2017年6月21日水曜日

最終兵器のミサ 2王朝接続の残った課題

 新生天氏の日本とそれに対抗する中臣氏の元明天皇のなし崩しに日本の接続したけれど、はたくさんの問題が出てきて、日本書紀でクーデタをなかったこと、譲ってもらったことにして、血縁関係があるとかいた。けれど、このころは多くの人が文字を読み書きできるようになって、日本書紀ができて以降から、書くときは日本書紀を片手に書かなければならなかった。しかい、どうしても見落としてしまうのは当たり前で、日本書紀の中でも矛盾があるのだから。
『藤氏家伝』も矛盾だらけ聖徳太子に関する文も極端に多いけれど、やはり矛盾があって、例えば『上宮聖徳法王帝説』では乙巳の変の時天智天皇は19歳で21歳ではなく、志歸嶋天皇が治めたのは41年ではなく32年間だ。推古13年は辛丑ではなく乙丑で辛丑は641年で舒明天皇と現在言われているけれど、そうすると己酉649年の大臣は本来死亡していてこの右大臣の蘇我倉山田の死亡で文にまったく関係がなくなってしまい、内容から考えると推古天皇13年は641年で649年に違う蘇我大臣が害に遭遇したことになる。乙巳の変の時の太子は古事記と同じ背景のため蘇我氏の太子入鹿のように感じる。
  『上宮聖徳法王帝説』
天皇御世乙巳年六月十一日 近江天皇【生廿一年】殺於林太郎■■ 以明日 其父豊浦大臣子孫等皆滅之 
志歸嶋天皇治天下卌一年【辛卯年四月崩 陵檜前坂合岡也】
有本云 請願造寺 恭敬三寶 十三年辛丑 春三月十五日 始浄土寺云云
注云 辛丑年始平地 癸卯年立金堂之 戊申始僧住 己酉年三月廿五日大臣遇害

『七代記』には推古天皇13年に突然舒明天皇が出てくるけれど、まだ子供のはずなのに自分より偉い太子に対して土地を与えているし、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』では癸寅年642年は日本書紀に合わないための矛盾で、さらに、推古天皇生誕100年が673年の癸酉なら推古天皇は577年4歳で敏達天皇の皇后になったことになり、まったく理にかなわない文だけれど、613年に中臣氏が蘇我氏に仕え始めて713年100年になった話なら十分理解できる。
  『七代記』
秋七月 天皇請皇太子 令講勝鬘經 三日説了 又講法花經於岡本宮天皇大悦 以播磨國揖保郡佐勢田地五百代 施于皇太子 因以奉納於斑鳩寺
  『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』
然大ゝ王天皇命等由良宮治天下時癸寅年 聰耳皇子召告
大ゝ王天皇令治天下時 天皇耳皇子白 今我等無朝生年之數算 建於百位竝道俗之法世建興建通
池邊列槻宮治天下橘豐日命皇子 馬屋門豐聰耳皇子 櫻井等由良治天下豐彌氣賀斯岐夜比賣命生年一百 歳次癸酉正月元日

日本書紀を横に置いて古事記と同じ背景の文を翻訳するとき、自分の王朝が中央政界に進出した時から天皇と置き換え皇太子と書くとゆう日本書紀をを書きつないだ方法と同じ方法で書いて、人の名前も古事記の名前で登場するので混乱は全くないけれど、内容を読むと矛盾だらけだ。

