2019年5月24日金曜日

最終兵器の目 神武東征3

 『日本書紀』慶長版は
戊午年春二月丁酉朔丁未皇師遂東舳艫相接方到難波之碕會有奔潮太急因以名爲浪速國亦曰浪華今謂難波訛三月丁卯朔丙子遡流而上徑至河內國草香邑青雲白肩之津夏四月丙申朔甲辰皇師勒兵步趣龍田而其路狹嶮人不得並行乃還更欲東踰膽駒山而入中洲時長髄彥聞之曰夫天神子等所以来者必將奪我國則盡起属兵徼之於孔舍衞坂與之會戰有流矢中五瀬命肱脛皇師不能進戰天皇憂之乃運神策於冲衿曰今我是日神子孫而向日征虜此逆天道也不若退還示弱禮祭神祇背負日神之威隨影壓躡如此則曾不血刃虜必自敗矣僉曰然於是令軍中曰且停勿復進乃引軍還虜亦不敢逼却至草香津植盾而爲雄誥焉(雄誥此云烏多鶏縻)因改号其津曰盾津今云蓼津訛也初孔舍衞之戰有人隱於大樹而得兔難仍指其樹曰恩如母時人因号其地曰母木邑今云飫悶廼奇訛也五月丙寅朔祭()酉軍至茅淳山城水門時五瀬命矢瘡痛甚乃撫剱而雄誥之曰慨哉大丈夫被傷於虜手將不報而死耶時人因號其處曰雄水門進到于紀伊國竈山而五瀬命薨于軍因葬竈山
【戊午年の春二月朔日が丁酉の丁未の日皇軍は遂に東征に出発した。船首と船尾がたがいに接っするような船団で難波の𥔎についたら、勢いよくとても急な潮の流れにあった。それに因んで浪速国と名付けた。または浪花という。今難波というのは訛ったものだ。三月朔が丁卯の丙子の日に流れを遡ってのぼり、真っすぐ河内国の草香邑の青雲の白肩の津についた。夏四月朔が丙申の甲辰の日に皇軍はくつわを引いた兵が列をなして行進して、龍田に向かった。しかしその路は狭くて険しく人が並んでいけなかったので引き返して、更に東の膽駒山をこえ、中洲(?)に入る時に長髓彦がそれを聞いて「天神の子等が来る理由は、きっと我が国を奪おうとしてだ」といった。全軍を使って孔舎衞坂で待ち受けて、合戦となった。流矢で五瀬命の肘と脛に命中して皇軍は進軍して戦うことが出来なくなった。天皇はこれを憂いて、神のお告げに従いこだわりなく運を天に任せて「今私は日神の子孫で日に向って敵を征つことは、天の道に逆らうことだ。それで、撤退して弱そうに見せ、神祇を年に一度の例祭のように盛大に祀り、太陽を背に、影が進むとおりにのおし掛かるように足を踏もう。こうすれば、血を流さず自から敵は負ける」というと。皆も、「その通りだ」と言った。それで軍中に「しばらくは停まりなさい。再度進軍してはいけない」と命じて、軍を引き返した。敵軍もあえて追ってこなかった。草香の津に帰って、盾を立てかけ雄々しく叫んだ。それでその津を盾津と名付けた。 今、蓼津というのは訛ったものだ。初め孔舎衞の戦いに、人がいて大きな木に隠れて難を免れることができた。それでその木を指して、「恩は母のようだ」と言い、その時、人はそれに因んで母木邑と名付けた。 今「おものき」というのは訛ったものだ。五月朔が丙寅癸酉の日、軍が茅渟の山城水門についた。その時、五瀬命の矢の傷の痛みが甚しく剣を掴んで雄々しく叫んで、「なげかしい、ますらおなのに敵によって手傷を負って、報復しないで死ぬのか」。その時の人たちはそれに因んで雄水門と名付けた。進軍して紀国の竈山について、五瀬命は軍中で薨じた。それで竈山に葬むった。】とある。
紀元前663年2月朔日は「戊戌」だが、前日1月30日が丁酉で、4月朔日が丁酉で丙申は3月30日、3月朔日は丁卯で5月は丙寅と合い大小の月の誤差範囲で概ね標準陰暦と合致している。
そして、大阪平野が海だった頃の様子が記述され、難波は狭くなっていたので海流が速く、東大阪市の日下に船を停め、背後から攻めようと龍田に向かったが険しくて行けなかったので、生駒山越えの正面攻撃に転じたが、待ち伏せにあって五瀬が負傷し、反撃を止めて策略を練り、日を背に山の上から戦おうと決定した。
そして、長男の五瀬は紀国に葬り、武内宿禰の由来説話が紛れ込み、長髓彦のいる場所が「中洲」と意味不明な地が出現するが、「なか国」侵攻の説話の流用で紛れ込んだのだろうか。
ここでいう、天道・天皇は、空を履中天皇五年まで「有如風之聲呼於大虚曰」のように大虚と記述しているので、履中天皇以前の天は海人の国の天国のことのようだ。

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