2020年9月16日水曜日

最終兵器の目 巻第二十四  皇極天皇1

  『日本書紀』慶長版は

天豊財重日足姫天皇渟中倉太珠敷天皇曾孫押坂彥人大兄皇子孫茅渟王女也母曰吉備姫王天皇順考古道而爲政也息長足日廣額天皇二年立爲皇后十三年十月息長足日廣額天皇崩元年春正月丁巳朔辛未皇后即天皇位以蘇我臣蝦夷爲大臣如故大臣兒入鹿自執國政威勝於父由是盜賊恐懾路不拾遺乙酉百濟使人大仁阿曇連比羅夫從筑紫國乗驛馬來言百濟國聞天皇崩奉遣吊使臣隨吊使共到筑紫而臣望仕於葬故先獨來也然其國者今大亂矣二月丁亥朔戊子遣阿曇山背連比良夫草壁吉士磐金倭漢書直縣遣百濟吊使所問彼消息吊使報言百濟國主謂臣言塞上恒作惡之請付還使天朝不許百濟吊使傔人等言去年十一月大佐平智積卒又百濟使

人擲崐崘使於海裏今年正月國主母薨又弟王子兒翹岐及其母妹女子四人內佐平岐味有髙名之人卌餘被放於嶋壬辰髙麗使人泊難波津丁未遣諸大夫於難波郡撿髙麗國所貢金銀等幷其獻物使人貢獻既訖而諮云去年六月弟王子薨秋九月大臣伊梨柯湏彌弑大王幷殺伊梨渠世斯等百八十餘人仍以弟王兒爲王以已同姓都湏流金流爲大臣戊申饗髙麗百濟於難波郡詔大臣曰以津守連大海可使於髙麗以國勝吉士水鶏可使於百濟以草壁吉士真跡可使於新羅以坂本吉士長兄可使於任那庚戌召翹岐安置於安曇山背連家辛亥饗髙麗百濟客癸丑髙麗使人百濟使人並罷歸三月丙辰朔戊午無雲而雨

【天豐財重日足姫天皇は、渟中倉太珠敷天皇の曽孫、押坂彦人大兄皇子の孫で、茅渟王の娘だ。母を吉備姫王という。天皇は、昔どおりに筋道を考えて政治を遂行した。息長の足日廣額の天皇の二年に、皇后になった。十三年の十月に、息長の足日廣額の天皇が崩じた。元年の春正月の朔が丁巳の辛未の日に、皇后は、天皇に即位した。蘇我の臣の蝦夷を大臣としたのは前のとおりだ。大臣の子の入鹿は、自ら国の政策を執行して、勢力は父に勝っていた。それで、盜賊が恐れ怯えて、道に落ちていた物すら拾わなかった。乙酉の日に、百済の使者の大仁の阿曇の連の比羅夫が、筑紫の国から、早馬に乗ってやって来て「百済国が、天皇の崩御を聞いて、弔使を奉遣した。私は、弔使を引き連れて、一緒に筑紫に着いた。そして私は葬礼の手伝いをしたいと思って、先に一人でやってきた。それにあの国は、今、大乱が起こっている」と言った。二月の朔が丁亥の戊子の日に、阿曇の山背の連の比羅夫と草壁の吉士の磐金と倭の漢の書の直縣を、百済の弔使の所に派遣して、百済の消息を調べさせた。弔使が「百済国の主は、私に言うのに、『塞上はいつも悪さをするが使者と一緒に帰るよう願っても、天皇は許さないだろう」と報告した。百済の弔使の護衛の武官達が「去年の十一月に、大佐平の智積が死んだ。また百済の使者の、崐崘の使者を海の中に投げつけた。今年の正月に、国の主の母も薨じた。また弟の王子たち、子の翹岐とその母妹の女子四人と、内佐平の岐味と、高名の人四十人余が、嶋に流刑された」と言った。壬辰の日に、高麗の使者が、難波津に停泊した。丁未の日に、諸々高官達を難波の郡に派遣して、高麗国の貢上された金銀等、あはせてその献上された物を見分した。使者は、貢献の儀礼を終了して、「去年の六月に、第王子が薨じた。秋九月に、大臣の伊梨柯須彌が、大王を殺し、あはせて伊梨渠世斯達百八十余人を殺した。それで弟王子の子を王とした。自分と同族の都須流金流を大臣とした」と話した。戊申の日に、高麗と百済の客を難波の郡で饗応した。大臣に「津守の連の大海を高麗の使者にしなさい。国勝の吉士の水鷄を百済の使者にしなさい。草壁の吉士の眞跡を新羅の使者にしなさい。坂本の吉士の長兄を任那の使者にしなさい」と詔勅した。庚戌の日に、翹岐を呼んで、阿曇の山背の連の家で休ませた。辛亥の日に、高麗と百済の客を饗応した。癸丑の日に、高麗の使者と百済の使者が、一緒に帰った。三月の朔が丙辰の戊午の日に、雲が無いのに雨が降った。】とあり、標準陰暦と合致する。

天豐財重日足姫は『古事記』に「日子人太子娶鹿(庶)妹田村王亦名糠代比賣命生御子坐崗本宮治天下之天皇・・・又娶漢王之妹大俣王生御子知奴王」と田村皇子の従弟が知奴王でその娘が皇極天皇で、知奴王は漢王の妹の大俣王の子すなわち漢王は俀国王で知奴王も『古事記』では俀国王で皇極天皇はその娘である。

そして、年齢的に考えれば、この漢王は磐井の子の東漢直駒の可能性があり、「偸隱蘇我娘嬪河上娘爲妻」と嶋大臣の娘を妻としていて、彦人や馬子の聖徳太子と同年代で630年頃に天皇になれない年齢すなわち20歳未満で、天智天皇が664年が16歳なので、年齢から考えても知奴王の妻が妥当で、名前が天豊なのだから俀国と倭国の名を冠しているが、子の天智天皇が豊を冠せず、皇極天皇も天氏で、まだ、日本国ではなく倭国王の天皇となったのだから豊が付加されているのだと思われる。

『三国史記』656年義慈王十六年に「佐平成忠或云淨忠極諫王怒囚之獄中由是無敢言者成忠瘐死臨終上書曰忠臣死不忘君願一言而死」と別名で呼ばれる佐平が死んでいて、十七年「春正月拜王庶子四十一人爲佐平」と皇子を降格した。

ところが、高句麗は「寶臧王諱臧或云寶臧以失國故無諡建武王弟大陽王之子也建武王在位第二十五年蓋蘇文弑之」と642年の記事を挿入し、642年の前年に『船王後墓誌』の「阿須迦天皇之末」、『上宮聖徳法王帝説』の「嶋大臣薨卅五年夏六月辛丑とあり、蘇我大臣が阿須迦天皇と考えられる天皇の後を継いだ皇極天皇と、おそらく俀国の皇極天皇等の複数の王の事績が挿入されている。


2020年9月14日月曜日

最終兵器の目 舒明天皇4

  『日本書紀』慶長版は

九年春二月丙辰朔戊寅大星從東流西便有音似雷時人曰流星之音亦曰地雷於是僧旻僧曰非流星是天狗也其吠聲似雷耳三月乙丒朔丙戌日蝕之是歲蝦夷叛以不朝即拜大仁上毛野君形名爲將軍令討還爲蝦夷見敗而走入壘遂爲賊所圍軍衆悉漏城空之將軍迷不知所知時日暮踰垣欲逃爰方名君妻歎曰慷哉爲蝦夷將見殺謂夫曰汝祖等渡蒼海跨万里平水表政以威武傳於後葉今汝頓屈先祖之名必爲後世見嗤乃酌酒強之飲夫而親佩夫之剱張十弓令女人數十俾鳴弦既而夫更起之取伏仗而進之蝦夷以爲軍衆猶多而稍引退之於是散卒更聚亦振旅焉擊蝦夷大敗以悉虜十年秋七月丁未朔乙丒大風之折木發屋九月霖雨桃李華冬十月幸有間温湯宮是歲百濟新羅任那並朝貢十一年春正月乙巳朔壬子車駕還自温湯乙卯新嘗蓋因幸有間以闕新嘗歟丙辰無雲而雷丙寅大風而雨巳巳長星見西北時旻師曰彗星也見則飢之秋七月詔曰今年造作大宮及大寺則以百濟川側爲宮處是以西民造宮東民作寺便以書直縣爲大匠秋九月大唐學問僧惠隱惠雲從新羅送使入京冬十一月庚子朔饗新羅客於朝因給冠位一級十二月巳已朔壬午幸于伊豫温湯宮是月於百濟川側建九重塔十二年春二月戊辰朔甲戌星入月夏四月丁卯朔壬午天皇至自伊豫便居廐坂宮五月丁酉朔辛刄大設齋因以請惠隱僧令說无量壽經冬十月乙丑朔乙亥大唐學問僧清安學生髙向漢人玄理傳新羅而至之仍百濟新羅朝貢之使共從來之則各賜爵一級是月徙於百濟宮十三年冬十月巳丑朔丁酉天皇崩于百濟宮丙午殯於宮北是謂百濟大殯是時東宮開別皇子年十六而誄之