2017年6月19日月曜日

最終兵器のミサ 日本

 前回、日本で最初に出現したいくつかの国をまとめた王朝東鯷国が出現してその国は銅鐸を象徴とする弥生時代の王朝と書いたけれど、その東鯷国を破った王は天菩比の子の建比良鳥で、破られた対象の人物は大国主・事代主・建御名方しかいない。大国主から奪った国は紀元前28年から200年まで神国日本と朝鮮で呼ばれ天皇名には、神倭伊波礼毘古や神沼河耳と神が付いて神国と呼べる。古事記では神話に鏡が多く書かれて、神武天皇以降は応神天皇の時に現れるだけでしかも朝鮮からの献上の品で日本書紀と比べ物にならないくらい扱いが低い。とゆうことは、古事記を書いた王朝は鏡とは縁のない王朝で、神話の神国が多くの鏡を墓に埋納していて、有名な三角縁神獣鏡は神国の支配の象徴と言える。
『日本書紀』
垂仁天皇二年是歳 「名曰于斯岐阿利叱智于岐 傳聞日本國有聖皇」
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年十月辛丑
「新羅王遥望以爲 非常之兵 將滅己國 讋焉失志 乃今醒之曰 吾聞 東有神國 謂日本 亦有聖王 謂天皇」

そして、神国が日本を支配していた時、西のはずれでは倭国と狗奴国が争っていた。けれど、安芸から出発した古事記の王朝が狗奴国を倭国の南まで勢力範囲を縮小して扶桑国を建国して神国を履中天皇の時代に滅ぼした。これが、巨大前方後円墳を特徴とする国だけれど、531年に扶桑国が滅亡して、朝鮮ではこのときこの地域を日本と呼んで、日本の皇族の崩薨と書いている。さらに、雄略天皇の記事を書いている日本舊記があって、日本舊記は物部氏が書いた史書のようで雄略天皇の国を日本と本の題に書いた。その地を支配した物部氏は自国を秦王国と名前を付け神国の復活だ。倭国が扶桑国の領地の火国や豊国に侵略したために、それまで共存していた倭国を扶桑国は許せなかったため滅ぼそうとしたけれど、物部麁鹿火に裏切られて扶桑国が滅ぼされた。
   『日本書紀』
雄略天皇二一年三月 「日本舊記云 以久麻那利賜末多王 盖是誤也」
継体天皇二五年冬十二月庚子 「日本天皇及太子皇子倶崩薨」
継体天皇二一年九月甲午 「於是磐井掩據火豐二國」
   『隋書』
「又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也」

秦王国は628年蘇我氏に滅ぼされて、さらに664年その蘇我氏も滅び、天智天皇が日本世記を書いたように日本国と名前を変えたということは、蘇我氏は隋書の俀国の後に旧唐書が倭国と書いているように国名を倭国とよんだ。713年に完成した古事記には日本ではなく倭と呼んでいて、古事記は蘇我氏が完結させた日本の歴史で、元明天皇が古事記を受け取ったとき国名が倭国と書いて日本と書かれていなかった。ところが、叱って書き直させ無かったとゆうことは、古事記を受け取った後で、720年までに国名を正式に日本に変更した。
 このように、日本とゆう国名は日本書紀で読めもしない「やまと」と読ませ、古事記では日本を倭と書いてやはり読めもしない大和と読ませているとゆうことは、古事記は元々日本国と書かれていたのを蘇我氏が倭と書き換えた可能性が高い。すなわち、日本と言う国名は記紀に書いてある通り、遅くとも紀元前28年から西暦531年まで朝鮮で呼ばれ続け、秦王国、倭国を経て再度日本国とした。
   『日本書紀』
垂仁天皇二年是歳 「于斯岐阿利叱智于岐 傳聞日本國有聖皇」
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年十月辛丑 「吾聞 東有神國謂日本 亦有聖王 謂天皇 必其國之神兵也」

