2019年7月31日水曜日

最終兵器の目 崇神天皇7

 『日本書紀』慶長版は
四十八年春正月己卯朔戊子天皇勅豊城命活目尊曰汝等二子慈愛共齊不知曷爲嗣各宜夢朕以夢占之二皇子於是被命淨沐而祈寐各得夢也會明兄豊城命以夢辭奏于天皇曰自登御諸山向東而八廻弄槍八𢌞擊刀弟活目尊以夢辭奏言自登御諸山之嶺繩絙四方逐食粟雀則天皇相夢謂二子曰兄則一片向東當治東國弟是悉臨四方宜継朕位四月戊申朔丙寅立活目尊爲皇太子以豊城命令治東是上毛野君下毛野君之始祖也
【四十八年の春正月の朔が己卯の戊子の日に、天皇は、豐城命・活目尊に、「お前たち二人は我が子で、深い愛情は全く違わない。しかし、どちらかを跡取りにしてどちらかは統治できない。二人の夢を聞いて決めよう」と詔勅した。二人の皇子は、命令を受けて、沐浴して身を清めて祈って寝た。二人とも夢を見た。夜が明けて集まり、兄の豐城命は、天皇に「自ら御諸山に登って東を向いて、八度見回して槍をいじり、八度見回して刀を撃ちおろし」と夢の内容を奏上した。弟の活目尊は、「自ら御諸山の嶺に登って、繩をゆったり四方に張り、粟を食る雀を追い立てた」と夢の内容を奏上した。それで天皇は互いの夢を比較して、二人の子に「兄は一方の東を向いた。だから東国を治めなさい。弟は四方のこらず見た。私の皇位を継ぎなさい」と言った。夏四月の朔が戊申の丙寅の日に、活目尊を皇太子に立てた。豐城命は東を治めさせた。これが上毛野君・下毛野君の始祖だ。】とある。
四八年四月戊申朔は閏3月1日で春分が微妙なため閏3月は4月の可能性が有り、四十八年正月己卯朔は標準陰暦と合致する。
但し、『舊事本紀』は「三十八年春正月己卯朔戊子天皇勑豐城命」と10年の誤差があるが、『日本書紀』の懿徳紀に「元年春二月己酉朔壬子皇太子即天皇位」とあるのに、『舊事本紀』に「元年辛亥春正月己酉朔壬子太子尊即天皇」と一月異なるので、誤記とするべきかもしれないが、2人の崇神天皇がいて、10年違う宮創設者が居たと考えた方が良いと思う。
この皇位継承説話は奇妙で、皇后の長男が皇位を継ぐのにわざわざ説話を記述する必要が無く、本来は皇后が異なり、本来の皇太子を廃嫡したと思われ、『舊事本紀』は「山代縣主祖長溝女真木姫爲妻生二兒山代縣主祖長溝女荒姫娣玉手並爲妾各生二男倭志紀彦女真鳥姫爲妾生一男」と「倭志紀彦女真鳥姫」が本来の皇后で、崇神天皇の都は磯城なので志紀の姫の真鳥姫が皇后とよく合致し、大彦が埴安彦の領地の山代を得て、その姫の長男が皇位を奪ったと考えられ、皇太子は実質天皇だ。
そして、まだ崇神朝の東方の領地は越・尾張・美濃までで所謂東国は領地ではなく、 豐城命が領有できず、『古事記』は「御子豊木入日子命」と豊の皇子が木国に婿入りした名前になって『舊事本紀』は「紀伊國荒河戸畔女遠津年魚眼媛」と母親が紀伊國の姫であり、安芸にある豊国にとっては東国となる。
『古事記』は「古伊佐知命者治天下也次豊木入日子命者(上毛野・下毛野君等之祖)妹豊鋤比賣命者(拝祭伊勢大神之宮也)」と『古事記』作成時に豊鋤比賣が伊勢神宮の宮に入ったと解説し、『日本書紀』は「以彦狹嶋王拜東山道十五國都督是豐城命之孫也」と豐城の孫が美濃の15国を治めたと、まさに、景行天皇が「冀欲巡狩小碓王所平之國乘輿幸伊勢轉入東海」と伊勢から東海に向かって彦狹嶋王は倭武の子のように見えてくる。
さらに、『舊事本紀』では「弟大新河命此命纏向珠城宮御宇天皇御世元爲大臣次賜物部連公姓則改爲大連奉齋神宮其大連之號始起此時紀伊荒川戸俾女中日女爲妻生四男」と大新河は豐城命の母と同じ紀伊国の荒川戸の娘で垂仁天皇の時に前天皇の皇太子だったが、廃嫡させられて大臣になっている。
すなわち、最後の崇神天皇の皇太子が大新河で、豐城入彦・大新河は紀伊に婿入りさせられてその子の豐城命は東山道を征服したことを示している。

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