2019年7月1日月曜日

最終兵器の目 懿德天皇

 『日本書紀』慶長版は
大日本彥耜友天皇磯城津彥玉手看天皇第二子也母曰渟名底仲媛命事代主神孫鴨王女也磯城津彥玉手看天皇十一年春正月壬戌立爲皇太子年十六三十八年冬十二月磯城津彥玉手看天皇崩元年春二月己酉朔壬子皇太子即天皇位秋八月丙午朔葬磯城津彥玉手看天皇於畝傍山南御陰井上陵九月丙子朔乙丑尊皇后曰皇太后是年也太歲辛卯二年春正月甲戌朔戊寅遷都於輕地是謂曲峽宮二月癸卯朔癸丑立天豊津媛命爲皇后后生觀松彥香殖稻天皇二十二年春二月丁未朔戊午立觀松彥香殖稻尊爲皇太子年十八三十四年秋九月甲子朔辛未天皇崩
【大日本彦耜友天皇は、磯城津彦玉手看天皇の第二子だ。母を渟名底仲媛命という。事代主神の孫で、鴨王の娘だ。磯城津彦玉手看天皇の十一年の春正月の壬戌の日に、皇太子となった。年齢は十六歳だった。三十八年の冬十二月に、磯城津彦玉手看天皇が崩じた。元年の春二月の朔が己酉の壬子の日に、皇太子は、天皇に即位した。秋八月の朔の丙午の日に、磯城津彦玉手看天皇を畝傍山に南の御陰の井上陵に葬った。九月の朔が丙子の乙丑の日に、皇后を尊んで皇太后言った。この年は太歳辛卯。二年春正月の朔が甲戌の戊寅の日に、都を輕の地に遷した。これを曲峽宮いう。二月の朔が癸卯の癸丑の日に、天豊津媛を皇后に立てた。后は、觀松彦香殖稻天皇を生む。二十二年の春二月の朔が丁未の戊午の日に、觀松彦香殖稻尊を皇太子に立てた。年齢は十八歳だった。三十四年の秋九月の朔が甲子の辛未の日に、天皇が崩じた。】とあり、元年八月丙午朔は7月30日、二月癸卯朔も1月30日、二十二年春二月丁未も1月30日と前月が小の月なら合致し、概ね標準陰暦と合致する。
しかし、三十四年秋九月甲子の崩御は8月で9月朔が甲子の日は紀元前446年の孝昭天皇29年で遅い世襲足媛が皇后位に就いた年になり、この年にある天皇が崩御したの可能性を否定できない。
母は磯城彦に勝った弟磯城側の鴨王建飯勝の姫で、おそらく、その宮がある輕地に遷都して、お決まりの前皇后を新しい宮に迎え入れて皇太后として、旧領地の人々も安寧させ、父親を記述しない天豐津媛を皇后にしたが、孝昭紀に「天豊津媛命息石耳命之女」とやはり正統後継の安寧天皇の皇太子の姫を娶って、一層堅固な体制にしていて、余程具合の悪い皇位継承だったのだろう。
懿德天皇は大国を背景にした天皇のようで、『舊事本紀』に「三月申食國政大夫出雲色命為大臣也」と出雲色が皇太子と同等の地位を得た。
そして、『古事記』に「軽之境崗宮治天下也此天皇娶師木縣主之祖賦登麻和訶比賣命亦名飯日比賣命生御子」と、磯城縣主になる前の姫を妃にしていて、前項で述べた通り、もう一度この天皇以降に神武建国があることを示し、玉手看は大倭彦の配下となった。
『舊事本紀』に「饒速日尊襄天神御祖詔乗天磐舩而天降坐於河内國河上哮峯則遷坐大倭國鳥見」と大倭は鳥見があるところで、出雲色が饒速日ならこの地は鵄で、長髄彦の配下になったことを意味する。
さらに、『舊事本紀』に「建飯勝命妹渟中底姫命此命輕地曲峽宮御宇天皇立爲皇后誕生四兒即大日本根子彦耕支天皇・・・四世孫建飯勝命此命娶出雲臣女子沙麻奈姫生一男」と懿德天皇の叔父が出雲色の娘を妃として、さらに続けて「六世孫豊御氣主命亦名建甕依命・・・七世孫大御氣主命」と「饒速日尊便娶長髓彦妹御炊屋姬爲妃」と「『みか』しきや」と同じ土地に住む姫で高倉下を祀る姫と饒速日を祀る皇子が義兄弟になり、天皇は磯城彦を義父にした、天日方奇日方の家系の天皇で『舊事本紀』の神武東侵と重なる。
ただし、渟中底姫の夫は片鹽の天皇で、『日本書紀』は綏靖・安寧・懿徳・孝昭・孝安・孝霊の妃が磯城縣主の娘と一書で記述して、孝霊天皇まで磯城王朝とする考えがあったことを意味し、孝霊天皇が建飯勝で出雲色の軍門に下り、妹が孝元天皇の妃になったことを意味しているのかもしれない。
『古事記』雄略記に「山上望國内者有上堅魚作舎屋之家天皇令問其家云其上堅魚作舎者誰家荅白志幾之大縣主家」と磯城縣主の家は天皇の宮と同じ堅魚がある家で、尾張王朝が崩壊するまで千年も天皇と同じ構造の宮を持っていたことになる。

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