元年春正月辛巳朔の即位は吉備の暦の記録のようだ。488年、二月辛亥朔は正しい暦で皇后春日大娘石上廣高宮の記録だ。巨勢大臣の説話の可能性が高い。489年に大長谷若建が崩じている。弘計と億計の戦いには、平群氏と巨勢氏も参戦し、共に、損害が大きかったようだ。男人が女国大臣、億計(小前)が河内の天皇に即位した。億計は498年崩じ、新しい王を知らなかった斉朝が永元元年499年に記録する。扶桑国王は「乙祁」、合致する。
冬十月丁未朔は間違いの日干支で、顕宗天皇の埋葬を519年に行った可能性がある。難波小野皇后が自死したということは、正常な皇位継承ではなかったことをここでも示している。継体天皇が即位して、葬ったのだろう。519年でなかったら、太陽暦からの変換で9月と間違えたか。『古事記』は太陽暦で編まれている。三年春二月己巳朔、城郭が不要だったところに石上部舍人を置いて守り、五年春二月丁亥朔、政敵の的臣蚊嶋・穗瓮君を排除、六年秋九月己酉朔、友好国の高句麗に日鷹吉士を送った。
七年春正月丁未朔も正しい日干支だが、立太子は倭国の政権交代、武から磐井の家系に代わったようだ。継体年号は俀国の元号と考えられ、葛子か葛子の弟か子供が継体天皇なのだろう。倭国の権力闘争、畿内の権力闘争が磐井の乱だったのだろう。葛子は筑紫君、磐井は肥後に逃れ、葛子の子は筑紫・火君、その弟が火中君、磐井の領地を継承し。
年候補
丁未10月朔日 519 545 586 612年
丁未9月30日 462 555年
丁未9月朔日 488年
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