示した。丙午の日に、明神御大八洲倭根子天皇の勅命を、諸々の国司と国造と郡司と百姓達は、皆聞きなさい。私は、皇位を継承してからこれまで、天が与えた目出たいしるしは一つや二つではなくたくさん与えられた。聞いたところ、天が与えた目出たいしるしは、政治を行う道理が、天の道に適えば、応えてくれる。今、私の治世では毎年いくつも与えられた。或る時は慎み、或る時は喜んだ。そのため、親王と諸王及び公卿と役人、併せて天下の人々、共に喜び合った。それで小建以上に、禄を各差をつけて与えた。それで死罪以下、皆、赦免した。また百姓の労役を一緒に免除すると詔勅した。この日に、小墾田の舞及び高麗・百済・新羅の、三国の楽を庭の中で演奏した。二月の己未が朔の日に、大津皇子が、はじめて朝廷の政務に着いた。三月の朔が戊子の己丑の日に、僧正・僧都・律師を任命した。それで「僧尼をまとめおさめることは、法のとおりにしなさい」と詔勅した、云云。丙午の日に、多禰に派遣した使者達が帰った。夏四月の朔が戊午の壬申の日に、「今以後、必ず銅銭を用いなさい。銀銭を用いてはならない」と詔勅した。乙亥の日に、「銀銭を用いることを止めなくてもよい」と詔勅した。戊寅の日に、廣瀬・龍田の神のお祭りを行う。六月の朔が丁巳の己未の日に、大伴の連の望多が薨じた。天皇は、大変驚いて、泊瀬王を派遣して弔問させた。なお、壬申年の勲功及び先祖達の時代毎の功績を挙げて、目に見える恩賞と大紫の位を贈って、鼓と笛を鳴らして葬った。壬戌の日に、三位の高坂王が薨じた。秋七月の朔が丙戌の己丑の日に、天皇は、鏡姫王の家に行幸して、病状を聞いた。庚寅の日に、鏡姫王が薨じた。この夏に、僧尼に頼んで、はじめて宮中で安居の修行をさせた。それで仏の教えを信じている者三十人を選んで出家させた。庚子の日に、雨乞いした。癸卯の日に、天皇は、都を巡行した。乙巳の日に、廣瀬・龍田の神のお祭りを行った。この月から八月まで、雨が降らなかった。百済の僧の道藏が雨ごいしたら雨が降った。八月の朔が丙辰の庚申の日に、天下のすべての罪を赦免した。大伴の連の男吹負が死んだ。壬申年の功績で、大錦中の位を贈った。九月の朔が乙酉の丙戌の日に、強風が吹いた。丁未の日に、倭の直・栗隅の首・水取の造・矢田部の造・藤原部の造・疽部の造・福草部の造・凡河内の直・川内の漢の直・物部の首・山背の直・葛城の直・殿服部の造・門部の直・錦織の造・縵の造・鳥取の造・來目の舍人の造・桧隈の舍人の造・大狛の造・秦の造・川瀬の舍人の造・倭の馬飼の造・川内の馬飼の造・黄文の造・蓆集の造・勾の筥作の造・石上部の造・財の日奉の造・泥部の造・穴穗部の造・白髮部の造・忍海の造・羽束の造・文の首・小泊瀬の造・百済の造・語の造、全て三十八の氏に、姓を与えて連と言った。冬十月の朔が乙卯の己未の日に、三宅の吉士・草壁の吉士・伯耆の造・船の史・壹伎の史・娑羅羅の馬飼の造・菟野の馬飼の造・吉野の首・紀の酒人の直・采女の造・阿直の史・高市の縣主・磯城の縣主・鏡作の造、併せて十四の氏に、姓を与えて連と言った。丁卯の日に、天皇は、倉梯で狩りを行った。十一月の朔が甲申の丁亥の日に、諸国に戦法を習わせた。丙申の日に、新羅が、沙飡の金主山・大那末の金長志を派遣して、年貢を進上した。十二月の朔が甲寅の丙寅の日に、諸王の五位の伊勢王・大錦下の羽田公の八國・小錦下の多臣の品治・小錦下の中臣の連の大嶋、併せて判官・史官・技術者たちを派遣して、天下を巡行した、諸国の国境を決めた。しかしこの年に、決められなかった。庚午の日に、「諸々の武官と分官及び畿内の位が有る人達は、四季の始めの月に、必ず朝廷に来内しなさい。もし死んだり病気で、集まれない場合は、担当の役所に、詳しく記録して、司法官に申し送りなさい」と詔勅した。また「全ての都城や宮室は、一つでは足りないので、必ず二つが三つ造る。それで、まず難波に都を造ろうと思う。それで、役人達、各々行って家を建てる土地を願い出なさい」と詔勅した。】とあり、三月戊子朔は2月30日で筑紫の暦で、他は標準陰暦と合致し、郭務悰も帰国し、大化の改新が行われた記述と思われる。