九年の春二月の朔が丙辰の戊寅の日に、大きな星が、東から西に流れた。それで音が鳴って雷のようだった。当時の人は、「流星の音だ」と言った。また「地鳴りだ」と言った。それで、僧旻僧が「流星ではない。これは天狗だ。吠える声が雷に似ているだけだ」と言った。三月の朔が乙酉の丙戌の日に、日食があった。この歳に、蝦夷が背いて来朝しなかった。それで大仁の上毛野の君の形名に官位を授けて、將軍にして征討させた。返り討ちにあって蝦夷に敗けて、砦に逃げ入った。それで賊に囲まれた。軍隊は残らず抜け落ちるように逃げて城が空になった。將軍はどうすることもできなかった。その時に日が暮れた。垣根を飛び越えて逃げようとした。そこで方名の君の妻が、「なんと嘆かわしい、蝦夷ごときに殺されるとは」と嘆いた。それで夫に「あなたの祖先達は、海原を渡って、萬里を股にかけて、海外の国も平らげて、武勇で鳴らして後世まで響き渡った。今、あなたが先祖の名を汚せば、きっと後世の笑いものになる」と言った。それで酒を酌んで夫に無理やり飲ませた。それで親ら夫の剱を帯て、十の弓を張って、女数十人に命令して弦をかき鳴らした。そうしたら夫も立ち上がって、武器を取って進撃した。蝦夷はそれで、軍隊がまだたくさん残っていると思って、次第に引き下がって行った。そこで、散らばった兵士がまた集まって来て、また勢いある旅団となって、蝦夷を撃って大敗させ、みんな捕虜にした。十年の秋七月の朔日が丁未の乙丑の日に、台風があって木をへし折り家が破壊された。九月に、雨が降り続いて、桃やスモモの花が咲いた。冬十月に、有間の温泉の宮に行幸した。この歳に、百済と新羅と任那が一緒に朝貢した。十一年の春正月の朔が乙巳の壬子の日に、天皇の車が温泉から帰った。乙卯の日に、新嘗を行った。おそらく有間に行幸したため、新嘗を忘れたのか。丙辰の日に、雲も無いのに雷が鳴った。丙寅の日は、暴風雨だった。己巳の日に、尾が長い星が西北に見えた。この時に旻師が「彗星だ。これが現れると飢饉がある」と言った。秋七月に、「今年は、大宮と大寺を造りなさい」と詔勅した。それで百済川の辺を宮を造る予定地にした。ここに、西の人民宮を造り、東の人民は寺を造った。それで書の直の縣を総監督の棟梁とした。秋九月に、大唐の学問僧の惠隱と惠雲が新羅の送使に連れられて京に入った。冬十一月の庚子が朔の日に、新羅の客を朝廷で饗応した。それで冠位の最高位を与えた。十二月の朔が己巳の壬午の日に、伊豫の温泉の宮に行幸した。この月に、百済川の辺に、九重の塔が建った。十二年の春二月の朔が戊辰の甲戌の日に、星が、月にぶつかった。夏四月の朔が丁卯の壬午の日に、天皇は、伊豫から帰って廐坂の宮に居た。五月の朔が丁酉の辛丑の日に、大法会を開いた。それで、惠隱僧を招い、無量寿経を教授させた。冬十月の朔が乙丑の乙亥の日に、大唐の学問僧の清安と学生の高向の漢人の玄理が、新羅経由で帰った。それで、百済と新羅の朝貢の使者が、一緒について来た。そのため各々に爵位の最高位を与えた。この月に、百済の宮に行った。十三年の冬十月の朔が己丑の丁酉の日に、天皇、百済宮で崩じた。丙午の日に、宮の北に祭壇を作った。これを百済の大祭場という。この時に、東宮の開別の皇子、年16歳で哀悼の辞を述べた。】とあり、九年三月乙酉朔は2月30日、十二年四月丁卯朔は3月30日と前の月が共に大の月で小の月なら標準陰暦と合致し、その他は標準陰暦と合致する。

『隋書』の「大業三年・・・明年 上遣文林郎裴淸使於俀国」と608年に来日した裴淸の帰国時に推古天皇十六年「遣於唐國學生倭漢直福因奈羅譯語惠明高向漢人玄理・・・志賀漢人惠隱」と高向玄理が訪中し、640年のその帰国の記事で、『舊唐書』「至二十二年又附新羅奉表以通起居」と貞觀22年648年に新羅に連れ立って訪中しており、これが白雉五年654年の「遣大唐押使大錦上高向史玄理」と考えられる。

大化三年に「制七色一十三階之冠」と647年に制定した官位を冠しての訪中で、この年は「金春秋等送博士小徳高向黒麻呂小山中中臣連押熊來獻孔雀一隻鸚鵡一隻仍以春秋爲質」と官位を叙されておらず、翌年に小徳が大錦上と記述され、俀国は官位を変更した。

それが、「給冠位一級」で、『舊唐書』に「無冠帶・・・佩銀花長八寸左右各數枝以明貴賤等級衣服之制頗類新羅」と倭国には冠帶が無く、地位は等級で服の色が違ったと記述され、皇極天皇二年に「蘇我大臣蝦縁病不朝私授紫冠於子入鹿」と倭国には紫冠がないから俀国を真似て私的に紫冠を被ったことを示している。

そのため、僧旻も皇極天皇四年「沙門旻法師高向史玄理爲國博士」とセットで出現するため、彗星や流星の落下や月に流星がぶつかったなどの記述は650年前後の出来事と考えられ、そして608年に高向玄理と一緒に訪中した惠隱も白雉三年「四月戊子朔壬寅請沙門惠隱於内裏使講無量壽經」と舒明12年と白雉3年が同じ年であることを示しているが、私は白雉3年ではなく白鳳3年663年に挿入すべき記事だった考える。

そして、皇極天皇から天武天皇が記述するのだが、最後の舒明13年は皇極天皇を記述した時に追加した記事で、もし、推古天皇や舒明天皇と同時に記述したのなら、開別皇子という名を舒明2年に記述しないのは奇妙で、すなわち、舒明13年は652年即位の舒明天皇が664年に崩じ、しかも、死亡記事を書かないで死亡したことを意味する。

従って、推古紀は629年から舒明天皇も含めた記事で664年まで記述され舒明紀は664年に663年までを記述して死亡した天皇の記述で、664年10月は天智天皇が皇太子で年齢が16歳だったことを示し、そのため、668年に20歳になったので小墾田宮の天皇が退位して皇位に就いたことを示す。

