『日本書紀』慶長版は
「日本足彥國押人天皇觀松彥香殖天皇第二子也母曰世襲足媛尾張連遠祖瀛津世襲之妹也天皇以觀松彥香殖稻天皇六十八年春正月立爲皇太子八十三年秋八月觀松彥香殖稻天皇崩元年春正月乙酉(巳或本)朔辛卯皇太子即天皇位秋八月辛巳朔尊皇后曰皇太后是年也太歲己丑二年冬十月遷都於室地是謂秋津嶋宮二十六年春二月己丑朔壬寅立姪押媛爲皇后后生大日本根子彥太瓊天皇三十八年秋八月丙子朔己丑葬觀松彥香殖稻天皇于掖上博多山上陵七十六年春正月己巳朔癸酉立大日本根子彥太瓊尊爲皇太子年二十六百二年春正月戊戌朔丙午天皇崩」
【日本足彦國押人天皇は、觀松彦香殖稻天皇の第二子だ。母を世襲足媛という。尾張連の遠祖瀛津世襲の妹だ。天皇は、觀松彦香殖稻天皇の六十八年の春正月に、皇太子に立った。八十三年の秋八月に、觀松彦香殖稻天皇が崩じた。元年の春正月の朔が乙酉の辛亥の日に、皇太子は天皇に即位した。秋八月朔の辛巳に、皇后を尊んで皇太后とした。是の年は、太歳己丑。二年の冬十月に、都を室の地に遷した。これを秋津嶋の宮という。二十六年の春二月の朔が己丑の壬寅の日に、姪の押媛を立てて皇后とした。后は、大日本根子彦太瓊天皇を生んだ。三十八年の秋八月の朔が丙子の己丑の日に、觀松彦香殖稻天皇を掖上の博多山の上陵に葬った。七十六年の春正月の朔が己巳の癸酉の日に、大日本根子彦太瓊尊を、皇太子に立てた。年齢は二十六歳だった。百二年の春正月の朔が戊戌の丙午の日に、天皇が崩じた。】とあり、標準陰暦と合致する。
三十八年に前天皇を葬っているが、この年に天皇が崩御したと思われ、おそらく、この天皇も遷都のみ行ったための崩御年の異常で、この時兄弟相続が発生した可能性があり、『古事記』は「大倭帯日子國押人命坐葛城室之秋津嶋宮治天下也此天皇娶姪忍鹿比賣」と葛城の王である瀛津世襲の宮に遷都し、遷都の25年後、皇后に姪を立てているが、これも皇位継承が起こったことを示している。
『舊事本紀』は「妹世襲足姫命亦名日置姫命此命腋上池心宮御宇観松彦香殖稲天皇立爲皇后誕生二皇子則彦國押人命次日本足彦國杵人天皇是也孫天戸國命天忍人命之子此命葛󠄀木避姫為妻生一男」とある。
これは天戸国が葛城に宮を持つ孝安天皇、そこの葛󠄀木王の姫を娶ったのだから姪で、天足彦國押人の娘なら和珥臣の祖で開化天皇まで出現せず、『古事記』は「天『押』帯日子」、『舊事本紀』は「彦國『押人』」と「天戸國」・「天『忍人』」と名が酷似している。
そして、三十八年に叔父の瀛津世襲の子が皇位を奪い(世襲足姫が孝昭天皇の皇后になったことで瀛津世襲と孝昭天皇は一心同体の系図になる)、腋上池心宮が置津與曽の宮で「世襲足姫」は「日置姫」すなわち置の姫だ。
そして、『舊事本紀』は「二年十月都遷室地謂秋津嶋宮三年八月宇摩志麻治命裔孫六兒命三兒命並爲足尼次爲宿祢」と宿祢の地位を物部氏に与え、同じく『舊事本紀』に「四世孫大木食命・・・出雲大臣之子弟六見宿祢命・・・弟三見宿祢命此命秋津嶋宮御宇天皇御世並縁近宿元爲足尼次爲宿祢奉齋大神其宿祢者始起此時」と宿祢が始まったとしているが、当然これは自称で、「瀛津世襲」朝廷に対して、饒速日の宮に宿殿を建てて、その主になったことを宣言したのであろう。
『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版に「弟出雲醜大臣命・・・倭志紀彦妹真鳥姬爲妻生三兒弟出石心大臣命此命掖上池心宮御宇天皇御世爲大臣奉齋大神」と出雲大臣・出石心大臣と皇太子と同等の権力者の子が王朝を打ち建て、磯城彦の甥が宿祢だ。
そして。葛城氏も「大倭帯日子」と大倭を統治するまでに出世したのは当然で、天皇の父羸津世襲の義兄弟が葛城氏で、「天戸國命天忍人命之子 此命葛󠄀木避姫為妻」と天皇の子の妃も葛城氏で、天皇と義兄弟の可能性が高い。
この孝安天皇の時に武氏を王家として物部氏と尾張氏と葛城氏という名門の王族が顔を揃えたことになり、出雲醜大臣が饒速日、・倭志紀彦が長髄彦、真鳥姬が御炊屋姫、弟磯城が葛城彦で天皇が天忍人といったところが神武東征に組み込まれていて、孝昭天皇以前は磯城彦の王朝氏で雄略天皇まで続く鰹木を屋根に掲げる名門の王家である。
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