『日本書紀』慶長版は
「六月乙未朔丁巳軍至名草邑則誅名草戸畔者遂越狹野而到熊野神邑且登天磐盾仍引軍漸進海中卒遇暴風皇舟漂蕩時稻飯命乃歎曰嗟乎吾祖則天神母則海神如何厄我於陸復厄我於海乎言訖乃拔剱入海化爲鋤持神三毛入野命亦恨之曰我母及姨並是海神何爲起波瀾以灌溺乎則蹈浪秀而往乎常世鄕矣天皇獨與皇子手硏耳命帥軍而進至熊野荒坂津因誅舟敷戸畔者」
【六月朔が乙未の丁巳の日、皇軍は名草邑についた。名草戸畔という人物を生贄で誅殺した。そして狹野を越え、熊野の神邑についた。そして天磐盾に上陸し、また、軍を引いてしばらく海を進む。途中にわかに暴風に遇い、舟が漂流した。その時に稻飯命が歎いて、「ああ、我が祖先は天神で、母は海神だ。どうして私を陸で祟り、また私を海で祟る」と言い。言いおわると、剣を拔いて海に入り、鋤持神となった。三毛入野命も、恨んで、「我が母及び姨は二人とも海神だ。どうして大波を起こして溺れさせようとするのか」と言った。良い波に乗って、常世郷に往った。天皇は皇子手耳命一人と軍を進軍させ、熊野の荒坂津についた。それで丹敷戸畔という者を生贄に誅殺した。】と記述し、乙未は5月30日で5月が小の月なら合致し、稻飯は暴風で海に落ちて死んだので、海の守り神として祀り、三毛入野は海に踏み入ると記述して事代主と同じ死に方で、責任を取って自殺し、航海の失敗で名草・舟敷を生贄として誅殺したのだろうか。
そして、舟敷の誅殺は主語が天皇と記述し、神武天皇はまだ即位していないので、後代の天皇の説話を混入させたのかもしれず、「海中」が出現し、「中洲」・「六合」と『日本書紀』作成時の共通認識のある語句を使用しているので、神話時代の説話の混入、特に三毛入野命の常世は済州島と思われるので黄海の説話でないと成り立たない。
熊野は神話で訳した『日本書紀』に「少彥名命行至熊野之御碕遂適於常世鄕」も熊野と常世が出現し、『舊事本紀』に「速素戔鳥尊坐出雲國熊野築杵神宮矣」と出雲の熊野と出現し、「さの」の「さ」は対馬の可能性を証明しており、日本で一番有名だった「さの」の名前が熊野とセットで隠岐の素、出雲の杵築、宗像の速、紀伊の建に有り、『舊事本紀』は「狹野尊」をそのまま建国説話に使用し、国名も熊野の神邑の王がヤマトで建国した「神倭」で『山海經』大荒東經の「大人之市」は神邑の可能性がある。
続けて『日本書紀』慶長版は
「時神吐毒氣人物咸瘁由是皇軍不能復振時彼處有人号曰熊野髙倉下忽夜夢天照大神謂武甕雷神曰夫葦原中國猶聞喧擾之響焉(聞喧擾之響焉此云左揶霓利奈離)宜汝更往而征之武甕雷神對曰雖予不行而下予平國之剱則國將自平矣天照大神曰諾(諾此云宇毎那利)時武甕雷神登謂髙倉下曰予剱号曰韴靈今當置汝庫裏宜取而獻之天孫髙倉曰唯唯而寤之明旦依夢中教開庫視之果有落剱倒立於庫底板即取以進之于時天皇適寐忽然而寤之曰予何長眠若此乎尋而中毒士卒悉復醒起」
【熊野についた時に神が毒氣を吐いて人々がことごとくやつれさせた。それで、皇軍はまた何も振る舞うことができなかった。その時にこの地に人がいて、熊野の高倉下と言われていた。急に夜、夢を見た。天照大神が武甕雷神に、「葦原中国はまだ騒々しいが、お前が行って対応して討ちなさい」と言った。武甕雷神は「私が行かなくとも、私が国を平定した剣を下賜すれば、国は自ずと平定される」と答えた。天照大神は、「なるほど」と言い、その時に武甕雷神が、高倉下に、「私の韴靈と名付けられた剱を今すぐにお前の倉庫の裏に置く。適当に受け取って天孫に献上しなさい」と言った。高倉下は、ああと言って目覚めた。朝に夢の中の敎えに従って、倉庫を開けて見たところ、やはり剱が落ちていて、逆さまに倉庫の底板に立っていたので直ぐに取り上げて献上した。その時、天皇はよく寝ていたがにわかに寝覚めて、「私はどうして長く眠っていたのか」と尋ねた。毒にあたっていた兵士もまた毒から覚めて起きた。】と、「武甕雷神」すなわち同音の「武甕槌神」は天降りの立役者でこの説話は天降りの続編の説話、武氏は高倉下から尾張氏につながる姓で、生駒山の合戦とまったく趣が異なり、到着した日干支はあっているが、その日干支に尾張氏の神話を付加している。
『日本書紀』は葛城氏の歴史が基本と考えられ、葛城氏の先祖が紀元前660年頃にヤマトに侵入した説話を後代の物部氏が尾張氏の神話を結合させた説話で、武甕雷が剱を神宝とし、『舊事本紀』に「天忍男命葛󠄀木土神劔根命女賀奈良知姫為妻」と尾張氏と姻戚となったのが葛城氏の祖先が剱根と記述していて、無関係とは思えない。
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