2025年12月3日水曜日

最終兵器の目 新しい古代史 真実の古代 雄略天皇2

    室屋は安康元年に、目は雄略十八年に大連を賜姓され、目は甕栗宮大連なので、この時、皇太子の年齢に達したのだろう。目大連は清寧・継体・欽明の大連、すなわち、目大連は大伴室谷の後継者で、金村の皇太子も目大連だったのではないだろうか。天皇室屋・金村大連、太子目大連だ。

雄略二年冬十月辛未朔癸酉は正しい日干支で、「幸于吉野宮」の吉野宮は日吉大社の気比宮と考えられる。同じく「行幸吉野宮」の四年秋八月辛卯朔戊申は九州の日干支で、8月1日が7月晦に当たる。「行幸」はこの日と安閑元年閏十二月己卯朔壬午に記述されるのみで、行幸したのは大伴大連金村である。すなわち、室屋と金村と日向出身の大連の「幸」を「行幸」と記録したことが解る。雄略五年六月丙戌朔も正しい日干支で、「筑紫各羅嶋産兒仍名此兒曰嶋君」とあるように、武寧王が加唐島で生まれた。

雄略六年春二月壬子朔乙卯は正しい日干支で、「天皇遊乎泊瀬小野」と国見を行った。雄略六年三月辛巳朔丁亥は九州の日干支で、「賜姓爲少子部連」と九州出身の少子部の賜姓説話なのだろう。雄略七年秋七月甲戌朔丙子は正しい日干支で、少子部連蜾蠃に「欲見三諸岳神之形」と三諸山の神を連れてくるように指示した。蜾蠃は蠶と嬰兒を聞き間違える、九州出身の人物の説話だからだろう。

雄略九年春二月甲子朔は正しい日干支で、「凡河内直香賜」と香賜の誅殺の説話である。『古事記』の「志幾大縣主」の説話の続きなのだろう。雄略天皇は丹比高鷲原陵に埋葬されるのだから、河内の天皇で、凡河内直は大草香の後継者と考えられる。眉輪は安康三年に7歳なのだから、雄略九年は16歳で、大草香の後継者の眉輪の姉の婿の凡河内直香賜が既に成人している可能性が高い。秋九年七月壬辰朔も正しい日干支で、河内国の誉田陵の埴輪の馬の説話だ。凡河内直を剥奪され、後継者の小根三野縣主が継承した。

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