2019年5月1日水曜日

最終兵器の目 天降り6

 『古事記』 前川茂右衛門 寛永版には『日本書紀』に記述されない「建御名方」が
間其建御名方神千列石撃手末而來言誰來我國而忍如此物言然欲爲力競故我先欲取其御手故令取其御手者即取成立氷亦取成釼刃故尓懼而退居尓欲取其建御名方神之手乞歸而取者如取若葦搤枇而投離者即逃去故追往而迫到神科野國之州羽海將殺時
と、記述されているが、力比べと石礫と氷柱そして釼刃が武器で、矛や剱若しくは剣では無く、一世代以上前の武器、諏訪で戦っているので、釼刃は黒曜石でできているのだろう。
すなわち、この説話は八千矛神が越へ嫁取りに行った時の「八千矛神將婚高志國之沼河比賣幸行之時」の説話を差し込んだ説話で、高志の八俣遠呂知は1本の銅剣と縄文の武器でえ戦ったのに対して千本の銅矛で戦った八千矛神の説話で「建御名方」が勝てるはずが無い。
また『古事記』 前川茂右衛門 寛永版には
此葦原中國者随命既獻也唯僕住所者如天神御子之天津日継所知之登陀流天之御巣而於底津石根宮柱布斗斯理於高天原氷木多迦斯理而治賜者僕者於百不足八十坰手隠而侍亦僕子等百八十神者即八重事代主神爲神之御尾前而仕奉者違神者非也如此之白而於出雲國之多藝志之小濵造天之御舎
と、主語は記述していないが、「底津石根宮柱」を「高天原」に立てれば「八重事代主」の前に反逆する者はいないと述べたにもかかわらず、話が変わって出雲の「多藝志之小濵」の話になってしまった。
「底津石根宮柱」は「大穴牟遅」が主語の時に『古事記』 前川茂右衛門 寛永版は
大國主神亦爲宇都志國主(玉)神而其我之女須世理毘賣爲嫡妻而於宇迦能山之山本於底津石根宮柱布刀斯理於高天原氷椽多迦斯理」と「高天原」の「宇迦能山」に建て、『舊事本紀』 前川茂右衛門 寛永版では、「大巳貴神日其汝・・・爲大國主神亦爲顯見國主神其我之女須世理姫爲嫡妻而於宇迦能山之嶺於底津石根宮柱太斯理於高天原水様高知而居」と大巳貴が大国の王になって治めよと大国主は役職名で既に存在する役職であると述べ、「底津石根宮柱」に住むことが王の印だと言って、大国主の素戔嗚が大巳貴に大国主の称号を譲っている。
すなわち、大国主の地位は「大穴牟遅」・「大巳貴」・「八千矛神」・「葦原色許男」・「宇都志國玉」全てが就任し、大国主説話はこれらの人物が入り混じった説話と言うことで、『古事記』は「大物主」を入れていないので、「大物主」は大国主の配下だったのだろう。
さらに、『舊事本紀』 前川茂右衛門 寛永版は「皇孫就而留矣詔曰此地者向韓國直道求笠狹之御前而朝月月直剌國夕日日照國也故謂此地吉地矣詔於底津石根宮柱太敷而於高天原槫榛高知坐矣」と皇孫も「底津石根宮柱」に住んで国を治めた。
そして、「底津石根宮柱」は伊弉諾・伊弉冉が建てた「八尋殿」がおおもとで、 「大穴牟遅」が高天原に「大巳貴」が出雲の「多藝志之小濵」に、「大国主」が宇迦能山に、「迩迩藝」は「久士布流多氣」に統治すべき宮殿を建てたのである。
これに対し、『日本書紀』は「畝傍之橿原也太立宮柱於底磐之根」と神武天皇が宮柱を建てたのみで、天皇の宮の始まりを宣言したのであり、「八尋殿」も『日本書紀』には出現せず、それは、「八尋矛」から分かるように、15メートルの矛など有り得ないが、1.8メートル実際は周尺で1メートルの矛ならあり得て、八国の1メートルの小さな弥生時代の祠だったのだろう。
『日本書紀』は名目上一つの王朝史で「宮柱」が何本も建っては困るのであり、『古事記』・『舊事本紀』は私史で葛城王朝や物部王朝の前には既に尾張王朝や武王朝がすでに存在していたので、「宮柱」が何本建とうが問題なかったのだろう。
そして、「宮柱」を建てた王朝は『日本書紀』の一書の数だけ存在し、大国主の別名の神々がその主人公であり、その末裔の初代の王の神武天皇がその数だけ存在し、当然、その数だけ王名があったはずだが、全てまとめて神武天皇として、時間軸も王朝建国を紀元前660年にまとめたが、実際は縄文時代から西暦400年頃の葛城王朝建国より前まで含んで神武天皇としていて、葛城王朝の神武天皇は紀元前660年に磐余で建国したと主張しているのである。

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