2020年9月11日金曜日

最終兵器の目 舒明天皇3

 『日本書紀』慶長版は

三年春二月辛卯朔庚子掖玖人歸化三月庚申朔百濟王義慈入王子豊章爲質秋九月丁巳朔乙亥幸于攝津國有間温湯冬十二月丙戌朔戊戌天皇至自温湯四年秋八月大唐遣髙表仁送三田耜共泊于對馬是時學問僧靈雲僧旻及勝鳥養新羅送使等從之冬十月辛亥朔甲寅唐國使人髙表仁等泊于難波津則遣大伴連馬養迎於江口舩丗二艘及鼓吹旗幟皆具整飾便告髙表仁等曰聞天子所命之使到于天皇朝迎之時髙表仁對曰風寒之日飾整舩艘以賜迎之歡愧也於是令難波吉士小槻大河內直矢伏爲導者到館前乃遣伊岐史乙等難波吉士八牛引客等入於館即日給神酒五年春正月已卯朔甲辰大唐客髙表仁等歸國送使吉士雄摩呂黑摩呂等到對馬而還之六年秋八月長星見南方時人曰篲星七年春三月篲星𢌞見于東夏六月乙丑朔甲戌百濟遣達率柔等朝貢秋七月乙未朔辛丑饗百濟客於朝是月瑞蓮生於剱池一莖二花八年春正月壬辰朔日蝕三月悉劾姧采女者皆罪之是時三輪君小鷦鷯苦其推鞫刺頸而死夏五月霖雨大水六月災岡本宮天皇遷居田中宮秋七月已丑朔大派王謂豊浦大臣曰群卿及百寮朝參巳懈自今以後卯始朝之巳後退之因以鍾爲節然大臣不從是歲大旱天下飢之

三年の春二月の朔が辛卯の庚子の日に、掖玖の人が帰化した。三月の庚申が朔の日に、百済の王の義慈が、王子の豊章を人質に入れた。秋九月の朔が丁巳の乙亥の日に、摂津国の有間温泉に行幸した。冬十二月の朔が丙戌の戊戌の日に、天皇が、温泉から帰った。四年の秋八月に、大唐が高表仁を派遣して、三田耜を送ってきた。一緒に対馬に停泊した。この時に、学問僧の靈雲と僧旻と勝の鳥養が、新羅の送使達についてきた。冬十月の朔が辛亥の甲寅の日に、唐国の使者の高表仁達が、難波津に停泊した。それで大伴の連馬養を派遣して、港の入口で迎えた。船が三十二艘で鼓と吹と旗印を、皆お揃いに飾った。それで高表仁達に「天子の命令の使者が、天皇の朝廷にやってきたと聞いて迎えに来た」と告げた。その時、高表仁が「風が冷たい時期に、たくさんの船を揃えて飾って、迎えてもらって、嬉しい限りです」と答えた。そこで、難波の吉士の小槻と大河内の直の矢伏に命令して、先導者として、館の前に着いた。それで伊岐の史の乙等と難波の吉士の八牛を派遣して、客達を引き連れて館に入った。その日に、迎えのお神酒の儀礼を行った。五年の春正月の朔が己卯の甲辰の日に、大唐の客の高表仁達が、国に帰った。送使の吉士の雄摩呂と黒麻呂達が、対馬まで送ってかえって行った。六年の秋八月に、足の長い星が南方に見えて当時の人は彗星と言った。七年の春三月に、彗星が戻って来て東方に見えた。夏六月の朔が乙丑の甲戌の日に、百済が、達率の柔達を派遣して、朝貢した。秋七月の朔が乙未の辛丑の日に、百済の客を朝廷で饗応した。この月に、めでたいしるしの蓮が生えた。一つの茎に二つの花が咲いた。八年の春正月の壬辰が朔の日に、日食があった。三月に、残らず、采女と姦淫した者を取り調べて、全て罰した。この時に、三輪の君の小鷦鷯が、その取り調べられたとを苦に、頚を刺して死んだ。夏五月に、雨が幾日も降り続いて洪水があった。六月に、岡本の宮が火事になった。天皇は、田中の宮に遷都した。秋七月の己丑が朔の日に、大派の王が、豊浦大臣に「官僚や役人が、朝から出仕する決まりをもう怠けている。これ以後は、朝6時に朝廷に出仕して10時間後に帰りなさい。それで節目を鍾で知らせなさい」と言った。しかし大臣が守らなかった。この歳は、とても日照り続きで、国中が飢饉となった。】とあり、七年七月乙未朔は7月2日で6月は小の月で7月は大の月なので、6月が大の月なら標準陰暦と合致し、他は標準陰暦と合致する。

豊章が人質になった記事は、631年ではなく、『三国史記』に655年義慈王十五年「春二月修太子宫極侈麗立望海亭於王宫南」、659年義慈王十九年夏四月太子宮雌雞與小雀交遣將侵攻新羅獨山桐岑二城」そして翌660年二十年「迎古王子扶餘豊嘗質於倭國者立之爲王」と皇太子豊章が百済に滞在しないのは655年3月から659年3月までの間なのだから、629年や白雉元年から始まる舒明3年ではなく白雉元年から始まる舒明4年の事で、やはり1年ズレていて、白雉元年から始まる舒明天皇とは異なる651年即位の王の記事なのだろう。

『舊唐書』に貞観五年「遣使献方物太宗矜其通遠勅所司無令歳貢又遣新州刺史高表仁持節往撫之表仁無綏遠之才與王子争禮不宣朝命而還」と631年の記事で、この舒明天皇は628年即位の王、すなわち倭国王が唐使を迎え、『旧唐書』は倭国記事なので、この時倭国とは礼儀を欠いた対応のため決裂し、この時、新羅経由で唐使が来ているように、すでに、唐・新羅と、隋に絶縁された俀国の連合が出来つつあったようだ。

それに対して『舊唐書』654年永徽五年「十二月癸丑倭國獻琥珀碼瑙琥珀大如斗碼瑙大如五斗器」と倭国は唐との関係を修復しようとしたようで、654年すなわち舒明3年に遣使した白雉5年の記事で、実際は白雉3年に「遣大唐押使大錦上高向史玄理」なのだろう。

この大錦上の官位は推古天皇十九年「諸臣服色皆隨冠色各著髻華則大徳小徳並用金大仁小仁用豹尾大禮以下用鳥尾」で、この推古19年は629年即位の推古19年で657年のことである。

2020年9月9日水曜日

最終兵器の目 舒明天皇2

  『日本書紀』慶長版は

元年春正月癸卯朔丙午大臣及群卿共以天皇之璽印獻於田村皇子則辭之曰宗廟重事矣寡人不賢何敢當乎群臣伏固請曰大王先朝鍾愛幽顯属心冝纂皇綜光臨億兆即日即天皇位夏四月辛未朔遣田部連(闕名)於掖玖是年也太歲己丑二年春正月丁卯朔戊寅立寶皇女爲皇后后

生二男一女一曰葛城皇子二曰間人皇女三曰大海皇子夫人蘇我嶋大臣女法提郎媛生古人皇子又娶吉備國蚊屋采女生蚊屋皇子三月丙寅朔髙麗大使宴子拔小使若德百濟大使恩率素子

小使德率武德共朝貢秋八月癸巳朔丁酉以大仁犬上君三田耜大仁藥師惠日遣於大唐庚子饗髙麗百濟客於朝九月癸亥朔丙寅髙麗百濟客歸于國是月田部連等至自掖玖冬十月壬辰朔癸卯天皇遷於飛鳥岡傍是謂岡本宮是歲改修理難波大郡及三韓館

元年の春正月の朔が癸卯の丙午の日に、大臣及び役人が、一緒に天皇の印璽を、田村の皇子に献上した。それで断って、「天皇の祖先を祀るということは重責だ。私は未熟でどうして敢えて担えようか」と言った。役人達は、土下座して強く「大王は前の天皇が大切に可愛がって、死んだ人も生きてる人もあなたを応援しています。皇統を継いですべてを見守ってください」と願った。その日に、天皇位に就いた。夏四月の辛未が朔の日に、田部の連を掖玖に派遣した。この年は、太歳が己丑だった。二年の春正月の朔が丁卯の戊寅の日に、寶皇女を皇后に立てた。后は、二人の男子と一人の女子を生んだ。第一を葛城の皇子という。第二を間人の皇女という。第三を大海の皇子という。夫人の蘇我の嶋の大臣の娘の法提の郎媛が古人の皇子、また吉備国の蚊屋の采女を娶にして、蚊屋の皇子を生んだ。三月の丙寅が朔の日に、高麗の大使の宴子拔と小使の若徳と、百済の大使の恩率の素子と小使の徳率の武徳が、一緒に朝貢した。秋八月の朔が癸巳の丁酉の日に、大仁の犬上君の三田耜と・大仁の藥の学者の惠日を、大唐に派遣した。庚子の日に、高麗と百済の客を朝廷で饗応した。九月の朔が癸亥の丙寅の日に、高麗と百済の客が国に帰った。この月に、田部の連達が、掖玖から帰った。冬十月の朔が壬辰の癸卯の日に、天皇は、飛鳥の岡の側に遷都した。これを岡本の宮という。この歳に、改めて難波の大郡と三韓の館を建てた。】とあり、元年四月辛未朔は3月30日で3月が小の月なら標準陰暦と合致し、他は標準陰暦と合致する。

