『日本書紀』慶長版は
「既而皇師欲趣中洲而山中嶮絶無復可行之路乃棲遑不知其所跋渉時夜夢天照大神訓于天皇曰朕今遣頭八咫烏宜以爲鄕導者果有頭八咫烏自空翔降天皇曰此烏之来自叶祥夢大哉赫矣我皇祖天照大神欲以助成基業乎是時大伴氏之遠祖日臣命帥大来目督將元戎蹈山啓行乃尋烏所向仰視而追之遂達于菟田下縣因号其所至之處曰菟田穿邑于時勅譽日臣命曰汝忠而且勇加能有導之功是以改汝名爲道臣」
【すぐに皇軍は中洲に向かおうしたが山の中が険しく路が無かった。それでどう足を踏み入れるたらよいか解らなかった。そんな時に夜、夢を見た。天照大神が天皇に、「私は、今、八咫の頭目の烏を派遣するから、うまく使いこなして郷の案内人としなさい」と教えた。言われた通り八咫の頭目の烏がいて、空から駆け降るように素早くやってきて、天皇は、「此の烏が来たということは、吉祥の夢が叶った。大いなるか、赫灼としている。我が皇祖天照大神が、私のすべき仕事を助けようとなさっているのか」と言った。是の時に、大伴氏の遠祖の日臣の命が、大来目を率いて、未開の人を取り締まる将軍として、山に踏み入り分け入って行き、烏の向う所を追い求めて、上目遣いで追う。ついに菟田下縣に達した。それでその着いたところを名付けて菟田の穿邑という。その時に、日臣の命に「お前は、忠臣でしかも勇敢だ。それに加えて誤りなく導いた功績が有る。それでお前の名を改めて道臣とする」と誉めて詔勅した。】とある。
ここも神話と融合した為、烏が鳥になってしまって、飛ぶとりに追いつけるはずもないのに空を仰ぎ見てとして納得させたのだろうが、実際は「八咫鏡」と同じで八咫鏡を祀る国の首領の烏のこととする方が理に適い、実際は久米氏を率いた「日(火)国」・「三身国」の日臣・道臣のことで、国譲り後の続きの説話で、『出雲風土記』の国引きの「八束水臣」の臣と共通の地位だ。
神話を5世紀の常識で記述すると、トンチンカンな表現になってしまい、烏もおそらく烏を神として祀る氏族で、蛇を祀る「於漏知」など、自然を敬い神とする縄文の信仰である。
続けて、『日本書紀』慶長版は
「秋八月甲午朔乙未天皇使徴兄猾及弟猾者是兩人菟田縣之魁帥者也時兄猾不来弟猾即詣至因拜軍門而告之曰臣兄兄猾之爲逆狀也聞天孫且到即起兵將襲望見皇師之威懼不敢敵乃潛伏其兵權作新宮而殿內施機欲因請饗以作難願知此詐善爲之備天皇即遣道臣命察其逆狀時道臣命審知有賊害之心而大怒誥嘖之曰虜爾所造屋爾自居之因案剱彎弓逼令催入兄猾獲罪兄於天事無所辭乃自蹈機而壓死時陳其屍而斬之流血沒踝故号其地曰菟田血原已而」
【秋八月朔が甲午乙未の日、天皇は兄猾及び弟猾を呼び出した。この二人は、菟田縣で先頭に立って戦う兵士だ。その時、兄猾は来ず、弟猾は直ぐに詣でて来た。それで陣営をみて「私の兄の兄猾が反逆しようとしていて、天孫が来たと聞いて、直ぐに兵を挙げて襲撃しようとしていた。しかし、皇軍の勢力を望み見たところ、あえて敵対するのを怯えて、兵を潜伏させて、無理やり従わせて新しく砦の宮を作り、御殿の中にからくりを施し、饗宴を求め部下に苦しい思いをさせている。出来ましたら、この狡猾さを頭に入れて、正しく備えてください」と告げた。天皇は、即ち道臣の命を派遣し、その反逆の様子を観察させた。その時に、道臣の命は賊が天皇を殺害しようとしている様子を詳細に知って、大声で怒り叫んで「奴らは、お前らが作った家にはお前ら自身が居ればよい」(私が屋敷に踏み込んで殺してやる)と言った。それで、剱を準備し、弓を引き絞り、戦いが差し迫った。兄猾は、天罰で言葉も何も無く、自ら、からくりを踏み圧死した。その後にその屍をさらして斬り、流れる血はくるぶしまで没しった。それで、そこを菟田の血原と名付けた。】とある。
日付は標準陰暦と合致し、説話の内容は『古事記』の「宇迦能山之山本於底津石根宮柱布刀斯理」、『舊事本紀』の「宇迦能山之嶺於底津石根宮柱太斯理」と宇迦の山の説話を流用した話だ。いつでも、跡取りの兄は国の人々を守るために戦い、弟は新しい支配者について、氏族を残そうとしたのだろう。
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