2019年7月8日月曜日

最終兵器の目 孝靈天皇

 『日本書紀』慶長版は
大日本根子彥太瓊天皇日本足彥國押人天皇太子也母曰押媛蓋天足彥國押人命之女乎天皇以日本足彥國押人天皇七十六年春正月立爲皇太子百二年春正月日本足彥國押人天皇崩秋九月甲子朔丙午葬日本足彥國押人天皇于玉手丘上陵冬十二月癸亥朔丙寅皇太子遷都於黑田是謂廬戸宮元年春正月壬辰朔癸卯太子即天皇位尊皇后曰皇太后是年也太歲辛未二年春二月丙辰朔丙寅立細媛命爲皇后后生大日本根子彥國牽天皇妃倭國香媛生倭迹迹日百襲姫命彥五十狹芹彥命倭迹迹稚屋姫命亦妃絙某弟生彥狹嶋命稚武彥命弟稚武彥命是吉備臣之始祖也三十六年春正月己亥朔立彥國牽尊爲皇太子七十六年春二月丙午朔癸丑天皇崩
【大日本根子彦太瓊天皇は、日本足彦國押人天皇の太子だ。母を押媛という。おもうに天足彦國押人命の娘か。天皇は、日本足彦國押人天皇の七十六年の春正月に、皇太子に立った。百二年の春正月に、日本足彦國押人天皇が崩じた。秋九月の朔が甲午の丙午の日に、日本足彦國押人天皇を玉手の丘の上の陵に葬った。冬十二月の朔が癸亥の丙寅の日に、皇太子は、都を黒田に遷した。これを廬戸の宮いった。元年の春正月の朔が壬辰の癸卯の日に、太子は、天皇に即した。皇后を尊んで皇太后と言った。この年は太歳辛未だった。二年の春二月の朔が丙辰の丙寅の日に、細媛命を立てて、皇后した。后は、大日本根子彦國牽天皇を生んだ。妃の倭國香媛、は倭迹迹日百襲姫命・彦五十狹芹彦命・倭迹迹稚屋姫命を生む。次の妃の絙某弟は彦狹嶋命・稚武彦命を生んだ。弟の稚武彦命は、吉備臣の始祖だ。三十六年の春正月の己亥朔の日に、彦國牽尊を皇太子に立てた。七十六年の春二月の朔が丙午の癸丑の日に、天皇が崩じた。】とあり、七十六年春二月丙午は1月30日で概ね、他は標準陰暦と合致する。
孝安天皇には孝靈天皇しか皇子がいないので、宮を移っただけで、その宮黒田は普通に考えれば皇后の宮で、現代でも磯城郡に黒田があって、皇后は「細媛命磯城縣主大目之女」と磯城縣主の娘なのだから、葛城から磯城に遷都して、前皇后を迎え入れたと記述している。
このように、天皇が居て皇后が居て、皇太后が居て、記述されない長男皇太子がいることで王朝が成立し、宮を朝廷として経営し、長男が生まれなかった時に、次男の大日本根子彦太瓊天が妻の宮の秋津嶋に婿入りしていたので、その宮で即位したという最小の系図を表し、そのような他の王家の系図を一纏めにしたのが雄略天皇の時代で、次代の宮の王家の姫を亦の名や一書を纏められた王家としたことを表している。
そして、この天皇から複数の妃を持つようになったが、『舊事本紀』の物部氏の妃は複数いないので、実際は葛城彦と倭国造と磯城彦の3つ巴の状態だった可能性があり、『舊事本紀』は「磯城津彦玉手看尊母日五十鈴媛命事代主神之少女」、『古事記』は「片塩浮穴宮治天下也此天皇娶河俣毗賣之兄縣主波延」と実際の皇后が磯城縣主波延の妹かどうか解らないが、『日本書紀』には記録としてではないが、記述時の考察として安寧天皇に「一書云磯城縣主葉江女川津媛」、懿德天皇に「一云磯城縣主葉江男弟猪手女泉媛」、孝昭天皇に「一云磯城縣主葉江女渟名城津媛」、孝安天皇に「一云磯城縣主葉江女長媛」と記述され、これらに加えている。
在位三十四年の懿德天皇が「一云磯城縣主葉江男弟。猪手女泉媛一云磯城縣主太眞稚彦女飯日媛也。」、在位百二年の孝安天皇も「一云磯城縣主葉江女長媛一云十市縣主五十坂彦女五十坂媛也」と在位年数にかかわらず2人で合計3世代しかないので、3人の天皇が継承と考えたがやはり3世代100年は異常なので、3王朝の並立を考えるに至った。
すなわち、葛城王朝は「葉江」に宮を置く2王朝が有り、その姫が倭國香媛(亦名絙某姉)と絙某弟で「珍彥爲倭國造」と珍彦が兄磯城に代わって倭国造になり「葉江姉姫」と葉江に婿入りし、「弟磯城名黑速爲磯城縣主」と弟磯城もやはり「葉江」に磯城県主の宮を持ってそこの姫は「葉江姉姫」ということになる。
すなわち、代々磯城県主の姫を継承した弟磯城の家系の王家が孝安天皇まで皇位を継承してきて、孝靈天皇は磯城県主の本家を背景にした宮に遷ったので、この時、磯城県主が天皇家と同等の王家、そして倭国造も同等の王家と記述したことを意味すると考えられる。
『舊事本紀』は「三年春正月宇摩志麻治命裔孫大水口命大矢口命並為宿祢」と天皇家にたいして、更にもう一つの王家があることを記述した。
葛城氏は大倭根子と呼ばれたが、『日本書紀』は「廣田國即以山背根子之女葉山媛令祭」、「是有壹伎直真根子者」、「和珥臣祖難波根子武振熊而誅之」、『舊事本紀』には「九世孫大田田祢古命 亦名大直祢古命」、「播磨稻日太郎姬立為皇后誕生三男第一大碓命次小碓命次稚根子命矣其一」と根子は祢古、宿祢の子分のような名前、天皇家とは別王朝の王族の名前で、倭国造の直属の配下だった葛城氏は天皇家から外れ、倭国造は王を宿祢と呼んだと考えられる。

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