元年春正月辛酉朔は正しい日干支で、品太五世の孫は巨勢男人の経歴だろう。一世代20年、394年崩御が品太なのだから、相応しい。『古事記』は袁祁と小長谷若雀の内容が乏しいのに対し、袁本杼は少し記述がある。それは『古事記』を編んだ蘇我氏の建国の原因だったからだろう。安閑天皇と思われる麁鹿火は宣化元年の崩、安閑二年に崩御したのは大漢国王の広国押建金日だ。
弘計の埋葬が519年と考えられたのは、この前年が武烈朝大連の麻佐良の崩御なのではないだろうか。継体天皇は最初から磐余玉穗宮で即位しているので、樟葉宮、五年山背筒城、十二年春三月丙辰朔甲子の弟国遷都は異なる王朝、おそらく、男人や麁鹿火達の遷都だ。517年に継体年号の建元、518年武烈崩御と武烈の後継者が弟国へ遷都、後継者が安閑二年の崩御を想定している。『舊事本紀』は継体の崩を継体二十八年534年と書き直している。531年の継体崩御は磐井の崩御だろう。
元年三月庚申朔は正しい日干支で、麁鹿火が手白香皇女を皇后にした、すなわち即位した。二年冬十月辛亥朔も正しい日干支で、倭彦王の埋葬と考えた。六年夏四月辛酉朔も正しい日干支で、穗積臣押山の記録。磐井が献上品の馬を奪った。百済の記事の、七年秋八月癸未朔は2日、前の月は小の月だ。七年冬十一月辛亥朔は正しい日干支で前の月は大の月、百済は倭国と同じ中国風の暦と解る。
七年十二月辛巳朔は正しい日干支で継体天皇が即位したことを記す。海内は黄海を示し、「懿哉摩呂古」と倭媛の子の椀子皇子に呼び掛けている。九年春二月甲戌朔は正しい朔日の日干支で、百済の使者が帰った。十二年春三月丙辰朔も正しい日干支で、巨勢大臣が弟国へ遷都した。
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