2019年5月31日金曜日

最終兵器の目 神武東征6

  『日本書紀』慶長版は
弟猾大設牛酒以勞饗皇師焉天皇以其酒宍班賜軍卒乃爲御謠之曰(略)是謂来目歌今樂府奏此歌者猶有手量大小及音聲巨細此古之遺式也是後天皇欲省吉野之地乃從菟田穿邑親率輕兵巡幸焉至吉野時有人出自井中光而有尾天皇問之曰汝何人對曰臣是國神名爲井光此則吉野首部始祖也更少進亦有尾而披磐石而出者天皇問之曰汝何人對曰臣是磐排別之子此則吉野國樔部始祖也及縁水西行亦有作梁取魚者天皇問之對曰臣是苞苴擔之子此則阿太養鸕部始祖也
【それで弟猾は、大宴席を設けて、皇軍を労って饗応した。天皇は、その肉や酒を兵士に分け与えた。そして節を付けて(略)と謡った。これを来目歌という。今、楽をつかさどる役所がこの歌を奏するのに、手拍子の大きい小さい、及び歌声の太い細いがある。これは古式に法ったものである。この後に、天皇は吉野の地を観察しようと思い、菟田の穿邑から天皇自らら護衛兵を引き連れて廻った。吉野に着いた時に、人がいて井戸の中から出てきた。後光がさして尾が有った。天皇は「お前は誰だ」と問いかけた。「私は国神です。名を井光と言います」と答えた。これが則ち吉野首部の始祖だ。さらに少し進むと、また尾が有り磐石を押し別けてきた子がいて、天皇が「お前は誰だ」と問いかけると「私は磐排別の子」と答えた。これが則ち吉野国の樔部の始祖だ。川に並行して西に行くと、またやなを作って魚を取る者がいた。天皇が同じように問いかけると、「私は苞苴擔の子です」と答えた。これは則ち阿太の養部の始祖だ。】とある。
菟田の勝利の宴席でクジラを切り分ける来目歌を謡うが、これも、平戸に7千年前のクジラ漁に必要な石器が大量に出土したつぐめのはな遺跡があり、平戸近辺の出身かも知れない来目氏が宇迦の山の戦いに協力した説話を挿し込んでいる。
続いて、『日本書紀』慶長版は
九月甲子朔戊辰天皇陟彼菟田髙倉山之巓瞻望城中時國見丘上則有八十梟帥又於女坂置女軍男坂置男軍墨坂置焃炭其女坂男坂墨坂之号由此而起也復有兄磯城軍布滿於磐余邑賊虜所據皆是要害之地故道路絶塞無處可通天皇惡之是夜自祈而寢夢有天神訓之曰宜取天香山社中土以造天平瓮八十枚幷造嚴瓮而敬祭天神地祇亦爲嚴呪詛如此則虜自平伏天皇祇承夢訓依以將行時弟猾又奏曰倭國磯城邑有磯城八十梟帥又髙尾張邑(或本云葛城邑也)有赤銅八十梟帥此類皆欲與天皇距戰臣竊爲天皇憂之宜今當取天香山埴以造天平瓮而祭天社國社之神然後擊虜則易除也天皇既以夢辭爲吉兆及聞弟猾之言益喜於懷
【九月朔が甲子戊辰の日に天皇がその菟田の高倉山の頂きのぼって領域の中心を望みその時に国見の丘の上に八十梟帥がいた。又、女坂に女の軍を置き、男坂に男の軍を置いて、墨坂に炭おこして置いた。その女坂・男坂・墨坂の由来である。また兄磯城の軍が有って、磐余邑に布を敷くように満ち、賊軍は攻防の要衝をここにしていた。それで、道路を塞いで通る所が無かった。天皇はこれを不快に思い、夜、自ら祈って寝た。夢枕に天神が出てきて「天の香山の社の中の土を取り、これで天の平な盞を八十枚造り、あわせて嚴瓮を造って天神地祇をうやまって祀り、また厳かに呪詛をしなさい。こうすれば敵は自から平伏する。」と教えた。天皇は祇の夢のお告げを承って、お告げの通りにしようとした。その時、弟猾はまた「倭国の磯城の邑に磯城の八十梟帥がいる。又、高尾張の邑に赤銅の八十梟帥がいる。こやつらはは皆、天皇を拒んで戦おうとしている。私は、ひそかに天皇の爲に憂いています。天の香山の土を取って、それで天の平らな盞を造って天社・国社の神を祭り、その後で敵を撃てば排除しやすいでしょう」と奏上した。天皇は既に夢のお告げで吉兆としていた。弟猾の言葉を聞いて、益々心から喜んだ。】とある。
日干支は標準陰暦と合致し、髙倉山に上ったのは高倉下と思われるが、この説話は今までの神話の焼きまわしではなく、逆に後代の尾張氏の神武天皇である大彦を記述する崇神紀の埴安彦の説話を挿し込んだ説話で、埴安彦が兄磯城で弟磯城が大彦で、大彦が磯城縣主となるので、懿徳天皇の妃も『古事記』では磯城縣主の祖で縣主になっていない。

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