2017年6月15日木曜日

最終兵器のミサ 日本の国盗り物語

 政権の移動の証拠がまだ有って、天照大神の子天菩比が国譲りのために最初に出雲に天下ったけれど、出雲に居付いたと言っているのに、子たちは出雲を含めた12ヶ国と6地域の支配者となったように天菩比は国譲りではなく12ヶ国の国を持つ王者から国を奪った。けれど、その地域は本州の関東から山口県までを含んでいて、そして、それに加えて神武天皇の奈良侵略の時に倭国と吉野国さらにその子には九州から関東まで支配して国と君の地域の合計22ヶ国となった。この22ヶ国は漢書に出てくる東鯷国の20余国とピタリと合致していてさらにこの地域からは銅鐸が発見された地域を多く含んでいてこれは弥生時代に入ってかなりたってからの出来事だ。
   『漢書』 卷二十八下 地理志第八下 呉地条
「會稽海外有東鯷人 分爲二十餘國 以歳時來獻見云」
   『古事記』 神代
「天菩比命之子建比良鳥命 此 出雲国造・无耶志国造・上菟上国造・下菟上国造・伊自牟国造・津島県直・遠江国造等之祖也」
「天津日子根命者 凡川内国造・額田部湯坐連・茨木国造・倭田中直・山代国造・馬来田国造・道尻岐閉国造・周芳国造・倭淹知造・高市県主・蒲生稲寸・三枝部造等之祖也」
神武記
「即賜名号槁根津日子 此者倭国造等之祖・・・参向耳 此者吉野国巣之祖・・・神八井耳命者 意富臣・小子部連・坂合部連・火君・大分君・阿蘇君・筑紫三家連・雀部臣・雀部造・小長谷造・都祁直・伊余国造・科野国造・道奥石城国造・常道仲国造・長狭国造・伊勢船木直・尾張丹波臣・島田臣等之祖也」

しかし、ここで重要なことは安芸国造や筑紫君が書かれていないということは、2国は国産みで建国した地域で奪った地域でないということで、くっきりと色分けされて信頼できる内容になっている。国譲りが日本国のはじまりで出雲から凡川内に遷った樟葉の戦いの結果だ。日本を得た古事記の神代を書いた王朝があって、その王朝から政権を奪取したのは、安芸から出発して奈良を奪取して古事記を書いた王朝が九州から関東までを支配したと書いた。
奈良は後から大三輪を祀っていて、天皇名に神倭すなわちミワの地域を含めていて東鯷国の時代は三輪神の支配だったはずなのに神武天皇が大物主の子孫を妃にしたことから、大物主が三輪神から奈良を奪ったことが解る。もちろん、ここで言う神武天皇は広島の安芸を豊国と呼んでいたのを大分県に豊国の名前を付けた豊御毛沼のことで、大分県で82年に建国した。その話が日本書紀の景行天皇紀に書いてあって、土地に名前を付けるときはそこを支配したことと同じことで、この土地には太祖神社があって初代の王を祀っている。応神天皇すなわち古事記にあわせて2代ずれて璽を得た履中天皇は吉備や三野を得ている。
   『日本書紀』
景行天皇十二年九月戊辰 「到豐前國長峽縣 興行宮而居 故號其處曰京也」
応神天皇二二年三月戊子
「天皇幸難波居於大隅宮・・・因以割吉備國封其子等也 則分川 嶋縣封長子稻速別 是下道臣之始祖也 次以上道縣封中子仲彦 是上道臣 香屋臣之始祖也 次以三野縣封弟彦 是三野臣之始祖也」

