2019年7月15日月曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第五 崇神天皇1

 『日本書紀』慶長版は
御間城入彥五十瓊殖天皇稚日本根子大日日天皇第二子也母曰伊香色譴命物部氏遠祖大綜麻杵之女也天皇年十九歲立爲皇太子識性聰敏幼好雄略既壯寛博謹愼崇重神祇恒有經綸天業之心焉六十年夏四月稚日本根子彥大日日天皇崩元年春正月壬午朔甲午皇太子即天皇位尊皇后曰皇太后二月辛亥朔丙寅立御間城姫爲皇后先是后生活目入彥五十狹茅天皇彥五十狹茅命國方姫命千千衝倭姫命倭彥命五十日鶴彥命又妃紀伊國荒河戸畔女遠津年魚眼眼妙媛生豊城入彥命豊鍬入姫命次妃尾張大海媛生八坂入彥命淳名城入姫命十市瓊入姫命是年也太歲甲申三年秋九月遷都於磯城是謂瑞籬宮
【御間城入彦五十瓊殖天皇は、稚日本根子彦大日日天皇の第二子だ。母を伊香色謎命という。物部氏の遠祖の大綜麻杵の娘だ。天皇は、年齢が十九歳で、皇太子に立った。物事をすばやく判断し幼いうちからすぐれた計画を立てることを好んだ。幼いうちから勇ましく、自分が間違っていたらすぐに認めるように(雖褐寬博吾不惴焉:孟子)慎み深く、神祇を崇んで重んじた。つねに天子の事業を秩序を以て治めた。六十年の夏四月に、稚日本根子彦大日日天皇が崩じた。元年の春正月の朔が壬午の甲午の日に、皇太子は、天皇に即位した。皇后を尊んで皇太后とよんだ。二月の朔が辛亥の丙寅の日に、御間城姫を皇后に立てた。これより前に、后は、活目入彦五十狹茅天皇・彦五十狹茅命・國方姫命・千千衝倭姫命・倭彦命・五十日鶴彦命を生んだ。又、妃に紀伊國の荒河戸畔の娘の遠津年魚眼眼妙媛は、豐城入彦命・豐鍬入姫命を生んだ。次妃の尾張大海媛は、八坂入彦命・渟名城入姫命・十市瓊入姫命を生んだ。この年は、太歳甲申だった。三年の秋九月に、都を磯城に遷した。これを瑞籬の宮いった。】とあり、元年二月辛亥朔は1月30日、『舊事本紀』も同じで1月が小の月なら合致し、元年正月壬午朔は標準陰暦と合致する。
天皇は長男なので皇后の御間城姫の宮の磯城に遷都して、義父は「母皇后曰御間城姫大彦命之女」と大彦の娘で磯城縣主の娘婿の子の孝元天皇と正統の物部氏の欝色謎の長男で正統の皇太子だった人物の娘で磯城縣主の宮に遷都した。
この天皇の妃とする「紀伊國荒河戸畔女」、『古事記』「木國造名荒河刀弁之女」と記述され子が豐城入彦命・豐鍬入姫で豊国で生まれていて、木國造は「木國造之祖宇豆比古之妹山下影日賣生子建内宿祢」と建内宿祢の家系で建内宿祢が豊国を支配したことを示し、もう一人の妃は「尾張大海媛」で尾張氏の系図を示した。
『舊事本紀』天孫本紀 は「弟伊香色雄命此命春日宮御宇天皇御世以爲大臣磯城瑞籬宮御宇天皇御世詔大臣」と磯城瑞籬宮でも大臣と記述するが、天皇本紀では春日宮に記述するだけで、磯城瑞籬宮では天皇になったことを示し、垂仁天皇の時に「大臣大新河命賜物部連公姓即改大臣号大連」と物部連公の姓を与えられ、天皇でなくなった。
さらに、『日本書紀』慶長版は
四年冬十月庚申朔壬午詔曰惟我皇祖諸天皇等光臨宸極者豈爲一身乎蓋所以司収人神經綸天下故能世闡玄功時流至德今朕奉承大運愛育黎元何當聿遵皇祖之跡永保無窮之祚其群卿百僚竭爾忠貞並安天下不亦可乎
【四年の冬十月の朔が庚申の壬午の日に、「我が皇祖である祖父は、諸天皇を敬ってこの国にやって来たので、(父が引き継いだ)帝位は、自分一人のものではないので、人神を養い治めて、天下を治めととのえた。だから、世の根源を(玄:老荘思想)大きな政策とした功績で、最上の徳を得ることができた。今、私は大きな定めを承って、人民を愛んで養う。皇祖の功績の道筋に従わないで、どの様にして永遠に天子の位を保つ事が出来ようか。群卿百僚よお前たちが私によく仕えて、一緒にに天下を安らかにするのもよいではないか」と詔勅した。】と訳してみたが、この干支は11月1日か崇神35年10月1日で、内容としては3代目の天皇の就任の辞で崇神35年が妥当で、崇神12年が2代目で実質の王朝建国となる。
そして、崇神天皇から詳細な記述が始まるが、これまでの宮の始まりの干支や宮の創建時の儀式や宮を閉じるときの儀式の記録に対し、より細かな記録が文字の導入によって記述されたことを意味する。
そして、目を引くのが『三国史記』の記事の絶対年代は合致していないが、中国の『三国志』の記事とは合致していることで、その理由は、漢から元号という絶対年代が登場したことと、倭奴国が中国の冊封体制に入ったからと考えた。
だから、欠史八代が発生するのであり、もし、創作なら適当に創ってしまえばよいのであり、それが無いのは創作でない証拠で、『二中歴』は漢に影響されたのか紀元前53年から元号を始めたと記述している。
そして、もう一つ不思議なことが、立太子以前に皇太子がいるにもかかわらず立太子記事があり、私は、この記事が中国元号と対応させることが出来る目印だと考えた。
立太子するということは、長男でない皇子が皇太子になることを意味し、『日本書紀』は本来、王朝を閉じる時が長男でない皇子の皇位継承であり、それと別枠で立太子させているのは死亡記事の王朝と別の王朝が立太子して王朝交代したことを意味している。
たとえば、綏靖天皇二五年に立太子しているが、これは、綏靖朝と別の王朝の25年目にその別の王朝が倒れて新たな長男でない王朝が始まったことを意味し、別の王朝の綏靖天皇二五年は別の王朝の安寧元年を意味するということである。
この方法で、別王朝の年表を作成すると垂仁天皇のときに、景行・成務・仲哀・神功が垂仁天皇にすっぽり入ってしまい、垂仁朝のとき3から4王朝が並行して存在し、神功40年を「四十年魏志云正始元年」と240年にすると、漢の恵帝の時の元号の孝恵元年・紀元前194年頃から神武天皇に当てはめる倭奴国の王朝が始まり、その32年後に綏靖朝に当てはめた倭奴国の王朝が始まったということだ。

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