明神御大八洲倭根子天皇の言葉は、『続日本紀』の文武元年八月「現御神〈止〉大八嶋國所知倭根子天皇命授賜」と慶雲四年七月「天皇即位於大極殿詔曰現神八洲御宇倭根子天皇詔旨勅命」と天皇即位の記述で、元明天皇の即位は大八洲ではなく八洲で、元明天皇は日本根子天津御代豊国成姫で大が付加されず、大を付加されるのは持統天皇で、大倭根子天之廣野日女尊と名前に対応し、すると、文武天皇の即位の大八嶋國所知倭根子は文武天皇の名が倭根子豊祖父で大が付加されないことから持統天皇の即位を『続日本紀』が記述していることになってしまう。

『続日本紀』で唐に遣使して「大倭國」と自称していて、天皇名に日本が付加されるのは元明天皇からで、それまでは大倭の天皇で、元明天皇の時に統一朝廷が完成したことを示し、大長の元号が終わるのは元明朝である。

また、元号がこの年に白鳳から朱雀に代わっていて、661年から長く続いた元号が、670年の日本建国の時も変わらなかった元号が変わっていて、名実ともに日本国の建国を述べ、そこに、持統天皇の即位を当て嵌めている。


2021年2月3日水曜日

最終兵器の目 天武天皇21

  『日本書紀』慶長版は

「八月壬戌朔令親王以下及諸臣各俾申法式應用之事甲子饗髙麗客於筑紫是夕昏時大星自東度西丙寅造法令殿內有大虹壬申有物形如灌頂幡而火色浮空流北毎國皆見或曰入越海是日白氣起於東山其大四圍癸酉大地動戊寅亦地震是日平且有虹當于天中央以向日甲戌筑紫大宰言有三足雀癸未詔禮儀言語之狀且詔曰凢諸應考選者能撿其族姓及景迹方後考之若雖景迹行能灼然其族姓不定者不在考選之色已丑勅爲日髙皇女之病大辟罪以下男女幷一百九十八人皆赦之庚寅百四十餘人出家於大官大寺九月辛夘朔壬辰勅自今以後跪禮匍匐禮並止之更用難波朝庭之立禮庚子日中數百鸖當大宮以髙朔(翔)於空四剋而皆散冬十月辛酉朔戊辰大餔十一月庚寅朔乙巳詔曰親王諸王及諸臣至于庶民悉可聽之凡糺彈犯法者或禁省之中或朝廷之中其於過失發處即隨見隨聞無匿弊而糺彈其有犯重者應請則請當捕則捉若對捍以不見捕者起當處兵而捕之當杖色乃杖一百以下節級決之亦犯狀灼然欺言無罪則不伏辨以爭訴者累加其本罪十二月庚申朔壬戌詔曰諸氏人等各定可氏上者而申送亦其眷族多在者則分各定氏上並申送於官司然後斟酌其狀而處分之因承官判唯因少故而非巳族者輙莫附」