古事記を書いた王朝は499年に沙門慧深が訪中したと梁書が書いていて、その国は扶桑国と呼んで527年までは続いていたとかいる。丁度継体天皇の時代までは扶桑国が日本にあったということは、丁度古事記を書いた王朝が滅亡する前とゆうことになる。滅亡後の531年から532年にかけて多くの屯倉を得たということは屯倉が有る地域の国を新しい王朝は得ていて、そこには難波も含まれその地には物部守屋が用明天皇の時代にいた。
   『梁書 卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳 東夷条 倭』
「扶桑國者 齊永元元年 其國有沙門慧深來至荊州 説云 扶桑在大漢國東二萬餘里 地在中國之東」
   『日本書紀』安閑天皇元年(甲寅531)四月癸丑朔
「伊甚屯倉・小墾田屯倉・櫻井屯倉・茅渟山屯倉・難波屯倉・三嶋竹村屯倉・安藝國過戸廬城部世倉・筑紫國膽狭山部・横渟・橘花・多氷・倉樔・筑紫穗波屯倉・鎌屯倉・豐國滕碕屯倉・桑原屯倉・肝等屯倉取音讀・大拔屯倉・我鹿屯倉・火國春日部屯倉・播磨國越部屯倉・牛鹿屯倉・備後國後城屯倉・多禰屯倉・來履屯倉・葉稚屯倉・河音屯倉・婀娜國膽殖屯倉・膽年部屯倉・阿波國春日部屯倉・紀國經湍屯倉經湍・河邊屯倉・丹波國蘇斯岐屯倉皆取音・近江國葦浦屯倉・尾張國間敷屯倉・入鹿屯倉・上毛野國緑野屯倉・駿河國稚贄屯倉

2017年6月12日月曜日

最終兵器のミサ 政権奪取3

 前回は扶桑国内の政権の移動をまとめたけれど、引き続いて璽の移動すなわち政権の移動の話だけれど、継体天皇の記事は前回書いたとおり仁賢天皇の話と次の王朝の話が集まり、そして日本書紀の2代のズレ宣化天皇の内容も書かれている可能性がある。
継体紀では筑紫君磐井すなわち倭王を攻めようと物部麁鹿火と天皇は筑紫より西を物部氏ということは物部麁鹿火はもともと火国・豊国の支配者に感じられ、東を天皇がもらうと言っている。けれど、天皇は倭国以外すべて天皇のもので日本書紀の継体紀を書いた天皇は大伴大連とおもわれて、許勢天皇は磐井に勝って葛子を殺さないで糟屋を手に入れたけれど、531年に滅ぼされた。日本書紀を書いた人は百濟本記にあわせて変更していて、本来は続けて534年まで書いていたということは、物部麁鹿火が葛子すなわち倭国と大伴氏と一緒に許勢氏を滅ぼして物部麁鹿火が璽を手に入れたけれども、536年5月には元気だった物部麁鹿火が7月に何の説明もなく死亡しており、物部麁鹿火から璽が大伴氏に移った。けれども日本書紀(日本旧事)を書いた大伴氏は継体天皇と同じ記事にまとめてしまって、この政権奪取が大倭国の復活で秦王国だ。
『日本書紀』
継体天皇二十年辛卯朔
「天皇親操斧鉞 授大連曰 長門以東朕制之 筑紫以西汝制之」
継体天皇二二年十二月
「筑紫君葛子恐坐父誅 獻糟屋屯倉 求贖死罪」
継体天皇二五年冬十二月庚子
「廿五年歳次辛亥崩者 取百濟本記爲文 其文云・・・日本天皇及太子皇子倶崩薨」
宣化天皇元年七月
「秋七月 物部麁鹿火大連薨」

同じように、 日本書紀を書いた蘇我氏は秦王国内の政権移動すなわち朝鮮政策の失敗で物部尾輿が大伴金村を追い落としたことを書いた。2人の天皇を大連として自らを天皇としたけれど、次の天智天皇の王朝は蘇我天皇を大臣と書き換えたようで、秦王国の首都はやはり大伴金村も住吉に住んでいて、日本の中心は摂津だ。
『日本書紀』 
欽明天皇即位前紀
「尊皇后曰皇太后 大伴金村大連 物部尾輿大連爲大連 及蘇我稻目宿禰大臣爲大臣 並如故」
欽明天皇元年九月己卯
「於是大伴大連金村居住吉宅 稱疾不朝 天皇遣青海夫勾子 慰問慇懃 大連怖謝曰 臣所疾者非餘事也 今諸臣等謂臣滅任那・・・遂不爲罪」