舒明天皇の皇后が寶皇女となっているが、『古事記』の系図からすると、「沼名倉太玉敷・・・娶伊勢大鹿首之女小熊子郎女生御子布斗比賣命次寶王亦名糠代比賣」と日子人と同世代を舒明天皇にあてて、しかも、『古事記』は舒明天皇も「日子人太子娶鹿(庶)妹田村王亦名糠代比賣命生御子坐崗本宮治天下之天皇」と舒明天皇の母も妻も同一人物で、『古事記』記述時点では寶王はまだ皇后ではない。 

すなわち、彦人を襲名した系図を述べ、葛城皇子も大海皇子も注釈記事で天皇と記述しているだけで、天皇とは別人とおもわれる。

この元年629年に璽の移動がある政権交代が起こったことを示し、『日本書紀』では允恭天皇の「即選吉日跪上天皇之璽」、「今當上天皇璽符・・・即日捧天皇之璽符再拜上焉・・・乃即帝位」、清寧天皇「大伴室屋大連率臣連等奉璽於皇太子」、顕宗天皇「皇太子億計、取天子之璽置之天皇之坐」、継体天皇「跪上天子鏡劔璽符再拜・・・乃受璽符是日即天皇位」、推古天皇「因以奉天皇璽印十二月己卯皇后即天皇位於豐浦宮」と璽を手にすることで皇位に就いた。

数多の皇太子が皇位に就いているのが5人だけで、必ずそこには大臣と呼ばれる人物が出現して、それが葛城氏と平群氏と巨勢氏と物部氏と蘇我氏でこれらの大臣から王朝が始まり、若しくはこれらの大臣が滅ぶことで王朝も滅んだ。

ところが、この舒明天皇の大臣は嶋と蝦夷が前紀に記述され推古紀の馬子に豊浦の大臣と名目上は同一人物で、ということは、推古天皇の璽と舒明天皇の璽の記述は同じ内容、前章で述べたように、舒明前紀の記事は推古天皇が皇后の時の記事で629年が元年の天皇の記事だということが解る。

ところが同じく元年の掖玖人は推古天皇二四年「三月掖玖人三口歸化夏五月夜句人七口來之秋七月亦掖玖人廿口來之先後并卅人皆安置於朴井未及還皆死焉の記事と同じ記事で、629年元年の天皇の24年は652で白雉元年、すなわち岡本宮天皇は白雉元年から始まる天皇で、岡本宮が629年は守屋の宮の難波で652年でも難波京ということが解り、犬上君三田耜説話も推古天皇二三年「秋九月犬上君御田鍬矢田部造至自大唐百濟使則從犬上君而來朝」と同じ記事で、『隋書』の「内官有十二等一曰大德次小德次大仁次小仁」の大仁の役職から俀国の記事のため『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』「辛巳十二月鬼前太后崩明年正月廿二日上宮法皇枕病弗悆」と壬午死亡の「上宮法皇」と辛巳死亡の聖徳太子と1年のズレがあるようで、俀国王が早く即位したことを示している。


2020年9月7日月曜日

最終兵器の目 巻第二十三 舒明天皇1

 今回はとても長いが、前紀の分割が難しいので解説を最初にして、原文と訳は後に回した。

『古事記』に「日子人太子娶鹿(庶)妹田村王亦名糠代比賣命生御子坐崗本宮治天下之天皇」とあるように、日子人太子の子で、「娶息長真手王之女比呂比賣命生御子忍坂日子人太子」と息長真手王の娘の子で舒明天皇の名が息長足日廣額と息長氏の皇子と天皇名から舒明天皇を考えるとよく符合している。

しかし、『藤氏家伝』に「崗本天皇御宇之初以良家子簡授錦冠」と舒明天皇の即位の時に活躍したのは鎌足となっていて、『日本書紀』では「中臣連彌氣」が活躍しており、鎌足が舒明天皇初年に活躍しなければ、乙巳の変での活躍は有り得ず、「彌氣」はその父親で推古天皇が若いころの活躍が妥当で、推古天皇三二年の「大臣遣阿曇連阿倍臣摩侶二臣」は十月癸卯朔623年の記事だったように、この舒明天皇前紀記事は620年代の記事である。

境部臣摩理勢は推古天皇二十年「境部臣摩理勢令誄氏姓之本矣」と堅鹽媛の哀悼をしているが、推古天皇59歳にその母の薨去は異様で、推古天皇の即位当時39歳頃なら堅鹽媛も60歳程度で妥当となり、摩理勢も推古天皇と同程度の年齢でなければ哀悼できないと思われるし、摩理勢は殺害されているのだから早死にである。

そして、斑鳩宮は聖徳太子の宮でなので、後継者の山背大兄がこの宮の当主のはずが、何故か

泊瀬王を記述して、摩理勢は山背王の為だったはずが泊瀬王の為に動いたことに挿げ代わってしまった。

私は、豊聴耳が馬子と述べ、馬子は御井夫人に婿入りして斑鳩に移ったとして、御井夫人の宮が斑鳩、御井夫人は泥部穴穗部皇女のことだと述べ、豊御食炊屋姫の夫が崩じた後を泥部穴穗部皇子が継承して、その皇太子が守屋で馬子の義兄達と述べた。

本来、天皇には必ず後継者が必要で、後継者がいない者は天皇になれなず、後継者は長男若しくは弟で、ここで、皇太子がいないと推古天皇が述べたのは、文中で「大王」と言っているように、天皇では無く大王だった推古天皇がすなわち前政権の皇后でもう皇后でもなく、皇太后でない前皇后も大王とよび、後継天皇の泥部穴穗部皇子と皇太子の守屋が殺害されたため、後継天皇を決めなければならなかったということだ。

『日本書紀』は俀国の遣隋使などの事績をいとも簡単に天皇家の事績に挿げ替え、法興帝を推古天皇の皇太子に挿げ替えたように、崇峻天皇のことを舒明天皇の即位記事に挿げ替えたのであり、それを継承した『上宮聖徳法王帝説』の太子の子達も複数の大王の寄せ集めだ。

そして、先代の馬子すなわち『隅田八幡神社人物画像鏡』の「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻」と623年に竹田皇子に鏡を送った嶋と物部御井夫人の子の厩戸豐聰耳の馬子、その子の厩戸豐聰耳と『舊事本紀』に「物部鎌媛大刀自連・・・宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣名日入鹿連公」、これは嶋を襲名した豊浦大臣の厩戸豐聰耳の妻が鎌媛大刀自で子供が豊浦大臣を襲名する入鹿である。

これは『日本書紀』にも皇極天皇二年「私授紫冠於子入鹿擬大臣位復呼其弟曰物部大臣大臣之祖母物部弓削大連之妹」と入鹿の祖母が御井夫人と記述している。

『日本書紀』慶長版は

息長足日廣額天皇渟中倉太珠敷天皇孫彥人大兄皇子之子也母曰糠手姫皇女豊御食炊屋姫天皇二十九年皇太子豊聰耳尊薨而未立皇太子以三十六年三月天皇崩九月葬禮畢之嗣位未定當是時蘇我蝦夷臣爲大臣獨欲定嗣位顧畏群臣不從則與阿倍麻呂臣議而聚群臣饗於大臣家食訖將散大臣令阿倍臣語群臣曰今天皇既崩無嗣若急不計畏有亂乎今以詎王爲嗣天皇臥病之日詔田村皇子曰天下大任本非輙言爾田村皇子愼以察之不可緩次詔山背大兄王曰汝獨莫誼讙必從群言愼以勿違則是天皇遺言焉今誰爲天皇時群臣嘿之無荅亦問之非荅強且問之