【八月の壬戌が朔の日に、親王以下及び諸臣に令じて、各々の決まった作法を用いる事を申しつけた。甲子の日に、高麗の客を筑紫で饗応した。この夕の昏時に、大きい星が、東から西に渡っていった。丙寅の日に、法令を造っている殿内に大きな虹(虹色に光る蛇)が出た。壬申の日に、解らない物(?)が有って、形は灌頂の儀式に使う旗のようで、燃えているような色だった。空に浮んで北に流れた。国中で皆が見た。ある人は「越の海に落ちた」と言った。この日に、白い蒸気が、東の山に起った。その大きさは四圍だった。癸酉の日に、大きな地震が有った。戊寅の日に、また地震が有った。この日の午前四時ごろに、虹が出て、天の中央で、太陽に対峙していた。甲戌の日に、筑紫の大宰が「三足の雀がいた」と言った。癸未の日に、言葉遣いの作法を詔勅した。また、「全て諸事を選考する者は、よくその氏姓及び行状を調べて、その後で決めなさい。たとえ行状が著しく良くとも、その氏姓が解らなくては、選考に値しない」と詔勅した。己丑の日に、日高皇女が病気の為、死罪以下の男女併せて百九十八人、皆、赦免した。庚寅の日に、百四十余人が、大官大寺で出家した。九月の朔が辛卯の壬辰の日に、「今以後、土下座などはやめなさい。それで難波朝庭の立ったままの礼を用いなさい」と詔勅した。庚子の日の日中に、数百の鶴が、大宮の空高く飛んだ。2時間ぐらいで散り散りになった。冬十月の朔が辛酉の戊辰の日に、大規模な晩餐会を開いた。十一月の朔が庚寅の乙巳の日に、「親王・諸王及び諸臣から、庶民に至るまで、残らず聞きなさい。全ての法を犯した者を糾弾するときは、宮中の役所の中でも、朝庭の中でも、その過失が起こった所で、すぐに見聞きして隠すことが無いように糾弾しなさいさい。重罪を犯した者には言うべきことは言わせてから、捕らえなければならなかったら、拘束しなさい。もし逆らい拒んで捕えられなかったら、担当の兵士を使って捕らえなさい。杖打ちに相当したら、杖打ち百回より以下の罪の軽重によって決めなさい。また、犯した状況が明白なのに、騙して無罪だと言って、嘘で隠す者は、元の罪の罰にさらに加えて罰しなさい。十二月の朔が庚申の壬戌の日に、「諸氏の人々は、各々、氏上に最適な人物を決めて申し送りなさい。その同族が多人数いるものは、分けて各々の氏上を決め、一緒に役所に申し出なさい。その後でその事情をくんでかたをつけて役所の判断を承けなさい。ただし小いことで、同族でない者を、簡単に一族に入れてはならない」と詔勅した。】八月壬戌朔は8月2日で前月は小の月、十月辛酉朔も10月2日で前月が小の月、それ以外は前月が大の月で標準陰暦と合致し、熊津・筑紫都督府の暦と考えられる。

ここの東の山の白気は火山の水蒸気爆発でその水蒸気で虹が出て、地震も火山性の地震、鶴の髙翔も火山性ガスが原因なのではないのだろうか。

恐らく、阿蘇山若しくは鶴見岳のことで、大和の近辺で火山活動する山は見受けられない。

これらの改革は、695年大化の改新をここで記述していると思われ、もし、天武天皇が改革するのであれば、即位後すぐに実施すべきで、『新唐書』の「天智死子天武立」の天武天皇の説話と思われる。