そして、用明天皇の末年の628年に四天王寺を建てた場所に物部守屋がいて守屋を攻め滅ぼして都のあった四天王寺近辺を寺に半分分け与えて、蘇我氏が璽を得て舒明天皇の時代まで日本書紀を書き綴った。
崇峻天皇即位前紀用明天皇二年六月辛亥
「誅宅部皇子 宅部皇子 桧隈天皇之子 上女王之父也 未詳 善穴穗部皇子 故誅」
崇峻天皇即位前紀用明天皇二年七月
「倶率軍旅進討大連・・・大連之軍忽然自敗・・・於攝津國造四天王寺 分大連奴半與宅」

そして、664年のいわゆる乙巳の変で孝徳天皇に璽が移って、天智天皇が日本書紀の皇極天皇からの歴史を書いた。そして、712年に元明天皇に璽が移って中臣氏の初代天皇となって、720年に天武天皇と持統天皇の日本書紀を書いて系図を修正した。
蘇我氏が宮殿で帯刀して天皇より偉いと前に書いたように入鹿が国政を執ったり外交使節を自宅で対面したり褒章したり、父が大臣であるのに大臣を授けるということは父が天皇で自分が太子とゆう天皇で太子が国政を預かっていたからで、だから、自分の宮殿を御門と呼んでいた。
『日本書紀』
皇極天皇元年正月辛未 「以蘇我臣蝦夷爲大臣如故 大臣兒入鹿 自執國政 威勝於父」
皇極天皇元年四月乙未 「蘇我大臣於畝傍家喚百濟翹岐等」
皇極天皇元年十二月是歳 「蘇我臣專擅國政」
皇極天皇二年十月壬子 「私授紫冠於子入鹿。・・・復呼其弟曰物部大臣」
皇極天皇三年十一月 「蘇我大臣蝦夷 兒入鹿臣雙起家於甘梼岡 稱大臣家曰宮門 入鹿家曰谷宮門」

2017年6月9日金曜日

最終兵器のミサ 政権奪取2

 前回は、宇摩志麻治が東鯷国(神倭国)から璽を奪い、大倭国の瀛津世襲が神倭国を破ってさらに東鯷国の中心部を陥落させたことを璽の移動で説明し、大倭国の最後の天皇が仲皇子だったことでいったん閉じた。仲皇子から政権を奪ったのは葛城氏で応神天皇の時代に文字を覚えた新しい王朝は早速日本書紀の最初の資料を書き始めたようで、そのもととなったのが『四方志』のようだ。
   『日本書紀』
履中天皇四年八月戊戌 「始之於諸國置國史 記言事達四方志」

 葛城氏は天皇なので大臣は書かず、前代の武内宿禰を大臣と書いた。同様に王朝が変わるたびに前の天皇を大臣と書く慣例が出来上がり、平郡氏は前天皇を葛城圓大臣、許勢氏は平群眞鳥大臣と日本書紀の原本資料に追記した。圓大臣を天皇の臣下と書いているけれど日本書紀の中でも臣下の家にふつう隠れないと言っているので、臣下ではない葛城圓大臣を殺していて葛城大臣から璽が平群臣眞鳥に移動した。
   『古事記』 安康天皇記
「所遊其殿下目弱王、聞取此言、便窃伺天皇之御寝、取其傍大刀乃、打斯其天皇之頚、逃入都夫良意富美之家也」
   『日本書紀』 雄略天皇即位前紀
「穴穗天皇爲眉輪王見殺・・・竊語眉輪王 遂共得間而出 逃入圓大臣宅・・・伏願大王奉獻臣女韓媛與葛城宅七區 請以贖罪 天皇不許 縱火燔宅 於是 大臣與黒彦皇子 眉輪王 倶被燔死・・・天皇命有司設壇於泊瀬朝倉即天皇位 遂定宮焉 以平群臣眞鳥爲大臣」