於是大伴鯨連進曰既從天皇遺命耳更不可待群言阿倍臣則問曰何謂也開其意對曰天皇曷思歟詔田村皇子曰天下大任也不可緩因此而言皇位既定誰人異言時采女臣摩禮志髙向臣宇摩中臣連(?)氣難波吉士身刺四臣曰隨大伴連言更無異許勢臣大麻呂佐伯連東人紀臣塩手三人進曰山背大兄王是冝爲天皇唯蘇我倉麻呂臣獨曰臣也當時不得便言更思之後啓爰大臣知群臣不和而不能成事退之先是大臣獨問境部摩理勢臣曰今天皇崩無嗣誰爲天皇對曰舉山背大兄爲天皇是時山背大兄居於斑鳩宮漏聆是議即遣三國王櫻井臣和慈古二人密謂大臣曰傳聞之升父以田村皇子欲爲天皇我聞此言立思矣居思矣未得其理願分明欲知升父之意於是大臣得山背大兄之告而不能獨對則喚阿倍臣中臣連紀臣河邊臣髙向臣采女臣大伴連許勢臣等仍曲舉山背大兄之語既而便且謂大夫等曰汝大夫等共詣於斑鳩宮當啓山背大兄王曰賤臣何之獨輙定嗣位唯舉天皇之遺詔以告于群臣群臣並言如遺言田村皇子自當嗣位更詎異言是群卿言也特非臣心伹雖有臣私意而惶之不得傳啓乃面日親啓焉爰群大夫等受大臣之言共詣于斑鳩宮使三國王櫻井臣以大臣之辭啓於山背大()時大兄王使傳問群大夫等曰天皇遺詔奈之

何對曰臣等不知其深唯得大臣語狀稱天皇臥病之日詔田村皇子曰非輕輙言來國政是以爾田村皇子愼以言之不可緩次詔大兄王曰汝肝稚而勿諠言必冝從群言是乃近侍諸女王及采女等悉知之且大王所察於是大兄王且令問之曰是遺詔也專誰人聆焉荅曰臣等不知其密既而更亦令告群大夫等曰愛之升父勞思非一介之使遣重臣等而教覺是大恩也然今群卿所噵天皇遺命者小小違我之所聆吾聞天皇臥病而馳上之侍于門下時中臣連(?)氣自禁省出之曰天皇命以喚之則參進向于閤門亦栗隈采女黒女迎於庭中引入大殿於是近習者栗下女王爲首女孺鮪女等八人幷數十人侍於天皇之側且田村皇子在焉時天皇沈病不能覩我乃栗下女王奏曰所喚山背大兄王參赴即天皇起臨之詔曰朕以寡薄久勞大業今暦運將終以病不可諱故汝本爲朕之心腹愛寵之情不可爲比其國家大基是非朕世自本務之汝雖肝稚愼以言乃當時侍之近習者悉知焉故我蒙是大恩而一則以懼一則以悲踊躍歡喜不知所如仍以爲社稷宗廟重事也我眇少以不賢何敢當焉當是時思欲語升父及群卿等然未有可噵之時於今非言耳吾曽將訊升父之病向京而居豊浦寺是日天皇遣八口采女鮪女詔之曰爲汝升父大臣常爲汝愁言百歲之後嗣位非當汝乎故愼以自愛矣既分明有是事何疑也然我豈餮天下唯顯聆事耳則天神地祇共證之是以冀正欲知天皇之遺勅亦大臣所遣群卿者從來如嚴矛(嚴矛此云伊箇之保虛)取中事而奏請人等也

故能冝白升父既而泊瀬仲王別喚中臣連河邊臣謂之曰我等父子並自蘇我出之天下所知是以如髙山恃之願嗣位勿輙言則令三國王櫻井臣副群卿而遣之曰欲聞還言時大臣遣紀臣大伴連謂三國王櫻井臣曰先日言訖更無異矣然臣敢之輕誰王也重誰王也於是數日之後山背大兄亦遣櫻井臣告大臣曰先日之事陳聞耳寧違升父哉是日大臣病動以不能面言於櫻井臣明日大臣喚櫻井臣即遣阿倍臣中臣連河邊臣小墾田臣大伴連啓山背大兄言自磯城嶋宮御宇天皇之世及近世者群卿皆賢哲也唯今臣不賢而遇當乏人時誤居群臣上耳是以不得定基然是事重也不

能傳噵故老臣雖勞面啓之其唯不誤遺勅者也非臣私意既而大臣傳阿倍臣中臣連更問境部臣曰誰王爲天皇對曰先是大臣親問之日僕啓既訖之今何更亦傳以告耶乃大忿而起行之適是時蘇我氏諸族等悉集爲嶋大臣造墓而次于墓所爰摩理勢臣壞墓所之廬退蘇我田家而不仕時大臣慍之遣身狹君勝牛錦織首赤猪而誨曰吾知汝言之非以干支之義不得害唯他非汝是我必忤他從汝若他是汝非我當乖汝從他是以汝遂有不從者我與汝有瑕則國亦亂然乃後生言之吾二人破國也是後葉之惡名焉汝愼以勿起逆心然猶不從而遂赴于斑鳩住於泊瀬王宮於是大臣益

怒乃遣群卿請于山背大兄曰項者摩理勢違臣匿於泊瀬王宮願得摩理勢欲推其所由爰大兄王荅曰摩理勢素聖皇所好而暫來耳豈違升父之情耶願勿瑕則謂摩理勢曰汝不忌(忘)先王之恩而來甚愛矣然其因汝一人而天下應亂亦先王臨設謂諸子等曰諸惡莫作諸善奉行余承斯言以爲永戒是以雖有私情忍以無怨復我不能違升父願自今以後勿憚改意從群而无退是時大夫等且誨摩理勢臣之曰不可違大兄王之命於是摩理勢臣進無所歸乃泣哭更還之居於家十餘日泊瀬王忽發病薨爰摩理勢臣曰我生之誰恃矣大臣將殺境部臣而興兵遣之境部臣聞軍至率仲子阿椰出于門坐胡床而待時軍至乃令來目物部伊區比以絞之父子共死乃埋同處唯兄子毛津逃匿于尼寺瓦舍即姧一二尼於是一尼嫉妬令顯圍寺將挿乃出之入畝傍山因以探山毛(?)走無所入刺頸而死山中時人歌曰于泥備椰摩虛多智于湏家苫多能(?弥)介茂氣菟能和區吴能虛茂羅勢利祁牟