次項で述べる秦造の連賜姓が持統十年696年に「詔大錦上秦造綱手賜姓爲忌寸」と秦連でなく、かつ、直接忌寸が賜姓されて、天武12年が696年の説話と考えられる。

2021年2月1日月曜日

最終兵器の目 天武天皇20

  『日本書紀』慶長版は

十一年春正月乙未朔癸夘大山上舍人連糠?(ノ虫:蟲)授小錦下位乙己饗金忠平於筑紫壬子氷上夫人薨于宮中癸丑地動辛酉葬氷上夫人於赤穗二月甲子朔乙亥金忠平歸國是月小錦下舍人連糠?(ノ虫:蟲)卒以壬申年之功贈大錦上位三月甲午朔命小紫三野王及宮內官大夫等遣于新城令見其地形仍將都矣乙未陸奧國蝦夷二十二人賜爵位庚子地震丙午命境部連石積等更肇俾造新字一部三十四卷己酉幸于新城辛酉詔曰親王以下百寮諸人自今巳後位冠及襅褶脛裳莫着亦膳夫采女等之等之手繦肩巾並莫服是日詔曰親王以下至于諸臣被給食封皆止之更返於公是月土師[??喚王卿等於殿前以令博戲是・・・・下方に重複 誤入・・・・・・紫防人等飄蕩海??]連真敷卒以壬申年功贈大錦上位夏四月癸亥朔辛未祭廣瀬龍田神癸未筑紫大宰丹比真人嶋等貢大鐘甲申越蝦夷伊髙岐那等請俘人七十戸爲一郡乃聽之乙酉詔曰自今以後男女悉結髮十二月三十日以前結訖之唯結髮之日亦待勅旨婦女乗馬如男夫其起于是日也五月癸巳朔甲辰倭漢直等賜姓曰連戊申遣髙麗大使佐伯連廣足小使小墾田臣麻呂奏使肯(?旨)於御所己未倭漢直等男女悉參赴之悅賜姓而拜朝六月壬戌朔髙麗王遣下部助有卦婁毛切大古昴加貢方物則新羅遣大那末金釋起送髙麗使人於筑紫丁卯男夫始結髮仍著漆紗冠癸酉五位殖栗王卒秋七月壬辰朔甲午隼人多來貢方物是日大隅隼人與阿多隼人相撲於朝廷大隅隼人勝之庚子小錦中膳臣摩漏病遣草壁皇子尊髙市皇子而訊病壬寅祭廣瀬龍田神戊申地震己酉膳臣摩漏卒天皇驚之大哀壬子摩漏臣以壬申年之功贈大紫位及祿更皇后賜物亦准官賜丙辰多祢人掖玖人阿麻弥人賜祿各有差戊午饗隼人等於飛鳥寺西發種々樂仍賜祿各有差道俗悉見之是日信濃國吉備國並言霜降亦大風五穀不登