葛城氏から璽を奪取した平群真鳥大臣が日本の王になろうとしてなれるはずがないので、王だった平群大臣こと武烈天皇で古事記にあわせるて2代ずらして顕宗天皇の即位前に平群氏から璽が許勢氏に移動したことになり、大伴金村も大連として即位しているけれど、この金村は次王朝が追加した天皇だ。
   『日本書紀』
武烈天皇即位前紀
「大臣平群眞鳥臣專擅 國政欲王日本・・・眞鳥大臣恨事不濟 知身難兔 計窮望絶 廣指臨詛 遂被殺戮」
継体天皇元年 「是日 即天皇位 以大伴金村大連爲大連 許勢男人大臣爲大臣」

古事記は許勢氏の天皇の2代目が書いた史書、日本書紀では継体天皇のことで、日本書紀は次の王朝が書いている。古事記には同じ記事が顕宗天皇即位前の清寧天皇末のこととして書いている。ということは、志毘臣の事件は平群から許勢へと璽が移動した事件ということになる。
  『古事記』 
清寧天皇記 「故 非今者難可謀 即興軍囲志毘臣家 乃殺也」

2017年6月7日水曜日

最終兵器のミサ 政権奪取

 璽の移動を伴う政権奪取の戦いを調べると、最初は正哉吾勝勝速日天押穂耳尊が持っていたと書いているけど、これはたいてい後の政権がもともと自分たちのものを取り返したことにしたかったのではと思う。だけれど、とにかく最初に璽を授かった饒速日の子(子孫)で物部氏の祖の宇摩志麻治が舅長髓彥から璽を奪って神武天皇に献上したことになっているけれど、おそらく、宇摩志麻治が王になったのであって、孝昭天皇の時代に瀛津世襲(おきつよそ)が大連すなわち天皇になった戦いが大彦の紀元前88年樟葉の戦いや狹穗彦・狹穗姫の戦いの紀元前25年の戦いと思われる。宇摩志麻治が璽を渡した神武天皇は瀛津世襲で、紀元前4年に物部十千根大連が書かれているのでこの時すでに次の日本書紀を最初にまとめた王朝が物部氏の配下として頭角を現した。
  『先代旧事本紀』
「天祖以天璽瑞寶十種授饒速日尊」
「詔宇摩志麻治命日汝先考饒速日尊自天授來天璽瑞寶」
「磐余彦尊欲馭天下與帥東征・・・宇摩志麻治命以天神御祖饒速日尊天 璽瑞寶十種壹而奉獻於天孫大嘉特増寵異矣」
「四世孫羸津世襲命 亦云葛󠄀木彦命尾張連等祖 天忍男命子此命池心朝御世為大連供奉次建額赤」
   『日本書紀』
崇神天皇十年九月壬子
「射埴安彦 中胸而殺焉 其軍衆脅退則追破於河北 而斬首過半 屍骨多溢 故號其處曰羽振苑 亦其卒怖走」
垂仁天皇二六年八月庚辰
「天皇勅物部十千根大連曰 屡遣使者於出雲國 雖検校其國之神寶」

そして、201年には物部王朝の皇子忍熊王が住吉にいて、履中天皇即位前紀すなわち2代のズレで允恭天皇即位前に「住吉仲皇子」は住吉の名を冠している。古事記で最初に出てくる氏族安曇連を仲皇子は配下に持ち、さらに太子は石上にいて、石上は物部氏が管理する宝物庫がある場所で、古事記で反正天皇が曽婆訶理に大臣すなわち天皇の地位をもらえと言われている。とゆうことは仲皇子から天皇の位を奪えとゆうことを意味していて、さらに日本書紀では大臣すなわち天皇になる平群氏も活躍している。
   『日本書紀』
神功皇后摂政元年二月 「忍熊王謂倉見別曰 是事大怪也 於此不可待敵 則引軍更返屯於住吉」
履中天皇即位前紀
「・・・時平群木菟宿禰・・・阿曇連濱子 ・・太子便居於石上振神宮・・・捉阿曇連濱子」
   『古事記 履中天皇記』
「爾 其弟墨江中王 欲取天皇以火著大殿・・・爾 阿知直白 墨江中王 火著大殿・・・於是 曽婆訶理 窃伺己王入厠 以矛刺而殺也・・・是以 語曽婆訶理 今日留此間而 先給大臣位 明日上幸」

