2025年12月15日月曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 顕宗天皇

  元年春正月己巳朔は正しい日干支、「大臣大連等奏言」は平群大臣と木蓮子大連の勢力が拮抗して、河内の主導権を取れなかったのだろう。その結果、難波小野王の婿の億計(小前)が木蓮子の子(?大前の婿の子)を近飛鳥八釣宮で即位させた。穴穂(大前)の甥の小前大連が皇太子なのだろう。

 二月戊戌朔壬寅は九州の暦、吉備も九州の暦を使っていた。逃れた播磨も吉備の領域だ。三月上巳(?己巳)の「幸後苑曲水宴」は『古事記』を編んだ仁賢・武烈の説話で、古代から続く、羲和が創った太陽暦の3月3日である。485年は春分が乙卯、これが3月の朔日とすると丁巳が3日になる。『古事記』は紀伝体、王朝が代わると暦が変わる。

『古事記』はほとんど仁賢天皇が創り、太陽暦を使っていた。豊御食炊屋比売の崩御日が戊子年の三月十五日癸丑、『日本書紀』は戊子年3月6日癸丑と異なる。羲和の太陽暦は1年366日なので、1年で1日ずれた。夏五月五日の「藥獵」も太陽暦、夏至の後に行わないと意味がない。陰暦の場合、30日の誤差も発生する。蘇我氏は文身国・大漢国を統治した氏族、吉備も含めて同じ暦を使っていたようだ。俀国は太陽暦と中国式陰暦を併用していた。

 夏四月丁酉朔・二年秋八月己未朔・冬十月戊午朔・三年春二月丁巳朔・夏四月丙辰朔は正しい日干支。『舊唐書』曰く「頗有文字」。文字が無かった倭国が文字に溢れる畿内に進出したのだろう。畿内朝廷内は文字が盛んで、城郭を造らなくても良いほど平和だった。仏教を導入し大別の屋敷には仏像が安置され、銀銭も使用し、経済も文化も良好だったようだ。

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