2019年7月29日月曜日

最終兵器の目 崇神天皇6

 『日本書紀』慶長版は
冬十月乙卯朔詔群臣曰今返者悉伏誅畿內無事唯海外荒俗騷動未止其四道將軍等今忽發之丙子將軍等共發路十一年夏四月壬子朔己卯四道將軍以平戎夷之狀奏焉是歲異俗多歸國內安寧十二年春三月丁丑朔丁亥詔朕初承天位獲保宗廟明有所蔽德不能綏是以陰陽謬錯寒暑矢(?)序疫病多起百姓蒙災然今解罪改過敦禮神祇亦垂教而綏荒俗舉兵以討不服是以官無廢事下無逸民教化流行衆庶樂業異俗重譯來海外既歸化宜當此時更梜人民令知長幼之次第及課役之先後焉秋九月甲辰朔己丑始挍人民更科調役此謂男之弭調女之手末調也是以天神地祇共和享而風雨順時百穀用成家給人足天下大平矣故稱謂御肇國天皇也十七年秋七月丙午朔詔曰舩者天下之要用也今海邊之民由無舩以甚苦步運其令諸國俾造舩舶冬十月始造舩舶
【冬十月の乙卯の朔に、群臣に、「今反逆した者はことごとく咎めて平伏した。畿内には何事もなく平穏だ。ただし海外の荒れ狂った人々だけ、騒乱がまだ止まない。それで四道の將軍等は、今直ぐに出発しろ」と詔勅した。丙子の日に、將軍等は、共に出発した。十一年の夏四月の朔が壬子の己卯の日に、四道の將軍が、滅ぼされるべきまつろわない人々を平伏させた。この歳に、異なる風俗の人々が多数やって来て、国内は穏やかで平穏だった。十二年の春三月の朔が丁丑の丁亥の日に、「私は、初めて天位を承けて、王朝の祠を祀り続ける場を得ることができたが、明らかに徳を覆い隠すことが有って国を安らかにできなかった。そのため、陰と陽をまちがえ、寒暖の変化について行けなかった。疫病が多発し、百姓は災難を被った。それを今では罪を祓い、間違いを改めて、手厚く神祇の分を守って尽すように祭った。また、教え諭して荒廃した国々を安らかにし、従わない国々は挙兵して討った。それで、官僚は反乱を起こすことが無く、国民は逃げることが無く、教え導くことを広め、庶民は喜んで仕事を行っている。異民族は通訳を使って来朝し、海外の人々も既に帰化した。今に至って、さらに人民を調べ、長幼の序列と課役の時期を知らしめなさい」と詔勅した。秋九月の朔が甲辰の己丑の日に、始めて人民を調べて、調役を科した。これは男の獲物の貢納と女の織物の貢納をいう。これで、天神地祇に互い競争しないでお供えしたので、風や雨の時期に従って、たくさんの作物が実った。家が建ち、小作人も足りて、天下は大変平和だ。それで、天皇を褒めたたえて、御肇国の天皇と言った。十七年の秋七月の丙午の朔の日に、「船は天下の要だ。今、海辺の人達は、船が無いため荷物を歩いて運んでとても苦しんでいる。それで諸国に船舶を造るよう命じろ」と詔勅した。冬十月に、始めて船舶を造った。】とあり、十年十月乙卯朔と十二年春三月丁丑朔は標準陰暦と合致し、十一年夏四月壬子朔は3月30日で3月が小の月なら合致する。
しかし、九月甲辰朔は一月違いの10月1日であるが、この年は閏月がある年で、また、内容が律令に似通っているが、漢の武帝が教化という概念を導入していて、その中国人が帰化した可能性も有り内容に矛盾がない。 
初承天位獲保宗廟」は初代崇神天皇伊香色雄が『舊事本紀』に「伊香色雄命・・・班神物定天社國社・・・建布都大神社於大倭國山邉郡石上邑則天祖授饒速日尊自天受來天璽」と皇祖の饒速日を祀る宗廟を建てて支配地の神々も其々祀って合致している。
『漢書』に「樂浪海中有倭人分為百餘國以歲時來獻見云」と倭人の統一されていない百余の国々を記述し、さらに、「會稽海外有東鯷人分爲二十餘國以歳時來獻見云」とやはり統一されていない二十余の国々を記述したが、『後漢書』には「倭在韓東南大海中依山爲居凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國・・・倭國之極南界」と邪馬臺國を中心にした三十余国の倭国とその東に「自女王國東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種」と拘奴国をはじめとする残りの七十余国が存在し、更に前漢時代まで存在した倭種でない東鯷人の国が崩壊し、漢は以降九州より東の地域を無視した。
すなわち、『後漢書』に「韓有三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁辰馬韓在西有五十四國其北與樂浪南與倭接辰韓在東十有二國其北與濊貊接弁辰在辰韓之南亦十有二國其南亦與倭接凡七十八國伯济是其一國焉大者萬餘户小者數千家各在山海間地合方四千餘里東西以海為限皆古之辰國也」、『三国志』に「韓信鬼神國邑各立一人主祭天神名之天君弁辰亦十二國・・・其十二國屬辰王・・・今辰韓人皆褊頭。男女近倭」とあるように、また、『遼史』は「渤海改爲蓋州又改辰州以辰韓得名」と朝鮮半島の少なくとも西部は辰州、そして三韓は辰国と呼ばれ、その南部の辰に属していた弁辰は天神の天君を祀って、様相が倭人に近い、すなわち、辰国は倭人に近いとして、その辰人が漢と朝鮮半島で戦っていた辰国の辰人が東鯷人を滅ぼしてその朝鮮の南部地域を支配したことを示している。
まさに、前漢次代に、崇神朝の天神を祀る韓地に市を持った『山海經』「海内東經」に「大人之市在海中」と「大人国」の末裔、「国引き神話」で『出雲風土記』に「栲衾志羅紀乃三埼矣國之餘有耶見者國之餘有」と韓地を引いた国の末裔の伊香色雄は長髄彦の東鯷人二十余国を滅ぼしたと紀元前86年に高らかに宣言したのだ。
そして、神武・崇神天皇は河内・吉備・北陸・東海と勢力を拡げて、海外に進出することができるようになったため、海軍の整備で船を造らせたのであり、これ以前は、内陸の狭い領域が東征してきた神武・崇神天皇の領地だったことが解る。
また、『古事記』に西道の侵攻が記述されないのは、葛城氏の故地豊国の領域に吉備があったからで、現に『日本書紀』慶長版に「乙卯年春三月甲寅朔己未徙入吉備國起行宮以居之是曰髙嶋宮積三年間脩舟檝蓄兵食將欲以一舉而平天下也」と神武東征のとき、吉備で軍備を整えていて、4道侵攻は天皇の豊国侵攻で、豊国は敗れたのである。
同じ氏族の王朝が記述しても、立場を変えると史書も変わる象徴的記述である。

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