2019年6月28日金曜日

最終兵器の目 安寧天皇

  『日本書紀』慶長版は
磯城津彥玉手看天皇神渟名川耳天皇太子也母曰五十鈴依媛命事代主神之少女也天皇以神渟名川耳天皇二十五年立爲皇太子年二十一三十三年夏五月神渟名川耳天皇崩其年七月癸亥朔乙丑太子即天皇位元年冬十月丙戌朔丙申葬神渟名川耳天皇於倭桃花鳥田丘上陵尊皇后曰皇太后是年也太歲癸丑二年遷都於片鹽是謂浮孔宮三年春正月戊寅朔壬午立渟名底仲媛命先是后生二皇子第一曰息石耳命第二曰大日本彥耜友天皇十一年春正月壬戌朔立大日本彥耜友尊爲皇太子也弟磯城津彥命是猪使連之始祖也三十八年冬十二月庚戌朔乙卯天皇崩時年五十七
【磯城津彦玉手看天皇は、神渟名川耳天皇の太子だ。母は五十鈴依媛命という。事代主神の下の娘だ。天皇は、神渟名川耳天皇の二十五年に、皇太子に立った。年齢は二十一歳だった。三十三年の夏五月に、神渟名川耳天皇が崩じた。その年の七月の朔が癸亥の乙丑の日に、太子は天皇に即位した。元年の冬十月の朔が丙戌の丙申の日に、神渟名川耳天皇を倭の桃花鳥田丘上陵に葬った。皇后を尊んで皇太后と言った。この年は太歳癸丑だ。二年に都を片鹽に遷した。これを浮孔の宮という。三年の春正月の朔が戊寅の壬午の日に、渟名底仲媛命を立てて、皇后とした。この後、后は二柱の皇子を生んだ。第一を息石耳命という。第二を大日本彦耜友天皇という。十一年の春正月の朔が壬戌の日に、大日本彦耜友尊を立てて、皇太子とした。弟の磯城津彦命は、猪使連の始祖である(一書に出現)。三十八年の冬十二月の朔が庚戌の乙卯の日に、天皇は崩じた。その時年齢は五十七歳だった。】と、朔の日干支は全て標準陰暦と同じである。
この天皇の皇后の父は本文に記述せず、『舊事本紀』は「天日方奇日方・・・兒建飯勝命妹渟中底姫命」と建氏の妹で、『古事記』は安寧天皇「河俣毗賣之兄縣主波延之女阿久斗比賣」でこの縣主は『古事記』綏靖天皇「師木縣主之祖河俣毗賣」と師木縣主はまだ任命されていないので、師木縣主ではない。
そして、鋤友の妃も『古事記』「師木縣主之祖賦登麻和(訶)比賣」で、少なくとも鋤友以降に神武東征があったことを示しているが、磯城津彦玉手看は実際はもっと後代の人物だが3代目に挿入した可能性がある。
さらに、『舊事本紀』は「天日方奇日方・・・兒建飯勝命妹渟中底姫命此命輕地曲峽宮御宇天皇立爲皇后誕生四兒即大日本根子彦耕支天皇」と宮がズレて当て嵌めが狂っているが、建飯勝が兄磯城、 天日方奇日方が磯城彦ということになり、もう一人の神武天皇建国で天日方奇日方が天皇を補佐したので、縁者の玉手看も出世することになる。
そして、この天皇の後ろ盾は磯城彦だったことが解り、さらに『舊事本紀』は「觀松彦香殖稻尊者磯城彦玉手看天皇太子」と磯城津彦ではなく磯城彦と記述して、『古事記』は「女阿久斗比賣生御子常根津日子伊呂泥命次大倭日子鋤友命次師木津日子命此天皇之御子等并三柱」と師木津日子を生んでいて、この天皇の中に磯城津彦そのものも組み入れられ、葛城氏は天皇の後ろ盾の勢力磯城彦の配下の磯城津彦に出世した。
さらに、『舊事本紀』に安寧天皇「四年夏四月以出雲色命為中食國政大夫復以大弥命為侍臣並宇摩志麻治命之孫」・「三世孫大祢命此命片塩浮穴宮御宇天皇御世為侍臣奉齋大神弟出雲醜大臣命」と出雲醜大臣が記述され、「なか」国から天降ってきた「神八井耳命者(意富臣・・・」の大臣でさらにもう一人の出雲出身の神武天皇の子が大祢となって、 天日方奇日方も義兄弟の父と『舊事本紀』の神武東征の準備が整い、その時期は、新しい文化流入である多紐文鏡の出土が紀元前200年頃と考えられているので、これが正しければ孝元天皇の頃だ。
そして、建飯勝命の妹の渟中底仲姫を妃にもつ安寧と波延の娘の阿久斗比賣を妃にもつ安寧が存在して、次男が勝っていたら宮が変わるので、渟中底姫を妃にもつ長男の安寧が勝利したと考えられる。
このように、何人もの時代が違う神武天皇の3代目の安寧天皇をまとめて記述し、そのそれぞれの皇后が『日本書紀』の「亦曰渟名襲媛」、「一書云磯城縣主葉江女川津媛一書云大間宿禰女糸井媛」と、力の背景が鴨王・磯城王・大間王であるそれぞれの皇后を持つ天皇がいたことを示し、渟名襲媛は初代安寧天皇の皇后、2代目安寧天皇の皇后が渟中底仲姫であろう。

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