『日本書紀』慶長版は
「兄火闌降命自有海幸(幸此云左知)弟彥火火出見尊自有山幸始兄弟二人相謂曰試欲易幸遂
相易之各不得其利兄悔之乃還弟弓箭而乞己釣釣弟時既失兄釣無由訪覓故別作新釣與兄兄不肯受而責其故鈎弟患之即以其横刀鍛作新釣盛一箕而與之兄忿之曰非我故鈎雖多不取益復急責故彥火火出見尊憂苦甚深行吟海畔時逢鹽土老翁老翁問曰何故在此愁乎對以事之本末者翁曰勿復憂吾當爲汝計之乃作無目籠內彥火火出見尊於籠中沉之干海即自然有可怜小汀於是棄籠」
【兄の火闌降命は自ら海幸と名乗り、弟の彦火火出見尊は自ら山幸と名乗った。始め、兄弟二人お互いに「試しに獲物変えてみようか」と言いあった。それで互いに交換し、お互いにうまくいかず、 兄は悔やんで、弟の弓箭を返して自分の釣り具返すように言った。弟は兄の鈎を失っていて、探し求める方法が無かった。それで、別の新しく鈎を作って兄に渡した。兄は受け取らずもとの鈎を返せと責めた。弟はこの責めに憂いて、横刀を材料に新しい鈎を鍛造して、箕に盛って渡した。兄は怒って、「私の使っていた鈎とは違う、いくらたくさん差し出しても受け取らない」と言って、より一層責め立てた。それで、彦火火出見尊が、憂い苦しむ様子はとても深刻だった。海辺行って彷徨ていると鹽土の老人に逢った。老人が「どうしてここで憂いているのだ」と問いかけたので、その経緯を答えた。老人は、「憂鬱になることは無い。私が、お前のために何とかしよう」と言い、網目の無い籠を作って、彦火火出見尊を籠の中にいれて海に潜った。すると自然にできたそまつな小さい渚についた。】とある。
この皇子の国は船を知らないが鈎を鍛造しているので鉄刀を持つ国の人で、船を網目のない籠と表現していて、狩猟と海辺の小魚漁を生活の糧にしていたのだろう。
それで、その鈎を狩猟の得意な力強い弟が遠くへ投げるので大きな魚に引きちぎられ、兄は力が無いので狩猟がうまくいかなかったことを示している。
さらに続けて、『日本書紀』慶長版は
「遊行忽至海神之宮其宮也雉堞整頓臺宇玲瓏門前有一井井上有一湯津杜樹枝葉扶?(疏)時彥火火出見尊就其樹下徒倚彷徨良久有一美人排闥而出遂以玉鋺来當汲水因舉目視之乃驚而還入白其父母曰有一希客者在門前樹下海神於是鋪設八重席薦以延內之坐定因問其来意時彥火火出見尊對以情之委曲海神乃集大小之魚逼問之僉曰不識唯赤女(赤女鯛魚名也)比有口疾而不来固召之探其口者果得失釣已而」
【そして籠を棄ててさらに進むと、海神の宮についた。その宮は、雉の羽のように低い垣根が整った玉のように輝く高い屋根が有った。門の前に一つの井戸が有り、ほとりにひとつの湯津杜の樹が有って枝葉が良く茂っていた。彦火火出見尊がその樹の下に行って、ふらふらとさまよった。そうしていると一人の美人がいて、とびらをおしひらいて出てきた。そして石のお椀を持って来て水を汲もうとしていた。それで仰ぎ見たところ驚いて帰ってしまった。その父母に「一人のめずらしい客が門の前の樹の下にいた」と言うと海神は重ねたこもの席を敷延ばして準備し、宮の中に招き入れて座らせてまたせて、来たわけを聞いた。彦火火出見尊、理由をこまかくつまびらかに答た。海神は、大小の魚を集めて問い詰めたところ皆は、「知りません。」と答え、たただ赤女が口を患って来ていないので、呼んで口を探したところ、やはり失った鈎が有った。】とある。
文中に「湯津杜」の言葉が記述されるが、『山海經』の大荒東經に「湯谷上有扶木」、海外東經に「下有湯谷。湯谷上有扶桑」、海外南經に「狄山帝堯葬于陽帝嚳葬・・・吁咽文王皆葬其所一曰湯山」と記述し、伊弉諾・奇稻田姫が持つ「湯津爪櫛」、なか国に天降った天稚彥の門前の「湯津杜木」と『山海經』に対応し、『古事記』には「宮門井上當有湯津桂樹」と「湯津杜樹」は朝廷の門に植えられる象徴で、中国では水や湯が湧き出る場所が「天」である。
また、豊の国では船で遠くに漕ぎ出し魚を傷つけない網で漁を行い、大量の時は生かしたまま魚を保存したことが、魚を餌やりで集め、集まらない元気のない魚の口の中を探したことから読み取れる。
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