【息長足日廣額天皇は、渟中倉の太珠敷の天皇の孫で、彦人の大兄の皇子の子だ。母は糠手姫の皇女という。豊の御食炊屋の姫の天皇二十九年に、皇太子の豊聰耳の尊が薨じた。しかしまだ皇太子を立てなかった。三十六年の三月に、天皇が崩じた。九月に、葬儀が終わった。後継天皇がまだ決まらなかった。この時に、蘇我の蝦夷の臣が大臣だった。自分だけで後継天皇を決めようと思った。思ういめぐらすと役人がついてこないのではと恐れて、阿倍の麻呂の臣と話し合って、役人を集めて、大臣の家で饗応した。食事が終わって解散しようとすると、大臣が、阿倍の臣に命令して、役人に「今、天皇は既に崩じたが後継者がいない。もしすぐに決めなければ、恐らく戦乱が起こる。今どの王を後継者にすべきだ。天皇が病気で床につ居ていた日に、田村の皇子に『天下を治めるということは重い責任のある役目だ。元々簡単に言葉にするものではない。お前田村の皇子は、慎重におしはかりなさい。油断してはならない』と詔勅した。次に山背の大兄の王に『お前は、一人で騒ぎ立てるな。必ず役人の言葉に従って、気をつけて行動を誤るな』と詔勅した。それでこれが天皇の遺言だ。今、誰を天皇とするべきだ」と語りかけた。その時、役人達は押し黙って答が無かった。また問いかけても答が無かった。それでもと強く問いかけた。そこで、大伴の鯨の連が進み出て「すでに天皇の遺言に従うだけで今更役人の発言を待たなくてもよい」と言った。阿倍の臣、それで「これはどういう意味だ。その真意を明らかにしろ」と問いかけた。「天皇がどう考えたかは、田村の皇子に 詔して、『天下を治めるということは重い責任のある役目だ。簡単に考えてはならない』と詔勅した。この言葉からいうと、皇位はもう決まっている。誰が異論をはさめるか」と答えた。その時に、采女の臣の摩禮志と高向の臣の宇摩と中臣の連の弥氣と難波の吉士の身刺の、四人の臣下が「大伴の連の言うとおり、更なる異論はない」と言った。許勢の臣の大麻呂と佐伯の連の東人と紀の臣の鹽手の、三人が進み出て「山背の大兄の王が、天皇に良い」と言った。ただ蘇我の倉麻呂の臣一人が、「私はこの場で、簡単に言えない。もう少し考えてから指し示したい」と言った。ここで大臣は、役人が賛同しないので、思いが遂げられないことを知って、退席した。これより前に、大臣は、一人だけの時に境部の摩理勢の臣に「今、天皇が崩じて跡継ぎがいない。誰が天皇になるべきだ」と問いかけた。「名を上げるとしたら山背の大兄を天皇に」と答えた。この時、山背の大兄は、斑鳩の宮に居て、この話し合いを漏れ聞いた。それで三国の王と桜井の臣の和慈古の二人を派遣して、そっと大臣に「聞いたのだけれど、叔父が、田村の皇子を、天皇にしようとしている。私はこれを聞いて、考えてもその理由が解らず居ても立っても居られなかった。出来たら、解りやすく叔父の真意を教えてほしい」と言った。そこで、大臣は、山背の大兄の告白を聞いて、自分だけの考えで答えられなかった。それで阿倍の臣と中臣の連と紀の臣と河邊の臣と高向の臣と采女の臣と大伴の連と許勢の臣達を呼んで、それでねじ曲げて山背の大兄の言葉を上げた。それでまたまた、高官達に「高官のお前たちは、一緒に斑鳩の宮に行って、山背の大兄の王に説明して、『私達がどうして一人だけで簡単に跡取りを決められるのか。ただ天皇の遺言をあげて、役人に伝えるのみだ。役人がみな言うことに、遺言は田村の皇子のようだ。だから跡継ぎになればよい。だれも異を唱えないだろうと言った。これは役人の言葉だ。特段私だけの思いではない。ただし私の思いが有っても、畏まって言うことが出来ない。それで顔を合わせた時に自分から話そう』と言うように」と言った。そこで高官達は大臣の言葉を受けて、一緒に斑鳩の宮に行った。三国の王と桜井の臣が、大臣の言葉を、山背の大兄に伝えた。その時に大兄の王は、高官達に「天皇の遺言をどう思うか」と伝え聞かせた。「私達はその深い考えは知りません。ただし大臣が語った内容から、天皇が病気で床についていた日に、田村の皇子に『軽率に国政がすぐに自分の物になるなどと言ってはいけない。それで、お前、田村の皇子は、謹んで怠りなく言葉にするな』と詔勅した。次に大兄の王に『お前は未熟だから騒ぎ立ててはいけない。必ず役人のいう通りにしなさい』と詔勅した。それで近習の諸々の女王や采女達みんなに知れ渡った。そして大王がよく考えたことだ」と答えた。そこで、大兄の王は、また

「この遺言を、誰が聞いたか」と問いかけた。「私達はそれがうわさ話なので知りません」と答えた。それでさらに、高官達に「大事な叔父を労わろうと、普通の使者ではなく、重臣達を派遣して教へ諭した。これは大変な情けをかけられた。しかし、今、役人達が教えてくれた天皇の遺言は、私が聞いたことと少々違う。私が聞いたのは、天皇が病気で床についたと聞いて、馳せ参じて庭の入口で命令を待った。その時に中臣の連の彌氣が、宮内から出てきて、『天皇の命令で呼びに来た』と言った。それで更に進んで内裏の中に向かった。また栗隈の采女の黒女が、庭の中に迎え入れて、居室に引き入れた。そこに、近習の者の栗下の女王をかしらに、女官の雑用係や侍女達八人と、併せて数十人が、天皇の側に控えていた。また田村の皇子も居た。その時に天皇は重体で、私を見ることすらできなかった。それで栗下の女王が『呼んだ山背の大兄の王が参上しました』と奏上した。それで天皇は床からおきて『私は見識も無いのに永く、帝王のしごとを骨折ってきた。今はもう命運が尽きようとしている。病には勝てない。それで、お前は昔から私の腹心だ。特別に目をかけてかわいがった気持ちは比べ物にならない。国家の根本は私の世だけではなく昔から務めてきた。未熟ではあるが慎みを持って発言しなさい』と詔勅した。その時に仕えた近習達が残らず知った。それで、私のこの深い恵みを受けて、あるいはおそれ、あるいは悲しんだ。飛び跳ねて大喜びするようなことを考えもしない。それで国家や祖先をまつったやしろを守るのは重大なことだと思う。私は見識が少なく未熟だ。どうすればよいだろう。この時に、叔父や役人に相談しようと思った。しかし教えてもらう機会が無く、今まで言わなかっただけだ。私は以前叔父の病の様子を見に、京に向って豊浦寺に居た。その日に、天皇は、八口の采女の侍女を派遣して、『お前の叔父の大臣が、いつもお前の事を思い悩んで、百年経っても、皇位を継げないと言う。それで謹んでよく考えなさい』と詔勅した。これはもうわかりきったことだ。何の疑いも無い。しかし私がどうして天下をむさぼりつくすと言うのか。ただ聞いたことを言うだけだ。それは天地神明に誓って言う。それで、出来たら天皇の遺言を知りたいと思った。また大臣が派遣した役人というのは、もともと、ぶつかり合うだけの矛で間を取り持つように裁可を求める人たちだ。それでよく叔父は伝えなさい」と詔勅した。すでに泊瀬の仲の王は特に中臣の連と河邊の臣を呼んで、「私父子は、ともに蘇我から出たことは国中が知っている。それで、高い山のように大臣の言葉を待ち望んでいる。お願いだから跡取りの事はいい加減なことを言わないでほしい」と言った。則ち三国の王と桜井の臣に命じて、役人と一緒に派遣して、「返事を聞こうと思う」と言った。その時に大臣は、紀の臣と大伴の連を派遣して、三国の王と桜井の臣「先日話した。何も変わらない。しかし、私が敢えてどの王を軽んじどの王を重んじたというのだ」と言った。そこで、数日の後、山背の大兄は、また桜井の臣を派遣して、大臣に「先日の事は、聞いたことを言っただけだ。むしろ叔父が間違っているのでは」と告げた。その日は、大臣が病気で、会って桜井の臣に答えられなかった。翌日に、大臣は、桜井の臣を呼び出して、それで阿倍の臣と中臣の連と河邊の臣と小墾田の臣と大伴の連を派遣して、山背の大兄に「磯城嶋の宮の御宇天皇の世から、今に至るまで、役人は皆 かしこくて、道理に通じている。ただ、今はわたしが未熟で、偶然にも人がいない時に当たってしまって、間違って役人の上になってしまった。それで、天皇を決められない。このことはとても重大なことです。伝えるようなことでは無いので、老臣に鞭打つようだが、直接会って伝えよう。そうすれば遺言を間違えない。私は私心で言っているのではない」と伝えた。大臣が、阿倍の臣と中臣の連に伝えた後、さらに境部の臣に「どの王が天皇になるべきだ」と問いかけた。「これより前に、大臣が自ら問いかけた日に、私はすでに伝え終わっています。今になってどうしてまたいわなければならないのですか」と答えた。それでとても怒って立ち去った。この時に、蘇我氏の同族達が残らず集まって、嶋の大臣の爲に墓を造って、墓所に席順に並んで控えた。ここに摩理勢の臣が、墓所の小屋を壊して、蘇我の田舎の家に引きこもって、出仕しなかった。その時に大臣は不満に思って、身狹の君の勝牛と錦織の首の赤猪を派遣して、「私はお前が言うことが間違いと知っているが、干支が一回りも違う者に対する礼儀があるので、傷つけられない。ただし他の人が悪くてお前が正しければ私はきっと他の人に従わないでお前に従う。もし他の人が正しくてお前が間違っていたら、私はお前に背いて他の人に従うだろう。これで、お前が従わないことが有ったら、私は、お前と傷つけあう。そうすると国がまた乱れる。そうしたら私達二人が国を滅ぼしたとずっと言われるだろう。これは後世まで語り継がれる悪名だ。お前は謹んで反逆を考えてはならない」と諭した。それなのにまだ従わないで、ついに斑鳩に赴いて、泊瀬の王の宮に留まった。そこで、大臣は益々怒って、役人を派遣して、山背の大兄に「この摩理勢は、私に背いて、泊瀬の王の宮に隠れた。お願いだから、摩理勢を貰い受けて、その理由を調べたいと思う」と伝えた。そこで大兄の王は「摩理勢は元々天皇が好ましく思っていた。それで少しの間来ているだけだ。叔父の考えに反対していようか。お願いだから傷つけないでほしい」と答えた。それで摩理勢に「お前は、先王の恩を忘れないで、来てくれたのはとてもうれしい。しかしお前一人のために、天下が乱れる。また先の王が死に臨んで、諸子達に『諸々の悪い事はするな。諸々の善行を行え』と言った。私はこの言葉を聞いて、永遠の戒めとした。これで、私の思い道理にならなくても、

