『日本書紀』慶長版は
「其年冬十月丁巳朔辛酉天皇親帥諸皇子舟師東征至速吸之門時有一漁人乗艇而至天皇招之因問曰汝誰也對曰臣是國神名曰珍彥釣魚於曲浦聞天神子来故即奉迎又問之曰汝能爲我導耶對曰導之矣天皇勅授漁人椎㰏末令執而牽納於皇舟以爲海導者乃特賜名爲椎根津彥此即倭直部始祖也行至筑紫國菟狹時有菟狹國造祖號曰菟狹津彥菟狹津媛乃於菟狹川上造一柱騰宮而奉饗焉是時勅以菟狹津媛賜妻之於侍臣天種子命天種子命是中臣氏之遠祖也」
【その年の冬十月丁巳の朔辛酉の日に天皇親ら諸皇子・船団を率いて東を征伐するため。速吸之門についた。その時一人の海人がいて、舟に乗ってやってきた。天皇は漁師を招き入れて、近づいてきたのでわけを聞いた。「お前は誰だ」と聞くと、「私は国神です。名は珍彦と言います。曲浦で魚を釣っていましたが、天神の子が来たと聞いて迎え来ました」と答えた。また、「お前は私を案内できるか」と聞くと、「案内しましょう」と答えた。天皇は椎の水竿を操る最後尾の舵役を担当させ、皇舟の海の案内人にした。そして特に、椎根津彦の名を賜った。椎根津彦は倭直部の始祖である。筑紫の菟狹についたとき、菟狹国造の祖を名付けて菟狹津彦・菟狹津媛がいて、菟狹の川上に一柱騰宮を造って饗応した。この時、菟狹津彦は命じて菟狹津媛を、侍臣の天種子命に賜った。天種子命は、中臣氏の遠祖である。】とある。
しかし、紀元前667年10月朔は丁亥で丁巳は11月朔日と1ヶ月異なり、この速吸之門は豊後水道だが、珍彦は『古事記』に「木國造之祖宇豆比古」で、吉備の出発後速吸之門に出現する人物の「槁根津日子」は共通で、本来「宇豆比古」は「槁根津日子」と別人で鳴門海峡の名前にふさわしい名前である。
『古事記』は「椎根津彦(此者倭國造等之祖)」とするが、「宇豆比古」の娘婿「建内宿祢」の兄弟「味師内宿祢」は葛城氏の子で、『古事記』に従えば父「比古布都押之信」がこの東征の主で、『古事記』に記述されない「屋主忍男武雄心」が伊予を得て、子供たちが紀伊・大和で生まれたことを述べている。
そして、天の岩戸で大神を導き、東征では神武を導いたと活躍を述べる菟狹国造は葛城王朝の重要な役割を担った人物と解り、結婚を命じたのも神武天皇はまだ邑長で権力が無く考えにくく、菟狹津彦か京都郡の王としか考えられない。
続けて『日本書紀』慶長版は
「十有一月丙戌朔天皇至筑紫筑紫國岡水門十有二月丙辰朔壬午至安藝國居于埃宮乙卯年春三月甲寅朔己未徙入吉備國起行宮以居之是曰髙嶋宮積三年間脩舟檝蓄兵食將欲以一舉而平天下也」
【十一月丙戌の朔、天皇は筑紫國の岡水門についた。十二月朔が丙辰壬午の日に安藝國について、塵のように小さい宮に留まり乙卯年の春三月朔が甲寅己未の日に吉備國に歩いて行き、行宮に留まった。これを高嶋宮という。三年日を連ねる間に、舟や舵を準備し、兵糧を蓄えて、一挙に天下を平定しようとした。】とある。
この11月朔の日干支は丁巳で丙戌は12月朔、丙辰は翌年の1月朔とすべて丁度1ヶ月違いで大の月小の月が混じる中での誤差は偶然とは思えないが、実際の時期はおそらくかなり後代で検証できなが、乙卯年の春三月朔は甲寅と合う。
そして、吉備国で軍備を整えていているが、三史すべて、筑紫・豊・菟狹・安藝・吉備と国が存在し、神武邑長の支配者はこれらの国の支配者で、東征して畿内を征服するのであるが、後代、このような人物が一人存在し、神武天皇が「日向襲津彥」・「葛城襲津彥」で筑紫から豊・安芸・吉備を領有する父「武内宿禰」が一番ふさわしく、「武内宿禰」は皇太子忍熊王を殺害していて、この戦いが神武東征の一部となっているようだ。
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