【十一年の春正月の朔が乙未の癸卯の日に、大山上の舍人の連の糠蟲に、小錦下の位を授けた。乙巳の日に、金忠平を筑紫で饗応した。壬子の日に、氷上の夫人が、宮中で薨じた。癸丑の日に、地震が有った。辛酉の日に、氷上の夫人を赤穗に葬った。二月の朔が甲子の乙亥の日に、金忠平が、国に帰った。この月に、小錦下の舍人の連の糠蟲が死んだ。壬申の年の功績で、大錦上の位を贈った。三月の甲午が朔の日に、小紫の三野王及び宮内官の高官達に命じて、新城に派遣して、その地形を見分させた。それで都を造ろうとした。乙未の日に、陸奧の国の蝦夷二十二人に、爵位を与えた。庚子の日に、地震が有った。丙午の日に、境部の連の石積達に命じて、さらに新字一部四十四卷を造り始めさせた。己酉の日に、新城に行幸した。辛酉の日に、「親王以下、役人達は、今以後、位冠及びたすき・あわせ・すねあて、を着用してはならない。また調理人・下級の女官達のたすきや肩掛けを一緒に着用してはならない」と詔勅した。この日に、「親王以下、諸臣までに、与えた封戸はすべて止めて、国に返しなさい」と詔勅した。この月に、土師の連の眞敷が死んだ。壬申年の功績で、大錦上の位を贈った。夏四月の朔が癸亥の辛未の日に、廣瀬・龍田の神のお祭りを行った。癸未の日に、筑紫の大宰の丹比の眞人の嶋達が、大きな鍾を貢上した。甲申の日に、越の蝦夷の伊高岐那達が、捕虜七十戸を一郡としたいと願い出た。それで許した。乙酉の日に、「今以後、男女残らず髮を結いなさい。十二月三十日以前に、結い終わりなさい。ただし髮結いした日は、また詔勅の趣旨のとおりにしなさい」と詔勅した。婦人が馬に乗ったり男のような振る舞いは、この日から起こった。五月の朔が癸巳の甲辰の日に、倭の漢の直達に、姓を与えて連と言った。戊申の日に、高麗に派遣した大使の佐伯の連の廣足・小使の小墾田の臣の麻呂達が、使いの内容を御所に奏上した。己未の日に、倭の漢の直達の男女が残らず出かけてきて、姓をもらったことを悦んで朝廷に礼拝した。六月の壬戌が朔の日に、高麗の王が、下部の助有の卦婁毛切・大古の昴加を派遣して、産品を貢上した。それで新羅が、大那末の金釋起を派遣して、高麗の使者を筑紫に送った。丁卯の日に、男性が髮結を始めた。それで漆紗冠を着けた。癸酉の日に、五位の殖栗王が死んだ。秋七月の朔が壬辰の甲午の日に、隼人が、多数遣ってきて、産品を貢上した。この日に、大隅の隼人と阿多の隼人が、朝庭で相撲を取った。大隅の隼人が勝った。庚子の日に、小錦中の膳の臣の摩漏が病気した。草壁皇子の尊・高市皇子を派遣して、病状を聞かせた。壬寅の日に、廣瀬・龍田の神をお祭りした。戊申の日に、地震が有った。己酉の日に、膳の臣の摩漏が死んだ。天皇は、驚いて大変哀しんだ。壬子の日に、摩漏の臣に、壬申年の功績で、大紫の位及び禄を贈った。また、皇后の物を与え、役所からの贈呈とした。丙辰の日に、多禰人・掖玖人・阿麻彌人に封禄を与えた。各々差が有った。戊午の日に、隼人達を飛鳥寺の西で饗応した。種々の楽器の音色を発した。なお、封禄を与え各々差が有った。僧も俗人も残らず観た。この日に、信濃の国・吉備の国が、一緒に、「霜が降って、さらに大風が吹いて、五穀が実らなかった」と言った。】とあり、正月乙未朔は正しいが前日は29日、二月甲子朔は1月30日、三月甲午朔は正しいが前日があ29日、四月癸亥朔は3月30日、五月癸巳朔は正しいが前日が29日、六月壬戌朔も正しいが前日が29日、七月壬辰朔は標準陰暦と合致する。

この、1月から6月までの朔の並びは708年であればよく合致し、文武天皇が崩じたの翌年である。

膳臣摩漏・土師連眞敷はこれが初出で、舍人連糠虫は十年12月が初出で、前年の草壁皇子の立太子とその年の糠虫の賜姓と『新唐書』の「子天武立死子總持立」の總持天皇即位は兄弟で争った皇位継承の可能性が有り、總持朝廷が分裂した可能性がある。

隼人の産品貢上は『続日本紀』に702年「征薩摩隼人時」と薩摩の隼人を攻撃し、709年に「薩摩隼人郡司已下一百八十八人入朝」と薩摩隼人が降伏していて、阿多の隼人は神武天皇の東征の立役者で、隼人は斉明元年に「蝦夷隼人率衆内屬」と朝廷の臣下となっており、總持朝廷側の説話と考えられ、元明朝廷との攻防の戦いの一端と考えられる。