我慢して恨んだりしない。また私の叔父に逆らうことは出来ない。頼むから、今からは、気兼ねなく考えを変えなさい。皆に従って逃げてはいけない」と言った。この時に、高官達は、また摩理勢の臣に「大兄の王の命令に逆らってはならない」と諭した。そこで、摩理勢の臣は、帰るところが無かった。それで泣き叫んで帰って、家に十日余りいた。泊瀬の王は急に病気で薨去した。それで摩理勢の臣は「私は生きていても頼る人がいない」と言った。大臣は、境部の臣を殺そうとして、

軍を興して派遣した。境部の臣は、軍隊がやってくると聞いて、子の兄弟の間の子の阿椰を率いて、門に出て床几に座って待った。その時に軍がやって来て、それで来目の物部の伊區比に命令して首をしめて殺した。父子共に死んだ。それで同じ所に埋めた。ただし兄にあたる毛津だけ、尼寺の瓦工房に逃て隠れた。それで一・二人の尼を姦淫した。それで、一人の尼が嫉妬して露顕して、寺を取り囲んで捕えようとした。それで出でてきて畝傍の山に逃げ込んだ。それで山を探し回った。毛津は逃げ場所がなくなって、頚を刺して山中で死んだ。当時の人は歌った()

2020年9月4日金曜日

最終兵器の目 推古天皇16

 『日本書紀』慶長版は

三十四年春正月桃李華之三月寒以霜降夏五月戊子朔丁未大臣薨仍葬于桃原墓大臣則稻目宿祢之子也性有武略亦有辨才以恭敬三寶家於飛鳥河之傍乃庭中開小池仍興小嶋於池中故時人曰嶋大臣六月雪也是歲自三月至七月霖雨天下大飢之老者噉草根而死于道垂幼者含乳以母子共死又強盜竊盜並大起之不可止三十五年春二月陸奧國有狢化人以歌之夏五月有蠅聚集其凝累十丈之浮虛以越信濃坂鳴音如雷則東至上野國而自散三十六年春二月戊寅朔甲辰天皇臥病三月丁未朔戊申日有蝕盡之壬子天皇病甚之不可諱則召田村皇子謂之曰昇天位而經綸鴻基馭萬機以亭育黎元本非輙言恒之所重故汝愼以察之不可輙言即日召山背大兄教之曰汝肝稚之若雖心望而勿諠言必待群言以冝從癸丑天皇崩之即殯於南庭夏四月壬午朔辛卯雹零大如桃子壬辰雹零大如李子自春至夏旱之秋九月巳已朔戊子始起天皇哀禮是時群臣各誄於殯宮先是天皇遺詔於群臣曰比年五穀不登百姓大飢其爲朕興陵以勿厚葬便冝葬于竹田皇子之陵壬辰葬竹田皇子之陵

【三十四年の春正月に、桃とすももの、花が咲いた。三月に、寒くて霜が降った。夏五月の朔が戊子の丁未の日に、大臣が薨じた。それで桃原の墓に葬った。大臣は稻目の宿禰の子だ。性格は、戦のかけひきが上手く、また弁舌の才能も有った。それで三宝を恭んで敬って、飛鳥の河の傍に邸宅を建てた。それで庭の中に小な池を開いた。それで小さな嶋を池の中に作った。それで、当時の人は、嶋の大臣と言った。六月に、雪が降った。この歳は、三月から七月まで、幾日も雨が降り続いた。国中が、とても飢えた。老人は草の根を食べ進んで、道の行き止まりで死んだ。

幼児は乳房を含んで、母子共に死んだ。また強盜や窃盗が一遍に国中で起こって、無い日が無かった。三十五年の春二月に、陸奧の国にアナグマがいて人が歌うように吠えた。夏五月に、蝿が大発生して、それがかたまり重なって十丈も有った。空中を飛んで信濃の坂を越えた。飛ぶ羽音は雷の様だった。それで東の方向の上野の国に飛んで行って自然に散り散りになった。三十六年の春二月の朔が戊寅の甲辰の日に、天皇が、病に臥せた。三月の朔が丁未の戊申の日に日食が有った。壬子の日に、天皇の、痛みが甚しくて、何もできずにはばかられた。それで田村の皇子を呼んで「皇位に昇って大きな事業の基を治めととのえ、天下の政治を治めて庶民をそだて養うことは、はじめから簡単に言ってはいけない。いつも変わらず重要なことだ。だから、お前は謹んでよく見ていなさい。軽々しく発言してはならない」と言った。その日に、山背の大兄を呼んで召して戒めて「お前は度胸が足りないい。もし心で願っても難しいので 騒ぎ立ててはならない。必ず役人の言葉をよく聞いて従いなさい」と言った。癸丑の日に、天皇が崩じた。それで南の庭に置いて別れを惜しんだ。夏四月の朔が壬午の辛卯の日に雹が降った。大きさは李の実の様だった。壬辰の日に、雹が降った。大きさは李の実の様だった。春から夏まで、日照り続きだった。秋九月の朔が己巳の戊子の日に、はじめて天皇の葬儀を催した。この時に、役人、各々が殯宮で哀悼の意を表した。これより前に、天皇は、役人に「この頃は、五穀が育たず百姓がとても飢えている。それで私の為に陵を作って手厚く葬ってはいけない。それで竹田の皇子の陵に葬りなさい」と遺言を残した。壬辰の日に、竹田の皇子の陵に葬った。】とあり、日干支が全く合わず、二月戊寅朔と三月丁未朔は597年と654年、四月壬午朔は653年と596年、九月己巳朔は598年と665年が対応し、596年から598年が一番合致しそうだ。

とくに、天皇の崩じた三月丁未朔の597年は推古天皇5年で推古天皇即位前紀に「卅四歳渟中倉太珠敷天皇崩卅九歳當于泊瀬部天皇五年」すなわち、用明2年と崇峻天皇の3年で5年と考えると、崇峻天皇4年の4月に葬った葬譯語田天皇が初代馬子の薨去の可能性を述べたが、

その時に初代馬子の姉の豊御食炊屋姫が2代目馬子が若いため後継を決めた説話なのかもしれない。

実際の舒明天皇の即位は652年で、後継争いは推古23年と考えられ、推古天皇二四年に「春正月桃李實之」と異常気象が記述されるが、推古天皇二五年は「是歳五穀登之」と豊作で、『日本書紀』の白雉元年は実際は652年で白雉元年には盛大な即位式を行っている。

『古事記』には「妹田村王亦名糠代比賣命生御子坐崗本宮治天下之天皇」と田村王が崗本宮天皇を生むが、『古事記』を完成させた人物の時の崗本宮天皇は糠代比賣の子だったと述べていて、それに対して『日本書紀』は敏達紀に舒明天皇との関係を記さず、敏達天皇四年に「糠手姫皇女」と有るだけで天智天皇達が注で「更名田村皇女」と『古事記』と同じ手段で読者を間違えさせている。

『古事記』には彦人が田村王と漢王の妹大俣王と庶妹玄王を娶ったと記述しているが、『日本書紀』は「小墾田皇女是嫁於彦人大兄皇子」とおそらく庶妹の玄王がその姉の小墾田皇女の娘で田村王と大俣王にはなにも記述が無く、大派皇子で姫ではなく、『古事記』では日子人は太子と記述されるが厩戸豊聡耳は太子と呼ばれず、推古朝の次の代の舒明天皇の時に太子となった。

