2019年5月15日水曜日

最終兵器の目 歴史時代

 この項以降は暦のある歴史時代に突入するが、東洋世界は干支で表す60年周期の年と日で朔日を基準にした日付を用いることで例えば旧暦の1月1日の日干支が同じ干支年の日干支になることが限定されることになる。
そして、『尚書』堯典に「命羲和欽若昊天曆象日月星辰敬授人時分命羲仲宅嵎夷曰暘谷・・・帝曰咨汝羲暨和朞三百有六旬有六日以閏月定四時成歲」と辺境の暘谷に住む羲和と羲仲に暦を作らせたが、『山海經』大荒南經に「東南海之外甘水之間有羲和之國有女子名曰羲和」および「帝堯帝嚳帝舜葬于岳山」、海外南經にも「狄山帝堯葬于陽帝嚳葬于陰」と、すなわち、日本列島に住む羲和に日本列島に葬られた帝堯が暦を作らせた。
そして、日本列島には夏至や冬至を知ることができる5千年以上前の縄文遺跡がたくさん存在し、海外東經に「下有湯谷上有扶桑」と「暘谷」と類似した国が有り、日本は農業カレンダーを持ち、中国建国前にこれを伝えた。
そして、中国建国前、国ではなく山と呼ばれた時代に中国の周りには国が存在し、君子がいて、大人がいたのだから、この、大人・君子は中国にとっては外来語で、この象形文字もしくは記号は日本発の可能性があり、「帝堯帝嚳帝舜」がこれらの国の王の可能性すらある。
私は、グレゴリー暦で紀元前700年から現代までの標準カレンダーを作成してユリウス日を振り、2000年に冬至となる太陽視黄経が 270°となる 2000/12/21 22h38mを基準に1太陽年毎の計算式Y=365.2421896698-0.00000615359×T-7.29×10^(-10)×T^(2)+2.64×10^(-10)×T^(3)で毎年の冬至日を算出した。
但し、Tはユリウス日で日本は9時間の時差があるので21時にユリウス日は更新されるので3時間分0.125を差し引いて24時に更新するように計算し、日付はデジタルなので小数点を切り捨てた。
そして、2000年に月・太陽黄経差が朔の となる2000/12/26 2h22mを基準に地球と共に太陽を回るので、月周期として定数29.530589で朔日を、中気の月を得るため恒気法で雨水・春分・穀雨・小満・夏至・大暑・処暑・秋分・霜降・小雪・冬至・大寒を当てはめ、中気の無い月を閏月にし、朔日から次の朔日の前日まで日付を順に割り振って大小の月を決めて標準の旧暦を作り上げた。
従って、60日周期で延々と続く日干支と人間の見た目で決めるので1日の誤差がある可能性がある朔日とそれによる大小の月は古代人の実感の暦に近いと考えられ、閏月は江戸時代に藩により異なったようなので正誤は保留にして、『続日本紀』などと確認したところ良く符合した。
そして、古代人が標準時や日本の9時間の時差となる場所を知るはずが無いので、どの場所を基準として朔としたかは不明なので、どの頃を一日の始まりとしたか、どの場所で暦をつくったかによて大小の月や閏月が微妙にズレることは覚悟しなければならない。
そして、『日本書紀』の神武天皇の建国年はかなり特殊な日で「辛酉年春正月庚辰朔」の日は紀元前660年以降現代まで存在せず、特異日で、建国日の部分を記述した古代人はグレゴリー暦を知らないため、100年に一度閏年が無くその4回に1回に閏年が有るなどと言う法則を知らない。
そして、『二中歴』には「年始五百六十九年内丗九年無号不記支干其間結縄刻木以成政」と517年継体元年より569年前、紀元前53年から始まったのだから、普通に読めば元号が始まったという意味で、「無号不記」は天皇即位元年に建元をせず新天皇の即位の干支を数代分のみ39年間は刻木して残し、紀元前14年から建元して元号と干支を木に刻んだと読まないと、39年間の意味が通らず、最初から530年前から元号が始まったと書けばよい。
それを示すかのように、最近は弥生式土器の編年が早まって『日本書紀』の歴史時代の紀元前660年頃は弥生時代ということになり、そのころから宮の元年を記述し、紀元前50年頃は尾張氏が力をつけ、紀元前14年頃は尾張氏が政権を取って、2代目の垂仁天皇が即位したとしても矛盾が無く、そして、景行天皇「元年秋七月己巳朔卯己卯太子即天皇位因以改元」と改元しており、天皇が交替した時は改元した可能性がある。
そして、これ以降、年干支と月干支と朔日干支が私の作成した標準旧暦と符合するかも確認していくことになり、多くが符合し、符合しないものは、符合する日付を探すと、不自然だった内容が他の史書や文献に合致するようになった。
ちなみに、『三国史記』は赫居世「前漢孝宣帝五鳳元年甲子四月丙辰・・・二十四年夏六月壬申晦日有食之」と中国年号を知っていて朔の日干支は記述せず、すでに、建国時から歴史時代で記録を持ち、『史記』は始皇帝の時「二十六年・・・始皇推終始五德之傳以為周得火德秦代周德從所不勝方今水德之始改年始朝賀皆自十月朔」が朔日の初出、孝武帝の「十一月辛已朔旦冬至昧爽天子始郊拜泰一」と日干支の日付の初出で記述していない。
グレゴリー暦を知らない人々が計算で西暦と合致させて朔日を記述することが不可能であり、中国や朝鮮の史書でも朔の日干支を知ることが出来ないことから、この、日干支は計算ではなく刻木による記録だったことが解る。

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