2017年6月5日月曜日

最終兵器のミサ 臣と連

 日本書紀で蘇我氏は自分が権力者であるのに自分を臣下の様に書いていて、蘇我氏より前の王朝も同じような書き方をしているけれど、古事記では蘇我氏の地位の大臣は武内宿祢と大前小前宿祢のみで大臣と同位の大連も継体天皇時に出現するだけで、どうやら最後に日本書紀を書いた人物が蘇我氏の書いた舒明天皇までの日本書紀に手を加えて蘇我天皇を大臣と書き換えたとしか思えず、そのあとで元明天皇が系図を書き換えさせたとゆうことだろう。
そして、蘇我氏が書いた日本書紀には、前天皇で舒明天皇元年629年の前年628年に物部守屋大連を倒して璽を移動させていることから、物部天皇を大連と書き換えたことがうかがえて、ということは、大臣大連は天皇だったといえる。
だから、前回書いた璽の移動にあわせると、持統(中臣←天)・孝徳(天←蘇我)・舒明(蘇我←物部)・推古(物部守屋←物部麁鹿火・大伴金村)・継体( 物部麁鹿火・大伴金村←許勢)・顕宗( 許勢←平群)・清寧( 平群←葛城)・允恭( 葛城←物部)と権力の移動を考えることができる。
そして、蘇我・ 許勢・平群・葛城はすべて武内宿禰爲大臣の家系で、また、 物部守屋と物部麁鹿火の系図は同じ十四世の孫でありながら時代が異なっていて別系統のようで麁鹿火が許勢大臣を裏切って日本の支配者となって隋書で言う秦王国と呼ばれることになった。
そして、古事記に出てくる大前小前宿祢大臣と建内宿祢大臣は古事記を書いた王朝の時に天皇ではなかったことが解り、 また、大連を書いていないので、大連は古事記を書いた王朝が奪った側の天皇だということが見えてくる。
日本書紀で最初に出てくる臣は大伴氏の日臣だけれど、それを授けたのは大物主で部下に臣を名付けることによって大物主は大臣となり、違う系列の王が連で土師氏だったのが多くの配下の王を連と呼んだときに自らは大連となった。この構図は三国志などで30国ではヒコなど多くの称号が有って王と呼ぶのは邪馬台国だけだったけれど隋書では大王となったことと同じで、古事記では開化天皇の時に多くの人物に王を授けているので、古事記なのだからこれらの王は臣で大臣の就任があって、丁度、京都郡など九州東部・南部の倭国以外を支配した時期にあたる。
   『日本書紀』
神話
「天穂日命 是出雲臣 土師連等祖也 次天津彦根命 是凡川内直 山代直等祖也」
神武天皇即位前紀戊午年六月丁巳 「大伴氏之遠祖日臣命帥大來目督將元戎」
垂仁天皇二六年八月庚辰 「天皇勅物部十千根大連曰 屡遣使者於出雲國 雖検校其國之神寶」
成務天皇三年正月己卯 「以武内宿禰爲大臣也」

ということは、最初に出雲に天降った天穂日が臣・連の官位を制定した初代の日本の王で、土師氏が東鯷国の国王で、紀元前4年には天皇だった人物を大連と書き換えているのだから物部十千根大連が天皇になっていて113年に物部氏に対抗する勢力に武内宿禰がなって、武内の同族の葛城氏が物部氏から政権を奪って、 葛城氏の同族許勢氏から物部・大伴連合が政権奪取、さらに629年に物部氏から蘇我氏が政権奪取した。