そして、ここの推古天皇の言っていることは、『古事記』の血縁関係で、どちらも稲目の子の彦人の皇子の「娶庶妹玄王生御子山代王」と「庶妹田村王生御子坐崗本宮治天下之天皇」でおそらく、この推古天皇は2代目で小墾田皇女が推古天皇で山代王を押し、597年の推古5年は物部贄古の推古天皇で皇太子が弟の守屋、後に贄古の妻となった御井夫人が馬子と婚姻して、馬子が太子となったと思われる。

ちなみに、『古事記』の継体天皇は平群氏との戦いが2代ズレて、『古事記』の清寧末顕宗前記の内容が『日本書紀』の武烈天皇に記述されているので、『日本書紀』の仁賢天皇の2代前なので推古天皇は『古事記』「豊御食炊屋比賣命坐小治田宮治天下参拾漆歳戊子年三月十五日癸丑日崩」と2代ズレ、それで『古事記』の用明天皇は『日本書紀』の推古天皇で、用明天皇は628年に終っている。

2020年9月2日水曜日

最終兵器の目 推古天皇15

  『日本書紀』慶長版は

三十二年夏四月丙午朔戊申有一僧執斧毆祖父時天皇聞之召大臣詔之曰夫出家者頓歸三寶具懷戒法何無懺忌輙犯惡逆今朕聞有僧以毆祖父故悉聚諸寺僧尼以推問之若事實者重罪之於是集諸僧尼而推之則惡逆僧及諸尼並將罪於是百濟觀勒僧表上以言夫佛法自西國至于漢經三百歲乃傳之至於百濟國而僅一百年矣然我王聞日本天皇之賢哲而貢上佛像及內典未滿百歲故當今時以僧尼未習法律輙犯惡逆是以諸僧尼惶懼以不知所如仰願其除惡逆者以外僧悉赦而勿罪是大功德也天皇乃聽之戊午詔曰夫道人尚犯法何以誨俗人故自今已後任僧正僧

都仍應撿校僧尼壬戌以觀勒僧爲僧正以鞍部德積爲僧都即日以阿曇連爲法頭秋九月甲戌朔丙子校寺及僧尼具錄其寺所造之縁亦僧尼入道之縁及度之年月日也當是時有寺四十六所僧八百十六人尼五百六十九人幷一千三百八十五人冬十月癸卯朔大臣遣阿曇連阿倍臣摩侶二臣令奏于天皇曰葛城縣者元臣之本居也故因其縣爲姓名是以冀之常得其縣以欲爲臣之封縣於是天皇詔曰今朕則自蘇我出之大臣亦爲朕舅也故大臣之言夜言矣夜不明日言矣則日不晩何辭不用然今當朕之世頓失是縣後君曰愚癡婦人臨天下以頓亡其縣豈獨朕不賢耶大臣亦不忠是後葉之惡名則不聽三十三年春正月壬申朔戊寅髙麗王貢僧惠灌仍任僧正

三十二年の夏四月の朔が丙午の戊申の日に、一人の僧がいて、斧を取って、祖父を殴った。

その時に天皇はそれを聞いて大臣を呼んで、「この出家した者は修行を経ずに悟りを開く三寶に帰依して、十分に戒律を身につけた。どうして戒律を破ることをきらって悔い改めるないで、簡単にひどいおこないをしてしまったのか。今、私は聞いたのだが、僧がいて祖父を殴った。それで、全ての諸寺の僧尼を集めて、取調べなさい。もしこの事が本当なら、重く罰しなさい」と詔勅した。そこで、諸々の僧尼を集めて取り調べた。それでひどい行いをした僧と諸々の僧尼を、一緒に罰した。そこで、百済の僧の觀勒が、「この佛法は、西国から漢に伝わって、三百年経って、それが伝わって百済国に伝わり、わずか百年も経っていない。しかし我が王と、日本の天皇が賢明で道理をわきまえた言葉を聞いて、佛像と経典を貢上して、まだ百年も満たない。それで、今、僧尼が、まだ戒律を習っていないので、簡単に酷い事をする。それで、諸々の僧尼が、恐れかしこまって、どうしてよいか解らない。お願いしますのは、そのひどい事をした者を除いた他の僧尼を、残らず赦免して罪に問わないでほしい。こうすると大きなよい行いの報いになります」と上表した。天皇は、それを聞き入れた。戊午の日に、「得道した人でも法を犯す。どうして世間一般の人に教えさとせるのか。それで、今から以降、僧正と僧都に任せて、それで僧尼を監督させなさい」と詔勅した。壬戌の日に、僧の觀勒を僧正とした。鞍部の徳積を僧都とした。そのひに、阿曇の連を法頭とした。秋九月の朔が甲戌の丙子の日に、寺と僧尼を取り調べて、詳しくその寺の建立した由来と、僧尼の仏門にはいった由縁、及び得度した年月日を記録した。この時、寺が四十六寺、僧が八百十六人、尼が五百六十九人、併せて千三百八十五人いた。冬十月の癸卯が朔の日に、大臣は、阿曇の連と阿倍の臣の摩侶の二人の家臣を派遣して、「葛城の縣は、元々は私の本居だ。それで、その縣に因んで姓名をつけた。それで、お願いするのは、常にその縣を、私の縣に封じてください」と奏上した。そこで、天皇は、「今、わたしは蘇我からの出だ。大臣は私の叔父だ。それで、大臣の言うことを、夜に言ったら夜明けを待たず、昼間に言ったら日暮れを待たず、どんな言葉も用いないことが無い。しかし今私の世で急に、この縣を失っては、後の君主が

『愚で鈍い婦人だ、天下に臨んで急にその縣を亡した』と言う。一人私だけが愚かと言われるだけでない。大臣も忠義に反すると言われる。これは後世に悪しき前例となる」と詔勅して、聞き入れなかった。三十三年の春正月の朔が壬申の戊寅の日に、高麗の王が、僧の惠潅を貢上した。それで僧正に任命した。】とあり、四月丙午朔も九月甲戌朔も十月癸卯朔も推古卅二年甲申年ではなく卅一年癸未年で卅三年春正月壬申朔も卅二年甲申年で、法興帝の死を622年ではなく621年に位置付けたため、624に挿入すべき記事を623に挿入しそれを推古32年と記述したのだろう。

すなわち、この挿入の矛盾は俀国の記事だったための矛盾で、実際は法興32年記事を推古32年に挿入したつもりが、法興帝の死を前年にしたため推古31年の干支に挿入したことを示している。

推古元年「立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子」と立太子が有ったということは、629年に俀国の政権交代が有って法興帝の弟の皇太子が622年即位してから7年後に薨去したが、法皇帝の弟だから当然その年齢も50代で長男が皇太子になり既に30代で孫も13歳に達していると考えられるが立太子したのだから、法皇帝のもう一人の弟か法興帝の長男が政権を奪取したことを示している。

そして、崇峻天皇五年「東漢直駒弑于天皇或本云東漢直駒東漢直磐井子也・・・蘇我娘嬪河上娘爲妻・・・大臣所殺」と磐井の子の東漢直駒が崇峻天皇を殺害したが、628年に磐井の子は有り得ず、すなわち、俀国の皇子の可能性が高く、地位が直と国造の地位で法興帝の太子聖徳太子だった俀国王の可能性がある。

仏教を保護し、王自ら僧となって国を統治したのだから、俀国僧はかなり政権に入り込んで、僧が傲慢になって事件を起こした、その背景があっての記事で、『上宮聖徳法王帝説』に「觀勒僧正惟古天皇即位十年壬戌來之」と602年に觀勒僧正と記述されているのは「壬戌以觀勒僧爲僧正」のことで、法興帝の10年600年のことなのだろうか。

そして、豊御食炊屋姫は欽明天皇二年「蘇我大臣稻目宿禰女曰堅鹽媛生・・・豐御食炊屋姫尊」と稲目の孫で、推古天皇三四年「大臣薨仍葬于桃原墓大臣則稻目宿禰之子也」と血統で符合しているが、内容は倭国が朝廷を掌握する前で、御井夫人が夫人になって32年が一番符合しそうだ。