『日本書紀』慶長版は
「乃椎根津彥著弊衣服及蓑笠爲老父貌又使弟猾被箕爲老嫗貌而勅之曰宜汝二人到天香山潛取其巓土而可來旋矣基業成否當以汝爲占努力愼焉是時虜兵滿路難以往還時椎根津彥乃祈之曰我皇當能定此國者行路自通如不能者賤必防禦言訖徑去時群虜見二人大咲之曰大醜乎老父老嫗則相與闢道使行二人得至其山取土來歸於是天皇甚悅乃以此埴造作八十平瓮天手抉八十枚嚴瓮而陟于丹生川上用祭天神地祇則於彼菟田川之朝原譬如水沫而有所呪著也天皇又因祈之曰吾今當以八十平瓮無水造飴飴成則吾必不假鋒刃之威坐平天下乃造飴飴即自成又祈之曰吾今當以嚴瓮沉于丹生之川如魚無大小悉醉而流譬猶柀葉之浮流者吾必能定此國如其不爾終無所成乃沉瓮於川其口向下頃魚皆浮出隨水噞喁時椎根津彥見而奏之天皇大喜乃拔取丹生川上之五百箇真坂樹以祭諸神自此始有嚴瓮之置也時勅道臣命今以髙皇産靈尊朕親作顯齋用汝爲齋主授以嚴媛之号而名其所置埴瓮爲嚴瓮又火名爲嚴香來雷水名爲嚴罔象女粮名爲嚴稻魂女薪名爲嚴山雷草名爲嚴野椎」
【すなわち椎根津彦にぼろぼろの衣服と蓑笠を著けて、老父の姿にした。又、弟猾に箕を被せて、老嫗の姿にして「お前たち二人、天の香山に行って、潜んでその嶺の土を取ってかえってこい。計画の成否は、お前たちの結果しだいだ。謹んで努力しなさい」と詔勅した。この時に敵兵が路に満ちて行き来が難しかった。この時に椎根津彦は「我が君がこの国を治めるべきなら、行く路は自然と通れるようになる。もし出来なかったら、敵がきっとこの国守り切るだろう」と祈った。言い終わって道を通ろうとした。その時に敵が群れ囲んで二人を見て「なんと醜い老父と老婆だ」と大笑いした。すなわち二人とも道を通り過げた。二人は、山に着くことができ、土を取って帰りきた。それで、天皇はとても悦んで、この土で八十枚の平らな盞、天の手抉を八十枚、厳瓮を造って、丹生の川上にのぼって、それを用いて天神地祇を祭り祈ると、この菟田川の朝原に、水の沫のように、流れ着くところを見た。天皇は、それで、「私は八十枚の平らな盞で水無しで飴を造ろう。飴が出来れば、私は必ず鋒刃の力を借りないで、座ったまま天下を平定できよう」と祈った。それで飴を造った。飴は自然とできた。又、「私は嚴瓮を、丹生の川に沈めよう。もし魚の大小にかかわらず、のこらず醉って流れること、たとえば葉の浮き流れるようなら、私はきっとこの国を平定出来よう。もしそれが出来なかったら、成功できないだろう」と祈った。すなわち瓮を川に沈めた。その口が下に向き、しばらくして魚が皆浮き出て、水の流れるままに口をパクパクさせた。その時に椎根津彦は、これ見て奏上した。天皇は大変喜んで、丹生の川上の五百箇の眞坂樹を抜き取って、それで諸神を祭った。これで初めて厳瓮の置きものができた。その時、道臣命に「今、高皇産靈尊によって、私自ら祭祀の場を作ろう。お前を禰宜とし、嚴媛の名前を授ける。その置いた土器の瓮を厳瓮と名付けよう。又、焚く火の名を厳香来雷と名付けよう。供える水の名を厳罔象女としよう。供える糧の名を厳稲魂女としよう。薪の名を厳山雷としよう。草の名を厳野椎としよう」と詔勅した。】とある。
嚴瓮などの祭祀道具はすでにあったから作ることができ、『古事記』にはこの説話が無く、『古事記』前川茂右衛門寛永版は「又撃兄師木弟師木之時御軍暫疲尓歌曰・・・故尓迩藝速日命」と磯城彦の説話があるのみで、兄弟倉下の説話は一切出現しないし、道臣に語りながら媛と名付けていて、これも本来は道臣への説話ではない。
これは、兄弟倉下の説話は『古事記』にとっては重要ではなく、尾張氏が王朝を創建した時には既に畿内には権勢がなく、葛城王朝の始祖は「なか国」や若国・大国に地盤を持っていたからで、そして、葛城氏が畿内に侵入した時には、尾張氏より前に侵入していて、兄弟倉下との戦いは不要で、宇陀に侵略した説話を宇迦斯との戦いを使って記述したのだろう。
勝った有名な戦いをわざわざ削除する権力者を聞いたことが無く、磯城彦も畿内侵略時に畿内に居たが埴安彦の時は畿内に居なかった。
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